5 綺麗な仮面
天幕へ戻ったアースィムは、太陽が浮かぶ方角とは逆の垂れ幕を巻き上げる。直射日光が差し込むと、熱さと眩しさで快適さが損なわれてしまうため、あえて日差しの向きと逆側から光を取り入れるのだ。
大きく口を開けた黒い生物のような天幕に風が吹き込んで、空気が一掃される。朝の陽光が室内を黄金色で満たした。
爽やかな光景と言えなくもない。ただし、敷かれた絨毯の上で膝を向かい合わせているラフィアとアースィムの間を流れる空気は、どんよりと重たい。
「アースィム、怒っているの?」
上目遣いに顔色を覗うのだが、アースィムは困ったように眉尻を下げるだけである。
朝食後、アースィムはもうずっとこのような調子で珈琲を四杯も飲んだ。手持無沙汰なラフィアもつられて二杯目をいただいている。
「ねえアースィム。何か言って。やっぱり怒っているのね」
「いいえ、そんなことはありません。ただ……どうしたものかと思って」
ようやくまともな会話が始まる気配を感じ、ラフィアは珈琲を膝の横に置き、姿勢を正した。
「どうって、何が」
しかし結局、アースィムは首を振るだけである。
いくら寄り添おうとしても返るものは何もない。ラフィアは、まるで仮面を被ったかのように穏やかな表情を崩さない夫を見つめ、次第に虚しさが全身を満たすのを感じた。
彼は優しい。だがそれは、好感がそうさせているのではない。厄介な皇女をどう扱うべきか当惑し、仕方なく感じの良い仮面で顔中を覆っているのである。
「アースィムは、私のことが嫌いなのね」
ぽつりと落とされた言葉に、アースィムはやっと心の動きらしいものを見せた。
視線を上げ、驚いたような目でラフィアを見つめる。想定外のことを聞いた、というような腑抜けた表情に、ラフィアは憤りを覚えた。続く言葉は鋭さを増す。
「そんな顔をしても無駄よ。どうせ私のことを押し付けられて、迷惑しているのでしょう。これでも一応皇族の端くれだもの。いりませんって拒絶することもできないし、かといって嫁いだばかりの私が怪我でもしたら、
「皇女様」
柔らかいが断固とした声音で呼び付けられて、ラフィアは思わず肩を震わせ口を閉じる。束の間険しい表情をしたアースィムだが、次の瞬間にはまたいつもの表情に戻っていた。
「死ぬ時だなんて、冗談でも言ってはなりません。蒸発して天に還る水に乗り、言葉が水神マージの元へと届いてしまいます。願い事と勘違いされてしまうかもしれませんよ」
気遣うような口調でいて、ラフィアが述べた「迷惑」や「嫌い」という言葉を否定する調子はない。寄り添う言葉の一つもくれないアースィムの心がいっそう遠く感じられ、ラフィアは唇を噛んだ。
「やっぱり嫌いなのね」
アースィムは小さく「いいえ」と答えてから、しばらくの沈黙の後、珈琲を淹れ直して呟くように言った。
「帰りたくなりましたか、
そうであって欲しい、という願望すら感じられる言葉を耳にして、ちりりと苛立ちの火花が散る。ラフィアは弾かれたように顔を上げる。
「ならない……絶対に、ならないわ!」
アースィムに愛されたいと思う気持ちは、日を追うごとに小さくなっていく。だがしかし、ラフィアは己の境遇をしかと理解している。
アースィムと離縁することになれば、ラフィアは再び後宮へと戻らねばならない。
せっかく、幼少の頃から憧れていた広い世界へ飛び立ったのだ。ゆくゆくは狭い集落を出て、砂漠にぽっかり空いた水溜まりのようなオアシスを見てみたい。砂漠の中央部にあるという砂岩地帯にも行ってみたい。食べたことがない物を食べたいし、砂竜や駱駝とも仲良くなりたい。
胸中に渦巻く思いはしかし、アースィムに説明をしても理解を得ることは叶わぬだろう。
ラフィアは黙り込み、アースィムを睨み付ける。
やがて彼は根負けしたように嘆息した。
「わかりました、皇女様。あの砂竜の世話をお願いします。ですが危険なことはしないと約束してください。必ずカリーマの言葉に従って。それと」
続く言葉に、ラフィアは石のように硬直することになる。
「もうしばらくしたら、新婚旅行をしましょう」
その真意を推し量ろうとも、微笑みに覆われたアースィムの顔からは、何も知ることが出来なかった。
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