苦い水の反芻
二日後、土曜日。
週末というのは、基本的に家にいるものだ。
こういう暑いを通り越して熱い季節は特に。
クーラーの効いた部屋で、誰にも邪魔されず、昼までゆっくりと惰眠を貪る。
それこそが私にとっての正しい週末、のはずだ。
なんなら先日学校から帰ってきて、姉としてちょっと頑張った分、休み初日の今日はしっかり休んでも良いはずだった。
けれど。
「妹ちゃん、久し振り」
「お久し振りです、川越さん」
こんなに嬉しそうに笑う、可愛い妹のお願いごとを無碍にするような。
そんな鬼にはなれないのだ、私は。
一昨日、帰宅してから妹のメンタルのケアをして、ついでに身体のケアをした。
けれど、私にも出来ることと出来ないことがある。
というより。
いくら姉妹といえど妹には、私に出来る相談と、出来ない相談がある。
こういう時に便利な日傘を使うのは心苦しいのだけれど。
しかし川越は妹に懐かれているから。
私でダメな相談も川越になら出来るだろう、という浅はかな考えで、こうして私の家に川越を連れ込むに至ったわけだ。
というか、学校外で会う時は基本的に私の家だ。
女をしょっちゅう家に連れ込んでいる高校生というのは、字面だけだと大変に爛れている。
「センパイ、妹ちゃん、お借りしますね」
「うん、よろしく。ちょっとしたら適当にお菓子とか持ってくから」
ひらひらと手を振って、妹と川越を見送る。
ふたりが向かう先は、二階の妹の部屋だ。
私は万が一にも、間違っても相談やら何やらの内容を聞かないようにするために、妹の部屋の隣にある自分の部屋ではなく、リビングのソファーに残る。
……変なことを吹き込まれなければいいのだけれど。
ふたりを見送ったあと、10分か、15分か、それくらいが経った頃。
お湯を沸かして、お茶をいれる。
緑茶、温かいやつ。
こういうのがいいんだ、夏には。
妹はよくそう言っている。
私はわざわざ否定も肯定もしないけれど、悪くないとは思っている。
自分の分も用意して、ピッタリ急須の中身を使い切る、ちょっとした達成感。
お菓子は適当にスナック菓子でも持っていけばいいだろう。
湯呑みをふたつ、スナック菓子65gをふたつ、お盆に乗せて階段を上がる。
妹の部屋の扉をノックすれば、声が返ってくる。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして、仲良くね」
「うん、ダイジョーブ」
妹にお盆を預けて、さっさと階段を降りる。
ソファで二度寝でもしようかと思ったけれど、川越に見られたりしたらなんだかとても嫌なのでやめておく。
けれどひとりで何もせずにいるのはタイクツだ。
ソファーに座って、お茶を啜って、テレビをつけてみる。
バラエティは面白いともつまらないとも言えない、なんとも微妙な感じ。
チャンネルを変えて、ニュースを垂れ流す。
傷害事件のニュースが流れはじめて、なんとなくテレビを消した。
これもまた、昼間から見てて面白いものでもなかった。
川越と妹はどんな話をしているのだろう。
ここからふたりが見える訳でもないのに、天井を見つめてみる。
蛍光灯の光が目に入る。
とびきり眩しい訳じゃないけれど、目を細めずにはいられない、そんな光。
なんだか本当に眠くなってきて、お茶を飲み干して、ソファに深く体を預けた。
妹はしっかりしてるし、川越もアレである程度分別のつく奴だから、多少安心している部分があるのかもしれない。
ああ、ダメだ、これは本当に眠ってしまう。
…………暗転。
「お姉ちゃん」
夕陽の中で、隣に立つ俯いた妹が声を掛けてくる。
フードを深く被って、夏だというのに分厚いパーカーを着ている。
「ごめんなさい」
何を謝ることがあるのだろう。
ここには悪い人なんて誰もいないのに。
「謝らなくていいよ」
それくらいしか言えなかった。
いつもと同じ。
これは失敗の、苦い水の反芻だ。
初めて妹を連れてあの病院へ行った日の帰り道。
いつも通る、あのスクランブル交差点だ。
歩行者用の信号が青になって、音を鳴らす。
妹の手の指先を緩く握って、歩き出す。
前なんて向かなくていいから、着いてこれるように。
スクランブルを渡って、駅前を通り過ぎて、スーパーの前を通り過ぎて、歩道橋を通り過ぎる。
妹は顔を上げることはない。
家の前までやってきても、顔を見ることは叶わない。
家の扉を開けようとして。
そこで、別の誰かの声が聞こえた。
「……ンパイ……センパイ?」
「んぁ、かぁごえ?」
ゆさゆさと肩を揺らされて、目を開く。
眠っていた、らしい。
目の前には川越の顔があって、隣には妹も立っていて。
しまったな、と溜息が漏れた。
時計に目線を移せば、時刻はすでにあれから3時間が経過している。
「センパイ、疲れてます?」
「まさか、疲れるような生き方してないよ」
「それもそうですね」
ノータイムで同意された。
相変わらず失礼だった。
「お姉ちゃん、川越さん送ってくんでしょ?」
「うん、その辺までだけどね。 留守番しててくれるかな?」
「うん!」
良い笑顔である。
察するに今回の川越との時間は良いものだったのだろう。
ソファから立ち上がって、ゆっくり大きく伸びをする。
「ひぅっ!」
脇腹を触られた。
変な声が出て、反射的に腕を下ろすと、下手人の手と衝突する。
結構痛い。
「センパイ、痛いです」
「変なことしなきゃ痛い思いはしないで済んだんだよ」
「甘んじて受けておきます」
「よろしい、行くよ」
さっさと玄関へ向かい、靴を履いて、そのまま家を出る。
川越は間延びした声で返事をして、着いてくる。
着いてくることを疑わなくて良い、置いていかれることを恐れなくていい、それが私たちの間にある共通見解だ。
「妹ちゃん、やっぱり一昨日、学校にいけると思ったんですって」
スクランブルに向かう道中、歩道橋を通り過ぎる辺りで、川越が口を開く。
沈黙を嫌った、という感じではない。
むしろ私たちの間には結構な割合で沈黙が挟まる。
それを許容しあえるから一緒にいるというのもあって、こういう場合、これは私に話すべきだと川越が判断したのだろう。
「でも靴を履いたら、立てなくなっちゃったって。それからずっと泣いてて、センパイが帰ってくるまで、そのままだったって」
概ね予想通りだった。
たまに来る短い無敵の時間、一日のうちたった数秒の全能感。
妹は考え無しではないけれど、時折その全能感に押されて義務を遂行しようとする節がある。
基本的に権利を放棄しているんだから、義務を果たす必要はないと思うのは、私だけだろうか。
……みんながみんなそうなると、経済が錆び付くか。
「センパイ、今ちょっと遠いところのこと考えてません?」
「わかる?」
図星だった。
「妹ちゃん、やっぱり学校には行きたいんですって」
知ってる。
学校に行きたいのも、学校に行けないのも、知ってる。
「知ってるよ。だから私は、学校のことで妹に口を出してないでしょ」
「センパイのそういうところ、嫌いじゃないですよ」
川越は、こちらの顔を覗き込むようにして、くふくふと笑った。
スーパーの前を通り過ぎる。
「私としては、妹ちゃんは自分で勉強出来てるし、問題なさそうだとは思うんですけどね……あ、責任が取れる訳じゃないのであんまり真に受けないでほしいんですけど」
「私がダメな分、あの子はしっかりしてるからね。お陰でいつも楽をさせてもらってるよ」
「センパイって楽をさせてもらってばかりじゃないですか?」
「恵まれた人生だぁね」
駅前、スクランブル交差点。
いつも通り、ここで別れる。
「センパイ」
いつも通りならこちらを振り返らず行ってしまうはずの川越が、今日は珍しく振り返る。
「あんまり過保護になっても良くないですからね」
けれどそれだけ言って、さっさと踵を返し、交差点を渡っていく。
過保護、だろうか。
何もしてないどころか、むしろ甘えさせてもらってるくらいだと思うのだけれど。
いや、何もしてないは言い過ぎかもしれない。
一応妹のことをある程度考えてはいるし、ケアするべきところはケアしている、はずだ。
妹のことで考えるべきことが、ケアするべきタイミングが増えたのは二年前からだ。
けれど、その二年前に至るまで、私は妹と仲が良いわけでも悪いわけでもなかった。
私は、というより我が家は、基本的に放任主義だ。
親も、私も、妹も、必要だと感じなければ家族のことを特別気に掛けたりはしない。
母親が女手ひとつで私たちを育ててくれて、その分私が妹の面倒を見よう、なんて思っていた時期もあったのだけれど。
いつからか妹は、私が見ていなくても問題ないと考えるに足るような人間になっていた。
家の中では私より妹の方がしっかりしているから、いつからか私が面倒を見られる側になったというのもある。
料理とか、洗濯とか、掃除とか。
私も多少はやるけれど、人並みには出来ると思うけれど、やっぱりどれも妹の方が数段上手い。
習慣付けることこそが才を育てる一番の方法なのは、スポーツでも学問でも、日常生活でも変わらないようだった。
そんな妹が珍しく躓いた。
というより、転ばされた。
それからだ、妹がああなったのは。
今躓いたまま、立てないままでいて、最後にその尻拭いをするのも妹自身だから、私は被害を被らないし。
別にそれが苦になっているわけじゃないから、私は構わないし。
過保護過ぎるようなことも、ないと思うんだけど。
頭を捻って考えてみるけど、過保護だと捉えられる心当たりがない。
妹自身がそう言っていたのだろうか。
そろそろ思春期だものなぁ、それはちょっと寂しいなぁ。
取り敢えずアイスでも買って帰ろうか、とか。
思考を放り投げて、コンビニへ寄る。
難しいことを考えるのは、苦手なんだ。
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