交差点の中の袋小路
森本 晃次
第1話 再会
「堂々巡りを繰り返すこと」
これほど怖いことが、この世にあるだろうか?
この物語の主人公である北門晴彦は、その思いを嫌というほど味わうことになる。一度進んだ道をまた進む。しかも、それが自分の意志によるものではないのだ。時間の流れに逆行し、何かの共通点に導かれながら進む道に対し、
「本当にそれでいいのか?」
と、誰が問いただしてくれるだろうか。晴彦にとって進む道は、安息の道なのか、それとも修羅の道なのか、知っているのは晴彦本人、この道を通りすぎていった晴彦以外にいないのだ。
晴彦の運命を思うあまり、話が行ったり来たりしてしまうかも知れないが、そこはご容赦いただくとして、この話が晴彦の身だけに起こる話であることを、晴彦には申し訳ないが切に願って、お話を始めることにしよう。
晴彦は、この春でやっと後輩が入社してくる社会人二年目に突入した。この一年間は大学時代の一年とは比較にならないほど濃い一年だったと思うが、まわりを見向きすることもないほどに一生懸命だったこともあって、想像よりも短い一年でもあった。
あっという間に過ぎてしまった一年だった証拠に、同期入社の連中が十人以上もいたのに、一年経った今まわりを見ると、すでに三人しか残っていなかった。就職した時に、
「結構、厳しい会社らしいぞ」
という話を聞かされたのを思い出した。
厳しさの内容は聞いていない。人によって同じ厳しさでも感じ方は違うからだ。
一年という月日が新入社員にとってどれほどの長さだったかということは、その時に感じた人でしか分からない。一年経ってしまった先輩では、分からないだろう。なぜなら、二年目の一年は、さらに違った一年なのだから……。
大学時代にも、
「人によって感じ方が違う」
という言葉を何度となく聞かされてきた。だが、その教訓を生かすこともなく就職してしまった晴彦は、就職したと同時に、この言葉を思い起こされることになる。
二年目の会社での毎日は、一年目とは違っていた。学生時代のように、春休みがあったり、始業式があるわけでもない。入社式はあっても、二年目の社員には関係なく、新入社員が、特別な教育を受けるだけだ、
――去年のことなのに、すでに感覚的に忘れている――
確かに、その日入社式の日だと思うと、思い出すことも少しはあったが、仕事の上での感覚は、かなり昔のことのような感覚だった。
晴彦が就職してきた時と、今年とでは少し社会的な事情も違っていた。
「一年で、こんなに変わるというのも珍しいな」
社会問題として、税のあり方が変わったこと、さらには、昨年、大きな会社がいくつも合併を重ねたことで、社会構造自体が変わってきたのだ。昨年よりも今年、さらに就職戦線は困難だったのではないだろうか。
――さぞや、優秀な社員が入ってきたことだろうな――
と思ったのだが。世間一般の厳しさと、この会社の人事とでは、少し感覚がずれているのかも知れない。
――どうしてこんなやつを?
と思うような新入社員もいたりする。
ただ、そんな中にも優秀な連中はいるものだ。彼らは英才教育を受けるべく、入社式が終わってからは、別行動だった。最初からの幹部候補生なのかも知れない。
他の連中は、昨年、晴彦が受けたのと同じような教育を受け、先輩のお話に耳を傾け、二日間の集中入社式を終えると、それぞれ配属先が発表され、散り散りに散っていったのである。
新入社員の頃を思い出そうとすると、どうしても、この季節のことだ。まだまだ何も分からないくせに、本人は、六月になる頃には、新入社員だという意識がなかった。甘い考えを、
「新入社員だから」
と言って、責任逃れをしようとする人もいるが、晴彦も感覚的にはそれに違いものがあった。それなのに、心の中で、
「新入社員じゃないんだ」
と、思ったのは、厳しさを自らに課すという厳しさの表れではない。自分でも分からない意識が働いているようだった。
昨年一緒に入社した人で妙に気が合う人がいる。その人は部署は違うが同じフロアなので、お互いにアイコンタクトが効くくらいの相手だということもあって、アフターファイブを、時々一緒に過ごしていた。
一年目はなかなか仕事の関係でたまにしか一緒に出掛けることができなかったが、一年目も年明けくらいから、仕事にも慣れてきたことで、仕事が終わる時間を合わせられるようになっていた。
彼の名前は近藤というが、近藤が知っている店に行くことが多かった。
近藤は営業の仕事をしていることもあって、お店はいくつか知っていた。ただ、同じ会社の人が来る店に立ち寄ることはなく、気軽に入れる店にしか行くことはなかった。
「営業で使う店と、プライベートの店とでは、使い分けているからな」
と言っていたが。まさしくその通り。
「俺は学生時代から、結構スナックとかにはよく行ってたんだ。今、営業で使っている店の中には、学生時代から知っている店もあって、学生時代の何が役に立ってくるか分からないよな」
と嘯いていたが、まさにその通りだ。そういう意味では、晴彦の学生時代を思い出すと、自分にもいくつかの常連としていた店があった。
だが、晴彦は決して、自分が常連にしている店を仕事で使おうとは思わない、なぜならプライベートと仕事は、自分の中で完全に分けていた。だから、晴彦にとってプライベートと仕事、どちらが重いかと言えば、プライベートだと、文句なしに答えるだろう。晴彦にとって公私混同という言葉は、私公混同だと言いたいのだ。
晴彦と近藤は、入社式の日に、隣りあわせになったのがきっかけで、話をするようになった。近藤は晴彦よりも二回りほど身体が大きく、いかにも体育会系の身体をしている。声も大きく、笑い声も豪快なので、誰が見ても、晴彦といれば主導権を握っているのは近藤だと思うだろう。
それに間違いはないが、会話が弾むのは、お互いに意見を言い合っている時、平等であるということだ。どちらかが主導権を握ってしまう会話であれば、話題性に膨らみはなく、先の知れた内容に終始し、気が付けば一人で喋りまくっただけの、あっという間の時間が過ぎてしまうことになることであろう。晴彦は近藤を尊敬しているが、会話では常に平等を心掛けている。それが友達としての関係を長持ちさせる秘訣だと、本能で感じているのだった。
晴彦は、本能を大切にする方だが、本能で動くというと、あまり聞こえがよくないかも知れないが、本能さえ機能しなければ、何も行動が取れないと思っているからだ。
近藤が連れて行ってくれたスナックは、こじんまりとした店構えで、かなり古くからあるのか、看板も少しくたびれているようだ。
普段は、そんな細かいところまで見ることはないのだが、気にしたこともないことが気になるほど、古ぼけて見えたのだろう。
「俺は、学生時代から七人の女性と付き合ったからな」
と、近藤は言った。
七人という人数が一般的に多いのか少ないのか、何とも言えないが、普通に考えると多いと思う、結構長い時期付き合っていた人もいるというから、中には重複して他の女性と付き合っていた期間もあるだろう、
そのことを近藤に指摘すると、
「ああ、そうだよ。二股、三股、あった気がするな」
と、あまり気にしていないようだった。
晴彦などは重複した期間があると、話をしていても時々もう一人の女性を思い浮かべてしまって、話す相手を間違えそうな気がする。
そんな近藤だったら、もう少し洒落た店を紹介してくれるものだと思っていたが、少し拍子抜けした。白壁のちょっとした明かりでも、白く映える姿が、店の雰囲気を大きく、そして奥行きを深く見せてくれるような店を想像していた。それが垢抜けた店のイメージで、そういう意味では近藤に似合わないかも知れないが、それでも、好感度がアップすることは間違いなかった。
――近藤は、俺のことを嫌っているのかな?
と感じるほどで、それなのに誘いを掛けてきたのは、他に誘う人が皆用事があったからなのかと思えた。
確かに近藤とは入社以来、結構一緒に食事をしたりすることが多かったが、二人で夜の店に行くのは初めてだった。夜の店での近藤がどんな雰囲気なのかは想像がつくが、こじんまりした店を選んだということは、近藤の武勇伝にまつわるような部分を見せたくないという思いは贔屓目であろうか。晴彦のことを、昼の友達として意識しているのかも知れない。
近藤は、そんなに友達を区別するようなやつではなかったように思うのは、晴彦の気のせいであろうか。
お店の中の雰囲気は、静かだった。音楽は流れているが、クラシックのような、ジャズのような、不思議な音楽が流れていた。どうやら、まだお店が本格的に開店する前のようだ。
「いらっしゃいませ。すみません。お店は八時から何ですが」
時計を見ると、七時半を少し過ぎたところ、店の雰囲気が暗いのも当然であった。中から出てきたのは、背の小ささが目立つ女性で、年齢的には四十歳前くらいに感じたが、やつれ方を見ると、さらに年が上ではないかと思うほどの雰囲気に、少したじろいでしまった晴彦だった。
「そう言わないでくださいよ。もう、いいですよね?」
豪快な男が小さい女性に掛けた声に迫力はなく、優しさが感じられた。そこにはやつれた身体をいたわるように後ろから覆いかぶさるかのように見える様子は、いじらしさと、暖かさが感じられた。
「ああ、近ちゃんね。近ちゃんなら、全然問題ないわよ」
覆いかぶさられたことで、相手が近藤であることがすぐに分かったようで、振り返った女性は、少し怯えを残したまま、大男を見上げていた。
表情はまるで、
「助かった」
と言わんばかりの安堵感が満ち溢れていた。
「ママさんがいなかったら、思わず帰っちゃおうかって思いましたよ」
と言って、豪快に笑う。
二人はまるで親子ではないかと思うほどの暖かさが溢れている。どちらかというと、二人とも笑顔を苦手とするタイプだと思っただけに、意外な感じを受けた。
豪快な笑いは、その場に緊張感を張るか、あるいは、緊張を和らげる時もある。近藤の笑いは、緊張を和らげる方なのかも知れない。緊張を和らげるにはそれなりの効果が必要だが、近藤の笑いにはそれがあるようだった。
「じゃあ、いつもの席ね」
と言われる間もなく、近藤は、カウンターの一番奥に腰かけた。どうやら、そこが近藤の指定席のようだ。
晴彦は、その隣を一つあけ、自分も座った。
カウンターの奥の席に座るのは、晴彦と同じだ。一番端からまわりを見渡す感覚は、空間全体を凌駕しているかのようだった。
特に近藤は背が高い。ということは座高も高く、他の人よりも高い位置から見下ろすことができる。晴彦が見ることのできない高い場所から見渡せるとすれば、どんな光景が広がっているというのだろう。
全体を見渡すことができるが、その分、少しだけ自分よりも狭く感じることだろう。だが、比較するものがない視界は、小さいなどという感覚が一切ない中で見ていると、それが本当の大きさだとしか見えてこないことだろう。
人が見渡す中に自分がいるというのもおかしな感覚だ。いつもは自分が見渡す側にいて、しかも晴彦が座っている席には、人は誰もいない状態をいつも作っていた。
晴彦の馴染みの店は喫茶店で、その店は、常連ばかりの店であった。
晴彦が最初に入った時、
「まさか、俺が常連になるなんて」
と、まわりに話したほどである。まわりの人も同じ思いで、晴彦が常連になったことを一番不思議に思っている人が結構多かった。
常連になれる店か、なれない店かというのは、すぐに決まるものだと、晴彦は思っている。また来てみたい店か、二度と来たくない店かというのは、常連がどの席に座るかということで決まると思っている。
ということは、その店に常連がたくさんいることが最低条件だ。常連がたくさんいて、さらに常連の座る席が決まっている。そして、自分が据わりたい席に、誰も座ろうとしない。最後のこの条件が一番難しい関門と言えよう。
その店は、自分が座る席に誰もいないという難関を突破し、晴彦の常連の店という切符を手にした。常連になる人にとって、晴彦のようなこだわりを持っている必要があるとするならば、常連の数が多いお店というのは、それだけ、希少価値に近いものを持っているのであろう。
店主が変わり者であったり、何か共通の目的を持っている店主のところに、自然と客が集まってくるというのであれば、常連の多い店というのは、常連で持っているのではなく、店主が常連を惹きつける魅力を持っているのかも知れない。晴彦の馴染みの店の店主は、魅力はあるが、変わり者である。そういう意味ではどちらの要素も兼ね備えている店主だと言えよう。
店の女の子が、しばらくすると出勤してきた。
「おはようございます」
一人二人と入ってくる。
「あ、近ちゃん、いらっしゃい」
気軽に声を掛けられた近藤は、右手を上げて答えていた。
「今日からこのお店に入ったしおりちゃんです。よろしくね」
と、ママさんが、後ろから一人の女の子の両肩を抱くようにして、紹介した。
「あ、初めまして、しおりと申します。よろしくお願いいたします」
と言って、しおりはなかなか上げられない顔を下に向けたまま、小さな声で挨拶してくれた。恥かしがり屋なのか、それとも、不安がいっぱいで頭を上げることができないのか、しおりの雰囲気を見るかぎり、不安がいっぱいなのは間違いないだろう。
近藤の表情が少し変わったのを、晴彦は見逃さなかった。視線は、しおりに行っていたのに、よく近藤の表情の変化を見逃さなかったものだと思ったものだ。
近藤は何も言わずに、頭を下げた。その様子を横目に見ながら、
「こちらこそ、宜しくお願いいたします」
と、晴彦が代表して答えた。お互いにこの店が初めてだというのに、おかしなものだ。そう思うと、晴彦は思わず、笑みが毀れた。
その笑みがしおりの緊張感を和らげるのに効果があったのか、しおりも初めて表情が緩んだ、心を許してくれているようで、晴彦は嬉しかった。
それだけでも来てよかったと、晴彦は思った。ひょっとすると、今日が最初で最後だと思っていたこの店に、これからも通うかも知れないと思ったくらいだ。元々スナックなどあまり通ったことがない晴彦だったが、自分としては、しおり一人が、店の雰囲気を度返ししても、通ってくるだけの価値を感じていたのだ。
――スナックの常連になるというのは、こういう心境なのかも知れないな――
本当は、あまりスナックの常連になりたいと思っているわけではない。お金もかかるし、それほど、お酒が好きだというわけでもない。ただ、しおりとは、いろいろ話をしてみたいという衝動に駆られたのは間違いないことで、勘違いなどではなかった。
しおりというのは、おそらく本名ではないだろう。こういうお店での「源氏名」、分かっているが、本人がその名前にしたいと思ったのだとすれば、晴彦も好きな名前であることから、きっとしおりとは気が合うのではないだろうかと思うのだった。
しおりは、ほとんど自分から喋ろうとしなかったが、顔は見合わせるようになっていた。こちらが聞いたことに対しては、ちゃんと答えてくれる。その時の目線は晴彦を捉えていて、黒い瞳の中に、自分を姿が写っているのが見えるくらいだった。
しおりの瞳はまっ黒ではなく、微妙な青さを感じた。まるで外国人のような感じを受けたが、それは瞳だけを見ている時で、顔全体を見ていると、瞳は綺麗な黒瞳だった。
――瞳を見ていると、以前にも同じような思いをしたことがあったのを思い出す――
それがいつのことだったのか、ハッキリと思い出すことはできない。元々、記憶など、ハッキリとした時系列で収められているものではなく、昨日のことが、子供の頃だったような遠い記憶だったり、子供の頃の記憶がまるで昨日だったような鮮明さを保ったまま封印されていることもあった。
ただ、瞳を見ていると吸い込まれそうな錯覚を覚えるのは、正直、相当昔のことではないだろうか。忘却の彼方にあったものが、しおりの瞳を見た瞬間によみがえってくる。新鮮さでもあるが、不気味な気持ちも無きにしも非ずであった。この日のこの空間は、不思議な魔法に掛かったかのような時間として、ゆっくりと過ぎていくようだった。
――今日の会話を、明日には忘れているかも知れないな――
どうにも掴みどころのない会話に思えていた。
忘れているというよりも、封印されるのだろう。それも自分の意志を持って封印しようとしているはずなのに、どこか他人事のように思えるに違いない。どうして、先のことまでここまで手に取るように感じるのか、晴彦にはまだその時、よく分かっていなかった。
ゆっくりと過ぎていたと思っていた時間だったが、気が付けば、そろそろ日付が変わろうとしている。
「あっという間でしたわね」
ママさんが、そういうと、近藤は黙って頷き、
「そろそろ行こうか?」
と、晴彦を制して、お金を払うと、先に店の表に出ていた。
会話がなくなってしまった晴彦には渡りに船だったはずなのに、いざ店から出ようとすると寂しさが心の奥に残っているのを感じた。
その日は結局、他に客は誰も来ずに、二人だけの独占した時間だったが、
「たまには、こんな日があってもいいわね。今日はこれで看板にしましょう」
と、ママさんは、店を閉めるよう、他の女の子に話しかけた。晴彦としおりが会話している間、近藤は他の女の子と話をしていたようだが、二人にとっての静かな時間であったことには違いがなかった。看板になって晴彦は、これからもこの店には時々来ることになることを、確信していたのだった。
翌日は土曜日で、晴彦は朝ゆっくりと寝て、起きてきたのは十時過ぎだった。休みの日に十時過ぎまで寝ているということは珍しくはない。前の日に休みを見越して、少し残業に勤しんだために、溜まった疲れからか、目を覚ます機会を逃すのである。
休日の朝、予定でもない限り、目覚まし時計を仕掛けることはない。せっかくの休日、時間を大切に使いたいと思っているので、あまり遅くまで寝ていることを望んではいないが、それでも睡眠を邪魔される方が嫌であった。なぜなら、せっかくの一日の最初を、嫌な思いで始めたくないからであった。
ゆっくり寝ていると言っても、どんなに遅くとも昼までには目を覚ます。日ごろの生活が身についている証拠であり、それ以上の睡眠は却って体調に悪い影響を与えてしまうからである。
十時過ぎというと、
「少しゆっくりだったかな?」
と感じる程度で、さほどその日の予定を圧迫するほどの時間ではないと思っている。目が覚めてからゆっくりもできるし、出かけるとしても、昼前には出ることができる。中途半端な時間でもなかったのだ。
部屋のカーテンの隙間から、朝日が木漏れ日となって差し込んでくる。一筋の光が目の前に、小さな塵を浮かべて、それを見ていると、遠近感が取れていない自分を感じるのだが、この感覚も嫌いではなかった。一生懸命に焦点を合わせようとしている努力は、覚めきっていない目を覚ますのには絶好であった。
顔を洗って、ある程度はスッキリはしているが、自分から覚まそうとした目ではないので、完全に目が覚めているわけではない。それでも木漏れ日も手伝ってか、ある程度目が覚めてくると、起きてから淹れはじめたコーヒーが、おいしく感じられるはずなので、それが嬉しかったのだ。
コーヒーは、ミルクを入れることもなく、ブラックでいただく。これが晴彦の日課だった。
仕事の日でも、朝からタイマーを仕掛けておいて、目が覚めた頃に出来上がるコーヒーを飲んで出勤する。これから待っている仕事を思うと、休日のそれとは比較にならないほどおいしさを感じないが、それでも朝の始まり、儀式としては、大切な時間の一つであった。
「朝を大切にしていると、一日が終わった時に感じるその日一日の感覚が、まるで違っているものになるわよ」
晴彦が学生時代に付き合っていた女の子が教えてくれた。初めて彼女が晴彦の部屋を訪れた時に、話してくれたことで、夜愛し合った後の、目覚めの気だるさを、彼女はそう言って癒してくれた。
晴彦が付き合ったことのある女性は何人かいたが、彼女たち、一人一人に存在する想いでの中で、この言葉のように、言葉としての思い出が、必ず一言はあった。だから、彼女たちと別れて辛さ、寂しさはあったが、その中でもどこか付き合えたことへの満足感と、彼女たちへの感謝の気持ちがあったのも事実である。
彼女からその話を聞いた時、初めて木漏れ日の小さな塵の存在を再認識した気がした。木漏れ日も塵の存在も分かっていたが、それが自分にどのような影響を与えるかなど、考えたこともなかったからだ。
目が覚めて、気分がスッキリしてくる時間は、晴彦にとって至高の時間でもあった。目覚めは、正直いい方ではない。二回に一回の目覚めは頭痛に悩まされる。頭の痛さは重たさを伴っていて、鼻の通りを悪くする。喉の痛みを伴っているのにも気づくが、喉の痛みは、鼻の通りから影響しているようだ。
朝の目覚めで眠気を残してしまうと、その日はずっと体調が悪いまま推移してしまうようだ。昼下がりにゆっくりした気分になると、ふいに睡魔が襲ってきて、それに耐えていると、またしても頭痛に悩まされる。
この頭痛は朝目覚めの時の頭痛とは違っていて、頭の重たさは伴っていない。その代わり、頭痛とともに吐き気が襲ってくることがある。そうなってくると、頭痛薬を飲まないと収まらなくなってくる。
「俺は頭痛持ちだから」
とまわりに話しているのは、この時のために、いつも頭痛薬を持ち歩いているからであった。
コーヒーで一番おいしく感じるのは。最初の一口ではなかった。最初の一口は、苦いだけで、実際の味はよく分からない。二口、三口と飲んでいくうちに舌が苦さに慣れてきて、苦さという味覚がマヒした時、おいしさを初めて感じる。晴彦にとっての一口目は、この瞬間だったのだ。
「コーヒーの醍醐味は、味だけではなく、香りになるんだよね」
むしろ晴彦は味よりも香りこそが、コーヒーの醍醐味だと思っている。醍醐味を味わっているのは、口にする以前からであって、一口目を口にする頃には、半分以上コーヒーを堪能した後だと言っても過言ではないだろう。
コーヒーの醍醐味を味わいながら、朝のひと時を過ごしていると、一日の中で一番時間の感覚をマヒさせるであろう時間を過ごしているという感覚が頭を過ぎる。
――これこそ、コーヒーも魔法のようなものなのかも知れないな――
魅力でも魔力でもない。魔法なのだ。
コーヒー自体に魔力や魅力が備わっているのは分かっているが、コーヒーが自らまわりに影響を及ぼすオーラを放っていることで、晴彦は「魔法」だと思うのだ。そのものだけが及ぼす力ではなく、そのものの影響がまわりすら動かして、自分の力として作用させること、それが魔法だと晴彦は思うのだった。
魔法の及ぼす効果が、昼下がりに起こる頭痛を、少しでも和らげてくれていると思っている。もし、モーニングコーヒーを飲まないと、毎日頭痛に悩まされるのではないかと思うからだ。
だが、逆も言えるのではないか。
晴彦はモーニングコーヒーを欠かさないようになったのは、二十歳過ぎてからだった。それまでのも、昼下がりの頭痛はあったのだが、今ほど頻繁ではなく、しかも、ここまでひどいものではなかった。そう思うと、晴彦がモーニングコーヒーをもし、始めていなかったら? と思うと、頭痛とモーニングコーヒーの因果関係が違った意味で深かったことを示している。
コーヒーというのは、麻薬のようなものである。病みつきになると、やめられなくなるもので、その成分は、麻薬と同種類の「アルカロイド」と称されるカフェインである。
もちろん、そのことは分かっている。精神安定のために、コーヒーを好んで飲む人が多い。その人たちがカフェインは知っていても、アルカロイドとしてのカフェインの効果を果たしてどれだけ知っているのかというのは、興味深いところであった。
コーヒーの効果と、木漏れ日によってすっかり目を覚ました晴彦は、やっとその時になって部屋の中に流れている音楽を気にするのだった。
音楽もタイマーを仕掛けておいて、コーヒーメーカーが動き出すタイミングに合わせて動くようにセットしてあった。
殺風景ではないことだけを意識していた。掛かっている音楽はクラシック。これは学生時代から続けていることで、朝の目覚めはシンフォニーと決めていた。
毎日同じではないが、朝に似合う音楽を適当に見繕い、ローテーションを組んで朝流すようにしている。いつも聞いている音楽なので、聴覚もマンネリ化してしまっているのはしょうがないが、それでも、目が覚めるまで意識しないというのは、面白い現象である。
その日は、「くるみ割り人形」の日だった。軽い音楽で、組曲になっているので、多彩な曲調を楽しめる。晴彦としては何度も聴く音楽としては最適だと思っているクラシックであった。
「この曲を聴いていると、切るタイミングを逸してしまうのが、欠点だな」
と思った。
シンフォニーは、決して短い音楽ではない。目が覚めてから、ゆっくりと聴いていても、そろそろ出かけたいと思う時間までに終わるわけではないので、いつもどこかのタイミングで切って、出かけるようにしている。
この曲の時でも同じなのだが、この曲ほど切るタイミングを想い図るのが難しい曲はない。なぜならこの曲を聴いていると、いろいろなことが走馬灯になって頭の中を巡るからであった。
他のシンフォニーでも同じなのだが、この曲の場合には幾通りもの思い出が頭を巡る。組曲になっているのだから当然と言えば当然なのだが、「くるみ割り人形」には、何か特別の思い出があったように思えてならなかった。それが何なのかその時には分からなかったが、その日、しかもそれもあまり遠くない将来に思い出すことになるとは、その時まったく想像もしていなかった晴彦だった。
音楽も佳境に入ってきて、さすがに途中で止める気にならず、そのまま聞き入っていた。
「たまには、こんな日があってもいいか」
と、独り言ちて、コーヒーを一口口にした。
出かける時は、コーヒーカップを洗わずに水に浸けたまま出かける。洗い物が嫌だというわけではなく、気分の問題であった。せっかくスッキリした頭で、手を水に濡らし、洗剤を使う気にはなれないからだ。
そういうところが変わっていると言われるゆえんなのだろうが、晴彦は一向に構わない。誰と比較して変わっていると言われているのか分からないし、世間一般の人と比較してというのであれば、まさにそんなことは関係ないと言いたいくらいだ。
音楽が終わりかける頃、ちょうどコーヒーを飲み干し、洗い場に満たした水にカップを浸して、あとは部屋を出るだけであった。
カギを表から回した時、カチッという音がするが、いつもよりも響いたような気がした。確かにマンションの通路は音響が響くようになっているが、いつもより音が響いて感じたのは、それだけ、まわりが静寂だったからなのだ。
静寂を感じると、晴彦は耳鳴りがしていると思う。
「キーン」
その音が、耳の奥に響くことで、静寂を感じるのだ。
「静寂とは、まわりの音を吸収することで起こる自然現象だ」
というのが、晴彦の静寂への考え方だが、静寂がまわりの音を吸収するために起こる音が、「キーン」という耳鳴りだと理解している。そう思うことで、静寂と耳鳴りの関係を説明でき、静寂がそれほど怖いものではないことを教えてくれる。
静寂が怖いという人を何人か知っているが、それは静寂自身が怖いわけではなく、それに伴って生じる耳鳴りが怖いのかも知れない。だが、そんな人に晴彦の論理を説明しても、却って静寂に対しての恐怖が増すばかりで、結局は恐怖を解消する理屈にはならないであろう。
カギを回す音がその日、大きかったと感じた晴彦は、違和感はあったが、恐怖を感じたわけではない。むしろ、ワクワクするような感覚があったのだ。
「こんな感覚は久しぶりだな」
彼女がいた時、朝、いつも待ち合わせをしていた店に出かける時の感覚に似ていた。あの時も今と朝過ごすパターンは変わっていない。目が覚めるにしたがって、その日過ごすであろう二人きりの時間に思いを馳せ、ワクワクしたものだった。
その時付き合っていた彼女は、一口に言えば、掴みどころのない女の子だった。
話をしていても、時々大きな脱線をして、晴彦を驚かせる。その内容が、晴彦が時々、ボーっとすることがあった時に考えていることに酷似しているからだった。
人の話を聞いている時、ふっと別のことを考えてしまうことが晴彦には時々あった。
「何ボーっとしているのよ」
と言われて我に返ることがあるのだが、晴彦は我に返って、まるで夢を見ていたかのように、その時何を考えていたのか、忘れてしまっていた。
だが、彼女の脱線の話が、それまでしていたのとまったく違う話だと思った瞬間、
――前にも感じたはずだ――
という思いを感じる。それが、時々ボーっとしていた時に考えていたことだと急に分かるのだが、それが夢の世界との懸け橋を見た瞬間であると信じて疑わなかった。
夢の世界はいつも同じだとは思えない。何度かある思いの中の一つを思い出したのだが、思い出した時、元々考えていたこととそのことが、どのような影響があるかということは分からない。
カギの音がしばらく耳鳴りとして残ってしまうことを感じながら、晴彦はエレベーターで一階に降りた。エレベーターが到着した時の音と耳鳴りが共鳴し、耳に違和感を感じたが、それも一瞬のことだった。
一階に降りてしまうと、さっきまでの「自分の部屋からの延長」という気分は消えていて、完全に部屋の影響の及ばない場所まで来たのだという意識に見舞われた。
晴彦のマンションは管理人はいないので、無人で暗い踊り場を抜けて表に出ることになる。
踊り場は真っ暗で湿気を帯びていることで、重苦しい空気を感じたが、この感覚もどこかで感じたと思ったが、昨日のスナックに入った時の感覚と似ている。逆に言えば、だからこそ、昨日スナックに入った瞬間に、どこかで感じた思いだと感じたことも頷けるというものだ。
表に出ると、今度は明るさだけが目立った。目の前に飛び込んできた光りは、それまでの意識をすべて吹っ飛ばすくらいに激しいもので、思わず目を瞑りかけたが、すぐに思いとどまった。
目を瞑ってしまうと、瞼の裏に赤い色が残ってしまい、それがいずれ襲ってくるかも知れない頭痛に見舞われた時、痛みを増幅する効果に結びつくことを知っていたからだ。
赤い色と言っても真紅ではない。深みを帯びた赤い色なのだ。そう思った時、
「血の色」
という意識が頭を貫いた。過ぎったなどという中途半端なものではなく、恐怖心を帯びた感覚であった。
「この色に何か嫌な思い出がある」
という意識はあったが、それが何であるか、光りを怖がっている以上、分かるはずがないと思うのだった。
「今日はどこに行こうか?」
などと考える必要はない。さっきまでコーヒーを飲んでいたにも関わらず、行先は喫茶店だった。
晴彦が馴染みにしている店で、休みの日には最近よく出かけている。他に行くところがあるわけでもなく、家にずっといて一日が過ごせるほど気長ではない。要するに貧乏性なのだ。
晴彦の仕事は土日にも出社することが多い。そのため、休みは平日に集中するのだが。出かけても人が少ないことはありがたかった。
学生時代などは、人ごみでもあまり気にならなかったが。卒業してしまうと、人ごみが苦手になった。人通りの多い道であったり、駅のコンコースにしても、人で溢れているのを見るだけでウンザリしてしまう。
晴彦が馴染みにしている店は、歩いて十五分ほど、決して近いとは言えないが、近すぎないことも却ってよかったりもする。散歩にはもってこいの距離であった。
晴彦が住んでいる一角は住宅街ではない。大通りから筋を二つほど入ったところで、思ったよりも静かなところが気に入っていた。
馴染みの店には住宅街を抜けていくのだが、ここの住宅街は結構大きな家が多く、きっと元々農地を売却したお金で屋敷を建てたのだろうというのが、晴彦の想像だったが、当たらずとも遠からじではないかと思っている。
住宅街というと、似たような家ばかり並んでいて、しかもきちんと区画された状況なので、知らない人が一旦入り込んでしまうと、どこを歩いているのか分からなくなるだろう。その思い出は晴彦にもあった。
子供の頃の思い出なので、ここの住宅街とはまったく違ったところなのだが、友達がたくさん住宅街には住んでいた。
子供の頃には、住宅街に住んでいる友達を羨ましく思ったものだ。屋敷というには小さいが、それでも区画された住宅街の家に比べれば数段大きな家に住んでいた晴彦が羨ましく思うのはおかしなことだが、それも、
「隣のバラは赤い」
という心理なのだろう。
友達から言わせれば、
「何を贅沢な」
と言われても仕方がない。実際に言われていたことだし、子供というのは、なかなか相手の気持ちを思いやるまではいかないもので、言葉はストレートに相手に伝わり、それが相手に対しての誤解と、自己嫌悪を生むきっかけになってしまうことが、罪のない言葉でも人を傷つけることに繋がるのだということを教えてくれた。
「住宅街に住んでいた連中、今どうしているだろうか?」
住宅街を通り抜ける時、いつも同じようなことを思うのだが、その日は、その思いがしばらく消えなかった。住宅街を過ぎる頃も、思わず後ろを振り向いてしまうくらいで、振り向いた時に見えた住宅街が、思ったよりも小さく見えたのが印象的だった。
さっきまであんなによかった天気だったが、少し雲行きが怪しくなってきたのを感じてきた。
「雨が降りそうだな」
カバンの中には折りたたみ傘が入っていたが、なるべくなら差したくないと思うのは誰もが同じこと、雨が降っても通り雨くらいで済めばいいと思っていた。
本屋が見えてきて、そこを曲がると、交差点がある。喫茶店に向かうまでの間、唯一人ごみを感じないわけにはいかない場所で、いくら少ない時間帯であっても、そこだけはいつも人が多い。
「どこから、こんなに人が溢れてくるんだ?」
と、晴彦は感じたが、考えてみれば、他の人も同じことを考えているのではないかと思う。そう思うと、思わず苦笑してしまいそうになるのだった。
「ここを抜けると、喫茶店までは一本道」
と、思うと、交差点が見えてくれば、思わず足早になっている自分に気付く。足早になっても、なかなか交差点に辿り着かないのはなぜだろう?
「逸る気持ちというのは、まるで蜃気楼のようだ」
砂漠で水がなくなってくると、オアシスという幻を見るという。しかし、それは幻ではなく、蜃気楼である。実際に見えてもいないものを見えたと思っているのが幻であるのに対し、蜃気楼は、実際に見せるのだ。幻は本人の描いた絵空事、蜃気楼は自然現象が描いた絵空事。明らかな違いがある。
蜃気楼は逃げ水ともいう。近づいているにも関わらず、どんどん遠ざかっていくように見えるのもその特徴であった。錯覚と言ってしまえばそれまでだが、錯覚を起させる心理的なものが、どこかに存在しているに違いない。
ここの交差点ではないが、交差点というと、あまりいい思い出がない。一番ひどかった思い出は、やはり交通事故を目の当たりにした時のことだろうか?
その時は、学校からの帰り道、部活の帰りだったから、中学の頃だったと思う。
夏の暑い日のことだった。部活が終わるのは、午後六時、それから支度しての帰り道、まだ真っ暗ではなかったことからも、夏だったのを覚えているのだ。
汗が身体に纏わりついて、結構辛かった。歩くために足を上げると、腿のあたりが痙攣しそうで、急いで歩くこともままならない。ゆっくりと歩いているが、とにかく足があがらないのだ。
「まるで水の中を歩いているようだ」
途中までは友達と一緒だったが、途中からは一人になる。晴彦の家が部員の中でも一番遠い方だったのだ。学校の場所を恨んでみても仕方がない。中学までは校区というのが決まっていて、逆らうことができなかったのだ。
しかも、一度都会の真ん中へ出ないといけない。そのために踏み切りであったり、大通りの交差点を通り抜けなかったりしなければいけないのは結構辛かった。踏切が二か所、大きな交差点が三か所ある。そのうちの最初の交差点は、事故多発地帯とも言われていた。
下は国道、上を都市高速が走っている。さらに、ちょうど、国道と国道が重なる道があるが、スクランブル交差点になっていて、人の往来も難しいくらいだ。そんなところで晴彦は、何度となく人の群れに流されながら、押し返されたことがあるくらいだった。もっともそれは小学生の頃で、中学に入ると成長期のおかげで少し身体も大きくなり。大人でも晴彦を避けて通る人が出てくるくらいだった。
交差点でのトラブルは大人になって見た。
大学時代のコンパの帰り、カラオケで楽しんだ後に、数人でラーメンを食べに行った時のことだった。
ラーメン屋は、交差点の近くにあり、夜も開いていることから、逆に夜の方が人が多かった。それでもランチタイムと同じ感覚で、人の流れが良いことから、さほど待つこともなく、中に入れる。
それでも、その日は十人くらいが列をなしていて、すぐには入れなかった。
「しょうがない。もう少し待つか?」
短気な晴彦一人であれば、決して待ったりすることはないだろう。他の人が一緒だから、会話にもなるし、時間が経つのが早いと思ったのだ。その時に一緒にいたのは、男二人と女二人の四人組、ラーメンを食べに行くには多すぎもせず、ちょうどいい人数だった。
晴彦と仲間たちは、表のベンチで座っていた。その時だった、大きな声が聞こえ、それが人を罵倒する声であることはすぐには分からなかったが、上を走る高速がドームの屋根のような効果となり、声が天井に響いたのだった。
声は明らかに誰かを罵倒する声だった。お互いに罵倒し合う声は一対一ではなく、複数の喧嘩のようだった。
そのうちにバリバリと天井を引き裂くような轟音が聞こえ、それがバイクの音であることはすぐに分かった。
バイクは一気に走り去り、悲鳴のようなものが聞こえた。
晴彦は身をすくめて怯えた。一瞬他の人を見たが、皆ビックリして晴彦のことを気にしていないのは幸いだったであろう。
「キャー」
女性の声だったが、よく見ると人が倒れているのが見える。どうやらナイフで刺されたようだ。あっけにとられながら見ていると、すぐにサイレンの音とともに警察と救急車がすっ飛んできた。けが人は慌ただしく救急車に乗せられて、残った人間は。事情聴取を受けている。
あっという間のできごとであったが、中途半端な遠さだったため、倒れている男が血を流して倒れている姿が、目の当たりにできたのだ。
皆目を逸らしていたが。晴彦には目を逸らすことができなかった。それは、やはりこの場所で見た交通事故の光景が今も目に焼き付いているほどショックを受けていたからであった。
疲れた身体に鞭打つように歩いていたが、気が付けば足早になっていた。普段は疲れていれば、足早になることはないのに、その日はどうしたことだろう?
思い出そうとして見ると、ちょうどその時、何かの不安にさいなまれていたような気がしていた。後から思うと、交通事故の予見でもあったのかと思うほど、何かの「虫の知らせ」があったような気がする。
「小学校の頃に、確か虫の知らせの話を聞いたことがあるな」
とその時に感じたのを思い出した。やはりその時もオートバイの爆音が聞こえた。大学生になってまでバイクの爆音に恐怖心を抱くのは、その時のことがあるからだった。
事故を目撃した時間が、逢魔が時と呼ばれる、夕凪の時間だったのも、偶然ではなかった。その日から晴彦は夕凪の時間に恐怖を感じるようになり、その思いは今でもトラウマとして残っているのだから、ショックは相当なものだった。
人が跳ね飛ばされるのは一瞬だった。しかもその事故は重複した事故だったのだ。
車がバイクを轢き、跳ね飛ばされたバイクが人を数人ひき殺してしまった。最悪の事故である。
年間そうも見られない事故を目撃してしまったことは次の日の新聞を見ればよく分かった。
事故処理の場面が、新聞の一面に大きくクローズアップされていた。なるべく悲惨さを隠すように写されていた。リアルさを少しでも和らげようと、写真はモノクロだった。晴彦にはモノクロだからこそ、余計に想像力を掻きたてるものがありそうで、却って生々しさが感じられた。本当はあまり見たくない写真であったが、目に飛び込んできた。親からも、
「この写真をよく見ておくんだ。事故がどれほど悲惨なものか、思い知るからな」
と言われた。
嫌というほど目の当たりにしたのに、いくら息子が事故を目撃したことを知らないとは言え、トラウマを思い出されるような仕打ちをする親が憎らしかった。実際に親とはあまり仲が良くなかったこともあって、晴彦にとって親はその頃から、憎らしい存在になっていった。
家族の間に決定的な亀裂を生じさせた事件、それがこの交差点での事故だった。
大学時代の喧嘩を目撃したのも同じ交差点。交差点には、よくよくいい思い出はないのだ。
他の交差点を通る時も、時々、その思いが頭を過ぎる。親とは別々に暮らしているので、親との確執については、さほどではなくなってきたが、それでも思い出すことはたくさんあった。
親に対して感じた悔しい思いが、一緒に暮らしていないからこそ、余計に思い出させるのは交差点という人と人とが交わる場所であった。
人と車とバイク、それぞれの思惑が衝突したのを目撃した事故。まさかそれぞれに考えなどあるはずがないのに、何が思惑だと思うのかと感じるが、事故などは思惑なくしてありえないと感じる晴彦だった。
それぞれに自分勝手な言い分を持っている。運転していればイライラもするし、人は歩いていると、常に危険と隣り合わせであることに気付く。しかも車に乗っている人もバイクにも乗れば、歩くこともある。歩いている人だって、たまたまその時に歩いていただけで。実際には車に乗ることが多い人もいるだろう。
事故を思い出すと、晴彦は生々しさだけが思い出される。リアルな感覚ではなく、覚えているのはモノクロの光景だった。
「夕凪の時間というのは、目の前のものをモノクロに見せてしまう。だからこそ、事故が多発するんだ」
そう言っている人がいた。確か警察の人から聞いたと言っていたが、まさしくその通りだ。
事故を目撃した時と、翌朝の新聞で見たモノクロのイメージが頭の中を巡っている。
モノクロのイメージが次第に強くなってくる。モノクロの方がよりリアルさを出しているように思うのは、晴彦だけだろうか。
リアルな感覚は、光と影がクッキリ現れているのが、モノクロであることを教えてくれるからだ。光が影を覆い隠そうとするのを、影が光に逆らうようにしてクッキリとその境目を写し出している。
光と影が織りなすコントラストは、モノクロの方がよりリアルであることを教えてくれる。
夕凪は、そんな時間帯である。毎日数分から数十分の短い間であるが、必ず毎日訪れる。よほどの天気の悪い日はないかも知れないが、天気の悪い日は、ずっと夕凪が続いているようなものだった。
晴彦が夕凪を感じるようになったのは、小学生の頃だった。
学校で遊んで帰る頃、夕凪の時間にちょうど交差点を通ることになった。小学生の頃にはさすがに事故を目撃することはなかったが、生暖かい風を感じ。初めて、
「風って匂いがするんだ」
と思ったものだ。
風の匂いを感じるのは、それから何度もあった。ただ、それは風だけではなく、地表から湧き上がる匂いだったのだ。
「地表の塵が、温められた地面から、蒸気となって吹き上がるんだけど、それは雨が降る直前のことなんだよね」
と、小学生にくせに、やけにそういう雑学の得意なやつがいて、その友達から教えてもらったものだった。
「夕凪というのは、それに似たもので、雨が降る時も事前に分かるように、夕凪も時間がくるから分かるんじゃないんだ」
と言っていた人がいた。
確かに夕凪は時間が来るから、分かるという人もいるだろう。だが、夕凪の存在自体があまり知られていない。夕凪の時間が、
「夕方の風が止む時間帯」
と、いう意識を持っている人はその中のほとんどだろう。
だが、晴彦は夕凪の時間帯でも風を感じた。
いや、夕凪の時間帯にだけ吹く、特別の風があることを知っているのだ。
生暖かい風は、普段の風とは明らかに違っている。湿気を含んでいるように感じるが、雨の前触れの風とも違っている。
夕凪を最初に感じたのは、交差点ではなく、まったく違った場所だった。
田んぼのあぜ道を舗装しただけのような道、車が離合するのにギリギリの道幅、それでもスピードを出して向かってくる車を避けるようにして歩いていた時のことだった。
どうしてそんな道を通ったのか覚えていないが、道の先に目指す場所があったのだが、それが病院だったのを覚えている。誰かの見舞いだったのか、それとも、自分のためだったのか、それすら覚えていない。ただ、その時の自分が子供ではなく、すでに大人になっていたように思う。
「初めて夕凪を見た光景を思い出しているはずなのに」
大人になっているというのは、どうしても合点がいかないが、意識の中での事実なので、意識として曲げることはできない。
「夕凪って、こんな自然現象なんだ」
どんな自然現象だったのかを感じたのかは、言葉にできるものではない。風のない時間帯のはずなのに、最初に感じる特徴は、その「風」であった。不可思議な出来事は説明できるものではないが、夕凪というのも同じようなものであろう。
交差点に差し掛かって感じた夕凪。もし、これが初めて感じたのだというのであれば、晴彦の中にある夕凪という意識は、かなり違った意識として、記憶の中に残っていたかも知れない。
交差点で感じた夕凪は、完全に湿気を含んでいて雨が降る時に感じる匂いも一緒に感じていた。
「排気ガスで汚れてしまった空気が、感覚を鈍らせてしまったのかも知れない」
晴彦はそう思えて仕方がなかったのだ。
交差点にはそれだけ嫌な思い出があった。
――交通事故、喧嘩の目撃、夕凪への思い――
それぞれに繋がりがあり、根本は一本なのかも知れないが、春彦の中では一つになれば、すぐに別れてしまうような連鎖反応に近いものが意識としてあったのだ。
交差点は。また出会いと別れの場所でもある。
特にスクランブル交差点は、その思いを強く抱かせる。途中で斜め前からくる集団と接触して、一瞬にして背中方向に引き離される。誰もが、接触したという意識を持つこともなく、自分勝手に行き違っているだけなのだ。
誰もぶつからないのは、本能がなせる業で、無意識にでも避ける気持ちが働いている。それが本能というものだ。
交差点の中で、立ち止まったことが今までに何度かあった。後ろからの視線にビックリして立ち止まり、振り返ってみるが、そこには誰もおらず、振り返ってしまった手前、前を向くこともできずに、しばし立ち止まった。
信号が赤に変わりそうになり、まわりに人が急いで渡るのが見えると、やっと我に返って、急いで横断歩道を渡り切った記憶もあった。
前から来る人とすれ違った瞬間、電流が走ったような予感がしたこともあった。その人の顔を見たはずなのに、思い出せない。後ろを振り返ってみても、そこにはまったく違う人たちだけしかいなかったりする。結局はすれ違いにこそ、交差点の意義があるのだ。
「人生は交差点のようなものだ」
というのを聞いたことがあったが、それは交わることのない平行線も含んでいることを示唆しているように思える。すれ違った時に感じた相手の存在は分かっても、見ることもできない。それこそ、
「交わることは永遠にない」
と言われる平行線ではないだろうか。
晴彦にとって交差点とは、平行線と同意語であり、そこで出会った人を思い返すと、その人が誰なのか、出会ったことが絶対にあるはずなのに、まったく誰だか分からないのだ。
交差点を横切るときに感じる風と、すれ違った人たちの間にあるものを思い出そうとすると、そこにはいつもと違う時間の流れを感じる、時間の流れこそが、同じ次元でありながら他の世界との違いを感じさせるものなのだ。
交差点を歩いていると、しばらくは、夕凪を意識せざるおえなかったが、今では夕焼けの方の意識が強い。夕焼けは夕凪の時間と違い、不気味さは感じさせないが、その代わり、他の時間にはない、派手な明るさを感じさせる。
と言っても、本当に明るいのは昼間の時間であって、夕方ではない。夕日というと、まるで、
「ろうそくの消える前の明るさ」
を彷彿とさせるが、それは、限りなく白に近い昼間の太陽と違い、時には真っ赤な血の色にさえ見える夕日のインパクトが強すぎるからである。
夕日が落ちていくのをじっと見ていると、太陽が次第に大きくなっていくのではないかと思える時がある。錯覚には違いないが、それも色の微妙な違いなのではないかと思うのだが、違うだろうか。
夕日を眺めながら歩いていると、気だるさを感じる。夕凪の時に感じる気だるさとはまた違っていて、それは暑さで掻く汗と、湿気によって掻く汗の違いのように、身体では分かっていても、口に出すと、どう表現していいのか分からなくなってくる。
その日は、交差点を渡り始めて渡り終わるまでの速度がハッキリと分かっていた。自分の中でシミュレーションができる日であった。
シミュレーションができる人というのは、決まっているように思う。時々できることは感じていたが、同じ感覚ではない。微妙に違っていて、それは何日以上開いていなければいけないというような法則性を必要とせず、また曜日のように決まったものでもない。どちらかというと、その時の体調によるものだという方がイメージとしては近いかも知れない。
渡りきるまでの時間を勝手に想像していると、目の前を歩いているもう一人の自分を意識できる。ただ、それは一人ではない、何人もいるのだ。
――一日前、二日前、そしてあれは一週間前――
といったように、過去の残層が交差点の中に残っているように思えるのだった。その錯覚を見せるのが夕日であり、夕日が交差点にもたらす力を思い知らされる瞬間でもあるのだ。
交差点を途中まで渡ってくると、今まで感じたことのない汗を感じた。自分の後ろ姿を初めて感じた時にも同じ汗を掻いたが、焦っている時に掻く汗に、一番近い感覚のするものだった。
汗というものは、いろいろな時に掻くものだが、突き詰めれば、それほど種類のあるものではない。暑さから、そして焦りから、ほとんどこの二つに集約できるのではないだろうか。
汗を掻くことで体温調節をし、焦りを和らげようとする効果もあるだろう。要するに身体の奥から発せられたSOSを察知し、身体が反応するのが、汗というものだろう。
汗を掻くことで、体温調節を行いながら、交差点を渡っていると、前から歩いてくる集団が迫ってくる感覚に陥り、次第に自分が背中から仰向けに後ろ向きに倒れていってしまいそうな錯覚に陥る。
その時に、見える夕日の眩しさが、意識を遠ざけていくようで、気が付いたら、すでに反対側にまで渡っていたという不思議な夢を見たことがあった。
その日はそんなイメージを感じる日だった。前から迫ってくる人を避けながら、
「まだ避けないといけないのか?」
と、独り言を呟きながら歩いていると、どこかで会ったことのある人が横をすれ違った気がした。
どうして分かったかというと、匂いである。金木犀のような甘さと、柑橘系の匂いが混ざったかのような独特の匂い。以前にも感じたことのあるこの匂いに反応したのである。
感じたのも、そう遠くない過去だった。遠くても一週間前。自分が感じた匂いは、鼻孔をくすぐりすぎて、しばし、鼻の通りが悪くなるほどだった。
最初は。
「なんて趣味の悪い匂いなんだ」
と思ったが、三日目くらいから、
「懐かしさを感じるこの匂いが、忘れられなくなりそうだ」
と思うようになっていた。
実際に忘れられなくなっていたが、それからすぐにまた同じ匂いを嗅ぐことになるとは思いもしなかった。
一週間という期間がどれほどの長さに感じるかということを、思い知らされた気がしていた。一週間が長いか短いか、それは一日から見るか、一か月から見るかの違いではないかと思っていたが、一週間という期間だけを捉えると、
「短いのかも知れない」
と感じた晴彦だった。
その匂いを再度思い出したのが、昨日だった。
自分の部屋から喫茶店までの道のり、交差点に差し掛かるといつも思い出してしまう夕凪の時間、しかし。その時は夕凪の時間を意識することなく、実際の朝を感じていた。その上で、歩いているうちに、交差点が見えてくると、
――今日は匂いを感じるかも知れない――
という予感めいたものがあった。
別にいつもが怯えながら歩いてるわけではないが、その日は自分が堂々としている感じを受けた。背筋は伸びて、前をしっかり見つめている。以前のように夕凪を感じてしまって、気だるさから身体がのけぞって倒れるような感覚もまったくなかったのだ。
交差点に差し掛かると、やはり目の前からいつもと同様に人の群れが襲ってくる。臆することなく歩いていくと、ふっと匂いを感じた。
――この匂いだ――
と思い、振り返ると、すでに人の群れは後ろに過ぎ去り、誰が放った香りなのか、まったく分からない。人ごみは一集団の固まりとなって、どんどん遠ざかっていく。
普段なら、そのまま通り過ぎるものを、晴彦は渡り始めたところまで戻っていた。意識をして戻ったので、違和感はなかったが、戻ってみても、集団に追いつけるわけではなく、ハッキリと分からないもののために戻ってしまった自分の行動がしばらくすると分からなくなっていた。
――なぜ戻ったのだろう?
しばらく信号が変わるのをボーっとして待っていたが、変わった瞬間、歩き出した。無意識の行動で、
――青なら渡る――
という本能という意識が晴彦を動かしたのだろう。
再度、交差点を渡る。
今度はあっという間に渡りきった。前から迫ってくる人の数も心なしか少なかった気がして、匂いも感じることはなかった。今渡りきった時に感じたのが、まるで昨日のことだったように思えるということだった。それとも、さっき渡ろうとしてやめたのは、後ろ向きの世界を見せるための本能の行動だったのだろうか?
時計を見てみると、さほど時間のロスがあったわけではない。ほんの数秒遅れているくらいだ。
――数秒というのも、何を基準に考えているんだろう?
自分が歩くスピードから逆算して? いや、そんなことができるはずがない。ひょっとすると、そのまま渡りきっていた時の自分の残像が見えたのかも知れないと感じたほどだった。
横断歩道を渡りきり、昨日のことを思い出しながら歩いていた。
――確か、昨日は近藤と一緒に、近藤の馴染みの店に行ったんだったな――
その店で、さっき交差点で感じた匂いを嗅いだような気がした。元々それが芳香剤で、お店が同じ芳香剤を使っていただけなのかも知れない。あるいは、お店にいた女の子の中で同じ化粧水を使っていた人がいたのかも知れない。いろいろな憶測が生まれたが、晴彦には女の子が使っていた化粧水ではないかと思えてならなかった。
晴彦が、交差点に対して特別な感情を持っているのを知っている人はいないはずだ。子供の頃に一緒に事故を目撃した人や、大学時代に喧嘩を一緒に目撃した人であれば、分かる人もいるかも知れないが、すでにその頃の友達とは連絡も取っていない。
晴彦は大学卒業を機に、学生時代の友達とあまり接することがなくなってしまった。自分自身、それどころではないというのも本音だったし、それだけに、皆も同じ気持ちだと思い、遠慮からもあって、こちらから連絡を取ることがなくなると、誰からも連絡してこなくなった。
大学時代も友達と一緒にいるよりも一人でいることが多く、どちらかというと変わり者だったという意識が強い晴彦には、一風変わった個性の強い連中だけが集まってきた。友達だといっても、皆それぞれの個性の強さからか、あまりつるむことはなかった。その方が気楽であったし、人に関わることのない自分が本当の自分だと思っていたことが、今の晴彦の性格の大部分であることは否定できない。
就職してから、皆苦労しているのは想像できた。それだけ個性が強いからである。実際に晴彦も自分の個性の強さが社会で通用しないところも多々あることを思い知らされて落ち込んだ時期もあったが、
――これが俺の性格なんだ――
と開き直ることで、自分らしさを出せば、何とか仕事もこなしていける。別に平均的な人間であることはない、何か一つでの突出したものがあればいいのだ。
ただ、本当にそれが自分に備わっているのか、自信があるわけではないが、それでも就職担当者の目にそれなりに会社に適切者だと映ったから、この会社に就職できたのだ。そんなに自分を卑屈に考える必要などサラサラないだろう。一年目は手探りだったが、それ以降は自分なりに考えればいいのだと思った。
近藤と一緒に行ったスナックのことが頭を巡った。昨日のことを頭が思い出そうとしている。
誰も他に客はいないと思っていたが、錯覚だったのか、店を見渡した時に、奥の方に見える一人の女性が頭に浮かんだ。
影になってしまい、表情をハッキリと見ることはできないが、こちらをじっと見ているというのは分かる。
影がまるで帽子の庇のようになっており、表情は口元で分かるようだった。唇が歪むとドキッとする、その表情は女性とは思えないような不気味さで、じっと見つめるのが怖いくせに、目が離せなくなっていた。
――昨日は見るのが怖いのに見てしまったことで、今日になって、記憶の中から消えてしまったのだろうか?
という思いが頭を巡る。
口元が何度も動き、その動きが一定の法則に基づくものであることに気付くと、何かを語り掛けているように見えた。それが誰に対してのものなのか分からずに、どうやら、独り言ではないかと思えるのだ。
晴彦には読唇術のような特技は備わっていなかったが、よく見ると、その表情から、言葉が聞こえてくるようだった。
「私を捨てたりすると、殺すわよ」
と唇が動いているように思えてならないのだ。
――過去に捨てられた思い出があるのだろうか?
恨みを込める相手は、その時にはいなかった。いなかったから言えたのかも知れないが、鬼気迫る思いは、この世のものとは思えず、誰か死んだ人に対して言っている言葉ではないか。
そう思うと、気持ち悪くなってくる。
彼女が思いを寄せる人は死んだのだ。そして、彼女はそのことを知らない。自分が裏切られたことも、その人が死んだことも……。
また違う発想としては、彼女は男に裏切られた。裏切った男は彼女に殺され、今は行方不明。そして彼女は精神状態に異常をきたし、一人で同じことをずっと呟くようになった。彼女にとっては、男を独り占めできたことでの満足と、罪の意識とのジレンマで、永遠に苦しみから逃れられないのではないか。
どっちがいいのかは分からない。だが、後者はあまりにも悲惨な感じはする。現実から逃れることのできない思いは、死んだ人へのはなむけであろうか?
はなむけにしては、あまりにも悲壮感が漂っている。運命を受け入れることが素直にできない女性の、悲惨な末路を見た気がしたのだ。
本当にその女は、その場にいたのかということから、すでに晴彦には疑問だった。昨日の記憶が時系列で並んではおらず、一人で考えていると、昨日の記憶以外まで、消えてしまいそうに思えるのだった。
湿気を含んだスナックの、自分から見て一番奥の女がこちらをじっと見ている。それだけでも恐怖を感じるのに、その記憶が断片的で、しかもさっきまでまったく記憶から消えていたということが、実に不思議な世界を思い起こさせた。
――そういえば、どうやって帰ったのだろう?
近藤とどこで別れたのかも覚えていない。アルコールもそんなにたくさん飲んだわけでもないのに、ただ、近藤との会話だけが生々しく覚えているのだった。
「今日のこの時間というのは、本当にあっという間だったような気がするな」
と近藤が最初に口を開いた。
「そうですか? 僕は長かったように思いますけど?」
「それはきっと、時間を消化しきれない自分を、意識していない証拠なのかも知れないな。俺の場合は、時間を食べるという感覚になった時、あっという間に過ぎて行った気がするんだ」
と近藤は言っていた。
「意味がよく分からない」
「分からなくていいのさ。俺は自分が感じたことを、そのまま話しているだけだからな。これが俺の性格だから、お前も分かっているだろう?」
近藤の性格は分かりやすい。最初はとっつきにくいが、分かってしまうと、これほど単純な男はいない。そう思うと、晴彦は、近藤の横顔をじっと見つめた。彼ほど正面からと横顔とで表情が違っている男もいないだろうと思えた。
交差点を渡っている時に、スナックで出会った女性の気配を感じた。殺気立っているわけではなかったが、晴彦を意識して見ている視線だった。
晴彦は視線を感じながら、人ごみの中から、彼女を見つけ出すことはできなかった。
後ろを振り向いてみたが、それらしい女性がおらず、視線を感じたのも一瞬だったようで、思い過ごしではないかと思ってもおかしくないほど、一瞬であった。
交差点をもう一度戻ってみた。だが、途中まで戻って、
――戻ってどうする気だ?
と、我に返ると、何をしに戻るのか目的が見つからないことに気が付いた。戻って確かめたところでどうなるものでもない。
普段の晴彦なら、途中まで戻ったのなら、どうなるものでもないと思っていても、一旦戻りかけたのであれば、最後まで戻っていることだろう。それなのに、なぜ途中までしか戻らなかったのか、それは、きっと渡りきったところに答えがあるように思えたのだ。
踵を返し、もう一度渡り始める。二度の往復に少し気だるさを感じたが、その間に信号が変わらなかったのも不思議なものだ。渡りきるまで、信号は点滅すらしない。それほど短い交差点でもないのに、ここまで時間が長いというのも、ここだけ時間が止まっていたのではないかと思うくらいだ。
渡りきってしまうと、まるで待っていたかのように、信号が点滅を始めた。自分に信号を変える能力でもあるのではないかと思ったほどだ。
昔テレビドラマで、海を渡るのに、超能力で、海をかき分け、道を作ったというシーンを見たことがある。集団がその道を渡る間。海は開けているのだが、その後ろを追手が追いかけてくる。
自分たちが渡りきると、超能力は消え、海は元の海に帰ろうとするが、追手を巻き込んで、壮絶な波の音に悲鳴はかき消され、やがて、静かな海へと戻っていく。
「夏草やつわものどもが夢の跡」
という句があるが、まさしくその句を彷彿させるものだった。
そのシーンを思い出していると、渡りきった後に残ったもの、静寂はまったく何もなかったかのような穏やかな波を演出しているかのようだった。
交差点には、怖くて気持ち悪いイメージしか残っていなかったが、最近、交差点を渡るたびに、怖さ以外に何か期待できるものがあるようで、交差点を渡ることが楽しみにもなっていた。
ただ、今日は昨日感じた女性の、
「私を捨てたりすると、殺すわよ」
と唇が動いた女性のイメージが頭に残っている。その女性が交差点ですれ違った時に気配は感じたが、殺気を感じたわけではない。むしろ、気配を消そうとしている素振りが感じられるほどで、存在感を消したいのはまわりからであって、晴彦にだけは、存在感を知ってほしいと思っているのではないかと感じるのは、贔屓目からであろうか。
実際にまわりを見ると、誰も何も意識している素振りはない。誰もが淡々と交差点を歩いているだけで、口を開く人はほとんどいない。
――交差点を渡るのが、義務になっているかのようだ――
誰もが何かを考えているように見えるが、頭の中が空っぽに感じるのはなぜだろう? 笑顔のない表情に違和感は感じないが、何を考えているか分からない表情に見えるのに、頭が空っぽに感じられるのが不思議だった。このギャップを、どう解釈すればいいのか、自分の中で整理できずに、ストレスとして溜まってしまいそうであった。
交差点を渡りきって、再度後ろを振り向くと、そこには車の往来の激しさが伺えた。左右からの車の量は、いつもよりも多い気がしていて、またしても、中学生の頃に見た交通事故を思い出させた。前を向きながら首だけ後ろに向ける。それが、一番過去へと自分を誘う術のようなものではないかと思うのだった。
――もし、さっきの女に関わって、自分が殺されてしまうことになるとするならば、ここの交差点で、車に轢き殺されるイメージしか浮かんでこない――
背筋に寒気を感じた晴彦は、もう後ろを振り向く気にはなれなかった。そのまま前を向き、目指す喫茶店へと歩いていくだけだった。
歩いていくうちに、嫌な思い出は次第に消えていった。目指す喫茶店に辿りつく頃には、嫌な思いは消えているだろう。
馴染みの喫茶店は、交差点を超えてから五分も歩かない。交差点を超えると、
「そろそろ着くか」
と、このあたりまで来れば、期待と安心感に包まれている自分を感じることができ、やっと普段の自分に戻れたことを嬉しく思う晴彦だった。
喫茶店は、白壁が眩しく、少々遠くからでも目立って見えた。
晴彦はあまり目立ちたがりではないが、光るものは嫌いではなかった。特に日に照らされて光る白壁には清潔感が感じられたのだ。
いつもの喫茶店に顔を出すと、その店にはいつもよりも客が少ないことが最初に目に入った。かといって、別に不思議なこともなかった。元々が常連の多い店、その時偶然に、常連客ばかりだったということで、さほど不思議なことではなかった。
カウンターに十人くらい座れる席があり、テーブル席が五つほど、広くもなければ、狭くもない。晴彦としてはちょうどいいと思っている広さの店だった。
店の中は表から感じるほどの明るさはない。マスターの好みで調整しているようで、本や雑誌を読むのに差し障りはないので、文句をいう人もいない。却って明るすぎると、常連客数人から、文句が出るほどだ。
常連客には、男性も女性もいるが、ほとんどは三十歳代で、その中で晴彦は最年少であった。常連さんの半分は近くにある商店街の店長さんだったりして、朝の開店前に寄ったり、昼休み、サラリーマンとの時間を外して、昼下がりに寄ったりするのが常のようだった。
商店街には時々お邪魔している晴彦だったので、店長さん連中とは、元々馴染みの人もいた。
そのおかげか、喫茶店で常連になるのも、そう難しいことではなかった。ただ、常連になってから、却って難しくなったのは、店長さん同士で経営の話などに花が咲いている時、どういう態度を取ればいいのか分からない時だった。そんな時はマスターが気を遣ってくれて話をしてくれるが、そういう時に限って、常連さん同士の話が白熱し、大きな声はそのうちに罵倒溶かすこともあったりした。本当に珍しいケースではあるが、喧嘩になることもないわけではなかった。
何とかマスターがなだめて、その場は収まるのだが、場の雰囲気は、気まずさが漂っている。
騒ぎを起こした張本人たちは、自分たちから騒ぎを起こしておいて気まずくなったことで、そそくさと帰っていくが、それでも騒ぎが収まったことで、マスターはホッと胸を撫で下ろす。
「まあ、本当に稀なことなんだけどね。経営者としては僕も気持ちが分からなくもないだけに、何とも言えないけどね。それでも同じアーケードの屋根の下で商売している人たちなので、どうしても衝突してしまうこともあるようだね」
と、言っていた。
今日はさすがにそんな気まずい雰囲気はなく、皆静かだった。いや、静かすぎるくらいで、不気味でもあるくらいだった。
皆いつもの席に腰かけているが、それぞれ、話をしている雰囲気はない。皆それぞれに本を読んだり、雑誌を読んだりしている。
会話は最初に済ませているのか、それとも、今日は会話をするだけの話題がないのか。どちらなのかと様子を見てみたが、どうやら、最初から会話があった様子はなかった。会話があれば、いくら終わったあとでも、喧騒とした雰囲気が残っているものだと思うが、違うだろうか。
晴彦もその日は、誰かと会話をしたいというわけではなかった。常連がいて会話をしたいと思う時は、最初から、何かと会話になるような題材がある。それがその日はまったくと言っていいほどなかったのだ。
話題に出せそうなことと言えば、先ほどの交差点で感じたこと。だが、これは妄想よりも不確かなもので、会話にするようなことでもない。
会話にすることではないことを、この場所で忘れてしまおうという思いもあった。他に話題があれば入って行こうと思っていたが、話題がないならないで、本を読んだりして過ごすつもりだった。
本を読むつもりだったのは、最初からで、むしろ、朝からそのつもりだったというのが本音である。
特に交差点で感じた妄想や、昔の思い出を思い出したことで、余計に一人考える時間も必要なのではないかと思うのだった。
店に入った瞬間、最初に感じた表との違いは、表の暑さに比べて、中はひんやりとしていて、さらに湿気を感じる。表では掻かなかった汗が、店に入ると一気に噴き出したのは、ひんやりとした中にも、湿気があったからに違いない。
店に入った安心感もあるからなのかも知れない。それ以上に交差点で感じたいろいろな思いがかなり溜まっていたのは事実で、店に入ると、かなり落ち着けることが分かっていたから、汗が吹き出すのは、最初から分かっていたことのようだった。
交差点を渡りきってから、この店に来るまで、歩いている時、頭の中で何かを考えていたように思うが、店に入った瞬間、そのほとんどを忘れてしまっていた。ただ、何かモヤモヤしたものだけが残っていて、その残っているものが、先ほど感じた中枢ではないように思えるのも、なぜか分かっていた。
交差点は、精神的な意味でも交差点なのである。
交差点の話を以前にこの店で他の常連客と話したことがあった。
話題は交差点と、十字路についてだった。交差点といえば、現代風の言い方に聞こえ、十字路というと、昔の「辻」のイメージが湧いてくる。
実際に十字路という言葉や、ましてや辻などという言葉など、今では口にする人は皆無に近いであろう。その時に話をした人は、常連の中でも突出して年齢が高い人で、
「一人暮らしの老人」
という感じであった。
その人とはその時に話しただけで、他に話をしたことはない。いつも本を読んでいて、話しかけられる雰囲気ではないからだ。その時は、どういうきっかけで話をし始めたのか覚えていないが、多分、その人から話しかけられたからだろう。
最初から、十字路の話だった。その人が話題にしたかったのは、きっとその時に十字路という本を読んでいたからで、その老人は、あらすじを話してくれた。
もちろん、読み終えたわけではなかったので、あらかたのあらすじだけだったのだが、それでも、話を聞いていて、いろいろな想像が頭を掠めた。
交差点に対して、いろいろ妄想を抱いていたこともあって、十字路との違いを頭に浮かべてみると、おかしなことに、交差点でできる妄想が十字路でもできるようになり、見たこともないはずの十字路をハッキリと思い浮かべることができるようだった。
時代として思い浮かぶのは、昭和初期くらいかも知れない。もちろん、テレビや映画でしか見たことのない光景だが、晴彦には鮮明に町並みまでが浮かんで見える。
木の塀が張り巡らされた家の前を、舗装もしていない道が砂埃を上げている。家はほとんどが平屋建てで、大きな家は存在しない。通路を歩く人もおらず、狭い道であるにもかかわらず、無意味に広い雰囲気を感じさせる。
――これが今でいう、住宅街のようなものか――
と、勝手に思い込み、家から出てくる人を想像してみた。
着ている服は、洋服ではない。皆和服であった。イメージは女子供しか浮かんでこないが、男性であれば、浮かんでくるイメージは、腰にサーベルを下げ、軍服を着た軍人だけであった。
静かすぎる光景が、当時の世相をあまりにも反映していないようで、却って不気味に感じられる。
自分もその世界に入り込む。着ている服は今と変わりない、。もしその時に誰かがいれば、きっと変な目で見られるに違いない。
「敵兵だ」
とばかりに礫を投げられるかも知れない。純真な子供にまでそこまでさせる軍政の敷かれた当時の日本が痛々しく、投げつけられる石に痛みを感じることもできないかも知れないと思うのだった。
誰も出てこないのを幸いに歩いていると、そのうちに大きな道が見えてくる。
そこだけは舗装がされているようだが、今のようなアスファルトではなさそうだ。往来を通る車もさまざまで、装甲車のようなものや、軍人が載るサイドカーのようなものが想像された。戦車を想像しないだけましであった。
そうなれば、まさに戒厳令。想像の域を超えている。歴史が好きで、昭和初期のイメージは、何度も本を読んで想像したが、本を片手にしていないのに想像できるようになったのも、かなりその時代に思いを馳せているからなのかも知れない。
老人の話を聞いていても、その時に想像した光景がダブって感じられ。そこにさほどの差異がないことから、老人との会話が短くも感じられたのだ。
老人が晴彦に話しかけたのも、そういったイメージを晴彦が抱いていることを、気配のようなもので感じ取ったからだからかも知れない。そう思うと、その時の晴彦には、まわりに少なからずの違和感を与えるほどのオーラが発せられていたのだろう。
「十字路という本を読んでいて」
老人は話しながら、チラチラと晴彦の顔を盗み見るようにしていた。
「私が思い出したのは、戦前のことだった」
やはり、同じ時代に思いを馳せているのを感じ取ったからであろう。
「若いあなたに話しても分からないかも知れないが、話しているうちに、ひょっとすると何か過去の記憶を呼び起こす感覚に襲われるかも知れない。どうして私がそのことを分かったかということよりも、あなたは、想像の中でもう一人の自分が主人公で登場していることに気付くことだろう」
そう言って、十字路の話をし始めた。
時は戦前、十字路に差し掛かった一人の男性の話から始まる。時間帯は夕暮れ時、すぐに夕凪の時間だと想像がついた。
「そう、夕凪の時間だね。逢魔が時と呼ばれる時間で、昔から魔物と出会う時間とされてきたのだよ」
と、老人は晴彦の考えを先読みし、話をする。
老人は続ける。
「逢魔が時というのは、私の若い頃には、何か必ず悪いことが起こると思われていた時で、実際に何でも信じ込む方だった私は、本当に魔物がいるんじゃないかって思ったほどだった。大人げないと思いながらも、時代が恐怖を煽るようで、この時間になると、絶えず気だるさが抜けなかったものだよ」
「僕も子供の頃には、お腹が空いてくると指先が痺れてくるので、この痺れを恐怖の前兆のように感じていたことがありました。指先の痺れが激しい時に限って、いつも何かが起きていたような気がして、夕方の時間は特に恐怖を感じていたように思います」
晴彦がそういうと、
「逢魔が時とは、まさしくそういう時間なんだろうね。夕凪の時間とも言われていて、風がないはずの時間とされているが、私の経験上、風がある日もあった。そういう日に限って、何かが起こる。風が魔物と会う前兆なのかも知れないね」
「風の気配を、魔物の気配と思うのでしょうね」
「その通りだよ。だから、私は逢魔が時を本当に怖いと思う。なぜかというと、実際に魔物に出会ったことがあるからだよ」
「えっ、実際にですか?」
「魔物というのは、本や絵で見る魔物とは違うんだ。逢魔が時に出会う魔物とは、自分の中に住んでいるものさ」
「どういうことですか?」
「私は、若い頃、ちょっとしたことで喧嘩になり、一人の男を死に追いやったことがあった。喧嘩になったことが元々の原因で、その人は喧嘩の末、身体を壊してしまった。本当の死因は、別なところにあったので、私は罪に問われることはなかったんだけど、そのことが私の中で十字架を背負うことになった。今でも重たくのしかかっているような気がするんだ」
何十年経っても、苦しめられる罪の意識、そこまで背負う必要があるのかと晴彦は思うが、そこが人間としての性ではないだろうか。この老人は、自分の中に魔物が住んでいるといい、それが逢魔が時に表に出てくるのを感じるという。人はそこまで自分の過去に囚われなければならないのかと、思わずにはいられなかった。
老人の話を聞いていると、自分にも、何かの十字架があるのではないかと思うようになっていた。
実際に自分が背負った十字架ではないが、前に知り合いだった女性が関わっている話だったのだ。
その人は、思い込みの激しい人で、晴彦が高校時代に、晴彦に話しかけてきた人だった。年齢は二十歳を少し過ぎたくらいの女性で、お世辞にも明るい性格だとは言いがたかった。
いつも晴彦に誘いを掛けてくる。人から好かれて嫌な気がしない晴彦は、何度か彼女の家に遊びに行ったりした。
結構大きな家で、屋敷と言ってもいいくらいの家に入ったのは、それまでになかったので、まわり全体に目移りがしたくらいだった。
家には、身の回りの世話をする人がいるだけで、昼間はいつも一人だったようだ。本宅は別の場所にあり、そこは別荘だという。
別荘は明るい雰囲気の家だった。家に入ってからすぐに、いつも食事の用意ができているということで、食事を摂ることから始まる。彼女から誘いがある日が次第に分かってくるようになって、そんな日は食事を摂らずにいるのだった。
屈託のない表情は、いつも明るさを醸し出していて、
――明るさが取り柄の彼女のどこに暗さが潜んでいるというのだろう?
と、暗い彼女を想像できなかった晴彦は、そこが彼女の魅力であるが、怖さを潜めていることに、その時は気付いていなかった。
彼女が寂しさから、晴彦に近づいたのは分かっていたが、その寂しさを感じさせないのは、元からの性格によるものなのか、それとも晴彦にはその気持ちを知られたくないという気持ちからか、顔はいつもと同じ明るさだけだった。
たまに気持ち悪くなることがある。普段の顔を想像してもできないからだ。いくら笑顔しか見たことがなくとも、他の表情をしないわけではあるまい。そこまで晴彦の前で笑顔以外出したくないと思っているとしても、一つの顔しか見たことがないのは、本当に他の表情を持っていないようで恐ろしい。
――笑顔すら、架空のように思う――
と感じられ、晴彦には、彼女の何が信じられることなのか、疑問に思わずにはいられなかった。
――笑顔の裏には、また笑顔――
としか思えないのが、恐怖であった。
彼女には慕っている人がいた。少し精神的に病んでいる女性だったので、頼りになる人がいるだけで、自分が本当に幸福に感じていることを、一切疑うことをしない。本能のままに喜ぶことができるというのは、どれほど楽しいと思っているかなど、本人しか分からないはずだが、本人が意識していないというのは、実にもったいないことだ。
だが、意識していないというのは、まわりから見てそう思うだけで、本人はまわりが見る以上に、意識に対しては敏感なのかも知れない。
晴彦はその人に会ったことがあったが、あまり安心できる人ではなかった。彼女に対して優しく見えるが、他の人に対しては、まったく態度が違う。
――あんな奴を信じていいものなのか?
と、不安を感じさせるが、素直に喜んでいる彼女を見ると、誰が彼女に対して苦言を呈することなどできるであろう。
誰だって彼女の寂しい表情を見たくないだろう。素直に笑っている子供の手をつねって、わざと泣かせるようなものである。
泣かされた子供は、二度と泣かせた相手に笑顔を見せることはないだろう。子供は完全に怯えている。なぜに怯えを感じるかというと、いきなりつねられたという恐怖があるからである。
子供というのは疑うことを知らない。百パーセント信じ込んでいるものを、一気に恐怖へと叩き込む行為をするのだ。いきなりマイナスへと叩きつけられることで、それまでの感覚を変えなければいけない状態に追い込まれる。恐怖というトラウマが植え付けられるのだ。それも仕方がないことであろう。
彼女と一緒にいると、あどけなさの中に大人の雰囲気を垣間見ることができる。
――おや?
そう感じた時であった。大人の雰囲気の中に怯えが感じられたのだ。
彼女が感じている怯え、それは晴彦に対しての怯えではなかった。
最初はその怯えがどこから来るのか分からなかったが、彼女の怯えだと思っていたのは、助けを求める無言の訴えであることに気付いた時には、事態がどうすることもできないところまで来ていたのだった。
――この怯えは一体?
考えてみれば、頼りにもならない晴彦だからこそ、彼女がまさか助けを求めているなど、想像もつかなかった。
いつもと変わらない様子は彼女にしかできない態度で、もし、その時に少しでも彼女の心境の変化に気付いていれば、どうにかなったかも知れないと思うと、自分の人を見る目のなさに、口惜しさが隠しきれなかった。
だが、気付かない自分だからこそ、彼女は寄ってきたのかも知れない。もう少し鋭い男であったら、本能的に彼女なら受け付けなかったかも知れない。
彼女と知り合って、一か月くらい経ったある日から、彼女が晴彦の前に現れなくなった。あれだけ毎日というほど声を掛けてきて、家に連れて行ってもらい、食事を一緒にして、そして……。そんな彼女が忽然と消えてしまったのである。
急にいなくなったことで最初に感じたのは、寂しさよりも安心感だった。怯えを感じなくてもいいのが一番の理由だが、もう一つは、彼女の視線に感じた淫靡な表情であった。
唇が歪むたびに、彼女の魅力の虜になって、逃れられなくなることに気が付いていた。それが恐怖となって、怯えへと変わっていく。ただ、その中に期待感もあり、そんな期待をしてしまう自分が恥かしくもあり、そんなことを思う自分への不信感でもあった。
だから、基本的には彼女が中心の考え方ではない。いいことも悪いことも、中心は自分なのだ。
晴彦の前から消える前の数日間は、まるで違う人と一緒にいる感覚だった。毎日があれだけ楽しかったのに、一緒にいることが苦痛で仕方がない。彼女の顔を思い出すたび、後悔の念が襲ってくるのであった。
別荘の場所は知らなかったし、一緒にいる時は知る必要もないと思っていた。当たり前のように迎えに来てくれて、屋敷にお邪魔することになる。そこに甘えがなかったとは言えないが、ここまで自分が受け身になることを許せる人間だったのだと思い知らされたことで、特定の人に対して、自分にも例外があることを思い知らされた。
いなくなって募ってくる寂しさが、安心感を超えた時、じっとしていることに耐えられない自分がいることに気が付いた。そうなるまでにさほど時間はかからず、感じてしまったら最後、いてもたってもいられないとは、このことであったことに気付くまでに精神状態に異常をきたすまでになっていた。
別荘の場所を捜し当てるまでには、さほど時間が掛からなかった。特徴のある場所はすべて記憶していた。その時は記憶しているという意識もなかったはずなのに、彼女が消えたという事実が、晴彦の中枢神経を刺激し、忘れていたと思っていた心の奥に封印されていた感覚を呼び起こしたのだ。
別荘に行ってみると、すでにそこには誰も住んでいなかった。不思議だったのは。あれだけ綺麗だと思っていた屋敷が少しの間で、まるで廃墟のようにくたびれていたのである。
白壁は剥げかけていて、手入れをしないとここまでになってしまうのかと思うほどで、逆に言えば、それだけ人が住んでいた時には、手入れが行き届いていたということになるのだろう。
――人間もこうなるのかな?
精神状態が正常に保っている時は綺麗に見えるが、一旦崩れ始めると、抑えが利かなくなってしまうのかも知れない。この白壁の屋敷がそれを教えてくれているようだ。
精神面だけではなく、肉体面の方が、もっとよく表していることだろう。
――年を取れば老け方に抑えが利かないものだ――
まさしくその通りだろう。
――ということは、精神的なものも肉体と同じなのか?
同じカーブを描くとは限らないが、時間差を持って、描くカーブが同じではないかと思う。以前、保健の外交員の人から見せてもらったバイオリズムのグラフを思い出した。
同じカーブを描くのだから、時間差があることで、必ずどこかで交わるところがある。交わった時にどのようになるか、聞いたような気がしたが、今はすっかり忘れてしまっていた。
――覚えておけばよかったな――
と感じたが、今となってはあとの祭りだった。
屋敷をすぐに後にすることができなかったが、後ろ髪を引かれる思いを感じながら、何とかその場を立ち去った。歩いていて、後ろの屋敷からの見えない視線に痛みすら感じるほどだった。
怖くて後ろを振り向くこともできず、前だけを見ていると、早く立ち去りたい思いがさらにこみ上げてきた。
――もう、だいぶ来たよな――
と、思い切って振り向いてみたが、ほとんど歩いていない。むしろ、最初に振り向いて次に振り向いた時、最初より大きく見えるくらいだったからだ。
その時に感じた思いは、まるで苦虫を噛み潰したような思いで、かごの中の丸い輪の中をひたすら走りまくっているハツカネズミの感覚になったような感覚に陥るからだ。
彼女が忽然と目の前からいなくなった寂しさは、最初から彼女のことが本当に好きだったのかという疑念に繋がっていた。毎日のように会っている時は好きだと感じていたが、急に目の前からいなくなってしまうと、そう思い込んでいた自分までもが、どこかにいなくなった。あるいは、最初からそんな感覚はなかったのではないかと思うのだった。
そう思うと、さらにもう一つの疑念が湧いてくる。
――彼女という存在が本当にいたのかどうか?
という思いである。
苗字も名前も知らない。住んでいた家すら、忽然となくなっていて、人が住んでいた気配すらない。建物はあったのだが、とても昨日まで人が住んでいたなどと思えっこなかった。
そう思うと、今度は彼女という人はいたのかも知れないが、それが晴彦とは何のかかわりもない人だったという思いである。家だって、まったく存在しなかったわけではなく、人が住んでいた気配がないだけである。それならば、自分との接点についてはまったくなかったとしても、存在だけはしていたのかも知れないという思いを抱くことは、さほど無理なことではないように思うのだった。
彼女のことを、しばらくは探し回ってみた。
――見つかるはずなどない――
という思いは、最初からあった。無駄な努力だと思っていても、一縷の望みを掛けてみようと思っている自分がいるのも事実である。
人ひとりが忽然といなくなってしまうという事実を受け止めるには、どうしてもしばらくかかる。まずは事実だと思うことが大切なのだ。
そのためには、自分を納得させることである。納得してしまうと、自分の中でたとえ事実ではないことでも、事実よりも深く感じ取ることができる。感じ取ってしまうと、いなかった人を自分の中だけでいたことにできるのだ。
彼女のことを調べ始めて、聞こえてきた話の中で、
「人を殺して、姿を消した」
「家族に見捨てられて、施設に入れられた」
などと、いくつかの憶測に近い噂が聞こえてきた。どれもこれも信憑性には欠けているが、逆にどれもが本当に聞こえてくる。彼女に関しての噂は、どれもが同じようなくらい信憑性がないことから、それだけ掴みどころのない女性だったのだ。
噂が聞こえてきてすぐ、今度は誰もが、彼女のことを聞いても、何も答えなくなった。緘口令などという以前に、彼女の存在自体を本当に知らないかのような感じである。
「誰だい? それ」
「ああ、あの屋敷なら、ここ数年誰も住んではいないから、屋敷自体、荒れ放題になっているだろう?」
と言われて、それ以上反論ができない。
信じられないことを言われて反論ができないことほど、不可思議な感覚を抱くことはない。それほど屋敷も荒れ果てていたし、次第に自分の中の彼女の記憶が消えかかっていることに気付かされた。
彼女の存在が消えかかっていることは、本当は自分で気付かなければいけない。そのことをまわりから気付かされてしまうと、自分の意識としては徐々に消えていくものだと思っていることが、一気に消えてしまっている。
自分の中で消えてしまっているのだから、一気に消えてしまったのか、徐々に消えてしまったのかは、意識できるはずもないのに、なぜか一気に消えるものなのだという認識だけが頭の中に残っている。あれほど、徐々に消えていくものだと思い込んでいたはずの気持ちはどこに行ってしまったというのだろう。
彼女に対して不思議な感覚は、もう一つ、信憑性のない思いを、自分の中に抱かせた。
――本当に人を殺したのかも知れない――
根拠などあるはずはない。人を殺せる人間かどうか、分からない晴彦ではなかった。だが、
――彼女なら、ニコニコ笑いながら、人を殺せるのかも知れない――
人を殺すイメージが一番湧かないと思っていたのは、殺人を犯す人の顔が、勝手に思い浮かぶからだ。ニュースやドラマで
「人を殺すならこんな顔」
というイメージが頭にこびりついている。そして、その人がどんな表情で人を殺すかというのも、分からなくなかったからだ。
彼女には笑顔しか思い浮かばない。
――こんな笑顔ができる人に人殺しなどできるはずがないのだ――
という観念は、本当に凝り固まった固定観念であった。だが、少しだけ固まったものを和らげてやると、
――こんな女だから、人を平気で殺せるんだ――
という思いを抱く事ができる。
――では、一体誰を殺したというのか?
本当に勝手な思い込みでしかないが、殺したとすれば、男である。
ただ、最初に直感で殺したと思った相手は、親だった。考えてみれば、彼女の名前を知らなかったのも事実だし、家族らしき人を見たこともない。ただ、少し精神に異常をきたしているかも知れない女性だということで、清純な魅力の中に、得体の知れないものを感じていたのも事実だった。
家族を見たこともない。さらには、彼女と身の回りの世話をしているという人一人だけの住まいとしては、無意味に広い敷地内でもあった。
いくら別荘だから、親と住んでいないとはいえ、一か月も毎日のように彼女の家に入り浸っていたのだから、娘を心配して一度や二度、こちらに来ているのを見かけてもいいはずではないだろうか?
そう思うと、敷地内に彼女の親がどこかに眠っているのではないかと思うことは、乱暴な考えだとして無視してしまっていいものなのだろうか?
今さら敷地内を捜索できるわけもない。あとは、犬か何かが埋まっているところを掘り起こすか、建物を壊す時に、掘り起こされるのを待つしかないだろうと思っていると、それから半年も経たないうちに、犬が本当に掘り起こしたようだ。
「空き家の庭から、白骨死体が二体見つかる」
という新聞の見出しが飛び交っていた。死後半年近くということで、彼女の失踪と時期的には合う。
しかし、晴彦の想像はまったく違ったものとなっていた。なぜなら死体のうちの一つは、彼女本人のものではないかという見解が、警察の方から発表された。科捜研で調べたところ、死体の一つの特徴が。この家に住んでいた女性のものと同じだという発表があったのだ。歯医者に通っていて、歯型の検証でもあったのかも知れない。今の科学ではもっと細かいところまで分かるだろうから、信憑性はかなりあるようだった。
「死んじゃってたんだ」
不思議とショックではなかったが、さらに不思議な報道もその時発表された。この家に住んでいたと思われる女性の年齢が、四十代から五十代だというのだ。いくら何でもそんな年齢ではなかったはずだ。
――彼女ではないと、薄々気づいていたから、ショックを味わうことがなかったのではないか――
という思いが頭を過ぎった。
屋敷でのことを思い出そうとすればするほど、晴彦は彼女の存在と、見つかった死体とが同一人物には思えず、最初の考え通り。彼女が誰かを殺して逃げているのではないかという思いが募ってくるのだった。
その思いは不安に繋がってくる。彼女が殺したのは親だという思いが消えたわけではないが、そこに転がっていた遺体は、科学的見地から、親ではないという真実を語っていたのだった。
その遺体があった場所に次の日に行くと、誰も遺体があったことを覚えていない。警察もそんな事実を知らないという。それを誰が聞いたのかということは疑問であるが、殺害現場が翌日には、何もなかったことになってしまっている。
――意識が時系列とは逆になっているのか?
翌日に、殺人があったことを告げた人間は、他の人から、おかしな人間だというレッテルを貼られていたに違いない。その人物が何を隠そう、彼女であったことは、晴彦には想像できた。
彼女だからこそ、大きな問題にはならなかったのだ。
「あの娘は精神的にまともじゃない」
というイメージで見られ、本当はそれまで普通の女の子だったのに、まわりから変な目で見られたために、本当に精神に異常をきたした。その後に、晴彦に出会ったのだが、彼女の過去を知るはずのない晴彦が想像したことが、十年近く経った後で、繋がってくるというのも不思議なものだった。
だが、白骨死体が彼女であるという発想も捨てきれない。限りなく可能性は薄いがゼロではないという思いから、晴彦は十年という期間の長さを、今さらながらに思い知ったような気がした。
十年という歳月を思い起こしていると、急に我に返った。一緒に呑んでいた老人のする逢魔が時の話、それは十年という思いを自分と話をしている老人との年齢差に置き換えてしまっていたことに気が付いた。
それは老人を見ていると、
――まるで自分の将来を見ているようだ――
まったく見えてこない、そして見えてこないことが当たり前であることを意識している晴彦だからこそ、勝手な想像を妄想として思い浮かべることができると思ったからだ。
「ご老人は、私くらいの年にも同じようなことをイメージしていましたか?」
恐る恐る聞いてみた。
「いや、想像していなかったですね。こんなことを考えるようになったのは、ごく最近かも知れないですね。でも、それはきっとあなたも同じくらい前から感じるようになったのではないかと思うんですよ。だから波長が合うような気がしていたので、お話させていただいています」
話の波長が合うという発想は、この場合は適切な表現かも知れない。まったく感じていなかったわけではないが、相手に話しかけられることで、発想が豊かになる。それが話を膨らませ、妄想を豊かにしたのだ。
十年前の出来事は確かに途中からは妄想だったが、想像という世界よりも妄想の方がより、リアルな感覚がしてくるのはなぜであろう? 想像は頭の中で作り上げる部分が大きいが。妄想は。感覚が作り上げるものが大きい。頭を司るのも身体。身体を司るのも頭、どちらも相乗効果を与えるに十分なものだが、よりリアルな感覚を求めるならば、妄想の方が近い。そう思うと、妄想はその人の個性を司っていると言っても過言ではない。
逢魔が時の話をしていると、時間があっという間に建っていた。そして、今度は、老人が少し話を変えた。
「君は、時間の流れが違う空間というものを想像したことがあるかい? もちろん、そんなことはありえないことだとは思っているのは当然なのだと思うが、私は時々、そんな時間の存在を感じるんだ。特に、こういう喫茶店などでは特に感じるかな? 密室という意味でね」
「密室でいつも不思議に思うのは、電車の中に乗った時などに時々思うことですね。理論的には、慣性の法則というんでしょうけど、例えば動いている電車の中などで、飛び上がった時、同じ場所に着地するでしょう? 電車の中では当たり前のことなんでしょうが、実際に表の世界から見ると、実に不思議ですよね。動いているんだから、地表に対して元の場所でないといけないんじゃないかって思います」
慣性の法則だと言われて、子供の頃には納得したが、決して理解できているわけではない。こんな感覚は今までにいくつでもあることではないだろうか。
「一つの世界の中にも、また一つの世界があるという考え方ですえ。それは私も同じです。だから、表と中とで、時間の流れが違うという考え方なんでしょうけど、少なくとも次元の違うものなので、そこまで同じ世界の一人の人間に見せることができるかということが問題なんでしょうね」
「ええ、そうです。次元の違いには数多くのタブーが潜んでいるんじゃないでしょうか? そう考えると、いろいろな発想が浮かんできますとね。私がさっきした電車の中の慣性の法則の話も、そういう意味では豊かな発想の一つと言えるかも知れませんね」
「発想というのは、想像の波及であって、妄想とは違いますからね」
妄想が一つに対して。想像はいくつも巡らすことができるということであろうか。
彼女の行動が勝手な想像の中で確立されていく。その時の晴彦は、目を瞑っても想像できるほど、リアルな感覚がマヒしていた。最初はカラー映像だったのに、途中からモノクロ映像に移り変わる。その瞬間こそが、リアルな生々しさを少しでも和らげようとする意識の表れなのかも知れない。
だが、実際に生々しさを感じるのは、モノクロに変わった瞬間である。モノクロであればあるほど、リアルさを感じ、今ではリアルさを感じるには、モノクロに写った方がいいという意識があるせいか、頭の中でわざとモノクロに写す仕掛けを取っているのではないだろうか。
――潜在意識のパラドックスのようなものではないか――
逆に考えても、湧き上がる感覚が同じで、しかもその過程までもが同じ感覚を経て、積みあがるのもではないかと思うからだった。
その時の彼女が、昨日、スナックで見かけた女性に雰囲気が似ていた。顔を見たわけではないが、イメージだけだった。いつもニコニコしていた彼女と昨日の女性は似ても似つかぬ雰囲気のはずなのに。なぜそのように思うのだろうか。
それはきっと彼女への妄想、人を殺したのではないかという妄想が、彼女のイメージを晴彦の中で、まったく普段と違って覚えこませたのかも知れない。ここまで違っている人など今までにいなかった。自分の中に思い出として残したい人は絶えず自分の好きなイメージでいてくれた人であろう。
夜中になって見る彼女と、昼間では、まったくイメージが違っているのかも知れないと感じたのは、彼女が昼間見ている分には、
「夜の姿が想像できない」
というイメージを持ったからだった。
昼と夜とでまったく違ったイメージを持つ女性というのは、少しくらいなら想像することもできるが、彼女に関しては、まったくできなかった。
夜になると、何かの付加価値が掛かることで、さらなる重みを感じさせるものなのかも知れない。
そんな彼女に対して、「再会」と言えるだろうか? 急に自分の目の前から消え去って行った彼女は、影を感じるところなど何もなく、ただ、昨日スナックで見かけた女性が似ているということで、勝手な想像が頭の中で巡ってしまっただけなのかも知れない。そう思うと、晴彦は、自分の発想が怖くなってくるのであった……。
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