表裏めぐり
森本 晃次
第1話 気になる作家
この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。
栄光書籍が主催する「栄光小説新人賞」の原稿を書き上げ、やっと投函するに至った、将来の小説家を目指している飯塚晴美は、地元の大学文学部の二年生だった。小説家を目指しながら専攻は教育学で、先生の免許も取得するつもりだった。
「小説は趣味のようなもので、本気で小説家を目指しているわけないじゃない」
とまわりにはそう言っていたが、半分は照れ隠しであり、半分は本気だった。
本当は子供の頃から国語は嫌いで、本を読むのがあまり好きではなかった。そんな晴美が小説家を目指そうと思ったきっかけになったのは、中学時代の友達の影響が大きかった。
晴美は国語に限らず、美術などの芸術関係にも疎かった。そのくせ算数や理科は得意で、将来は、理数系に進むものだと思っていた。
中学時代の友達も晴美と同じで、芸術関係にも国語も苦手だった。しかし、
「私、国語が苦手なくせに、本を読むのは好きなのよ」
と言っていた。
不思議に思った晴美は、
「本を読むのって、どこが面白いの? 結論が先延ばしになっていて、読んでいて眠くなったりして、私は気が付けばセリフだけを読んでしまっていて、ストーリーなんて、まったく分からない状態になることが多いのよ。だから国語のテストも問題文よりも、問題の方を先に読んでしまって、まったく答えにならないのよね」
というと、
「それはきっと、時間に追われているのを自分で意識していないからなんじゃないかしら? 私も先に問題の方を先に読む方だけど、要点さえ捉えていれば、答えって出てくるように思うの」
と友達はいう。
「それでも、国語が苦手なの?」
「ええ、テストではそれなりの点数は取れるんだけど、国語という学問自体が嫌いなのね。国語って文章を科学的に分析しているような気がするのよ。それを書いた作家がどういう思いで書いたのか、国語という学問はあまり考えていないように思うの。しかも、それを勉強して何になるというの? 文法を勉強したって、実際の会話にはそんなに役立たないような気がするの。それくらいだったら、普通に本を読んでいる方が面白いと思うのよね。きっとあなたも私と同じ考えなんじゃないかって思うわ」
という彼女の話に、
――なるほど――
と感じた晴美は、
「じゃあ、私も何も考えずに本を読んでみようかしら?」
というと、
「ええ、そうね。そうすると、作家が何を言いたいのか、そして、何よりもその本が、どのように面白いのかが分かってくると思うのよ。分かってくると、これほど楽しいものはないと思うの。私は作家の人の考えにまんまと嵌ってもいいって思っているくらいなのよ」
と友達はいう。
最初は友達の持っている本を借りて読むようにした。
「私はライトノベルのような小説はあまり好きじゃないの。読みやすい小説を選んで読むようにしているんだけど、ライトノベルは読んだことがないわ」
と言って貸してくれたのが、比較的読みやすいというミステリーだった。
「ミステリーだったら、ストーリー展開が早いし、ところどころで小さなクライマックスがあるから、退屈はしないと思うの。それに読みながら謎解きもできるし、まずはミステリーがいいんじゃないかしら?」
と彼女は言った。
「さすがにいきなり謎解きまではできないと思うけど、読み始めると嵌ってしまうものかも知れないわね」
「ええ、サスペンスドラマになどなりやすいので、情景を思い浮かべることができるかも知れないわね」
と言われて、さっそく彼女に一冊借りて読んでみることにした。
彼女のいう通り、ストーリー展開が早かった。ところどころにクライマックスも潜んでいて、退屈もしない。それよりも晴美にとってミステリーは、展開を読みやすい部類の小説だった。
事件が起きて警察が初動捜査を行う。探偵が出てくるのであれば、このあたりからだった。
もちろん、出番がかなり後になることもあったが、晴美にとって想像がつきやすかったのも事実で、一通り読み終わって返す時、
「結構面白かったわね。最後は読んでいる感覚というよりも、目の前に映像が浮かんでくるくらいだったわ」
というと、
「途中からは一気に読んでしまったでしょう?」
「ええ、思ったよりも、半分くらいからは一気だったような気がするわ」
「それはあなたが、ストーリーとその流れを大体把握したからなのよ。そこまで来るとラストを知りたくて仕方がなくなる。ひょっとして、セリフだけを読んでしまおうなんて衝動に駆られたりしなかった?」
と言われてハッとした。図星だったからだ。
「どうして分かったの?」
「私がそうだったからね。でも、あなたがこの間今まで読んできた本の話をしてくれたでしょう? その時に、セリフだけを読んでしまって、ストーリーがまったく分からずにそれで面白くないと言っていたわよね?」
「ええ、そうなのよ。でも、今回はそうじゃなかった。あの時は情景を描いた部分を文字で読むのが億劫で、セリフだけを読んでいたって言ったのよね。でも今回はそうじゃなくって、それまで読んできた流れが情景として目に浮かんでくるから、情景部分を読まないと先に進まなかった。それなのに、ラストを早く知りたいという気持ちがジレンマになって、不思議な感覚だったわ」
「でも、それが気持ちいいって思いだったんでしょう?」
「ええ、そうなのよ」
というと、彼女はしたり顔になり、
「それが本を読むということの醍醐味なの。今まで本を読むのが億劫だったなんて思っていたのが、少し変わってきたでしょう?」
「ええ、でもどうしてなんだろう?」
「それはね。あなたが作家の気持ちになって本を読んでいたからなのよ。自分が主人公になったように感じて読む人もいれば、小説家になったような気持ちになって読む人もいる。あなたはどちらなのかしらね?」
と聞かれて、
「じゃあ、あなたは?」
と聞き返した。
「私は主人公かな? 小説を書くという意識はなかったので、きっと主人公になったように思って読んでいたのかも知れない」
と言われて、
「私は逆に作家さんになったつもりで読んでいた気がするわ」
「同じ本を読むのでも、読者はいろいろな気持ちになることができる。それも本を読む醍醐味なのかも知れないわね」
「そうかも?」
というと、彼女は続けた。
「私は主人公になったつもりで読んでいるので、気持ちは主観的になっているわ。ただ、それは主人公からの目なので、登場人物の気持ちを基本的に図り知ることはできない。でも、読んでいるので全体を見渡すことができる。上から見ながらも立場としては登場人物と同じ舞台の上なのよ。これっておかしな感覚に思うわ」
「それって、客観的に見ていながら、主観的な目で知らず知らずに見ているということなのかしら?」
「そうかも知れないわね」
「じゃあ、私にはそんな器用なことはできないわ。やっぱり作家の目線でしか見ることができないような気がするの」
というと、
「それはそれでいいのよ。今の私も主人公の目線で見ているけど、そのうちにあなたのように作家の目から見ることができるような気がしているの。その時にどんな気持ちになるのか、ちょっと興味があるわ」
「ええ、私も」
と言って二人で笑っていた。
それから半年ほどしてからのことだった。それまで何冊も本を借りたのだが、晴美の方も自分で本屋に赴いて、読みたい本を探すことが楽しみになってきた。本屋に行けば、一時間近くも本を物色することなど、珍しくもなくなっていたのだった。
友達とは相変わらず読んだ本の感想を言い合う仲であったが、ある日急に友達が面白いことを言い出した。
「最初にあなたに本を読むように勧めた時の話を覚えている?」
と言われて、
「ええ、覚えているわ」
「あの時、私が主人公の立場に立って本を読んでいるって言ったでしょう?」
「ええ」
「そしてその時、いずれあなたのように作家の立場になって本を読む日が来るような気がするとも言ったよね」
「ええ、覚えているわ。今がその時なの?」
と聞くと、彼女は落ち着きを表に出してはいたが、少し興奮気味に、
「そうなのよ。作家の立場に立って本を読むことができるようになったのよ」
ここまで言うと、たった一言なのに、言葉の最後の方は明らかに興奮状態だったのが分かった。
「そうなんだ。じゃあ私もそのつもりで話を聞くようにしないとね」
と晴美は言ったが、これまでの半年間の間で、途中から彼女と話をしなくなっていたのをいまさらながら思い出していた。
「それでね。私がどうしてそんな気分になったのかというと、一歩下がって本を読もうと思ったのがきっかけだったの。そして、そう思うと、本を読んでいて、面白いように先の展開が分かるようになってきたのよね。しかも、文章まで想像できるようになってきて、そこまで来ると、完全に作家の気持ちになって読んでいるのと同じでしょう? まるで作家がこの小説を書いている横で、私も同じ題材の小説を書いているような気分になってきたの」
「それは面白いわね」
晴美は、そこまで考えたことはなかった。
確かに彼女のいうように、話の展開が先の方まで想像がつくことはあったが、文章まで想像できるなどなかったことだ。
――きっと、小説家と自分とが別の世界の人種のように思っていたからなのかも知れないわ――
と感じた。
その思いを彼女は察したのか、
「私は、小説を自分で書いているかのような錯覚に陥ったんだけど、でもそう思えば思うほど、自分が情けなくなるような気がしてきたの」
「どうして?」
「小説家の気持ちになって小説を読んでいるにも関わらず、自分には小説を書くような才覚がないということを、いまさらながらに思い知らされたような気がするからね。確かに小説家の人とは人種が違うとまで思っているんだけど、せっかく想像ができるのに、書くことができないなんて、才能や才覚だけの問題なんじゃないかって思うようになったのよ」
という彼女の気持ちは晴美も分かる気がした。
「書いてみようとは思わないの?」
「ええ、でも文章を思い浮かべることができるようになったからと言って、実際に文章を書き連ねることができるかというとそうでもないの。この二つは似ているように思うんだけど、実際にはまったく違った感覚なんじゃないかって思い始めたのよ」
「それほど小説を書くというのは難しいということなのかしら?」
「ええ、そうも思うんだけど、でも逆に、何かのきっかけがあれば、書けるような気もするの。だって文章を想像することができるようになったんだから、書けないと思い込んでいる気持ちを解きほぐせるような何かのきっかけが必要であることは間違いないと思うのよ」
「なるほど、そうなのかも知れないわね」
と言いながら、晴美も考えていた。
――私も小説を書くなどという大それたことを今まで考えたことはなかったけど、実際に本を読むうちに、書きたいって衝動に駆られたのも事実だわ――
と思った。
そのことを彼女にいうと、
「そうでしょう? 小説を読んでいると、自分でも書いてみたいと思うのは自然の成り行きに思うのよ。遅かれ早かれ訪れるものなんでしょうけど、人によっては、そう思う前に本を読むのをやめてしまう人も結構いると思うの」
「気付かないまま過ぎるか、それとも諦めの境地に達するか、あるいはずっと小説家になる夢を持ち続けている人がいるかのどれかなんでしょうね」
と、当たり前のことだけど、それが真実なのだと晴美は感じた。
彼女の名前は進藤つかさと言った。
つかさとは小学生の頃からの幼馴染だったが、彼女が読書が好きだったなんて、その話をするまで晴美は知らなかった。
つかさにとって読書というのは、小学生の頃からの趣味であった。小学生が趣味というのはどうかと思うが、つかさにとって、それは趣味以外の何ものでもなかった。
元々は絵本から興味を持ったと言ってもいい。幼稚園の頃までは、よく母親が絵本を読んでくれた。母親が仕事でいない時は、祖母によく読んでもらったものだ。
つかさが物心つくようになった頃には、祖母が絵本を読んでくれなくなった。なぜなら一緒に住むことがなくなったからだ。
その一番の理由は父親の転勤にあった。家も引っ越さなくならなければいけなくなり、それまで住んでいたマンションから、別のマンションに引っ越した。少し広くなったように感じたのは、それまで一緒に住んでいた祖母がいなくなったせいだったのだろう。
祖母と両親、そしてつかさの四人で住んでいたのだが、引っ越してから数年は母親が癒えにいた。しかし、つかさが小学生の四年生になってから母親は外で仕事を見つけてきて、夕飯も一人で済ませることがほとんどになっていた。
「もう、小学生の四年生なんだから、一人で大丈夫よね?」
と言われて、不安だなどと言える性格ではないつかさは、
「うん、大丈夫」
とウソでもそう言うしかなかった。
小学四年生というのがどれほどしっかりしていなければいけない年齢なのか分からなかったが、母親から、
「大丈夫よね?」
と言われれば、
――大丈夫なんだ――
としか思えないつかさは、そんな自分の性格を普通だと思っていた。
つかさは一人になると、思い出すのは祖母と二人の時間だった。
つかさが幼稚園の時は、祖母がいてくれたので、母親も仕事に出かけることができた。しかし、今は祖母もいない。それなのでつかさがそれなりの年齢になるまで、母親も仕事に出ることはなかったのだろう。
――どうして、おばあちゃんはついてきてくれなかったんだろう?
とつかさは思った。
そこには大人には大人の理由というものが存在しているのだろうが、小学生のつかさにそんなことが分かるはずもない。
そんな時、つかさは時々晴美の家に遊びに行っていた。晴美の母親もつかさの家の事情は心得ていたので、つかさの母親の許可を得たうえで、
「お母さんには話しているから、いつでも遠慮なく遊びにおいで」
と、つかさにそう言った。
つかさの方も、小学生らしいあどけない笑顔を浮かべながら、
「ありがとうございます。晴美ちゃんのところなら、母も安心だと思います」
と言って、時々遊びに来ていた。
だからと言って、毎日というわけにも行かず、時々遊びに来ていたのは、稀に一人になるのであれば、一人になった時の寂しさが半端ではないと思ったからだ。適度に寂しさを感じることで、寂しさに対して慣れを感じることができるからであろう。
つかさは、一人になった時、祖母との日々を思い出すことが多かった。絵本を読んでくれたことが一番の思い出で、絵本を読んでもらうと、急に睡魔が襲ってくるのを思い出していた。したがって、絵本の記憶はおぼろげなはずなのに、一人になって祖母のことを思い出すと、絵本への記憶が鮮明になっているのを不思議に感じながらも、思い出す記憶に心地よさを感じていた。
おとぎ話のような話が多かった絵本。マンガのような絵が描かれていたが、途中にところどころ読みやすい大きさで、字も書かれていた。その字がマンガとバランスが取れていたという記憶が強く、絵というよりもむしろその文字に興味をそそられたつかさだったのだ。
しかも、その文字には色がついていて、強調したいところが赤文字で、しかも少し太い文字で書かれていたのだ。
それを見ながら、祖母の声を思い出していた。
祖母の話は、本に書かれている文字とは違ったものだった。
――どこからあの言葉が出てきたんだろう?
と感じるもので、どうしてそう思ったのかというと、セリフがあまりにも絵と状況が合っていて、何ら違和感がなかったからだ。
祖母にとって、それくらいの話を創作することは難しいことでもなんでもなかったのかも知れない。もちろん、話を知り尽くしているからできることであり、何と言っても、絵本には限りがあるので、数回に一回は同じ話を読んで聞かせているので、普通に暗記できて不思議はなかった。
それでも幼児期のつかさには、
――おばあちゃんってすごい――
と感じさせた。
「おばあちゃんは、どうしてそんなに上手にお話ができるの?」
と聞いたことがあったが、その時の祖母の答えとして、
「そうね、いっぱい本を読んでいるからなのかも知れないわね。本を読むこということは想像力を豊かにしてくれて、とっても頭がよくなることなのよ」
と言っていた。
つかさにとって、想像力が豊かになるということは幼児の時期には難しくて理解できなかったが、その後のセリフとしての、
「とっても頭がよくなる」
という言葉に反応した。
――本を読むことってすごいことなんだ――
と素直に感じた。
つかさは、小学生の三年生の頃までは、文章というのが嫌いだった。中学になって晴美と話をした時のように、どうしても先が気になってしまって、途中の情景や説明の文章などをかっ飛ばして、セリフだけを読み、結論を知りたいという逸る気持ちを抑えることができなかったのだ。
ただ、つかさの母親も本を読むのが好きなようで、夜寝る前によくリビングで一人本を読んでいた。
父親の仕事が遅くなって、帰宅を待っている時などは、テレビを見るよりも本を読んでいる時間の方が多かったくらいだ。そのせいもあってか、両親の部屋には、結構な数の文庫本が置いてあった。
両親の部屋に入ることを別に止められたことのないつかさは、一人でいる時間を母親の部屋にある文庫本から適当なものを選んで読むことが増えていった。
最初こそテレビを見る時間が多かったが、あまりつかさにとって楽しくない番組が多かったので、本を読む時間は貴重な気がした。
ただ、最初は本を読んでいると、結構気が散ってしまうことに気が付いた。
――本を読む時って、まわりに静寂を作って読まないといけないんだわ――
と思っていた。
その理由は集中することが必要だったからだが、無理にでも静寂を作って集中しようと意識してしまうと、却ってまわりのちょっとしたことが気になってしまうものだ。
水道の蛇口が少しでも緩んでいたら、そこから垂れる水の音だったり、風もないのに、なぜか靡いているカーテンのこすれるような音、普段ならまったく気にもしない音が気になってくるのは、集中しようと無理をしているからなのかも知れない。
しかも、極度に集中しようと思った時は、自分の胸の鼓動まで聞こえてくる始末だった。
「ドックン、ドックン」
自分でも信じられなかった。
それでも、文章を読み込んでいくうちにいつの間にかまわりが気にならなくなってくるというもので、そうなってくると、時間の感覚もマヒしてくるくらいに集中していることが多かった。
「まだ、三十分くらいよね」
と思って時計を見てみると、すでに二時間くらい過ぎているのにビックリすることも少なくはなかった。
「そろそろ寝ないと」
という時間になっているので、そのまま睡魔に任せて眠りに就くのだが、この時の睡魔ほど気持ちのいいものはなかった。
ただ、集中している時には気付かなかったが、
「もうこんな時間」
と思った瞬間に、一気に睡魔が襲ってくる。
それだけ集中している時間は、余分な力が自分に加わっていないからなのだろうが、そのことをハッキリと意識するようになるのは、もっと先になってからのことだった。
そのうちに、晴美の家に遊びに行くことも少なくなっていた。
晴美が最初に読んだ本は、ちょうどその頃文壇にデビュー仕立ての作家で、
「新進気鋭の作家」
として注目を集めかけていた春日博人という人の作品だった。
話としては、ライトノベルとしても読めるミステリータッチの作品で、子供のつかさには、入門編としてちょうどいいお話だった。
その話は探偵が出てくるわけでもなく、殺人事件が起こるわけでもなく、実に限られた場所に集約された話だった。
彼の作品は短編から中編が多く、その頃は分からなかったが、
「起承転結」
という意味で、実に理路整然とした話になっていた。
「こんなに短い話の中にでも、起承転結のようにキチッとした区切りをつけた話を作ることができるのは、この春日博人という作家くらいのものなんじゃないかしら?」
と、晴美と小説談義をした時につかさが言った言葉だったが、彼の作品を読んだことはあった晴美としても、
「まさしくその通りよね」
と答えたのだった。
つかさが小説を読むきっかけを与えてくれたのが母親であり、祖母だったのだが、読み始めてから継続させることができるようになったのは、この新進気鋭の作家として注目を浴び始めた春日博人だったのは間違いないだろう。
「春日先生の作品は、ミステリーだけではなく、ホラーやサスペンス、SFと多種多様な気がするんだけど、でもどこか一本筋が通ったものがあるから、理路整然と感じるんじゃないかしら?」
と言ったのは、晴美だった。
晴美も小説を読み始めた最初は、つかさと同じこの春日博人の作品だった。しかし、晴美はつかさとは違い、自分から率先して読み始めたわけではない。つかさに勧められたからだ。
しかし、元々文章を読むのが苦手で、半分文章を毛嫌いしていた晴美にとって、本を一冊でも読破するというのは、かなりの難題には違いなかった。
それでも読破することができたのは、つかさの理協力の強さを示していた。
二人の間の関係は、一緒に話をしている時は対等である。しかし、二人の間では力関係はしっかりと決まっていた。優位に立っているのは絶えずつかさの方だった。
小学生の頃は、つかさが晴美の家に遊びに行っていたという関係上、立場的には明らかに晴美の方が上だった。
しかし、立場だけで二人の関係を継続させるといずれ亀裂が生じる可能性があった。それをつかさの方で制御する形で、いつの間にか主導権をつかさが握ることが多くなった。これはきっとつかさの中にある本能がそうさせたのかも知れない。つかさにとって晴美の気持ちを思い図ることは難しいことではないが、あまり人の気持ちを詮索するということを良しとしないつかさはなるべく控えていた。それだけに本能の中では気持ちが正直に表現されて、無意識に相手に優位性を示すことで、相手にも違和感なく受け入れる余裕を与えることができたのかも知れない。それが二人が幼馴染としての仲を継続させることの一番の原因であり、少なくとも晴美の中で相手のことを親友だと思えるだけの気持ちにさせたのだった。
そんなつかさは、本を読むようになって、中学になって晴美に話した、
――作家の気持ちになって小説を書く――
ということを自覚するようになった。
つかさが春日博人の気持ちになって小説を読んでいたのと、晴美が春日博人の気持ちになって小説を読んでみたのとでは、少し違っていた。
あくまでもつかさが感じたのは、小説家の目で見るということだ。それ以上を思うと書けない自分に対して情けなさを感じるからだった。
しかし、晴美の場合は、自分も春日博人としての作家の目で小説を見るようになると、今度は自分で書いているような気持ちになった。
――私にも書けるんじゃないかしら?
と感じたのだ。
もちろん、小説を書くなどという大それたことはできるはずなどないというのが晴美の気持ちであり、その思いはつかさと同じだったが、それでも書けるように思うのは、一歩踏み出す気持ちがつかさにはなくて、晴美にはあるということを示しているのかも知れない。
それが晴美とつかさの決定的な性格の違いだった。
つかさは好奇心が旺盛で、とっかかりには自信を持っているが、最後の一歩を踏み出すだけの積極性に欠けている。
しかし、つかさの場合は、最初のきっかけを掴むことが苦手で、どこか食わず嫌いなところがあるのだが、いったん嵌ってしまったことには貪欲で、途端に積極性を発揮することができる性格だった。それだけに二人が長く親友でいられるのは、お互いに持っていない部分をそれぞれが補っていくことができたからではないかと、少なくともつかさは感じていた。
晴美は中学生になってから、春日博人の作品を好んで読むようになった。つかさと文章談義をしたことによって、さらに春日博人の作品に興味が湧いてきて、その内容に次第に嵌っていく自分を感じていた。
彼の作品は短編が多いのだが、そのほとんどが連作形式になっている。一つの話からいろいろ派生した内容になっているが、彼の手法として特徴的なものとして、
――パラレルワールド的な話――
が多く見られた。
パラレルワールドというと、SFやオカルトなどでよく聞かれるものだが、
「未来への可能性は無限にあって、一歩間違えると違う世界に入らないとも限らない」
と言われているようだった。
晴美はSFをあまり読まなかった。どちらかというとSFに関してはつかさの方がよく読み込んでいた。
ただ、つかさと話をしている時、よく出てくるワードがこのパラレルワールドだったのだ。
「パラレルワールドって、私は信じるんだけど、晴美はどうなの?」
「パラレルワールド?」
つかさに最初、その言葉を聞かされた時は、ピンとこなかった晴美だった。SFを読まない人には馴染みのない言葉で、晴美も例外ではなかった。
「ええ、SF小説とかを読んでいると、時々聞く言葉なのよ。要するに未来には無限の可能性があるということで、その一歩違う世界に入り込んだ話などがオカルトだったりするのよね」
「それは面白い話よね。私はオカルトって怖い話だって思っていたから、敬遠していたんだけど、SFに絡んだところがあると思うと、少し興味が出てきたわ」
「オカルトって、別にホラーや怪奇小説というわけではないんだから、怖い話ばかりじゃないの。元々オカルトというのは、都市伝説や昔から伝わっているその土地の話などを題材にすることが多くって、世間一般的ではないと思われているような話が多いのよ。そういう意味では晴美なんか興味を持ちそうな気がするんだけどな」
とつかさに言われた。
「どういうことなの?」
「晴美は、自分が人と同じではいやだって思っているでしょう? 人とつるむことも嫌だと思っている。それはきっと、自分と同じ気持ちや考え方の人はいないという考えが根底にあるからだって思うんだけど、それはそれでいいと思うのよね。まったく同じ考えの人なんているはずがないんだからね。そう思うと、私もあなたと同じようにオカルトには興味があるのよ」
とつかさが言った。
「確かにそうかも知れないわね」
「それに晴美の場合は、結構理屈っぽいところがあると思うの。悪い意味ではなくね」
「そうなのかしら?」
つかさが何を言いたいのか分からなかった。
「それはね、あなたの考え方の中に、『自分を納得させることのできないことが、他人にも納得させられるわけがない』と思っているからじゃないかって思うのよ」
「ええ、確かにその通りじゃないかしら? むしろその方がまともな考え方なんじゃないかって思うけど?」
「そうなのよ。冷静に考えれば晴美の考え方に間違いはないの。でもね、世間一般では、自分よりもまわりの人を思いやる方が優しい考え方だって思われているようなのよ。遠慮や親切をはき違えているんじゃないかって思うんだけどね」
「確かにその通りだわ。でも私もそのことについて深く考えたことはないのよ」
「それはそうでしょう。他の人もそのことを深く考えることはない。だから、晴美と意見が違っていると思ってっも、どこが違うのか分からない」
「ええ、私も他人とどうして考えが合わないのか分からなかった。意見の違いは人それぞれなのでいいんだけど、考えが合わないと、相手はあまりいい気がしないようで、どうして私の考えにいちいち訝しげな反応をするのか分からなかったの」
というと、
「晴美はそのことに気付いていたの?」
「ええ、皆気付いているんじゃないの? だから怪訝な反応をするんだって思っていたわ」
と自分が当然なんだと思いながら晴美は答えた。
「他の人はそのことをそんなにこだわることはないわ。そういう意味では晴美は人があまりこだわらないところにこだわるんだけど、他の人がこだわらないといけないと思っていることにこだわら兄から、まわりが怪訝に感じるのかも知れないわね」
と言われて、少し納得がいかないと思った。
「納得がいかないかも知れないけど、それが現実なのかも知れないわね。あなたはそのことを知っておく必要があると思うの。人の考えていることは本当に人それぞれなのよ。だから皆自分と考えが同じか、考えが合う人を探そうとする。それが本能のようなものであり、晴美には納得がいかないと思っているところなんでしょうね」
とつかさは平然と言った。
「どうしてそんなによく分かるの?」
と聞くと、
「分かるというか、私は他の人と同じようなところが多くあり、晴美とは違っていると思う。でも、私は考え方が合う合わないというよりも、一緒に話をしていて、話が繋がる人が一番だって思っているの。話が合う人というのは、他にも結構いるかも知れない。でも話が合うだけだったら、話に限界があって、膨らみというか伸びしろがないような気がするのよね」
晴美もその話を聞いてなんとなく分かった気がした。
「本の話をするという話題性が一つ見つかっただけでも、私は話が合うと思っていたわ」
「晴美はそれでいいのよ。晴美が他の人に合わせる必要はない。あなたが人に合わせようとすると、相手が気を遣って、却って敬遠してしまうことになりかねないからね」
もしこれが晴美以外の相手に話をしているのであれば、きっと相手は不愉快になって、話を遮るか、下手をすると話を打ち切ろうとするだろう。しかし晴美はそんなことはしない。相手の意見を最後まで聞こうという姿勢が現れていた。他の人にはない晴美の一番のいいところではないだろうか。
晴美は気分が悪いわけではないが、ズバズバと話しているつかさの話を聞いているうちに自分が話に引き込まれるのを意識していた。その意識があるから、自分も反対意見を言いやすいし、何よりも対等に話をしていると思うのだった。
他の人だったらこうはいかない。話に耐えられなくなって遮ったり打ち切ったりしようとするのは、聞くに堪えない内容に、すぐに自分で防御線を張ろうとしてしまうからだろう。それは誰もが持っている防衛本能というもので、晴美にも防衛本能があるが、相手がつかさだったら、防衛本能は働かない。
――どうしてつかさには、あまり反抗しようとは思わないんだろう?
と話をしながらいつも思っていた。
他の人が相手だったら、すぐに不愉快になって、自分から話を遮るか、勝手に中断するに違いなかったからだ。これはつかさが思っている他の人の態度よりもきついもので、他の人には到底受け入れられるものではない。
晴美は本能で、まわりが自分に対して同じような態度を取ることが分かっていた。子供の頃に自分が得意げに何かを話そうとした時、相手がいきなり話を遮ってきて、
「晴美ちゃんと話したくない」
と言って、晴美が茫然としているのをいいことに、何も言わずに踵を返してどこかに行ってしまった。
――ひょっとすると、言ってはいけないことを口にしたのかも知れないわ――
という思いが晴美の中にあり、晴美の中で、
――余計なことをいって、相手にしかとされるくらいなら、何も言わない方がいいんだ――
ということで、その思いが膨らんで、
――人と同じでは嫌だ――
という元々の考えに融合する形で、人にかかわることがあまりなくなったのだ。
その思いはトラウマになってしまったが、トラウマになった原因が何だったのか、元々の性格に融合されてしまったことで分からなくなった。だから自分が人と関わりたくないと思っていることも、すべてが生まれ持って持っていた性格のなせる業だという風に思っていた。
そんな晴美につかさだけはいつも一緒だった。
当のつかさも、人と関わりたくないという思いを強く持っている。
つかさの場合は、生まれ持っての性格というよりも、環境が大きかったのかも知れない。
母親が家を空けることが多かったので、いつも一人だった。
つかさの母親は気丈なところがあり、決して自分の考えを曲げることのない人だった。そういう意味では性格的にはつかさよりも晴美の方に近かったのかも知れない。
元々、母親はつかさも自分と同じような性格で、一人にしておいても、寂しいという思いはあるだろうが、何とか自分でしてくれる強さを持っていると思っていた。確かにその通りだったが、母親の目というのもあって、それをかなり過大評価していたところもあり、つかさには分からないところで、つかさの限界を超えた想像を娘に課してしまっていたようだった。
もう少しでつかさも限界に近づくところだったが、晴美がいてくれたおかげで、限界を見ることもなく、自分の中にトラウマを抱えることもなかった。
つかさにとって、晴美の存在はそれまでの自分の人生を一変してくれそうな可能性を秘めていた。
一人でいる時は読書ばかりをしていた。つかさはテレビを見るということがあまり好きではなかった。テレビ番組というと、バラエティやスポーツ、報道番組のようなものが多く、子供が見れるものは少なかった。
バラエティにしても、アニメ番組にしても、ほとんどが楽天的な話が多く、つかさには皮肉にしか思えないものだった。かといって、リアルな番組はもっと嫌だっただろう。自分と重ねて見てしまうことで、さらなる悲惨さを自分の中で想像してしまうからだった。
――想像よりも創造――
だと思っていた。
頭で思い浮かべたことが現実になるという感覚、これほど怖いものはなかった。
そういう意味では、本を読むのもノンフィクションは絶対に嫌だった。架空の物語であり、ありえないことをさもあり得るかのように書いている小説。普通に暮らしている人が一歩間違っただけで入り込んでしまう世界が存在しているような小説。そこに興味を持った。いわゆる、
――オカルト小説――
というものだった。
つかさも、恐怖ものやホラーは嫌いだった。理由は至極簡単で、
「怖いものが嫌い」
ということだったのだ。
しかし、怖いものでも、理論的に説明されると、それは怖いものではなくなっていた。つかさの読む小説は、理論的な話が多い。それでいて、あくまでも架空の物語。そうでなければ、つかさは自分の限界を感じてしまうのではないかと感じていたからだった。
このことは晴美とも話をしたことがある。
晴美に小説を読むように促したのはつかさだったのだが、晴美は最初どんな小説を呼んでいいか分からなかった。
文章を読むことが苦手で、それは気の短い性格が災いしていたのだろうが、結論を先延ばしにするのが苛立つからだった。
しかし、
「それだったら、理論的な文章を読めば自分でも納得できて話について行けるようになるわよ」
と言ったのが、晴美が小説を読むきっかけだった。
描写を流れの中でセリフ以外のところで書き連ねて話を重ねていくのが普通の小説なのだが、描写の流れくらいでは、想像力は発揮できるかも知れないが、小説の中で何が言いたいのか分からない気がした。そういう意味でセリフばかりを読んでしまうのは、アニメやドラマのような映像に慣れきってしまっていることが大きな原因なのかも知れない。つかさはそれが分かっていたから、晴美にアドバイスした。しかも最初に話した時は、本当の自分を隠して、少し相手に合わせる話をしていたところもあった。元々つかさは相手に合わせて話をするような人ではないということを一番分かっているのが晴美だったのだ。晴美としては当然、つかさの中にそんな思いがあることなど分かるはずもなかったからである。
つかさの思惑通り、晴美は小説を読むことに興味を持った。しかも、その最初に読むことを勧めた相手である春日博人の小説は晴美にはドストライクだった。
「こんなに幻想的な小説があったなんて」
と、つかさを前にして晴美は言った。
「幻想的?」
つかさは春日博人の小説をオカルトっぽく感じてはいたが、幻想的だとは感じたことはなかった。
――やはり晴美は凡人とは一線を画した感性を持っているんだわ――
と感じた。
――ひょっとして、晴美だったら自分で小説を書くこともできるんじゃないかしら?
と感じたほどだった。
この思いはつかさの中では、
――ひょっとして――
とは言っているが、かなりの信憑性を感じていた。
つかさがそこまで考えているとは思っていない晴美は、今日も本を読んでいた。毎日少しずつではあるが、
――今日はここまで読む――
と毎日決めて読んでいた。
これが読書を継続させた一番の原因だったに違いない。継続がなければ、本そのものへの興味もここまで湧かなかったはずだからである。
晴美は相変わらず本を読むというと、春日博人の小説しか読まなかった。
「あんた、食わず嫌いなんじゃないの?」
と、もし他の人に春日博人以外の小説を読まないことをいうと、きっとそう言われるに違いなかった。
しかし、本の話をするのはつかさとだけどあり、つかさには最初から他の小説は読まないと言っている。元々、文章を読むのが億劫だという話から始まっていたので、つかさにとって不思議でもなんでもないことだった。
だが、つかさには晴美が希少価値の人間に思えて仕方がなかった。つかさは春日博人の作品は好きだが、晴美のように彼の小説しか読まないというわけではない。まんべんなく他の小説も読んでいるので、晴美に対してそう感じたのだった。
なぜそう感じたのかというと、春日博人の作品は結構難しい文章になっている。ジャンルとしては恋愛小説なのだが、その文体は論理的な内容で、心理を抉るような作風になっている。
「春日博人って、すごいわよね」
晴美が春日博人の話をする時は、目が輝いているようにつかさには見えた。それはまるで恋する少女のようで、つかさには、
――自分にはあんな表情、絶対にできないわ――
と思わせるほどだった。
「どんな風にすごいと思うの?」
とつかさが聞くと、
「なんかね、私が思っていることを文章にしてくれているようで、同感できるというか、だから彼の作品だったら、一気に一日で読んでしまえるくらいなのよ」
と晴美はいう。
「何言ってるの。あなたの場合は集中力がないから、一気に読まないと途中で内容を忘れてしまって、最後には途中で読むのをやめてしまったりするでしょう? そういう意味ではあなたには春日博人の作品はお似合いなのかも知れないわね」
と、つかさは苦笑いをしながら言った。
つかさに決して悪気があるわけではないことを晴美は分かっている。むしろ他の人から何かを指摘されたりはほとんどないので、何でも指摘してくれるつかさの存在はありがたかった。
「そうだったわね。でも本当に彼の小説って面白いのよ。読んでいて、うんうんって頷いちゃう」
そう言いながら晴美は笑った。
「最近は何を読んだの?」
「えっとね、『海の真珠』っていう作品を読んだの。まずタイトルからしておかしいわよね。真珠って大体が海のものなので、わざわざ強調しなくてもいいように思ったんだけど、話を読んでみるとそうでもなかったわ」
「どういうことなの?」
「真珠というのも、海という言葉も、どちらも隠語になっていて、女性の身体や性質を現す言葉だったの。恋愛小説の中でも結構愛欲関係の小説を書く春日博人なんだけど、このお話は、結構淫靡な話になっているの。成人指定にしてもいいと思うくらいの話なんだけど、言葉がすべてオブラートに包まれているので、成人指定にすると却ってさらなる淫靡さを感じさせるんじゃないかって思うのよ」
という晴美に対して、
「でも小説を売るんだったら中途半端ではなく、最初から星人指定にしておいた方が、読んでほしいと思っている人たちに読んでもらえるからいいんじゃないのかしら?」
「私も最初はそう思ったんだけど、春日博人の性格からして、彼はあくまでも恋愛小説にこだわっていると思うのよ。だから、淫靡な表現もあくまでも演出であって、それを前面に出したくない。だから隠語を多く使って小説を書いていると思うの」
「それがどうしてあなたを夢中にさせるのかしらね?」
「私は、別に淫靡な小説というのは嫌いじゃないの。もっというと、好きなくらいで、それも露骨な方が読んでいて引き込まれるような気がするのよね。今まで本が億劫で読んでいないって言ってたけど、本当は淫靡な小説を隠れて読むことがあったのよ」
「どこでそんな小説を手に入れるのよ」
と聞くと、
「実はお母さんのお部屋には、淫靡な小説もあって、時々拝借して読んでいたの」
「お母さんは気付かないの?」
「たぶん、気付いていると思う」
「娘が読むのを止めないの?」
「ええ、淫靡な小説と言っても、露骨な描写の小説ではなく、ロマンス小説のような感じのものなの。だから、お母さんも何も言わないと思っているのよ」
「そういう意味ではあなたの家庭はおおっぴらでいいわよね」
つかさが一人で寂しくなかったのも、晴美の家庭に自分が合っているような気がしたからだった。
少し沈黙があったが、つかさが続けた。
「そういえば、春日博人の小説が幻想的だって言っていたけど、あれはどういう意味なのかしら?」
「私は幻想的という言葉を、誰にも真似のできないものという風に言い換えることができると思うのね。要するに彼の小説は誰にも似ているわけではないけど、それを必要以上に感じさせないところが私にはあるの。他の人が読むと、かなり癖があるので、相当な違和感があるんじゃないかって思うんだけど、私の場合は彼の小説に違和感がないの」
「どうして?」
「さっきも言ったように、彼の小説を読み進んでいくと、私が期待するストーリー展開にいつもなっているのよ。まるで私のために書いてくれたような気がするくらいにね」
と晴美は言って、その目は遠くを見つめているかのようだった。
「とても、私には想像できない世界だわ」
とつかさが言うと、
「それは羞恥心を持ったまま、彼の小説を読んでいるからなのかも知れないわね。私は自分に置き換えて小説を読むようにしているの。だから何となくだけど、ストー炉¥リー展開が分かってくるのよ」
という晴美に対して、
「どうしてなの? 小説の中に入り込んでしまうと、抜けられなくなりそうで、どうしてもあなたのようには思えないわ」
とつかさが言った。
「そんなことはないわ。それはあなたが、小説の中に入り込んで主観的に見ているからなんじゃないかしら? 私はあくまでも客観的にしか見ていないのよ。まるで一人のエキストラになったつもりなんだけど、目線は箱庭の上から全体を眺めているかのような感じなのよね」
「入り込んでいるのに、どうして目だけが箱庭の外から客観的に見ることができるの? 私にはとてもそんな器用なことはできないわ」
とつかさがいうと、
「私も最初はそうだった。だから、本を読むことができなかったのよ。マンガを見たり、テレビでアニメやドラマを見たりしている時は、いつの間にか自分が主人公になっているような感じになって見ていることが多かったわ。そのうちに感覚がマヒしてくるのを感じながらね」
「よく分からないんだけど?」
「私はドラマやアニメを録画しておいて見ることが多いの。気に入った作品だったら、消去せずに何度も見返すことも多くてね。マンガも何度も読み直したりしているわ」
「セリフだって覚えるんじゃない?」
「ええ、もちろん、覚えているわ。私は結構忘れっぽいので、同じ作品を気に入ったら何度も見るという癖のようなものがついているの。一種の趣味のようなものかも知れないわね。同じものを何度も見ても飽きないし、私にとっては楽しい時間でもあるのよ」
「そういうことを繰り返していると、作品に入り込んでいる時、箱庭の外から客観的に見ることができるようになれるの?」
「私はそうだったんじゃないかって思ってる。役者さんだって、自分で演じるんだから、何度も同じものを見て、練習しているわよね」
「ええ、そうでしょうけど、あなたのような感覚にはきっとならないと思うわ」
「もちろん、これは私だけの個性なんだって思う」
という晴美のセリフに、
「個性……」
と、小声で反芻したつかさだった。
――これが晴美の感性なのね――
とつかさは感じた。
「春日博人の作品を読んでいると、ある一定の作風を感じることができるようになったの」
と晴美が言った。
「作家さんの作品には、大なり小なり、その人の個性があって、特徴が見え隠れしているものだって思うわ。表に出ているものとして、同じジャンルの作家と、自分の作風がかぶらないようにしようとは思っているんじゃないかしら? 中には二番煎じを狙っているような人もいるようだけど」
というつかさの話に、
「そうね。確かに作家というのは、これだけたくさんいるわけだから、誰ともまったくかぶっていないということを感じさせる作家さんというのはなかなかいないかも知れないわね。でも、私はそういう意味でも春日博人という作家の特徴として、他の誰ともかぶっていないという性格を持ち合わせているように思うのよね」
と晴美が言った。
「それこそ、晴美の求めているものなんじゃないかしら? 人と同じでは嫌だという性格を露骨に表に出しているあなたらしいように思うのよ」
「そうかも知れないわね。一年くらい前の私だったら分からなかったかも知れないわね」
「どうして?」
「それは私が小説を読むきっかけになった話を、つかさと以前したことがあったでしょう? あの時が私にとっての分岐点だったような気がするの」
「確かにあの時は、晴美はまだ小説を読むということに慣れていない時期だったわね。小説の世界というものを垣間見たことのない、まっさらな時期だったということよね」
「ええ、本当は最初のその時が、一番新鮮で初々しかったんでしょうけど、小説というのが読めば読むほど奥が深いということを教えてくれたのも、春日博人なのよ」
「でも、あなたは他の人の小説は読まないんでしょう?」
「ええ、本当は他の人の作品も読んでみて、比較してみたりするのがいいんでしょうけど、私にはそれが無駄な時間に思えてきたのよ。せっかく自分にピッタリ合った作家さんが見つかったのに、他の人の作品を見て、せっかくの目が曇ってしまうのは嫌だって思ったの」
「でも、それって」
というつかさに対して、
「ええ、それは他の人の作品を知らないからだって言われればそれまでなんだけど、たとえば自分が作家を目指しているとして、いろいろな人の作品を読み漁って、自分の作風を模索していくというのもやり方だと思うんだけど、もし自分の作風に合うと思う人の作品が見つかったら、他の人の作品を読まなくなると思うのよ。そしてさらに自分の作風がある程度見えてくると、今度はその人の作品も読まなくなると思うのね。だから、私は春日博人という人の作品というよりも、彼という人物に興味があると言った方がいいのかも知れないわ」
という晴美の話を聞いて、
「春日博人という作家は、プライベートでも作家としてもあまり露出のない人なので、ファンもそんなにいないのよね。でも、彼のファンというのは根強いものがあって、隠れファンの中には過激な人もいたりするって話を聞いたことがあるわ」
「ええ、私も聞いたことがある。私自身、彼の作品を読んでいるうちに、自分も同じような過激なファンの一人なんじゃないかって思うことがあるの。彼の作品を読んでいると、普段の自分なのか、バーチャルな自分なのか分からなくなることがあるのよ」
「バーチャルな自分なんて存在するの?」
「ええ、小説を読んでいる時、私は作品に入り込んでいる自分は小説を読んでいる自分だって思うんだけど、箱庭から見ている自分はバーチャルな自分だって思っているの。だって、同じ時間に同じ人は存在できないでしょう?」
「ええ、その通りだわ。そういう意味で、彼の小説の中に、私はパラレルワールドを感じるという感じになっているのかも知れないわね」
少し強引だったら、ここにパラレルワールドが入り込んできた。
一度自分の中で勝手に結論じみたことを解決させておいて、つかさが話を変えてきた。
「彼の作品は初期のものと、途中から急変したような気がするんだけど、これは私の勘違いだったのかしら?」
「そんなことはないわ。それは私も感じているのよ。でも、作家である春日博人さんが変わったわけではないと思うの。それも小説を書く目線が変わったわけでもないと思うの。彼のような作家は、見ている目線が変わってしまうと、きっと小説を書くことができなくなるんじゃないかって思うの。彼の中には架空の話を書くというポリシーがあるんだけど、そこにあるのは真実だと思うのよね。それは事実ではない真実という意味よ。まるで目の前の光景を忠実に描いているつもりでも、省略できるところは大胆に省略して描いている作家のような感じなのかしら? 私は絵も描いているので、そのあたりは、小説とは違っているんじゃないかって思うようになったの」
とつかさは考えているようだった。
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