症例3 死にかけだった中年薬師
深夜、
「……ん、ちょっとお客さん。今何時だと思ってるの? 明らかに時間外なんだけ、ど」
書類整理の
「なーんだ、薬師のおっさんか。あんまりビックリさせないでよね。いっつも足音一つ立てずに入ってくるんだから」
おっさんは、何も言わずにゴロリとベッドに寝転がった。
「まあ、一応? この診療所もおっさんが元々住んでた場所借りてやってるんだし、遠慮しなくても……え、何そのジェスチャーは。もしかしなくても、いつものやつ、やれってこと? ったく、うちは耳かき屋さんじゃないんですけどねー」
机に散らばる器具の中から一つ、木を削って作られた簡素な耳かき棒を取り出す。
「覚えてるかなぁ、この耳かき棒。確かおっさんがプレゼントしてくれたんだよねー。ほら、道端で行き倒れてるおっさん見つけて介抱したら、そのお礼にってさ」
耳介をなぞるようにゆっくりと棒を動かすと、おっさんは少しだけ耳を震わせた。
「アホだよね。見知らぬ人、それも命の恩人に、耳かきって。私じゃなかったらきっとボコボコにされてただろうなぁ。弱そうだし、おっさん」
そのまま、耳の穴へと耳かきを滑らせていく。
「でもさ、私はその時、飛び上がりたくなるほど嬉しかったんだ。バイクで事故ったと思ったら、急に知らない世界に飛ばされて。食べるものも寝る場所も、着替えすらなくて。言葉はある程度通じたけど、やっぱり所々わからないし、正直死ぬほど不安だった。そんな時に、たまたま助けたおっさんがこの耳かきを持ってて、一瞬でわかったよ。この人は、かつて自分と同じ世界にいた人間なんだって。この異世界じゃ、耳を掃除するのに道具なんてほとんど使わないからね」
カリカリと、耳の壁面をなぞっては引き抜いて。少しずつ、地道に掃除していく。耳かき棒は未だ綺麗なままだ。
「おっさんには本当、世話になっちゃったな。なんなら今でも世話になってる。この世界で生き抜くための知識や知恵、衣食住まで。何もかも全部、おっさんの受け売りなんだから」
鼓膜を傷つけてしまわないように、慎重に奥の方から耳かき棒をゆっくりと引き抜いて、フッと優しく息を吹きかけた。
「アハハ、そんなにビックリしなくても。サービスだよ、サービス。さっき驚かされたお返しってことで。じゃあ右耳は終わりね。ほら、早くこっち側向きなよ。んん? まさか照れてる……わけないか。まあ、そうだよね。そういうやつだよ、おっさんって」
出会った頃から変わらず、何に対しても鈍感な、つまらない男だと思う。
「本当、興味ないことに関しては死ぬほど頭が回らないよね。そういうところが、おっさんの良さではあるけどさ。現実世界での医療の知識だけじゃ飽き足らず、体張って薬になりそうなものの毒味までしちゃうんだから。バカだよねぇ」
左耳に走る傷跡が、ふと目に入った。
「ま、そのおかげでこうして今も商売出来てるんだし、あんまり文句は言えないけど……それでも、さ。どうしても言いたくなっちゃうよね。ちょっとは自分を大事にしろって」
耳かきを持つ手が震えて、どうしても言うことを聞かない。もうかなり奥の方まで突き刺さっているにも関わらず、おっさんは微動だにしない
「森で魔物に襲われた時だって、毒味さえしてなきゃ逃げるなりボコすなり出来たのに。間抜けだね、本当。何も出来なかった私も含めて、揃ってバカばっかり」
堪えきれずに零れた涙が、おっさんをすり抜けて当たり前のようにベッドを濡らした。
「……ごめん。こんなこと、話すつもりじゃなかったのに。こういうの柄じゃないし、もうこの話はやめよっか。とにかく感謝してるって言いたかった。今の自分は、おっさんのおかげで生きていられる。こうやって、異世界でも何とか生き延びてる。ただ、それだけ。それだけ伝えられれば、もう
おっさんは何も言わずに、ただじっと、死んだ魚のような目でこちらを見つめるのみ。その瞳には、ほんの少しだけ悲しみの色が浮かんでいるようにも見えた。
「……はい、終わったよ。え、耳ふー? 嫌だよ、恥ずかしいし。さっきはちょっとふざけただけで……ああ、もう! はいはいわかった、わかりました。やればいいんでしょ、やれば」
手元にあったタバコに火をつけて、耳元で思いっきり吹かしてやった。ちなみにおっさんは大のタバコ嫌い。これは異世界から唯一持ち込んだ私物のワンカートン、その最後の一本だ。
「どう、満足した? 安心してよ、もうタバコはこれっきりでやめるからさ……あ、消えた」
いつの間にか、煙に紛れておっさんの姿は見えなくなっていた。もう一度吸って、今度は夜空に向かって吐き出してみる。
「さっさと成仏しなよ。おっさん」
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