八十

小狸

短編

 *


 書き終えた小説の数が、八十を迎えた。


 言祝ことほぐべきことかと思うたけれど、しかし時下じか、世は何だかんだと常に騒がしい。


 若い者達は、喧噪けんそうと混沌の渦中を、良く生きている――私ならば、時の奔流のさざなみですぐに身を持ち崩してしまうであろう。


 ゆえに、このような老人の甲論乙駁こうろんおつばくな落書きに手を止めてくれる程、優しくはないと見た。


 事実、八十という数が目出度めでたい数かと言われると、返答にきゅうしてしまうところではある。


 米寿、は、あれは、八十八歳であった。


 私がそこに届くのには、後十年弱は掛る。


 数年前に喜寿を終えたような覚えがある。


 歳を取ると数の帳尻が合わなくていけない――気を付けねばなるまい。


 八十は、やそ、と読み、数が多いことの意味で用いられるのだそうだ。


 それでどうだということではない――ただ何とはなしに、祝っておこうと思うた程度のことである。


 祝という字は、良く衣偏ころもへん示偏しめすへんかを間違えやすいことで有名である。


 めでたいことを喜ぶ――幸いを祈る。


 会意かいい文字にあたり、口の下の二つの足は、人がひざまずく形にかたどる。口とは、すなわち祈りを示し、幸福を求めて祈る――祝うの意味を示す。


 そして同時に、じゅという字にも通じている。


 こはいかにと思うやもしれぬが、「のろふ」は同時に「まじなふ」とも読み、病気や悪魔を追い払うよう神仏に祈るという意味も込められているのである。


 しかし、そう考えみると、目出度い事をよろこぶにしては、少々祝いの席が少ないように思えるのは、気のせいではない。


 私は七十を過ぎても、独り身でる。


 時折役所や訪問看護の若者が家を訪ねてくるけれど、皆「おばあちゃん元気ですね」と言ってくる。


 元気――か。


 それもまた、慶ぶべきことなのであろう。


 この歳まで、大きな病気なく消日しょうじつしゆくことが叶ったのは、ひとえに健康に産んで下さった父様や母様のおかげであろう。


 だが、その感動よりも、書いている小説の数が八十を超えたという欣喜雀躍きんきじゃくやくの方が勝っているのである。


 仕事を退職してから――私は念願であった小説を書き始めた。


 までは、仕事の繁忙でどうしても集注しゅうちゅうすることが出来なかったのである。


 何、孜々ししとして執筆に従事するという訳ではない。


 ただ、何かを書き、何かに残したいという、素直な欲求に従った迄である。


 それはともすれば、やまいによって子を成すことの叶わなかった私の、人間的な本能であったのやもしれぬ。


 私はただ書き続けた。


 そして、ただ書くのに飽きた私は、こうして発表するに至っているという次第である。


 仕事柄、パソコンの打ち込みをするのには手慣れていたのが幸いした。


 そして令和の世には数多の、世界へと己を発信する場が設けられている。


 あの忌々しい戦争も、これらがあれば無くすことができたのではないか――などと、場末の独身老人であるところの私が思うたところで、仕方がない。


 最初こそ、若者の真似をして、流行の要素を三々五々さんさんごごに取り入れ、若々しい手法を取り入れたりなどしてみたものだが、ある方に看破されて爾来じらい、そういった取り繕いは辞めることとした。


 畢竟ひっきょう何が言いたいのかと言えば、まあ、己の年齢を作品数が越えたことを、その慶びをつづりたいという、ただ其れのみに尽きるのだ。


 其れを共に分かち合う知己ちきは皆先に逝ってしまったし、此処ここくらいでしか、それを述べられる場所はない、こいねがわくば、ここに書き落とすことを、許して戴きたいものだ。


 他には何もないが、此処には何かある。


 其れが、今の私の、生きるかてである。





 擱筆かくひつ

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八十 小狸 @segen_gen

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