執念のDNA ――2026――

明日乃たまご

第1話 闖入者

 熊木田小百合くまきださゆりは寝室のドアの前で動けなくなった。


「ア、ア、そこ、イイ……」


 ドアの向こう側から夫と女性がみだらに愛し合う音が漏れ聞こえる。


 年間2兆円の売り上げを計上する熊木田コンツェルンを育て上げた夫は、その体力も精神力も人並み外れていて行動力もある。その行動が扉の向こう側で繰り広げられているのだ。


 百合子が夫の熊木田数巳かずみに見初められて結婚したのは16年前、26歳の時だった。夫婦は仲睦まじく真面目に働き、熊木田コンツェルンを築いた。社会的には成功したといえたが、子宝には恵まれなかった。


 子供がほしくて大学病院で診察を受けたのは10年も前になる。検査では、夫には異常がなく、小百合の側に問題があった。卵巣にも子宮にも異常があったのだ。卵子には染色体異常が見られ、不妊治療をするまでもなく妊娠は不可能だと医者に宣告された。


 病院からの帰り道、熊木田は「気にするな。2人だけで幸せになろう」と慰めてくれたが、10年が経って変わった。歳を重ねたからなのか、仕事が成功して社会的な地位を手に入れたからなのか、自分の子供を欲しがるようになった。


 小百合は養子をとることを提案したが、夫は違った。


「親のDNAを引き継がなくて、何が子供だ」


 彼はそう主張して譲らない。自分のDNAを残すことができない小百合の心情を察する様子は全くなかった。


 3カ月前のこと。……その日の午後、熊木田が若い女性を連れてきた。小さな寺院ほどもある玄関吹き抜けを見上げる純朴そうな美女を、夫が紹介した。


「関連会社にバイトに来ている浅木あさぎエイミさん、大学生だ。彼女に俺の子供を産んでもらう。どうだ。若いころの小百合にそっくりだろう。血液型も同じA型だ」


 自分と似た容姿で同じ血液型の女性を選んだ。夫は、それが思いやりのつもりなのだ。そんなことが何の慰めになるだろう。むしろ、その気持ちこそが不愉快だった。


「ごめんなさい」


 小百合は思わず謝ってしまった。それが、夫に対する謝罪ではなく、夫に買われてやってきた女性に向けたものだというのは確かだ。


〝夫の言うことは間違いなのだ。帰ってくれ〝といった拒絶なのか、〝私の代わりにお腹を痛めてもらうなんて有難い〟という礼なのか、〝自分のような女がここにいて申訳ない〟といった謝罪なのか、小百合自身にもわからない。全ての意味である可能性もあった。


「こちらこそ。ごめんなさい」


 エイミが同じように謝ったので、小百合は次の言葉を見失った。目の前の若い女性は、何を謝罪したのだろう。


 他人の夫と寝ることか、突然押しかけたことか、それとも、自分のDNAを熊木田家に持ち込むことなのか……。


「上がりなさい。時間がない」


 熊木田の声に小百合はハッとした。目の前を楚々と通り過ぎていくエイミの姿を黙って見送った。


 2人が大きな吹き抜けにある階段を上っていく。


「どうして?」


 つぶやきが漏れた。あまりにも唐突な出来事の連続で、夢を見ているような気分だった。


 彼らが寝室のドアの向こう側に消えた後、小百合はリビングに戻って本を開いた。が、文字は見えなかった。テレビをつけたが音は聞こえなかった。頭の中には、あの若い女性のグラマラスな肢体が浮かんで踊った。それはからみついている。


 彼女がやって来たのは5度目だった。以前は何も考えないようにして全てが終わるのを待った。今日は寝室の2人が行っていることを考えていた。慣れたのかもしれない。


 しかし、想像するとじっとしていられなかった。室内を動物園の獣のようにぐるぐると歩き回った挙句、階段を上った。


 初めて2人の行為を自分の耳でとらえた。


 ドアの向こうから、女性の切ない喘ぎ声と、彼女と夫の肉体がぶつかり合う即物的な音が……。それがとても大きく聞こえた。実際以上に……。


 小百合は奥歯を痛いほどんでいた。それは女としての嫉妬ではなかった。ひとりの人間としてめていた場所を汚された怒りと屈辱……、そして、あらがいようのない自分の非力の哀しみ……。そんなものだ。


 ドアの前には30分も立っていただろうか。突然、声が聞こえなくなった。全てが終わったのだ。


 すると突然、立ち聞きをしていたことに恥ずかしさを覚え、急いで階下におりた。


 ソファーに掛けてテレビに眼を向けた。ワイドショーではキャスターとゲストが通り魔殺人事件の犯人像をあれこれと推理していたが、小百合の頭には、彼らの話が全く入ってこなかった。これから2階の2人はどうするのだろう? 自分は夫に向かって何を言えばいいのだろう?……そんなことばかり考えていた。


 ほどなく身なりを整えた熊木田が姿を現し、銀行名の入った袋を差し出した。毎月のことだ。袋の厚みは1センチほど、1万円札なら100万円だとわかる。


 半年前、最初の時はあえて質問した。


「何です?」


「俺は仕事に戻る。彼女が下りてきたら、渡してくれ」


「説明してください」


 小百合は、出来るだけ感情を抑えた。取り乱せば、熊木田も感情的な対応をすることをよく知っている。そうなっては自分の負けだと思った。


 夫が逃げるように背を向けた。


「帰ってから話す。重要な会合がある。人工的に子供をつくる方法があると噂で聞いたのだ。今日、会う人間がそれを知っているかもしれない。こっちが上手くいくとは限らないからな」


 彼は言いたいことを一方的に言うと行ってしまった。


 小百合は玄関で立ちすくみ、吹き抜けを見上げた。その廊下の奥の寝室に、夫が連れてきた女性がまだいるのだ。


 なんてこと!……小百合は叫んでいた。こんなことがあっていいはずがない。


 ――スーッと、音がなるほど息を深く吸った。すると少しだけ冷静になった。彼女に怒りをぶつけるのは間違っている。全て、夫が仕組んだことだからだ。


 彼女がおりて来るのに気づきやすいよう、リビングのドアを開けたままにする。サイドテーブルから1冊の本を手に取り、ソファーに掛けてその時を待った。


 手にしたのは〝偽りの記憶〟というSF小説だった。読むためではなく、心を鎮めるために手にした。直面した現実が夢や偽りであれば良いのに、と思いながら耳を澄まし、表紙の幾何学模様を眺めて時の流れに沈んだ。彼女が来るたび、そうしていた。

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