執念のDNA ――2026――
明日乃たまご
第1話 闖入者
「ア、ア、そこ、イイ……」
ドアの向こう側から夫と女性が
年間2兆円の売り上げを計上する熊木田コンツェルンを育て上げた夫は、その体力も精神力も人並み外れていて行動力もある。その行動が扉の向こう側で繰り広げられているのだ。
百合子が夫の熊木田
子供がほしくて大学病院で診察を受けたのは10年も前になる。検査では、夫には異常がなく、小百合の側に問題があった。卵巣にも子宮にも異常があったのだ。卵子には染色体異常が見られ、不妊治療をするまでもなく妊娠は不可能だと医者に宣告された。
病院からの帰り道、熊木田は「気にするな。2人だけで幸せになろう」と慰めてくれたが、10年が経って変わった。歳を重ねたからなのか、仕事が成功して社会的な地位を手に入れたからなのか、自分の子供を欲しがるようになった。
小百合は養子をとることを提案したが、夫は違った。
「親のDNAを引き継がなくて、何が子供だ」
彼はそう主張して譲らない。自分のDNAを残すことができない小百合の心情を察する様子は全くなかった。
3カ月前のこと。……その日の午後、熊木田が若い女性を連れてきた。小さな寺院ほどもある玄関吹き抜けを見上げる純朴そうな美女を、夫が紹介した。
「関連会社にバイトに来ている
自分と似た容姿で同じ血液型の女性を選んだ。夫は、それが思いやりのつもりなのだ。そんなことが何の慰めになるだろう。むしろ、その気持ちこそが不愉快だった。
「ごめんなさい」
小百合は思わず謝ってしまった。それが、夫に対する謝罪ではなく、夫に買われてやってきた女性に向けたものだというのは確かだ。
〝夫の言うことは間違いなのだ。帰ってくれ〝といった拒絶なのか、〝私の代わりにお腹を痛めてもらうなんて有難い〟という礼なのか、〝自分のような女がここにいて申訳ない〟といった謝罪なのか、小百合自身にもわからない。全ての意味である可能性もあった。
「こちらこそ。ごめんなさい」
エイミが同じように謝ったので、小百合は次の言葉を見失った。目の前の若い女性は、何を謝罪したのだろう。
他人の夫と寝ることか、突然押しかけたことか、それとも、自分のDNAを熊木田家に持ち込むことなのか……。
「上がりなさい。時間がない」
熊木田の声に小百合はハッとした。目の前を楚々と通り過ぎていくエイミの姿を黙って見送った。
2人が大きな吹き抜けにある階段を上っていく。
「どうして?」
つぶやきが漏れた。あまりにも唐突な出来事の連続で、夢を見ているような気分だった。
彼らが寝室のドアの向こう側に消えた後、小百合はリビングに戻って本を開いた。が、文字は見えなかった。テレビをつけたが音は聞こえなかった。頭の中には、あの若い女性のグラマラスな肢体が浮かんで踊った。それはなにものかに
彼女がやって来たのは5度目だった。以前は何も考えないようにして全てが終わるのを待った。今日は寝室の2人が行っていることを考えていた。慣れたのかもしれない。
しかし、想像するとじっとしていられなかった。室内を動物園の獣のようにぐるぐると歩き回った挙句、階段を上った。
初めて2人の行為を自分の耳でとらえた。
ドアの向こうから、女性の切ない喘ぎ声と、彼女と夫の肉体がぶつかり合う即物的な音が……。それがとても大きく聞こえた。実際以上に……。
小百合は奥歯を痛いほど
ドアの前には30分も立っていただろうか。突然、声が聞こえなくなった。全てが終わったのだ。
すると突然、立ち聞きをしていたことに恥ずかしさを覚え、急いで階下におりた。
ソファーに掛けてテレビに眼を向けた。ワイドショーではキャスターとゲストが通り魔殺人事件の犯人像をあれこれと推理していたが、小百合の頭には、彼らの話が全く入ってこなかった。これから2階の2人はどうするのだろう? 自分は夫に向かって何を言えばいいのだろう?……そんなことばかり考えていた。
ほどなく身なりを整えた熊木田が姿を現し、銀行名の入った袋を差し出した。毎月のことだ。袋の厚みは1センチほど、1万円札なら100万円だとわかる。
半年前、最初の時はあえて質問した。
「何です?」
「俺は仕事に戻る。彼女が下りてきたら、渡してくれ」
「説明してください」
小百合は、出来るだけ感情を抑えた。取り乱せば、熊木田も感情的な対応をすることをよく知っている。そうなっては自分の負けだと思った。
夫が逃げるように背を向けた。
「帰ってから話す。重要な会合がある。人工的に子供をつくる方法があると噂で聞いたのだ。今日、会う人間がそれを知っているかもしれない。こっちが上手くいくとは限らないからな」
彼は言いたいことを一方的に言うと行ってしまった。
小百合は玄関で立ちすくみ、吹き抜けを見上げた。その廊下の奥の寝室に、夫が連れてきた女性がまだいるのだ。
なんてこと!……小百合は叫んでいた。こんなことがあっていいはずがない。
――スーッと、音がなるほど息を深く吸った。すると少しだけ冷静になった。彼女に怒りをぶつけるのは間違っている。全て、夫が仕組んだことだからだ。
彼女がおりて来るのに気づきやすいよう、リビングのドアを開けたままにする。サイドテーブルから1冊の本を手に取り、ソファーに掛けてその時を待った。
手にしたのは〝偽りの記憶〟というSF小説だった。読むためではなく、心を鎮めるために手にした。直面した現実が夢や偽りであれば良いのに、と思いながら耳を澄まし、表紙の幾何学模様を眺めて時の流れに沈んだ。彼女が来るたび、そうしていた。
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