第17話 突然の来訪者

 遠くの方で、外界から敷地内を守るようにピント張り詰めていた結界が、ぐにゃりと歪んだ感覚がした。

 紅葉は俯かせていた頭をパッと上げて、感覚を研ぎ澄ませる。

 東の方角から2体、そして北の方角から3体。どちらもそんなに力は強くない。結界を抜けた影響で電流を浴びて、少なからず手負いの状態だろう。

 大丈夫だと分かっていながらも、紅葉の体はどこか緊張感を帯びていた。


 こんな感覚も、随分と久しぶりだ。任務に着く前は、いつも四季と暁の無事を家の中で祈るばかりだった。

 一緒に戦うようになってから、こんな感覚忘れていたのに。そわそわと気が急いて落ち着かない。

 だが、その焦りとは裏腹に、まだ半分、体がふわふわとしていて、上手く力が入らない。


(全く……。それもこれも、四季があんなに力を込めるから……!)


 先程の一件を再び思い出して、また紅葉の頬が熱を帯び始める。

 慌てて煩悩を振り払おうと、頭を左右にブンブンと振って、頬をパチンッと両手で叩いた。

 すると、気配も何もない、紅葉しかいないはずの結界内で、クスクスと笑い声が聞こえてきた。

 紅葉は目を大きく見開き、そして勢いよく声が聞こえた方への顔を向けた。


「すっごい驚いた顔。目ん玉こぼれそう」


 視線を向けた直後に視界いっぱいに広がったのは、赤い唇で弧を描き、三日月のように瞳を緩ませている、透き通るように青白い皮膚をした青年だった。

 目を奪われるほどに綺麗なその造形に、紅葉はゾッとした。


「人間の女の子って、ふっくらしてて血色が良くて、すごく美味しそうだね」


 青年はそう言うと紅葉の顎のラインをするりと撫で、またクスクスと笑う。

 耳元で聞こえてくる、舐めるようなその声色。全神経を逆撫でするような雰囲気。

 紅葉は、不気味な青年を振り払うように、体を後ろへ大きく退避させる。

 その拍子に四季の結界から抜けてしまい、張られていた結界は呆気なく崩れ去ってしまった。

  まだ本調子ではない紅葉は、その場で片膝をついて、下から青年を見上げる体勢になってしまう。


 ——彼は人間なのか?


 いや、そもそも何故この青年は、敷地内の結界ならまだしも、四季の結界内に入ってこれたのだろうか。

 結界に入れたと言うことは、恐らく妖怪ではないということだ。


 ——本当に?


 その一つの疑問が、紅葉の心の中に巣くって消えてくれない。


「そんなに警戒しないでよ。別に取って食いやしないからさ」


 そう言って、一歩、また一歩と、紅葉に歩み寄ってくる青年。


「あなた……、何者?」


 生きている人間にしては、あまりにも正気がない。しかし怨霊であれば、無傷でこの土地の結界を潜り抜けられるはずがない。

 紅葉は混乱する頭で、必死にその可能性を考える。目の前の青年は、ただニコニコと笑うだけで、紅葉の問いかけに応えようとはしない。


「さぁね、いずれわかると思うよ」


 そう言って、青年は宙で丸を描くように人差し指を小さく動かした。

 何事かと注意深く目を凝らすと、青年の指先から紅葉に向かってうっすらと糸が伸びているのが分かる。

 「あ」と思った時にはすでに遅かった。

 糸は紅葉の体をぐるりと巻き上げ、紅葉は身動きが取れなくなる。細い糸がギリギリと体を締め付けていて、あと少し力が強まれば、紅葉の皮膚に糸が食い込んで引きちぎられてしまうほどに強固となっている。


「心配しないで。今ここで君を殺すつもりはないよ」


 青年はそう言うと、ゆっくりと紅葉の方へ歩み寄ってきた。そして、真正面から紅葉を見下ろす。

 正面で見上げる青年は、その優美な振る舞いとは裏腹に、随分と存在感がある。

 それはまるで、本家当主の安倍統司と同じような風格を感じさせた。


「あれ」


 青年は、キョトンとした表情を浮かべた後、紅葉に向かって片手を差し出した。

 それは、紅葉の喉元へ向かってまっすぐ伸ばされている。


「君、持ってる元素、自分のものじゃないね」


 ピタリと、青年の指先が紅葉の鎖骨中央付近で止まった。そうして、あてがった指が下へツツ……と下がってくる。


「ちょ、っと!」


 突然のことに、紅葉は必死で身を捩る。だが、動くたびに糸が体に食い込んで、思うように動けない。


「あーあ、動いちゃダメだよ。ほら、血が滲んでる」


 青年が指差す方を見ると、丁度今日直ったばかりの左腕から、ポタポタと血が滴り落ちているのが確認できた。


「……離しなさい」


 紅葉は抵抗を止め、睨みつけるように青年を見た。


「はは、いいねその顔。人間の女の子も、ちょっとは楽しめそう」


 そう言って、青年の顔が紅葉に接近する。月明かりに照らされている青年の顔は、元より青白い色をしているが、より一層青み掛かっていて、まるで血の通わない人形のようだった。


「僕はトキ。よろしくね。君の名前は?」


 トキと名乗った青年は、紅葉から顔を離さぬまま、紅葉の茶色い髪を掬いあげて、その先端に口づけを落とす。その仕草が色っぽくて、紅葉の心臓がドクンと脈打った。



「紅葉!!」


 遠くの方から、四季の声が聞こえてくる。その声が紅葉の耳に届いた途端、紅葉の身体から力が抜けて行く。安心からだろうか。

 目を右の方へ向けると、四季と、その後ろからは白虎と天后が勢いよくこちらへ駆けている。


「へぇ、紅葉って言うんだ。可愛い名前だね」


 トキは四季の姿を確認した後、紅葉に近づけていた身体を離して、ふわりと宙に舞いあがった。それは到底人間技ではない。月を背にふわふわと自在に宙を舞っているその姿は、まるで天からやってきた使者のように、優雅で神々しい。


「じゃあ、またね。紅葉」


 トキはそう言って、更に天高く浮遊していく。いつしかその身体は霞んだ夜空と同化し、うっすらと見えなくなってしまった。

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