八咫烏の姫君
りょう
第1話 八咫烏の者たち
『
その歴史は古く、平安期にまで遡る。
かの有名な安倍晴明を始祖とし、彼に習い、
『八咫烏』を率いるのは、次代の命運を託されし次期天皇の、その裏の存在。
第二親王・
彼が従える『八咫烏』は、夜に紛れ、理から外れた存在”怨霊”を
時代が流れ、現代。ビルが煌々と光を灯し、大いに盛えた
今日も、
一、
八咫烏に属する娘、
紅葉はそこへ座り自由になった足をプラプラと遊ばせながら、輝く月を見上げている。
「あーあ、こんなに綺麗なお月さまが見えているのに、ゆっくりお月見も出来ないなんて」
独り言のようにポツリと呟けば、何もない闇の中で、姿が見えない何かがふふっと笑った。凛とした声は空気を震わせ、耳に心地よい音を届かせる。
そして、元々そこに居たのか、闇と同化していた黒からうっすらと水の色を付けて、その姿を露にした。
『紅葉さま。そんなに月を焦がれていては、月の従者さまに天高く連れていかれてしまいますよ?』
ピンク色の紅が上品に塗られているその唇に弧を描きながら、指先で口元を覆っている。その仕草は、その昔、上流階級の姫君がそう振る舞っていたかのように、しなやかで美しい動きだった。
彼女は、紅葉の式神・
「だってさ、幼いころから夜は家業があったから、友達と遊びに行ったり……デートだってしたことないし」
気恥ずかしさからか、最後の方は尻すぼみになってしまう紅葉を見て、天后はまたふふっと笑う。
『そうですわね。でもいつかきっと、紅葉さまにも「月がきれいですね」とおっしゃってくれる殿方が現れますよ』
「月がきれいですね」とは、夏目漱石が思い人に思いを告げた際にそう伝えたとされる、有名な一節だ。今日のような澄んだ夜空に浮かぶ月を見上げながらそんなこと言われてはさぞ胸が高鳴るのだろう。
……いや、そもそも現代でそんなことを言う男がいたら、なかなか夢見がちな危ない殿方なのではないか?
「……なんか、随分特殊な男の人じゃない? それ」
『そうでございましょうか? 日本のとても風勢があるプロポーズの言葉じゃありませんか。あら、でも、思えば紅葉さまは毎夜、殿方と逢瀬を重ねておいででしたね』
いたずらっ子がするそれのように、天后は少し小首を傾げて、唇の両端をニヤリと上げる。美しく妖艶な天后を見て思わず「それもそうね」と同意しそうになるも、紅葉は己を律してふるふると首を左右へ振った。
「違う! あれは逢瀬なんかじゃなくて……そう!ただの生存協力!」
そう必死に反論すると、天后は「あらあら」と言って、また上品に笑った。天后が突拍子もないことを言うものだから、紅葉の顔はみるみる赤く染まってく。
高揚する身体の温度を下げるようにパタパタと手で顔を仰いでいると、今度は下の方から声が聞こえてきた。
「何やってんだ、そんなところで」
程よくハスキーで、低い声。昔は紅葉と同じように高い声だったのに、知らないうちにめっきり男の人のそれになってしまった。
紅葉はウゲ、とした表情を浮かべて、天后へ向けていた視線を下へとずらす。
そこには、狩衣に身を包み、腰には全長90㎝もの刀を下げてそこへ手を軽く掛けている男の姿があった。
「……遅かったじゃないの、四季。てっきり今日は来ないのかと思ったわ」
「アホ抜かせ。さっきまで定例会で、親父に同席してたんだ。それに、まだ24時には早いだろ」
紅葉の精いっぱいの憎まれ口を何とも思っていないのか、四季は軽く受け流して紅葉と同じように門の上へと登ってくる。それはもう、約20mはあるところを、軽々とジャンプして。
門上まで来た四季は、よっこいしょ、と紅葉の隣へと腰を下ろす。
「ちょ、何で隣に座るのよ」
「なんだ、お前の上にでも乗っかってほしかったか?」
「違う! なんでわざわざ登ってきて、なんでわざわざ隣に座ったのかって聞いてんの!」
「そりゃお前、もう時間がないからな」
そう言うと、四季は逃がさないというように、自身の手のひらで紅葉の頭をぐいっと掴む。頭を掴まれた紅葉は一瞬目を見張るも、すぐにジトリとした視線を四季へと向けた。
「……離して」
そう言って、紅葉は頭を左右に振り、手を離せと抵抗する。だがしかし、四季の掌はとても大きく、紅葉の必死な抵抗などではびくともしない。
しかし、なおもその手から逃れようと、四季の腕を両手でググ、と掴んで離そうとする紅葉に、四季はムッとした表情を浮かべる。
「往生際悪いぞ」
四季は紅葉の手を掴み、紅葉の抵抗を制止した。そして、今度は紅葉の首筋に掛かる髪を息をふっと吹いて払いのけた。
「ん……」
突然その身に降って落ちた、ひやりと、だがしかしこそばゆい感触に、紅葉の口から声が漏れる。
四季はそのまま紅葉の首筋に唇を寄せ、腕に入る力強さとは裏腹に、触れるだけの優しいキスを落とした。
その瞬間、唇で触れられているところからポウ……、とあたたかい光があふれ出てきて、紅葉の全身はぬくもりに包み込まれる。
心地よくもむず痒い感覚を覚えるそれに、紅葉は身を捩った。だが、あたたかくて心地よいその感覚が、だんだん意識を曖昧にさせる。
(気持ちい……、いや、何思って……!)
ふいに現れた浮遊感に何も考えられなくなる小さな恐怖心を覚えながら、それでも四季に身を任せるしかない。
次第にまどろむような心地よさに、身体の芯から満たされる——そのすんでのところで、四季は紅葉の首筋から唇を離した。
くたりとした紅葉の表情をまじまじと見つめる四季。
結果的に四季から見下ろされる形となってしまった紅葉は、せめてもの抵抗で四季のことをギロリと睨みつけた。
「な、に……」
睨まれたことをうんともすんとも思っていないのか、四季はまだ、腕の中で小さく息を吐いている紅葉のことをじっと見つめている。
そうして、今度は紅葉から視線を外して正面を向いたかと思えば、顎に手を寄せ、静かに目を閉じた。
「いや……」
四季はしばらく考える素振りを見せた後、ニヤリと口元に笑みを浮かべて紅葉の首元を撫でた。
「っ……」
急にやってきたこそばゆい感覚に、紅葉は身を固くする。そんな紅葉の反応を楽しむかのように、四季は喉で笑った。
「そんなによかったか?」
「な……」
なにが、と言おうとしたところで、四季が声をかぶせて言う。
「物足りなそうな顔してる」
四季の言葉を聞いた途端、紅葉はカッと目を見開いて四季の身体を突き飛ばした。
拍子で四季は高い門から落ちる羽目になったが、軽く一回転して華麗に地面に着地する。余裕そうなその様子もまた気にくわないと、紅葉は握りしめた拳で地を叩いた。
「そんな顔してないわよ!」
紅葉は顔を真っ赤にして、つい大声で叫んでしまった。
四季は、そんな紅葉の反応をまたもや楽しんでいるのか、口元に手を当て、降りた地上でククク、と笑っていた。
紅葉は、八咫烏の術師には絶対不可欠である元素が発現していない。
元素とは、火、水、木、金、土による、いわば術者の力の源のようなもので、それぞれ生まれながらに持ち合わせているもの。擁する元素が大きければ大きい程、優秀な術者であるとされる。
その元素の質は、例外はあるもののそれぞれの家によって分かれており、四季が在する御門家は『金』元素、紅葉が在する士門家は『水』元素をそれぞれ擁している。
御門家や士門家のような、歴史が古く、力の強い術者を多く輩出している家は、代々分家筋の家元を統括する筆頭を任されており、その筆頭の座を巡って、水面下では家同士の内乱が行われている。なんでも、筆頭になるか否かで、国から給付される支援金が全く違ってくるらしい。所謂大人の事情だそうだ。
元素が発現していない紅葉は、元素の供給を他者から得なければならない。
元素があることで怨霊のことが視覚化でき、それを祓う能力を得ることができる。
幸いにも紅葉は元素を身体の中に留めておくことが出来る体質だったため、他者から元素の供給を得ることで、身体能力や防御力の向上をして戦う力を得た。
そして、現在は紅葉の元素供給の多くを、四季が担っている。
四季の持つ金元素と、紅葉の家系元素、水との相性はとても良い。元素の相性がいいと、それだけ術者の身体能力を底上げすることが出来る。
前線で戦うためにも、紅葉は四季とのこの歪な交わりを、甘んじて受け入れなければならないのだ。
「ああ、まだ乙女の純潔が奪われないことが何よりの救いだわ……」
「何ごちゃごちゃ抜かしてんだ。……来たぞ」
呆れ顔を浮かべていた四季が、途端に真剣な表情になる。
四季の視線の先には、怨霊が4、5体……まだまだ蠢くように地面から浮かび上がってきている。
「いいな、くれぐれも無茶すんなよ」
「わかってる!」
母親のように小言を言ってくる四季を振り切り、紅葉は弓矢の先端を怨霊に向けながら一目散に駆け出す。そして、紅葉の指から放たれた矢がヒュ、と空気を切り、怨霊の目の玉に命中した。
『グァガァァァ!!』
地を這うようなおどろおどろしい声が辺りに響いたかと思えば、怨霊の身体が塵屑のようにボロボロと消えてなくなっていく。
——よし、まずは一体。
今日の滑り出しは順調だ。紅葉は高揚する胸の高鳴りと共に、四季の方を見る。
四季は、まるで舞っているかのような美しい剣さばきで、怨霊の首を狩っていく。いつ見ても見惚れてしまうくらいの美しさだ。
それに、どうしても弓矢より剣の方が殲滅できる数が多くて、その事実が悔しい。
だが、四季が怨霊を剣で薙ぎ払っているその後ろから、もう一体、別の怨霊が四季に向かって攻撃を仕掛けようとしていた。
(四季、まさか気づいてない?)
四季の背後に迫る怨霊は飛び道具を使う中等怨霊なのか、四季に向かって狙いを定めているようだった。
四季を助けるのは癪だが、ここで怪我でもされては後味が悪い。
紅葉は思いっきり弓を引き、怨霊に狙いを定めて矢を放つ。紅葉が放った矢は、四季の首元をすれすれで通り過ぎ、四季の背後から攻撃を仕掛けようとしている怨霊の目を貫いた。
『グギャアアアア……』
悲鳴のような歪な声がした方を振り返った四季が、怨霊の消滅を確認した後、今度は自分の首筋を撫でながらゆっくりと紅葉の方へ視線を向ける。
「……俺の首が飛ばされるのかと思った」
感謝の言葉の一つでも寄越すかと思いきや、四季から発せられたのは自身を憐れむかのような言葉。助けた紅葉としては、とても気分がいいものではない。
だが、荒ぶる姿を見せれば、それこそ四季の思うつぼだ。そう思い、紅葉は先程の天后のように、凛と姿勢を正し、そして真っ直ぐに四季を見据えた。
「あら、そうした方がよかったかしら?」
紅葉は弓矢を一本引き抜いて、その矢先に元素を込めた。
うっすらと金に光るその矢は、先程四季より供給を受けた金元素を帯びている。その矢先を見て、四季はハン、と馬鹿にしたように鼻で笑った。
「冗談だろ。俺がお前如きにやられるか」
なおも憎まれ口を叩く四季に、とうとう紅葉も我慢ならないというように、小さな子供が
「もう! 助けてもらったんだから素直にお礼とか言えないわけ!?」
そんな子供じみた言い合いをしていたら、またもや地面から次々と怨霊が現れる。
二人は小競り合いを続けながらも次々と怨霊を殲滅してゆき、助け、また助けられながら今日も夜が明けていく。
『ああもう、紅葉さまも四季さまも、昔のように仲良く出来ないのかしら?』
『仕方なかろう。思春期の男女はなかなか難しいのだ』
側でふたりの掛け合いを見ていた天后の声に応じたのは、四季の式神・
その名の通り、強大で白い体躯に、金色の文様を纏わせた虎神だ。
『あら白虎様。いらしていたのです? 相変わらずのんびりしていらっしゃいますね』
天后はツン、とした物言いで白虎に話しかける。対する白虎は、そんな天后の様子を気にも留めていないのか、飄々とした様子で天后の隣に並び立った。
『相変わらずそっ気がないな。天后』
やれやれ、といった様子でため息をつきながら笑いかける白虎の方を見ずに、天后はその態度を崩さずに言う。
『そう思うのでしたら、獣の姿なんてせずに人様になったらどうですの』
どうやら天后がご機嫌斜めなのは虎の姿だかららしい、ということは白虎も察したが、かといって特にどうするということもなく、白虎は愉快とでも言うように笑い飛ばした。
『二足歩行は疲れるからな』
その白虎の返答に、それまでにこやかな表情を崩すことがなかった天后の眉間に皺が寄る。袖で口元を隠すように右手をあてがい、天后は少し怒気を孕んだ声を発した。
『アナタの嫌なところはそういうところです!』
『怒ると美人が台無しになるぞ』
天后と白虎は、共に長く御門家、士門家に仕えてきた式神だ。代は変われどこの二人は変わらずに二家と共に戦いに身を投じている。
「あれ? 白虎が出てくるなんて珍しいわね。何かあったの?」
数十メートル離れたところで怨霊と対峙していた紅葉が、背中合わせにいる四季に問いかける。四季はそちらを見もせずに、目の前の怨霊に向かって剣を振り下ろす。
四季は真っ二つに割かれた怨霊が塵となって崩れていく様子を見届けた後、息を乱すこともなく口を開いた。
「さぁな。今夜は月が綺麗だからじゃねぇか?」
さらりと言ってのけた、四季に似合わないロマンティックな見解。
それを聞いて、思わず紅葉はギョッとする。それもこれも、会話の内容が先程天后としたそれと随分酷似していたからだ。
『月がきれいですね』
(いやいや、四季に限ってそんなに深い意味はないでしょうけど……)
妙な既視感に妙な胸騒ぎを覚えながら、紅葉は目の前の怨霊に向かって矢を放った。
夜が終わり、辺りが明るくなり始めると、怨霊は姿を現さなくなる。怨霊は日の光が嫌いなのだ。だから、夜のうちにこの国の最高権力者である天皇の根城を襲いに来る。
それを滅し、天皇様、皇族の皆さまをお守りするのが、『八咫烏』の役目だ。
「夜明けはもうすぐね」
最後のひと矢を放ち、怨霊を滅したところで、紅葉は辺りにあった怨霊の気配が無くなっていることに気付いた。
「ああ、もう、大丈夫だろう」
四季のその言葉に、紅葉は安堵して気が緩む。
この辺りには、先祖である安倍晴明の結界が張り巡らされている。この結界は、指定されたエリア内に怨霊を引き止めておく役割と、エリア内にいる怨霊の気配を術者に知らせる役割を担っている。
闇が明け始めているこの時点で怨霊の気配がないということは、もう今日はおしまいということ。
軽く伸びをして身体をほぐしていたその時。
——紅葉は背後に忍び寄る何かを感じた。
「ッ!?」
急いで振り返ると、目の前に飛び込んできたのは鎌を片手に紅葉に振りかぶっている怨霊の姿。
紅葉は新たに現れた怨霊ではなく、完全に消滅しておらず最後の力を振り絞って襲い掛かってきているのだと悟った。
『紅葉さま!』
鎌が当たる、という間一髪のところで、天后が怨霊に術を仕掛け、振り下ろされた鎌の軌道が微かに外れた。
「…ッ!」
軌道が外れたとはいえ、振り降ろされた鎌の切っ先が紅葉の手の甲を掠める。紅葉はすかさず、目の前の怨霊に向かって手をかざした。
「“
紅葉がそう叫んだ瞬間、怨霊の身体は光に包まれ、そして次の瞬間、引きちぎられるように破裂した。
その身体は、跡形もなく塵となって消えていく。
「紅葉! 大丈夫か!? こっちで怨霊の気配が……」
気配を察知した四季が慌てた様子で木々の茂みから顔を出した。ズキズキと痛む左手を隠して、紅葉は笑顔を浮かべる。
「ええ、平気。……残霊がいたみたい」
「……そうか。なら、帰るぞ」
——大丈夫、気づかれてない。
こんなことで怪我をしたと知られたら、きっと「そんな雑魚も倒せないのか」とバカにされるに決まっている。
四季の力を借りるのは、元素の供給だけで十分だ。これ以上、足手まといになってなるものか。
(早く……元素を発現させないと……じゃないと、私……)
紅葉はそれ以降の考えを振り払うように頭を振った。
そして、持っていたハンカチで軽く血を拭いて手を縛り、四季の背を追うように帰路に着いた。
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