優しさ
瑚春が湧清水を飲み終えると、珂月はもう一度岩に触れた。
すると勢いよく出ていた水はまた小さな流れに戻った。
珂月はそれを確認した後、荷物の中から
そしてまず榊の枝を地面に立てた。
「結界ですか?」
「ああ、そうだ」
瑚春の問いに珂月は短く答え、次に注連縄を岩へ括り付けた。
しめ縄には境界内の出入りを禁じるという封印の役割がある。
これを飾ることにより内側とその周りも清浄な区域と示す。
「この水元はこのまま春が来るまで封じておく。雪が溶けてからでないと
「そうですか」
「帰るぞ」
「え、北へは? 次の水元探しはいいのですか?」
「山の陽の入りは早い。ただでさえおまえはのろいんだ、北へ寄ってたら夜になる。俺を夜更けまで歩かせるつもりか」
「でも珂月さまは毎晩、夜更けまで水元を探し歩いていると沙弥子さまが言ってましたけど」
「今日はもう帰る。おまえは夕飯の支度でもしてろ」
(───ということは)
「わたし、お山のお屋敷に残ってもいいんですね!」
大きな黒い瞳を更にぱっちりと開き見上げてくる瑚春に、珂月は一瞬言葉を詰まらせたようだった。
「あ、ぁあ。………だ、だが間違えるなよッ、おまえはまだ嫁じゃない。───そうだな、弟子だ。弟子!」
「でし⁉」
「弟子みたいなもんだ」
「…………そう、ですね……。私より珂月さまの方が水を操るのお上手ですものね」
そういえば、おばば様も言ってたっけ。水技などは夫に教えてもらえばいいって。
「判りました。弟子にしてください。私、頑張って残りの水元も探しますから。でも………その代わりと言うのもあれなんですけど、私に水技を教えてください。私、水を操ったり雨を降らせるのが苦手なんです」
「は⁉ 水元は探し当てるくせにか?」
珂月は呆れ顔で言った。
「はい。でも夫に教えてもらうようにと、おばば様にも言われましたから」
「だからっ。俺はまだ夫じゃない!」
「あ、そっか。ではお師匠様と呼んだ方がいいのでしょうか?」
「………名前でいい」
「はい。じゃあ珂月さまで。───では珂月さま、今日から御指導よろしくお願いします!」
「あのなぁ………」
期待のこもった眼差しを向けてくる瑚春を前に、珂月は息を吐いた。
「じゃあまず汁物だ」
「しるもの?」
「昼飯に出た汁物、味が薄い。もうちょっと塩など加えろ」
「………はぁ。あの、ぇっと」
水技の話からなぜ食べ物の話になるのだろうかと不思議に思いつつも、聞きたいこともあったので、瑚春はそのまま言葉を続けた。
「珂月さまの好きな食べ物はなんでしょうか。お肉ですか? お魚ですか? 野菜派ですか?」
「芋煮が好きだ」
言ってから、うっかり答えてしまった!というような気まずい表情を浮かべ、珂月は瑚春から視線を外した。
「───家に帰るぞ!まったり話なんぞしてたら日が暮れるだろうがッ。………ほら、乗れ」
珂月は素早く足元に霧船を造った。
「えぇっ。珂月さまの霧船にですか?」
「なんだ、その嫌そうな顔は」
(だって酔うし!きっと絶対!また酔うもんっ)
「じ、自分の霧船で帰れます」
「そんなに色の悪い顔して何を言う」
(え、顔色………?)
「帰って寝込まれても困るからな」
(もしかして私の体調を気遣ってくれてるの?)
「ぁの……。お気遣いは嬉しいんですけど、珂月さまの霧船の速度だと私、酔うんです」
珂月が不機嫌になるのを覚悟して言ってみたのだが。
「おまえが酔わない程度に飛んで行けばいいんだろ」
あれ、怒ってない?
表情は仏頂面だが、不機嫌という感じではなかった。
「ほら、乗れ。座ってていいから」
そして言うが早いか珂月はひょいと瑚春を抱え上げ、ぽん!と霧船の上に乗せた。
「座ってろ!」
こう言われたものの自分の霧船でないと、なんだか乗っていても安定感がなく、落ち着かなくて怖かった。
船上でぐらぐらと危なっかしい瑚春の様子に珂月は言った。
「───まったく。ほんとにおまえは世話のかかる奴だなッ。俺も座るから背にでも掴まっとけ」
珂月は言いながら霧船に乗ると瑚春に背を向けて前に座った。
「ほら、手を出して俺の腰から前に回せ」
言われるままにおずおずと、瑚春は後ろから珂月の腰に手を回した。
(……ぅわっ⁉)
次の瞬間、その手を強く引っ張られ、珂月の腹の前で組むように重ねられた。
「寄りかかっていいし、目も閉じてれば酔わない。しっかり掴まっとけ。行くぞ!」
すうっと風が湧き起こり、霧船があっという間に空へ昇る。
(ちょっ───と! これのどこが酔わない程度なのっ)
安心できると思いきや、珂月の操る霧船の速度は以前と変わらずに速い。
───けれど。
以前よりあまり怖くないと思うのは、目の前にある珂月の大きな背中が、吹いてくる風を避けてくれているからだろうか。
それとも珂月さまの背中や手が暖かいせい?
───わからない。
冷たいのか、暖かいのか。恐いのか、不機嫌なのか。
でも感じられたものがある。
それは珂月の優しさだった。
瑚春は珂月に言われた通り、その背に寄りかかりながら目を閉じることにした。
♢♢♢
その晩から、瑚春は自分の荷物が置かれてあった部屋を使うことになった。
誓いの盃を交わしたけれど、寝室は別々。
本来ならば今夜は初夜のはずだったが。
珂月は夕飯とお風呂を済ませると、寝ると言って自分の部屋へ行ってしまった。
家事を済ませた瑚春も湯を浴びてから自室へ戻った。
部屋で一息ついた途端、疲労感に襲われた。
(………疲れた)
厳かで感慨深い婚礼の日を頭に思い描いていたはずが。
慌ただしく郷入りし、山で湧清水探しをすることになるとは。
しかも嫁ではなく弟子だと言われ、嫁入りではなく弟子入り初日になってしまった。
瑚春はため息をつきながら布団へ横になった。
(私、ここでしっかりとやっていけるだろうか)
不安な気持ちの中に心が沈みそうになった。
でももう戻れない。
この屋敷に残ることを決めたのは自分なのだ。
私にできることを頑張るしかない。
ごろんと寝返りをうった途端、咳が出た。
瑚春は冬になると冷たい空気や風のせいで咳が続いたり、喉が痛む症状がでる。
一度咳き込むと、なかなか治らないときもあり、注意が必要だった。
今日は霧船に乗ってる時間も多かったから。暖かくして寝ないと。
瑚春は咳の苦しさに耐えながら、掛け布団を多めに重ね、しっかりと包まる。
咳はだんだんにおさまり、それほど長く続くことはなかった。
ホッと一呼吸ついたとき、部屋の隅に掛けられたままの花嫁衣装が目に入った。
故郷で仕立てられた花嫁衣装を見つめていると、なんだか元気が出るような気がした。
(珂月さまは無愛想で不機嫌だけど、意地悪な人ではなさそう)
明日も山へ連れてってくれるだろうか。
残り四つの水元のうち一つは見つかり、もう一つの目星もついた。
あと二つの水元も見つけられたらいいな。
それから水技の練習も頑張らなくちゃ………。
あれこれ考えていると、疲れた身体に眠気が回り瞼が重くなっていく。
瑚春はゆっくりと眠りの中に包まれていった。
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