蛇の恩返し

ことり

蛇の恩返し

 敷き蒲団に伏したままで、本来ならば見慣れた檜の天井が視界に映るであろう時に、いよいよ瞼を開くことすらも億劫になって。

 暗闇しか映し出さない視界に、己の死期がもうすぐそこまで迫っているのだということをなんとはなしに悟った。

 そんな今際の際に思い出すのは若くして亡くなった最愛の妻と───遠い昔に助けた蛇のことだ。



これはもう、今となっては遠い昔の話だ。


俺には何も無かった。

両親とは不仲で、実家にはもう帰りたくないと思って一人暮らしを始めた。

けれどそれも上手くいかず。

恋人も、友人もいない。

その日暮らし程度の金しか得られない仕事で何とか食い凌いでいた。

生きているけど、生きていない。

ただただ動き続けるロボットのように、同じことの繰り返しの人生。

生きる意味なんて何も分からないけれど、だからといって死ぬ勇気すらない。

死ぬのは痛いし怖いから嫌だ。

本当に、なんのために生きているのだろうかと考え続けて、続けて───また同じことの繰り返し。

そんな面白みのない日常のさなかで、俺は一匹の蛇を見つけた。

24歳の、夏のことであった。



見つけたというべきか、たまたま視界に入ったというべきか。

何も無い自分に絶望して地面を睨み付けながら歩く俺の前に、偶然その蛇はいた。

数時間前の通り雨のせいで滑ってしまったのだろうか。

排水溝のグレーチングの網に、尻尾を覗かせたまま器用に挟まって抜け出そうともがいている蛇が。

蛇といえばどこか賢そうな印象が強かったから、随分と間抜けなヤツもいたものだ、と久しぶりに自然に笑った。


「出してやるから、じっとしていろ」


蛇に言葉など通じるのか分からないが、何となく助けてやろうかという気持ちになって、俺がそう声をかけると蛇は途端に力を抜いてへにょりとただの縄のように動かなくなった。

別に偽善者ぶっている訳では無い。

ただ、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」では蜘蛛を一度助けただけの悪人が、お釈迦様に救いの手を差し伸べられていた事を思い出したのだ。

尻尾を掴んで、優しく引き抜いてやる。

地面に下ろすと蛇は俺の顔をまじまじと見つめた。

長い舌を何度も出し入れして、ありがとうと礼を言うように俺の周りをぐるぐる回る。

その行動にまた吹き出してしまった。


「お前、面白いな」


その場にしゃがみこんで、蛇の頭を人差し指で撫でる。

蛇は嬉しそうにチロチロと舌を震わせた。




そんなこんなで蛇を助けた数年後。

なんと俺には妻ができた。

歳は妻の方が少し若い。

雪のように白い肌。漆を塗ったように艶やかな、黒が濃すぎる髪はいっそ緑がかって鉄色に見える。

吊り上がった琥珀色の強い瞳には、どこか蛇のような印象を受けた。

俺にはもったいないくらいの美しさと器量を持ったまさに理想の女性だった。


妻を迎えてから俺の生活は一気に変わった。

幸運にも給料の良い職に着くことができて、金に困ることは無くなった。

何より、今まで孤独だった俺を優しく癒してくれる妻のおかげで磨り減った俺の心は徐々に回復し、安定し始めた。


俺と妻の間に子供はいない。

妻が子供を望まなかったのもあるが、俺も妻がいればそれだけで幸せだったからだ。

ただ、互いに大人なので愛を確かめ合う行為自体はあった。

妻の肌は絹のように滑らかで、指を滑らせるのがとても楽しかった。しかし、人とは思えないほどにヒヤリとした体温に、時折前に助けた蛇の温度を思い出させた。

だからだろうか。

妻は手を繋ぐのが好きだった。

冷たい妻の手を握るとじわりと俺の体温が移動して、染み込んで、妻の手は初めて人の温度を取り戻す。

そうすると妻は、心の底から幸せだと言うように、嬉しそうに綺麗な笑みを浮かべるのだ。

俺はその表情に何度心を奪われたか分からない。


妻は視力があまり良くなかった。

さらに、口もきけなかった。

だから妻が何かを伝えたい時はメモとペンを執るのだが、その清廉とした美しい見た目からは想像できないほどに歪な、ミミズの這ったような字を書くのでよく暗号解読をさせられていたものだ。

その代わりに、妻は嗅覚に優れていた。

俺の職場の隣の席にはいつも花のような、ふわりと香る程度の香水をつけている後輩がいたのだが、その匂いすらわかってしまうらしく。

帰宅すると俺の傍に来てスンスンと匂いを嗅いではその香水を感じ取って、ムッと頬を膨らませながらじとりとこちらを睨むのだ。

すると俺は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。

妻は嫉妬深いというか、非常に執着心が強かった。

それほど俺への愛が強いということなのだろう。

だから決まって俺はこう言うのだ。


「浮気なんてするわけないだろ。俺はお前一筋だよ」


そう言って抱き寄せて頭をポンポンと撫でる。

そうすると安心したようにふにゃりと身体の力が抜けて、俺にもたれかかってくるのだ。

そんな妻の少し面倒臭いところですら可愛くて、愛おしさが増していくようだった。

ほかの誰よりも、何よりも。

きっと自分以上に大切で、世界で一番愛していた。


そんな妻が亡くなった。まだまだ若かったのに。

俺と出会って15年経った頃だった。


妻は肌が弱かった。すぐに日焼けをするのか、しょっちゅう皮膚が剥けていた。

だから俺が知らなかっただけで、本当はなにかの病気だったのかもしれない。

でなければ幸せそうによく笑う、あんなに元気な妻が突然あの世に、ましてや俺一人を置いて逝ってしまうわけが無い。

現実を受け止めたくなかった。

だって、目の前に横たわる妻の肌は生前と変わらず冷たいままだった。

でも、気づいてしまった。

自分の死をわかっていたかのように、弧を描いた口元を見てしまった。

『短い間でしたが貴方と一緒にいられて私は本当に幸せでした』

そんなことを言いたげな表情で妻は永遠の眠りについていた。

俺はその瞬間、妻の死を理解した。

そしてまた孤独になった。




あれから俺は再婚もせず、一人寂しく妻との思い出が詰まったこの家で暮らしていた。

妻はドジな上に味覚音痴で料理下手だった。

だから、妻の手料理より正直俺が作った料理の方が美味しいはずだ。

それなのに、今の俺の料理は味がしない。

二人で笑い合って食べた妻の料理の方が極上に美味かった。

この家には、隅から隅まで妻との楽園のような日々の記憶が染み付いていて。

妻のことを思い出さない日は一度もなかった。





だから今、こうして妻と過ごした思い出の家で天寿を全うできることは何よりも幸福だった。

まったくいい人生だったと布団の中で意識が遠のきかけた時、ふと何かが動く気配に気づいた。

枕の上でもぞもぞと絶えず動く何か。

それが俺の頬にぴと、と触れた。

酷く冷たい、けれどどこか懐かしいその正体が知りたくて、最期の力を振り絞って目を開く。

霞む視界の目の前にいたのは幼蛇だ。

過去に助けた蛇と同じ見た目をした、琥珀色の眼光を持つ蛇。

それを見て、何度ももしやと考えた、あまりにも現実味がないからと切り捨ててきた可能性に確信を持つ。

あぁ、そうか。

やっぱりあの妻は、昔助けた蛇だったのか。

妻の最期を看取った俺を、今度は看取りに来てくれた小さな蛇に、頬を寄せる。


そうして一人の男の生涯は幕を閉じた。













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