第42話 魔道士エイボン

「――あれ、あそこにいるの、なんですの?」


 シノンちゃんが見つけた何か。


 その時の俺はドクターと話をしていた。笑い声をあげての馬鹿話だ。だけど周囲への警戒は怠っていないつもりだった。


 いや、幻想器と革命器。現在考えられる最高の迷宮宝具を俺たち。場所も深淵にいたる前の通常のダンジョン。……少しは気を抜いていたか。


 やはり油断はしていたのだろう。

 だから、いつのまにか彼女が先頭になっていたことに気づかなかった。


「ぴ」


 シノンちゃんがおかしな声を上げて固まった。


「おや、どうしたのでぇすか、お嬢。何かいたのでぇすか?」


 ドクターがシノンちゃんの視線の先に目を向けた。そこは崖になっていて、その崖の前に小さな石像が置いてある。


「あれは……」

 ドクターの声がワントーン低くなる。


「え、なになに?」


 一方、興味津々なのはマツリカちゃんだ。固まったままのシノンちゃんのそばを通り過ぎ、像に近づく。


 その石像は、醜悪な容貌をしていた。皺だらけで、いぼだらけで、分厚い眠たげな瞼に半ばまで隠された胡乱うろんな瞳が見える。色は苔むした緑色。ところどころ剥げ、ところどころが欠けている。


 一見するとただの石像に見える。だがそれが放つ圧倒的な存在感が、あれがただの石像だなんて楽観的な理解を拒む。不気味。ただただ不気味な。


 あれは――


「――大丈夫だよ。ただの石像じゃない?」


 のんきなマツリカちゃんは理解していない。

 

「ちが、その、先、向こう側……」なんて掠れ声のシノンちゃんを無視して、像のすぐそばまで。そしてその石像をさわさわと撫でた。


「ん~~~。ほら、やっぱりただの石」

「――ちがっ、後ろ、向こう」


 彼女の軽鎧を模した探索者スーツの腕が上がる。無遠慮にさした指は石像のそのさらに向こう側を向いていた。


 そこはすでに断崖だ。影に隠れて見通せない暗闇。はてしない闇が広がっている――ように見える。俺だってその石像が無ければ、気づかなかったかもしれない


「後ろって何が……」とマツリカちゃんが振り向いた時、その暗中に赤き眼がどろりと鈍く光る。生臭い息が吐きだされる。闇の中から巨大な手が伸びる――。


「マツリカちゃん抜刀! 右ッ!」


 俺が叫んだのと、崖の下から生えてきた手が彼女を薙ぎ払ったのは同時だ。

 紺のセーラーがきりもみ回転し宙を舞う。ドクターが即座に反応し、風でクッションを作り受け止める。風が止んだ時彼女が降りてきて、ぺたんと尻もちをついた。


「――――ぁ、え、は? ……な、なに? な、なにが起こって……?」


 見る限りマツリカちゃんは無事だ。薄墨丸うすずみまるを鞘半ばまで抜いたのが良かった。身体強化が発動し、ダメージを軽減した。それに、そもそもあれは攻撃じゃないだろう。触れたから、ただ触ろうとしただけだ。ヤツが本気で攻撃したならば、すでにマツリカちゃんは肉塊になり果てていただろうから。


 そんな事実を知らない彼女は、何が起こったか理解できずに目を白黒させていた。


「無事なら構えるんだ。いつまで惚けてる!」

「は、はいっ!」と返事をして我に返った。


 俺達の眼前には、谷間の底から立ち上がり、崖上の俺達を睥睨する巨大なヒキガエルに似た顔が見下ろしていた。


 土の虚神ラヴクラフト。怠惰の化身【ツァトグゥア】がそこにいた。げぇっ、げぇっ、げぇっ と下卑た笑いが渓谷に響く。


「これまたどでかく顕現けんげんしたもんだ……」


 なんでこんな場所にコイツがいるんだ。 

 確かに用と言えるものはあったが、わざわざ出迎えに来てくれとまでは言ってない。まだ深淵アビスに入ってもいないのに。


「私たちがあんな話をしていたので、気を使ってくれたのでぇすかねぇ……」


 呆れるほど巨大で、不潔で鈍重。腹がでっぷりと肥えた巨体が身をゆする。

 現役時代はともかく、復帰後にツァトグゥアと遭遇するのは二度目だ。前の時はもっと小さかった。奴の危険度、本気度は大きさに比例する。変幻自在の体積を持つツァトグゥアは大きければ大きいほど危険だ。


 その体長およそ20m近く。

 今まで出会ったなかで一番大きい顕現。

 この大きさは――死ぬ。俺達であろうと。


 緊張が走る。その時だ。戦場に居ないはずの人物の声が聞こえたのは。


「ぁあ……。久しぶりですね。アサヒ、ドクター……」

 それは、どこまでも陰うつで抑揚のない声だ。


「――あな、た」

 声を上げたのはドクターだ。だがそれは声にならない驚愕に満ちていた。


「え、え、え、誰……?」

 まだ自体を把握していないマツリカちゃんは呆然とツァトゥグアを見あげる。シノンちゃんはまだ固まっていた。彼女は想定外な出来事があると固まる癖がある――あとで注意しなければ。だが視線は外さなかった。敵から目を離さないのはいいことだが、あるいは外せないだけなのだろう。


 視線の先には、ツァトグアの眼前に浮く人影。黒衣の修道服。顔に刻まれた深い皺。いつも不機嫌そうな渋面を浮かべた人物。


 あの日、行方不明になったと聞いていた。もう二度と会うことはないのだろうと思っていた。それは、抗うものの家アーカムアサイラムのリーダーだった男。


我が主マイロード、彼らのそばに――」


 言葉を発したあと、彼は泥になって消える。

 だが、次の瞬間、眼前に泥が盛り上がり、再び人の姿を取った。


「アサヒ、ツァトゥグア様の権能を継承するもの」


 囁くようにつたえ、そして消える。

 今度の出現は、ドクターのそばだ。

「名状しがたきもの、風のハスターの眷属、風雪のイタカァを身にまとうもの」


 また、消える。

 そして、次に現れたのは、シノンちゃんとマツリカちゃんの近く。

 マツリカちゃんの手に触れる。


「ああ、これは小さい。小さな力だ。だがのものか。暗黒のファラオ。唾棄すべきベビーシッター。幼子の遊び相手が増長した影。それから――」


 続いて怯えるシノンちゃんの顔を触った。

「良いな、旧神の力も得たか。ノーデンス光り輝くもの。意思を奪われ彷徨さまよう残骸となり果てた。あれが健在であれば、無貌の自由にもさせなかっただろうに」


 そして、とぷんと消える。


「――歓迎しよう。たちよ。その手にしたもので戦うにはあまりに拙い。叡智を授けねば。星の叡智えいちだ。私がかって得たものだ。億年の悠久の歴史を刻みしこの星と、古の神々と、星辰のことわり。心配はいらない。ここはすでに、無貌の領域にあらず。ツァトゥグア様が支配する領域。ン・カイ暗黒神殿であるからに」


「あ、アナタは、何を言っているのでぇえすね。――死んだのではなかったのでぇすか! エボン神父!!」


「――すまないドクター。その説明もまだだったね。我はエボン・リーにして、エボン・李にあらず。遥か彼方に封じられし過去なる記憶を取り戻し、ツァトゥグア様の忠実なる信徒にたち戻りしもの。星辰の空なる土星サイクラノーシュに渡りて、人を超えたもの。今、あえて呼ぶならばで呼んでおくれ――」


 もはや驚かない。神出鬼没に消えては現れる彼。

 人間じゃないんだと納得した。ツァトゥグアの顔の横で微笑んで。


「魔道士エイボン、それが私の名だよ」


 そう、静かに名乗った。

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