博愛病
小狸
短編
*
「はあ?」
そんな素っ頓狂な声が出たのは、夫と怪我をした娘を見、夫から事の
私の名前は、
夫は
忽は今年で六歳になる。
日用品を買いに車で行って、忽の面倒を見てくれるように、夫に頼んだ。
そうして帰ってきたら、娘が手に包帯を巻いていた。
どういうことかと説明を要求したが、夫は口を濁そうとしていた。
それに気付いた私は、娘を「ちょっとパパとママで話があるからね」と言って、二階に避難させ、食卓の両側の席について、事情を聞くことにした。
そしてその結論を聞き、私はそんな声を出した、という塩梅である。
ここで事前情報として差し挟んでおきたい。
私と私の両親についての話だ。
まず私について。
私には、兄と姉がいる。
そして私達と両親は、破滅的に仲が悪い。
いや、もう険悪を通り越して、会いたくない。
会う気がない。
葬式があっても、二度とその顔を見るつもりもないし、声も聴くつもりはない、と断言できる。
率直な物言いを許されるのならば、早く死ねば良いと思っている。
できるだけ苦しんで――とか、同じ苦痛を味わえ――とか、最早そういう次元の話ではない。
一刻も早くこの世からいなくなって欲しい。
そういう共通認識が、私達兄妹にはある。
私の父は、端的に言えば、亭主関白であった。
そして端的に言わないのなら、当然のように、私達に暴力を振るってくる男だった。
気に食わないことがあると、すぐに暴力に訴える――そんな人だった。
殴られる蹴られるなんて日常茶飯事、父の機嫌の変わり目がいつになるのか、家にいる時はずっと怯えながら過ごしていた。寝る時は必ず三人一緒で固まって寝ていた。そうでないと、蹴り飛ばしに来るからである。修学旅行などには、だから行けなかった。
それ以外にも、姉が高校卒業したら水商売をさせようとしたり、私を高校に行かせないと言ったり、本当、亭主関白の悪い所を凝縮したような、論外の男であった。
兄の片耳が失聴しているのは、父から叩かれたせいであり、姉が直立に立てないのは、父が抱っこしている時、わざと落としたからである。
世の中にはいない方が良い親がいるというけれど、間違いなく両親はその
両親――といった。
母も、である。
母は、父の暴力の矛先が自分に向かないように、私達を差し出していた。
まるで
近所では、常に「暴力的な夫を何とか抑えようとする健気な自分」を演じていたのである。それは成功しており、母は私達にはほとんど手当をしてくれなかったというのに、自分には露骨に包帯を巻いて――である。私達が殴られて蹴られた後「ごめんね、ごめんね」という風に、謝るのである。止めるのではない。謝るのだ。そして「暴力的な夫を何とか抑えようとする健気な自分」の演出に一所懸命を尽くす。
そういう親の下で育った私達には、色々と後遺症が残った。
前述の肉体的なものだけでなく、心にも、勿論。
特に兄は、同性として「もし自分に子どもができたら、同じことを繰り返してしまうのではないか」という思いに囚われ、縁談や人との交際をずっと避けてきた。私は、あの父とは同性ではないけれど、自分が家庭を持ったときの悪い想像は、時折ふとした時に私の脳裏を過って、私を不快感で一杯にするのだった。
そんな両親とは、大学進学(祖父母の援助のお蔭で行けた)を機に、半ば絶縁し、こちらからは絶対に顔を合わせないという協定を、三人兄妹間で結んでいた。
大学進学後、私は、会社にて彼――今の夫と出会った。
夫には、私の家庭環境を既に話していたが、それでも、彼は私と一緒にいてくれる道を選んでくれた。
そして子を産み、まあ順風満帆という程ではないけれど、以前のような苦痛のない人生を送るはずだった――。
のだが。
「ちょ――ちょっと待って、何言っているの? 何で私の父に忽を会わせたの?」
「…………」
「私言ったよね? 父からは虐待、受けてたって。殴られ蹴られされてたって。痣も見せたよね? そういう親だって、言ったよね? 絶縁しているって、言ったよね? それなのになんで――」
なんで、忽を、会わせたのか。
理解することができなかった。
「――いや、忽がさ」
と、やっと口を開いたと思えば、それは言い訳だった。
「幼稚園で、おじいちゃんの家に行った子の話を聞いてきたそうなんだ。それで俺に『どうして私にはおじいちゃんとおばあちゃんがいないの?』とさ。俺の方の両親はもう他界しているだろう? だから、忽のおじいちゃんとおばあちゃんはちゃんといるんだよってことを伝えたかったんだよ。そうすることで君ら兄妹も、親孝行ができて――ひょっとしたらまた元のように生活できるようになるだろう?」
と、そう言った。
ああ――と、私は思った。
そういうことか。
ようやく私は、理解することができた。
夫は時折、そういうところがある。
博愛厨、とでも言えば良いのだろうか。両親を既に失くしていて、母方の関係者に甘やかされて育ったせいだと、結婚式の時に聞いていた。
どんな親でも、尊敬するべき、尊重するべき、という考え方の持ち主なのだ。
話し合えば何とかなる、言葉で全てが解決できると思っている――そんな例外を認めない大人なのだ。
私だって、考えれば気付くことだったはずだった。妙に私の父母への連絡だの、お歳暮だのと言ってくると思ったら、ここでそういう風に繋がるのか。
しかし、最悪の繋がり方であった――どうして今日、買い物なんかに出てしまったのだろう、どうして今日、あの子を連れて買い物にいかなかったのだろう――そんな後悔と韜晦の念が、私を襲った――が、今はそんなことで悩んでいる場合ではなかった。
私の父は、最初は普通に孫の到来を喜んでいたらしい。しかし、何かのきっかけで――きっかけは何でも良いのだ、私達の場合は野球の推しのチームが負けたからというのが、主な殴られる理由だった――近くにあった茶碗を投げ、それが娘の手に当たったらしい。
娘の手は、最初こそ赤く腫れていたけれど、なかなか泣き止まないので病院に見せに行ったら、骨に
あの男――私の娘にまで、手を上げやがった。
それを聞いた時、私は初めて、父を殺してしまおうかと思ったが、すんでのところで抑えた。
そして、夫は、痛みに泣く娘を車に乗せて、家に帰って来た――という塩梅らしい。
らしい?
はは。
笑えない。
私は今まで散々、夫に言ってきた。
父には生涯娘を合わせる気はない、絶対に会わせてはいけない、と。
怪我どころでは済まない、命が危険だ、と。
そこまで言わなければ、分からない夫だから、というのもあった。
しかし――どうだ。
この現状を振り返って。
頭を
「離婚」
夫は、今まで見せていたどこか余裕のある慌てようとは打って変わって、驚嘆しているようだった。
「え、いや――ちょ、ちょっと待ってくれよ。き、昨日まで普通に、円満だったじゃないか。それを急に、何を言っているんだよ」
「待たないでしょ。
そう言って、私はすぐに兄と姉へと電話をした。
兄は驚いて――そして怒っていた、どうしてあの男に、娘を会わせたのだ、と。私も同意したいところではある。
姉は落胆していた。あの人たち、まだ変わってないんだね、と言いながら、手伝えることなら何でも言って、と言ってくれた。
そして家に兄と姉が来て、てきぱきと家財道具やら必要道具やらを集めて、泣き疲れて寝た娘を、姉がそっとおんぶしてくれた。姉は二児の母である。
その間、夫は半ば呆然と、私達を眺めていた。
私は、最後に言った。
「お
自分でも、驚くほどに冷たい声が出たのが分かった。
殴られるかな、と思ったけれど、夫は茫然とそこに立ち尽くすだけだった。
良かった、まだちゃんと、言葉が通じて。
そのまま、玄関から出て、兄の運転する車に乗った。
「取り
お疲れ――。
と、兄にそう言われて。
何かが
子どもを起こすわけにはいかなかったので、息を殺して、私は泣いた。
*
結局、協議離婚が成立した。
夫側の親戚は、夫のその博愛ぶりにうすうす気づいていたようで、特に何も言ってこなかった。唯一夫だけが、娘の親権を強く欲しがったけれど、夫の側に明らかな過失があるため、また――これは後々分かったことだが夫は娘を虐待していたため、あっさりと成立することになった。
娘は来年小学生になる。
時折、私に「ぎゅーってして」という。
私は、後ろから娘にハグをする。
娘の早めの呼吸が緩やかになっていくのを全身で感じ取れて、その瞬間が、私にとっての至福となる。
握り返してくる娘の手には。
あの時の傷が、まだ残っている。
(了)
博愛病 小狸 @segen_gen
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