雛鳥たちの航跡雲 ~第二次異世界大戦前夜 王立士官学校A.D.1938~
萩原 優
一学年
入校編
第1話「死線」
”初の実戦で恐怖を刻み込まれたパイロットは、多くが空に散ることになる。
死の恐怖は冷静な判断を阻み、咄嗟に身を固くすれば正確な操作も
そして敵が凄腕なら、絶対にその隙を見逃さない”
南部隼人の手記より
人を殺す苦しさではない。そんな余裕はない。
過呼吸を起こした自分に気付かなかっただけである。緊張と恐怖のあまり。
機体を傾けて"目標"を探す。
既に相手をロストしている。南部隼人はその事実に戦慄した。
今この瞬間にも”あいつ”が彼の背後に回り込んでいて、機関砲が火を吹くかもしれない。
彼が身を預けている「一式戦闘機〔
『隼人、いい加減にしろ! 追って来ても無駄だ!』
新型の無線機がクリアな音で警告の言葉を発した。今彼が追っているもう1機の試作機からだ。〔
隼人は首を忙しく振って
『お前こそいい加減にしろ! こんなの冗談じゃ済まないぞ!』
無線機はくっ、と小さく笑う息遣いを伝えた。
本能的に気付く。嘲笑を受けた、と。
『その無遠慮な友達面がいつも
何も返せなかった。
心を許せる仲だと思っていた。相手の考えている事など分かると。
だがそれは傲慢だった。
いつしか甘えが生じたのかもしれない。愚にもつかないような与太話を苦笑いで聞いてくれる、その姿はいごこちがよくて。
だからこそ、ここで行かせるわけにはいかない! とにかく、連れ戻して話し合う!
『なら、力ずくで止めてやるっ!』
『……やれるものならッ!』
何が何でも、みんなの所へ戻ってきてもらう。
舌戦の最中にも、隼人の目は目標を求めてている。
空の只中での索敵はコツがある。全体をくまなく見まわすのではなく、
しかし、試みは成功したとは言い難かった。焦るあまり、貴重なエンジンパワーを空費している。索敵の為に翼を揺らし過ぎたのだ。空戦に必要なスピードが、ぐんぐん下がって行く。
実戦部隊なら拳骨では済まない失態だった。
たとえ、彼が卒業を控えた一介の士官候補生でしかないとは言え。
(!!)
左翼下方に銀色の反射光を見つける。
未塗装のジュラルミンだ。ダバート空軍では迷彩を施すが、デモンストレーション用の試作機ではそこまで考えられてはいない。
初実戦の隼人には、それが幸いした。
スロットルを開いて急降下する。
握る左手が震える。親指は機関砲のスイッチにかけられている。
これを押したら、銃口から死神が吐き出され、命を奪う。
考えるな。何も考えるな。
今余計な事を今考えたら、自分はきっとトリガーを引けない。
ただ墜とすだけでは駄目だ。
機体を破壊しつつ、脱出の余地を残さねばならない。殺しては駄目だ。
相手の〔ゼロ戦〕にも、始めから機体にパラシュートが据え付けられている。大丈夫だ。
彼の心情を知ったとしたら、空戦を経験した者なら口をそろえて言うだろう。
それは傲慢だ、と。
〔ゼロ戦〕が、不意にかき消えた! コンマ1秒前には、照準器に映り込んでいたのに!
――罠ッ!!
反射的に後方を見やる。
だが、その時間があるならすぐに回避行動を取るべきだった。
捻り込み。
トルク――プロペラの回転で機体が片舷に引っ張られる現象を利用した宙返り戦法。
日本軍からもたらされた技術は、凄腕だけに口伝で受け継がれる絶技だ。
同じ候補生の相手が会得している筈がない。普通に考えるならば。
『君はただの飛行機好きだ。死ぬ覚悟も、殺す覚悟も無い。甘っちょろい覚悟で戦場に飛び込もうとするな!』
それは、全否定。今までの人生、今までの生き方への。
理解した
機体のどこかが爆ぜた音。
感じているのは死の恐怖。家族や学友たちの顔すら浮かばなかった。
もっと根源的な、捕食される動物の慟哭。
両足を必死に踏ん張るが、もはやこの時の彼に何ができるわけでもない。
次に見たのは、悠々と飛び去る「親友」の〔ゼロ戦〕だった。
後方を確認すると、自身の〔隼〕は奇麗に垂直尾翼だけが吹き飛ばされていた。
必死になってフットペダルを押し込むが、機体は答えてくれない。
『ちくしょう! ちくしょう!』
自分の頬に温かいものが伝う。それが何なのかすら分からない。
何で自分はこんな怖い思いをしているのか? なんで。ナンデ……。
『さよなら、
最後の無線はそれだった。
瞬間的に自分は手加減され、見逃されたと確信した。
垂直尾翼は機体から脱出する時に、最も妨げとなる部位だからだ。相手は隼人の脱出までも
震える手で落下傘と体がベルトで繋がれている事を確認し、キャノピーを開いた。
とたんに暴風が彼の頬を叩く。生唾を呑み込む暇さえ与えられなかった。意を決して、宙に身を躍らせる。
ひとつ間違えば垂直尾翼に激突して即死するところだった。改めて、それだけを吹き飛ばしてくれた「親友」の
パラシュートに吊られた隼人は、やっと自分が生きている実感を得ることが出来た。ゆっくりと海面に墜落してゆく〔隼〕を眺める。
続いてやって来たのは、強い敗北感と屈辱感。
自分の覚悟の無さと浅はかさ。
ろくな戦いも出来なかった無念さと悠々と自分を墜とした友への嫉妬。
そして最後に彼の胸を締め付けたのは、親友を失った事実だった。恐らく、永久に。
衝動をこらえきれず、隼人は絶叫した。
何を叫んでいるか自分でも分からない。ただ溢れる感情を大空に吐き出す。
飛び出した憧れの空は、ただ凍るように寒かった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
降臨暦942年。
1人の士官候補生が、軍の試作戦闘機を奪取し出奔。
とっさに別の試作戦闘機での追撃を試みた同期生を撃墜し、海上に逃亡。行方不明となった。
この事件が、後にクーリルの英雄、そして”蒼空の隼”と呼ばれる飛行機乗りの初陣となる。
栄光の歴史は、苦い苦い敗北で幕を開けた。
東西を代表する撃墜王の出会いとすれ違いは、ここに始まる。
それはこれより4年前、降臨暦938年のダバート王国王立士官学校に端を発していた。
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