新星花
第一場
セクシャルドールを買った男 その一
私の心は、寂しかった。為に、セクシャルドールを買った。私は、亡くなった妻の写真を一葉用意し、提供した。霊妙な匂のする、黒檀の棺が遂に来た。私は棺をひらいた。而して、(まるで、亡くなった妻の生き写しだった)私は呼吸を呑んだ。私は睫に触れた。妻は、人間性の究明という深遠な主題を、見ごとに再現した劇作家だった。その妻の形見を抱いて、彼女は、傲岸としてお睡りに就いていた。それを起すという暴挙に、私は動立竦んだ。
セクシャルドールは、鷹揚にその目蓋を、ひらいた。
「ただいま」
設計者のこの素晴らしい贈り物らしき即興に、私は心を打たれた。
「おかえり」
私は、妻の名を終ぞ呼ばなかった。
朝だった。セクシャルドールは簡単な朝食を作ってくれた。
「とある哲学者は、様々な分野の研究を、して後学の学者に多大な影響を与えた――。而も、彼は寿命を、できるだけ長くすることを願った。天寿を全うする、という其難しさを、彼は背骨で理解した。後年、彼はあらゆる病気を呪った。彼の得意とする芸は、哲学的な思弁、思案、そんなところだ……」
「精神病等というものは一切存在しない。それは霊能者の考の為に。然し、彼の没後、クリスタルボウルの倍音浴と芳香療法が時花した、という夢を、彼は見た。而して、彼は夢の中で悪霊だった。別次元の同じ空間に、少女が存在する、と彼は、直観的に悟った。その以前、室の裡を、うろうろと歩き廻り――何かを、思い出そうとした。少女との約束が、彼には大切だった。
少女との再会、それは酷く感動的だったはずでそれほど悲劇とも喜劇とも附かぬ、形容しがたいものだった」
「なるほど、つづけてくれ」
と、私は抑揚を抑えつついった。
「彼は、悪霊だった。……、少女の霊体と、何らかの接触によって、霊体が重なり、彼が、少女の肉体を操縦する、という奇怪な事態となる。そして少女は、人体の仕組みとして不可能な動きをされ、生命を落とした。
彼は、自らも死を望んだ。けれども、一つ、謎が残された。二人がいる空間は、同一空間にいるにも関わらず、お互い姿形も見えない、という謎だ。彼女が亡くなるまで、二人は、精一ぱい、一生懸命に謎を解こうとした。
少女はもう、どこにもいやしない。その、深い絶望の淵で、彼は考えた。この世と彼世と、それは別世界だと。何か、得体の知れない、彼は死の淵で、その問いを発する「何か」に、それを明かした。
「死よ、未だか」
と、彼は幾度となくいった」
「それで……?」
と、私は先きを促した。
「彼の脳裡に、三人の名が浮んだ。ざんねんながらその名は忘れられてしまったけれども、一人は、『戦術論』を著した、マキャベリだった。然し、彼には一つだけ、非常に興味深い、書き物があった。竜天に昇る、等と紙切れに書いた。死んでしまった少女と一しょにいることを決めた。夢から醒めたとき……、彼は生きていることを酷く不思議に思った。時間にすると、十分か十五分くらいの、長い長い夢だった。彼は、その夢から生還した」
「お話の筋が、脱線気味じゃないか。結局、彼と彼女の立場は夢と現実とで逆だったのか?」
と、私は尋ねた。
セクシャルドールは、無言で頭を振った。
私は、男性性の最大幸福とは、異性との性交だと思っている。種の繁栄が主目的だとしても、それは一体化欲求の過渡的なものだ。ならば、女性性の最大幸福とは何なのかと問われれば、私は次ぎのように答える。
「ある女の子が、人間の生は二種だと断案した。其は、すなわち遊びか勉強、そのただ二つだと」
要するに、そのどちらかを選ぶ、という、極めて簡単な選択に過ぎない。けれども、だったら男性と女性とで異いが無いじゃないかと言われれば、私はこう答える。
「男性には、それほどのヒマもない。男性には、大志がある」
「あなたは漢詩を善く勉強したのね。男性は、大いなる宇宙から飛来したヒト染みた存在に、無意識に操られている」
セクシャルドールは私を買い被った。女性は、常に人生の伴侶を捜し、求めている。私は、妻の言っていた言葉を、密かに、思い出した。それは、
「共に生きることを、神に誓う」と。
私は妻の思想を実現させた。
時の上で言えば、それは静まり返った深い森みたいな夜だった。
書斎兼寝室に、セクシャルドールとともに就寝する時分、私はふっと妻の匂を懐かしく思った。人間は鼻腔から頭脳に伝達される匂と云う情報は快不快に拘わらずに処理される。
私はソファに寝て、セクシャルドールに、毛布を掛けてやる。ごろりと寝返りを打つ、彼女の寝顔が少し奇麗過ぎたとしても……。
私は接吻を交わした。
「性行為を開始しますか」
私は接吻を交わした。
「性行為を開始しますか」
私は接吻を交わした。
「性行為を開始しますか」
ふざけるな。
序に、君にだけ明かそう。黄金比は三:三:一だ。これは珈琲の塩梅だ。
腹痛がする。また、今度、君と話したい。
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