舞踏
たしかに上流階級と読みとれる女の子が、(白壁を後景にして)至難のステップを踏むデスク上の液晶パネルを、グラスは黒っぽい液体をのみながら見ていました。
そのうしろからサバサが、
「女の子が踊ってるだけの映像がそんなにおもしろいんですか」
「おもしろいさ。彼女はここにあるものに対する処女性というところから、舞踏と向き合ってる。舞踏に踊らされているという感じがしない。しかも舞踏だけが形成しうる個体に必然的なスタイルをもっている。彼女は、十分に舞踏を楽しんでいる。ぼくはそういうひとを見ると救われる思いがするよ……」
とグラスはちょっと首をねじって答えて、指先で少女の動きをとめました。
「いったい肉体にどれほどの価値があるというんですか」
「そうだな……。おれもそう思っていた。人という種の可能性はその精神の方にある。更に言えばその魂の方にあると思っていた。しかしおれはこうも思えるようになった。種の可能性というものは、それはむしろ……」
グラスはふっと口をつぐみます。いま一つの液晶パネルが、選ばれた人間だという自負が流出する男の顔を表示しました。
「おめでとうグラス。仕事だ」
「対象はどこです」
「個室だ。必要な情報は既に送ってある。あとで確認してくれ」
「承知しました」
「あ~、それでな、グラス。言い忘れてたかもしれんが、テストは対象が死んでからもできるようになった」
「……わかりません。対象にテストを受けさせるのは箱舟全体の規則のはずでしょう」
「それはそうだが、われわれにとって対象が本当に異相者かどうかはもう、どうだっていいんだ。実行委員会はいい加減ウンザリだといっている。もう一度だけ言うぞグラス。テストは対象が死亡したあとでも、可能だ」
「正気では呑みこめません。ふざけてる」
「御言葉の通りだ。おれだってそう思う。言わされてるんだ」
「…………ぼくはただのコミュニケーターですよ」
「お前の後ろにいるサバサを同行させろ。彼女は優秀だ。じゃ、頼んだぞ」
男の顔はそういって消え失せた。
そのときサバサとグラスとは顔を見合わせました。
屍体もなんとか運搬可能なくらいのゆとりはある関係者用通路からテスト対象の個室へ向う途中、サバサは花びらみたいなくちびるをそっとひらきました。
「実はグラスさんに相談したかったことがあるんです。わたし、ひとを殺してるときに声が聞えることがあるんです。ひとというか異相者なんですけどね。なんていってるのかわからないんですけど……なんとなくわたしをほめてるみたいに聞えるんです。そういうとき、その場にいたひとたちにわたしに何か言ったか訊くんですけど、みんな何も言ってないっていうんです。ヘン、ですよね……」
「……専門外だ。アドバイスはできない」
「そうですか……」
と、サバサはしゅんとしました。ひょっとすると「しゅん」とか「しょん」とかいう類の声を出したかもしれません。
「あ……そうだ! わたしいま猫と一しょなんですけど、かわいいんですよ! ほら」
サバサは端末のディスプレイに猫の画像を浮かばせて、グラスに示しました。
「かわいいな」
ちらりと見ました。
「そうなんです! 今度私の部屋に遊びに来ません? グラスさんのことお話ししたらこの子すっごく逢いたがってましたから!」
「猫がおれに逢いたがってたのか」
「グラスさんも猫と一しょになりません? この子遊び相手がいなくてさびしがってるんで、グラスさんが猫と一しょに私の部屋に遊びに来てくれたら、この子もよろこぶこと請合いです!」
グラスは彼女の明るさに目を落とします。
「いや、おれは……。当り前に行けば自分より先に死ぬとわかっている動物を飼うのはおれにはちょっと……」
「グラスさん、なんならこの世界の真実を一つ教えてあげましょうか」
サバサはイタズラっぽく笑いました。
「……なんだ?」
「わたしたちってねてるあいだに夢を見るじゃないですか。そもそも、何が夢を見てるんだと思います?」
「……それは脳だろう」
「と思うじゃないですか。ちがうんです。実は魂が夢見てるんです。魂の
一種の
「あの……。なんかおこってます……?」
「おれには生きることが全てだ」グラスはいいました。「死ねば終わる。――おれにはそれだけだよ」
サバサも通路の壁の方に目をやりました。
「グラスさんは夢のなかで自分にとって、全然知らないものを見たり、聞いたり、誰かと話しをしたりしないんですか……?」
「……何?」
「あ、ここですね」
のどのかわくような首から下げた委員証をサバサがかざすと、「ピコン」というやや間の抜けた音が壁から発せられました。黒線の先から横線がすっと入り、その線の分だけ、壁が開いて、一般通路が見えました。
「いいか、おれたちは対象を説得し実施室へ連れていくだけでいいんだ。それだけだ。分かったな」
グラスとサバサは関係者用通路から出て、対象の個室を前に立ちどまりました。
サバサは、
「そのやり方がもう古いんだとおもいますけどね……」と心でささやいて、「承知しています。グラスさんに何か危害が及びそうにならないかぎりわたしは手を出しませんよ」
ドアの肩に在室を示す灯火が点いています。
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