【第一章 日常】 第2話 白猿夜唱
西の
栗とよもぎと楽しみと
今を喜べないならば
去って帰らなければよい
朝からの雨で部屋は湿気を含み、壁には水滴が浮かんでいた。帝国の官僚の中で、私の執務室が特別に悪い場所にあるわけではない。しかし、とりわけて怪異に好かれる部屋ではある。
机の上に、白猿がいた。
先刻、席を外す前に紫丁香の花に触れたのは覚えている。指先が花に触れると甘い香りが高くのぼる。淡い紫の花が集まった枝が、花瓶の口に重たげにもたれる様は、綺麗というより美醜を越えた仙人の風格がある。
私は、花に見とれた。だが、それだけだったはずだ。
――こんな猿、どこから迷い込んだか。
花瓶の隣に座った猿は、紫丁香の下に雨宿りするような格好だった。小さく、顔つきもあどけない。汚れのない白い毛並みはふわふわして、私はつい手を伸ばした。
……酷く、冷たい。
私は手を放し、椅子から立ち上がる。
そのとき、白猿がきいと鳴いた。
「西の彼方にあるものは、栗とよもぎと楽しみと。今を喜べないならば、去って帰らなければよい」
――詠っている?
飛び
――踊るだけでなく、詩を詠っているだと?
幻覚なのか、妄想なのか。いくら、連日徹夜だからといって、現実逃避の方法にも程があるというものだ。いや、私がこれを望んだのか。
怪異が見える理由を自分に求めようとすれば、自身の精神状態を悲観しばければならない。
私は軽く首を振り、できるだけ今の状況を肯定しようとした。
――成程、言葉を話す猿がいるとは知らなかった。
聞いてみれば歌の言い回しが古く、甲骨で政治を占っていた頃の雰囲気がある。
猿は繰り返し歌っては、
栗やよもぎを楽しみとし、将来のことを考えない。動物だからできることに違いない。
――しかし、猿に詩を作ることができるだろうか。
「誰が作った詩なのだ?」
そっと、猿に尋ねたが、詠いやまず、踊りやまなかった。
――私は猿にからかわれているのかも知れない。
いや、しかし、と、私は自答した。
誰がこんな悪戯をするだろう。猿に詩の芸を仕込むだけでも大変だろうに。いや、言葉を話す猿を探すほうが難儀だ。
だが、この猿がただの動物だとして、あの体の冷たさは何であろう。
身を震い、今考えたことを忘れようとした。そして、疑問を投げかける。
「西の彼方とは、どの辺りのことだ」
――
そう思っていると、背後から声がした。
「西方の神仙がすむという山だろう」
振り向くと、
私は上擦った声で叫んだ。
「よい、ところに」
友人に駆け寄り、手を取る。
「どうした、
楊淵季は涼しい目元に、
「汗も流れるぞ。机の上を見てくれ」
私は視線を振った。
楊淵季は細い首を伸ばし、感嘆の声を上げる。
「ほう」
「おぬし、驚かないのか」
友人は楽しそうに、驚いている、と答えた。珍しく
「素晴らしいじゃないか」
私を押しのけるようにして机に歩み寄り、ふうっ、と長い溜息をつく。その目の前を、白猿は歌いながら転がっていく。
「立派な紫丁香だな」
「何だと」
「紫丁香というのは、世俗を離れた高尚な花と讃えられていてね。言ったのは、かの白居易(はっきょい)だが。どこでもらってきたのだ」
「……昨日、訪れた山寺だ。あまりに美しいから」
楊淵季は目を細めて口元を歪めた。
「さては、勝手に手折ってきたな。知らないぞ。昔から古い物には
「やめてくれ。悪かったと思っているのだ。あの猿がいるのはそのせいか」
「猿?」
「机の上で踊っているだろう!」
私が指さすと、楊淵季は、うむと
「見えるのだな。これは私の幻覚ではないのだな」
友人は
「あまり、
「何故だ。猿に何故そんな遠慮をする」
「怒鳴るな。物まねをするのだ、おまえの
「物まね、だと。では、この詩は誰の」
楊淵季は顎に手を遣り、白猿の声に聞き入っていたが、詩が一巡りすると深呼吸をした。
「おそらく、書物によれば、何千年も前、諸侯のご子息が教えた詩だ」
彼は猿に向かって
猿は
「ある王朝の末期、西の諸侯が王を
「なるほど、歌えるのなら話すこともできるだろう。妙案だな」
理解したつもりで頷いたのに、楊淵季に睨まれた。
「わかってないな、おまえは」
「何がだ」
「これは動物ではない。精密なからくりだ。こいつが
「それでは、西の諸侯の息子は」
楊淵季は、目を閉じた。
「しかたない。民間の伝説では、これが最初に覚えた詩だったからだそうだ、実際はわからないがな。結果、王はいよいよ快楽に走り、西の諸侯のご子息は残酷な刑罰を受けて死んだ。この置物は我が国でも一、二を争う幻の宝物だ。……まさか、保管されていたとはなあ」
猿はいまだ机を駆け回り、歌っていた。白い腕は伸びやかで、毛は薄雲のように舞っている。
「これが、からくりで……置物だと?」
「そうだ、幻のね」
私は猿を見た。屈んでも、目が合うことはなかった。猿の瞳は金色に輝いて、真っ直ぐ前を向いている。
「しかし、これが物だとは」
見上げると、楊淵季が首を傾げていた。彼は軽く溜息をつき、尋ねた。
「欧陸洋。君は君自身が、皇帝陛下のご寵愛を賜った置物ではないと、言い切れるのか?」
私は目眩を感じ、倒れた。
……
気がつくと、部屋には一人。
私は机に突っ伏して泣いていた。
いや、眠っていて、そのうちに泣いたのだろう。
顔を挙げようとすると、冠に何かが引っかかった。
見ると、色を失ってしおれた、紫丁香の一片だった。
花に昨日のみずみずしい姿はなく。枝はやせ細り、花を支えきれず折れてしまっていた。
たまらず、枝に指を添えると、残っていた花がばらばら散った。紙屑のようだった。
机には、麗しさを失った植物の残骸だけがあった。
――私が悪かった。
美しい花には花精が育つという。手折られた花を悲しんだ精が、私にあのような夢を見せたに違いない。
散った花を拾い集めていると、戸口に気配があった。
――人だろうか。いや、置物かも知れない。
袖で涙を拭いて振り向くと、楊淵季がいた。
「欧陸洋。時間はあるか。書庫で面白い物を見つけたぞ」
懐から取り出されたのは、猿の形をした白い何かだった。
〈おわり〉
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