幻怪夜話~残業すると怪異に出会う欧陸洋の話~

江東うゆう

【第一章 日常】 第1話 月待ち夜

 物、という響きに違和感を覚えるものたちが、私の部屋に忍び込んでくることがある。それは、私が帝国の高官であるためかも知れない。都の役所はどの部屋も広く、暗く、若輩にはいささか抹香臭まっこうくさかった。


 今月も半ばが過ぎた。夜も深まり、まもなく月が昇るころだ。そうなれば、月明かりが部屋に満ちるから、蝋燭の数を一本減らそう。

 さて、と仕事に取りかかろうとして、私はふと視線を止める。

 

 机の上に、巻物が鎮座している。

 

 表紙に紺の絹を使い、金色の紐で結ばれた巻物だ。

 そんなもの、どこにもなかったのに。

 

 ――誰か、忘れたのだろうか。


 心にひとりごちてみたが、さっきまで見当たらなかったものを、忘れものとも言うまい。

 では、気の利かない部下が、伝言もなしに仕事を置いていったのか。

 そう考え、私は額を押さえた。いや、気が利かないとは限らない。父が最高位の官職にあるために、突然高官に配された私を憎んでいるのであろう。

 日頃、背後に響く悪いささやきが耳に蘇り、軽い目眩めまいを感じた。

 湯冷ましを口に含み、不安定な視界が揺らぎ止むのを待ち、恐る恐る紐を解いて冒頭をのぞく。

「百一詩」と、題名があった。


 ――今の詩ではないな。


 詩は五言ではあったが、絶句でも律詩でもなかった。古詩と分けてもよいのだろうが、韻がまばらで整っていない。

 しかし、詩であれば歓迎だった。私はそのまま巻物を広げ、先を読み急ぐ。

 夜の風景を描いた詩、幻獣を夢見た詩、十三夜の詩、えん。舞台はほとんど夜景に終始して、太陽などは描いていない。

 百一首目の詩が終わったところで、三行だけ序があった。


 声、がした。


の百一詩、十三夜より満月まで微睡まどろまず書き尽くす。我、悔いなし。悔いなし。これにて三千首、ことごとく詠み終える。李光月りこうげつ


 私は驚いて振り向く。


「最期まで筆力が衰えないのがさすがだな」


 肩越しに感嘆を述べたのは、少年時代からの友、楊淵季ようえんきだった。


「おまえ、こんな時間に何をしている」


 問うと、楊淵季は肩をすくめた。


「書庫を管理する役人はな、いろいろ勉強もあるのだよ、欧陸洋おうりくよう。おまえこそ何をしている」

「仕事が山積みでね。……どうも私は要領が悪いらしい」


 しばらく残業に夜を明かしている我が身を思うと、何だか泣きたくなってきた。椅子に座って憂いの過ぎるのを待とう、とすると、先に楊淵季が座ってしまう。


「そうさせているのは、おまえの部下だがな。やつらが仕事を夜に溜まるように」

「それは、私の椅子だ」

「何だ、それでも部下の悪口を聞きたくないか? 人が悪いぞ。いいじゃないか、おまえだって、好きであんな立派なお方の家に生まれたのではないさ」

「そういう話は」

「聞きたくないか」


 椅子から見上げたまま、楊淵季は笑った。

 彼の笑顔には、いつも陰が目元に潜んでいる。淋しいのかと、一度尋ねたことがあるが、なあに生まれた時からこの顔だ、と一笑にふされた。

 

 逆に、彼はこう言った。

 

〝そういうことを他人に対して思うおまえが、一番寂しがっているのだ〟


 うそだと言いたかったが、楊淵季に言われるとそういう気がしたのだった。


 ――いかん、流されては。

 私は、首を左右に振る。


 楊淵季は人の心を今まで思ったこともない方向へ連れ出す力がある。それは滑らかで、流されているのかどうかわからなくなるくらいだ。

 官職のことで、これ以上、得体の知れない思考回路を構築するのは好ましくない。


「おまえ、この書物を知っているのか」


 問うと、楊淵季はつまらない、というように眉をひそめ、窓外を仰いだ。


「おまえが知らないというのが不思議だな。まあ、わからんでもないが、父君は相当、おまえに気を遣っているとみえる」

「何故だ」

「おまえがそれを知ってしまうと、精神的に破滅する恐れがないでもない。詩才しさいあふれる多作の貴公子ではな」


 私は顔をしかめた。確かに私は幼少時代より詩作でめられてきた。だが、楊淵季の軽い口調で「多作の貴公子」などと言われると、不愉快だった。


「なんだ、それは。この詩がなんだというのだ」


 楊淵季は面倒そうに顔を上げた。


「知りたいか」

「当たり前だ」


 少し沈黙があった。

 楊淵季の表情は思慮深げな仏頂面だ。私は教えてくれと懇願したい気持ちを抑えて、彼を睨みつける。彼はちらりとこちらを見て溜息をついた。


「それは――李光月という漢の詩人がかいた『百一詩』という詩だ」

「そんなこと、詩と序を見ればわかる。それでどうして私が破滅など」

「まあ、聞け。百一の詩は、すべて満月の三日前から、一睡もせずに書かれているのだ」

「それも、序からわかるじゃないか」

「わかってないな。李光月は詩を百一、書いたのだ。どうなるか」


 私は首を傾げた。


「……倒れでもしたか?」

「いいや」


 陰鬱な口調で楊淵季は続けた。


「それを書ききって、李光月は死んだのさ」


 ――死んだ?


「何故、死ぬのだ。三晩の徹夜で死ぬなら、私はとっくに黄泉こうせんに旅立っている」

「おまえに知らせたくないのは、これからだ」

「何?」

「李光月はね、それまでに、二千八百九十九首、詩を書いていた。そこが問題でね」


 楊淵季は杯に注いであった湯冷ましを一気にあおり、手の甲で口元をぬぐう。


「知っているか、欧陸洋。人一人が一生に作れる詩の数は、古来、三千首と決まっているのだよ」

「そんな話聞いたことが」

「三千首を作り終えれば、若かろうと死んでしまう。李光月は、その最後の百一首を三日で詠んで、死んだ」

「うそだろう」

「そう思うか? 書庫から出してきてやろうか。李光月が詩を作り終えた途端に血を吐いて死んだ様を記した歴史書を。自分の目で読んでみるか」

「……いや」


 楊淵季は人が悪い。しかし、書物をないがしろにしたことは、一度もない。

 私の脳裏に、自作した数々の詩がうごめき始めた。幼少から作り続けて、今、何首になっているのか。


「俺が知っているだけでも、欧陸洋の詩は千首をくだらない。……おや、どうした。顔色が悪い」


 楊淵季が椅子から立ち上がって、私の腕を取った。ふらふらする上体を何とか椅子に投げだし、深呼吸する。


「でも、私はそんなこと聞いたことがない」


 歴史書にはそう書いてあるのだろう。ただ、歴史書が決して間違わないとは言い切れないはずだ。


「だから、父君が気を遣ったというのだ」

「三千という数字に怯えるからか!」


 私は、叫び声を上げた。

 楊淵季が「違う」と、柔らかい声で言った。


「欧陸洋の詩が美しいからだ。皆、おまえの詩を読みたいし、おまえ自身、詩作を楽しんでいるからな。おまえから詩を取り上げるのは生涯を失うのと同じだ」

「しかし、三千首で死ぬなら、知っていたら一首手前でやめることも」

「あと一首で死ぬと思いながら、筆をおいて我慢して、生きていくのか」


 答えられなかった。

 日々、景色に心を動かされては詩を考える私に、三千首目を耐えることができるだろうか。いや、耐える、耐えないという前に、自然に詠んでしまいかねない。日常的に、詩を考えないように努めなければならない。

 胸を圧迫されるような苦しさが、肺に充満してきた。


 楊淵季が、私の腕をつかんで椅子から引っ張り上げた。


「腹から息を吸いたまえ、欧陸洋」


 言われるままに呼吸すると、唇がひゅっと鳴った。


「まったく。おまえの父上が、『百一詩』を教えなかった理由がわかったか」


 私はうなずき、首に流れていた汗をぬぐった。


「李光月も、最後の一首を耐えられないと思ったから、すべて詠んでしまったのだな」


 息ばかり混じった声で、そうつぶやく。

 だが、楊淵季は静かに、いいや、と言った。


「李光月は、正式ではない歴史書にようやく名が見える程度の人物でね。主に、皇帝陛下に請われて詠う、芸人風情の者だった。……彼はね、それが嫌だったのだよ。最後の一首が、自らの意志で詠めるとは限らない。陛下に請われたら、辞退はできない」


「陛下のご所望とあれば、不満などあるまい」


 私は首を傾げる。


「李光月の気持ちがわかるようになったら、おまえも正真正銘破滅だぜ」


 楊淵季は目を細めて、口元に笑みを浮かべた。


〈おわり〉

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