琥珀色の夕立ちと不平等な夏の青。
夜々
第1話 プロローグ : SIDE-B
彼女は自らを『死神です』と自称した。
ついでに、余命宣告までされた。
それらすべてを一笑に付すことも、決して不可能ではなかった。
僕が信じた理由はみっつ。
生きたいと思いたかったから。
彼女の纏う雰囲気が、好みだったから。
なんとなく、泣きたい気分だったから。
伝えようか迷ったけれど、やめた。
代わりに、『寂しいから死ぬまでそばにいてくれないか』と伝えた。
彼女は『もとよりそのつもりです』となぜか不機嫌そうに言った。
そんなやり取りを交わした次の日、この夏の最高気温が更新された。
*
その日も起きたのは夕方だった。
帰宅した隣人が踏んだアパートの床をつたう振動と、窓から差し込む茜色の夕陽と、ベランダの水たまりが弾ける音のどれかで、目を覚ました。
大学に行かなくなってから、眠ってばかりいる気がする。かといって、その前は充実した日々を送っていたとはとても言い難い。
布団から上体を起こすと軋むような頭痛がした。起きるたびに痛むものだから、もはや何が原因なのか考えるのもやめた。
低血糖かアルコールの中毒か、僅かに震える手で棚から紙コップを出すとカルキ臭い水道水をなみなみと注いで静かに飲み干す。無性に甘いものも欲しくなって冷蔵庫を開けたが、お酒ばかり詰まっていた。
思わず目頭を押さえると、よろよろと玄関先へ向かう。靴箱の上に置いてある小さなかごからカギと財布を掴む。サンダルをつっかけながら財布の中身を確認しつつ、やたらと重たいドアを身体で押し出すように開けた。
『わっ』と『ぎゃっ』の間みたいな声がして、一瞬動きを止める。
視界の下のほうに、両膝を折り畳んでおでこを押さえる女性がいた。
「......うちになにか、御用ですか?」
訝しげに尋ねると、彼女は目元を濃紺のパーカーの袖でぐしぐしと拭った。泣くほど痛かったのだろうか。申し訳ない。
短めの黒髪に、パジャマみたいな灰色のショートパンツ。
ちゃんと見ると、女性というより女の子だった。
彼氏の部屋とでも間違えたんだろうな、と僕の酒浸りの脳みそはやけにスムーズに解答を導き出した。まるで、とある思考をなかったことにでもしたみたいに。
彼女はゆっくりと立ち上がり、膝についた砂をはらった。
海の近い街だ。二階の通路だろうと汚れはすぐに溜まるし、とはいえ気づいたら風に運ばれている。潮風は手すりに赤茶けた錆をところどころ生んでいた。
「失礼しました。浅霧由宇(アサギリゆう*仮)さん......ですね?」
容姿のわりにやけに事務的な口調だった。その堅苦しさがありがたい。丁寧な言葉は、僕みたいな社会不適合者にも平等だ。まるで、なにかの説明書みたいに。
「はあ......えっと、どなたですか」
「ええと......」
肩に下げたデニム地のポーチから、何やら真っ黒な身分証らしきものを見ながら彼女は言う。
「シナキトウカ、です。説明が難しいんですが......簡潔に言いますと、私は死神で......あなたの寿命を......」
「......その話、もう少し後でもいいですか?無性にコーラが飲みたい気分なんです。今すぐに」
訳の分からない会話に付き合う余力もなかったので、ぞんざいにそう言った。何より頭が痛くて、彼女の言葉もうまくかみ砕けそうにない。
「ごめんなさい。では......」
「ここ、開けておくので玄関にでも座っていてください。ええと......盗まれて困るものも特にないので」
本当は通帳やら盗まれて困るものもあるにはあったが、あまり使わない貴重品のたぐいは小型の金庫にまとめて突っ込んであるし、見るからに年下の女の子を待たせておくのも一応は気が引けた。
そう言い残すと、僕は逃げるようにその場を後にした。
......今は、何も考えたくなかった。
近くの自動販売機に小銭を飲み込ませていると、夕立が降ってきた。
コーラを3本抱えて、アパートへと駆け出すころには上半身はぐしょぐしょに濡れていた。
ようやく階段を上りきる頃にはすっかり息が上がってしまう。日頃の不摂生か、煙草のせいか、単なる運動不足か。僕が不健康な理由なんて、いくらでもあるような気がした。
ふらふらになって階段を上り終えると、自室の前には扉にもたれて空を眺める自称死神が待っていた。
つられて目を遣る。
黒い雲と深い青が入り混じった初夏の空を、沈みかけの太陽が優しく赤で染めていた。
なぜだかひどく、青の鮮やかさを憎みたくなった。そんな夏の終わりまでの始まりだった。
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