第4話 腹を割って
「お母さん、起きて、ねぇ起きて!」
「んん……あれ? もう朝か」
「朝か、じゃないよ。昨日ちゃんと寝てなかったでしょ。アルおじさんが話があるって」
「ごめんごめん、すぐ起きるから」
昨夜は夜中に起きてから眠れなかったためだろう、レンは勝手に下りてくる瞼と格闘しながら起き上がった。
春の太陽は早くも昇りつつあって、部屋の壁に窓の形の四角い光を映し出している。その中に黒いシルエットが一つあった。レンが首を巡らせて反対側を見ると、そこには少し呆れたように微笑むアルがいた。
「先に降りてるよ、お母さん」
「はーい、ありがとね」
レンが返事をして手を振ると、リコリスは身支度を済ませに、トントンと軽やかに階段を降りていった。
大人の話にむやみに首を突っ込まないのは、出会った最初の頃にリコリスと決めた約束事の一つだ。
事情も分からず両親を亡くしたらしいリコリスは、最初は「何があったの?」が口癖のようになっていた。自分が把握していない所で困った事が起きているかも知れない、という危惧が頭から離れなかったのだろう。それを頭から否定するわけにはいかなかったが、何でもかんでも分かるまでレンが説明する、というわけにもいかない。
「しっかり者だね、リコちゃんは」
「そうだな。元はいいとこのお嬢さんだったらしいのに、よく文句も言わずに私に付き合ってくれるよ」
「だからなのかい?」
不意にアルがそう言って、窓際の壁にもたれていた体を起こした。
「だから、とは?」
「この一年、旅をしながらずっと考えていた事だけどね」
アルは床に座ったままのレンの方へ歩み寄ると、その前に腰を下ろした。
「レン、君は本当は自分でロウを探しに行きたいんだろう?」
いきなり確信を持って言われた言葉に、レンは思わず体を固くした。
「当たり前の事だけどさ、何が起きているのかも分からずに、誰かが助けてくれるのを待ってるなんて、普通は子供にしか許されないよね。リコちゃんだってそうはしなかったって聞いてるよ」
「……そうだな、それは分かっている」
返事をしながら、レンは真正面からアルを睨みつけた。いくら夫の友人であっても、恩人であっても、侮辱は許せない。そんな気迫のこもった目だった。普通の相手なら、それだけで後退りしそうなほど、金色の目が鋭く光っている。しかし、それで怯むアルではなかった。
「分かっているなら、やっぱり自分でそうしないのは、それがリコちゃんのためだと思ってるからなんじゃないかい?」
「当然だろう。リコはやっと元のように平穏な生活に戻れたんだ。今また、何が起きるか分からない、明日の飯にも困るかも知れない生活に戻すわけにいかないだろう」
「それをリコちゃんが望んでいなくても?」
「どういう事だ!」
たまらずレンは拳を握り締めて大声を出していた。
この一年は、レンにとっては忍耐の一年だった。いや、この一年どころではない。
ロウタスが旅立ってからの二年間ずっと、ただ心配して待つしかない自分の状況に、レンは苛立ちを抱え続けてきたのだ。
けれど、レン自身はそれを苛立ちだとすら認めないように必死だった。熾火のように心の中にくすぶるそれに、「リコにとって良い母親であれ」と己に命じることで水をかけ続け、鎮めようとしてきた。それを今さら否定されるのは、さすがに我慢が出来なかった。
「落ち着いてよ、レン。君の努力を無下にしてるんじゃない」
「じゃあ何だって言うんだ? リコを誰かに預けてロウを探しに行けとでも!?」
「そうじゃない、そうじゃないんだ、レン。もっと落ち着いて考えれば分かるはずだよ」
「何をだ!」
レンの苛立ちは今にも破裂して体から溢れ出しそうだった。握り締めた拳に爪が食い込み、痛みを感じるまでになっても、目の前のアルを殴るわけにはいかないとぐっと堪えた。
そんなレンの様子を見て、アルはそっとレンの左手に手を伸ばすと、両手で温めるように軽く握った。
「レン、リコちゃんの状況をもう一度考えてごらん。一度は亡くした両親を、別の形でやっと取り戻したのがあの子なんだよ。自分の状況は自分で確かめようとして、僕らの会話にも何度も口を挟んできたような子だよ。そんな子が、またお父さんを失うかも知れないのに、なんで黙っててくれると思うんだい?」
さっ、と赤くなりかけていたレンの顔から熱が引いた。
「まさか、リコ……」
「君たちはよく似た親子だと思うよ。お互いを本当に大切に思ってる。平穏な生活の大切さも、それを維持する難しさも知っている。そのためなら、自分の気持ちを抑え込んででも、って考えるところもね」
レンの頬に、一度は差しかけて引いた熱が、再びじわりと満ちてきた。
自分がとんでもない思い違いをしていたかも知れないという、焦りももちろんある。しかしそれ以上に、アルの真っすぐな視線が、レンには身を捩りたくなるほど恥ずかしかったのだ。
レンには「仲間」がいたことはあっても、「友人」はいたことがなかった。自分の事を単に都合の良し悪しで評価する人間としか、まともに付き合った事がなかったのだ。
そんなレンにとって、これほど優しい視線で見つめた自分への評価は初めてのものだった。評価というより、ただありのままのレンの性格を、そのまま受け入れているのが分かる言葉だった。
かつて同じような言葉を、ロウタスからも受け取った事がある。けれど素直な言葉を口にすると照れてしまう彼は、滅多にそんな言葉は口にしなかった。
全く慣れないそんな言葉を、真正面からさらりと口にされて、レンは身の置き所がない気分になった。だというのに、アルはレンの手を握って離さない。
「アルおじさん! お母さんに何してるの!!」
幸か不幸か、そこに戻って来たリコリスが慌てて駆け寄ってきた。真っ赤な顔のレンの手を、アルが握っているのを見て、口説いているとでも思ったのだろう。
「お母さんにはお父さんがいるの!」
と一言叫ぶと、怒ったようにアルの手首を掴んで引きはがした。
「あっはははは……!」
不謹慎にも仰け反って笑い出したアルを、リコリスはきっと睨みつけた。それから心配するようにレンの目を覗き込んだリコリスは、ハッとした顔になった。
「リコ、ちょっとそこに座って」
自分を見上げるレンの真剣な表情を見逃さず、リコリスはすとんとその場に座った。まるでこれから何を言われるのかを、知っているかのような緊張した面持ちになっていた。
「今まで私は、あなたの気持ちをちゃんと聞いてこなかった。まずその事を謝るよ。その上で頼みたい事があるんだ」
「う、うん」
レンは膝に添えられたリコリスの両手を取った。今しがたアルから学んだのと同じように、きちんと自分の気持ちを伝えようと、深く息を吸った。
「リコ、私はあなたと一緒にお父さんを探しに行きたい。でも、そうしたら毎晩当たり前のように家に帰って、ご飯を食べて、安心して寝ることはできなくなる。だからずっとリコに頼んでいいのか分からなかった。でも、今はあなたにお願いしてでも行きたいの」
リコリスの目から視線をそらさないよう、途中で言うのをやめないよう、レンは一息にそこまで言った。言ってから、急速に脱力しそうになって、腹にぐっと力を入れた。
リコリスも目を逸らそうとはしなかった。しばらくじっとレンを見つめてから、レンの指を握り返すと、不意に破顔した。
「お母さん、あのね、私ずっとお母さんが心配だったの」
「え?」
「お母さん、しょっちゅう夜に起き上がって窓の外見てた。私知ってたよ、お父さんに会いたいんだって。でも我慢してるんだって」
「えっ、えっ」
「だから行こう、私も行きたい。お母さんをお父さんに会わせてあげたい」
思わぬ言葉に混乱するレンをよそに、リコリスはレンの手をぱっと離すと、立ち上がって部屋の隅へと駆けて行った。レンが目を白黒させている間に戻って来ると、リコリスはレンが以前使っていた荷袋を差し出した。
「これ、旅をする時の袋でしょ? お母さんとちょっと旅した時のこと、覚えてたから、色々いれておいたの。あと、ノエさんにも『旅に出るかも』って時々言っておいたから、たぶん大丈夫。ね、だから早くいこう」
「ちょ、ちょっと待ってリコ! え、ノエさんにそんな話までしてたの?」
自分から頼んでおいて、急展開に付いていけないレンの腕を握って、リコは早く早くと引っ張った。
「本当にしっかり者だなぁ、リコちゃんは。あはははは」
「アル、笑ってないで止めてくれ! 本当に今すぐ出るわけにはいかないんだから」
「いいじゃないか、準備は万端なんだし」
「そういう問題じゃないだろう!?」
頼もしすぎる娘に急き立てられ、レンはやむなく立ち上がって階下へ降りていった。アルはそんな二人をにこにこ笑いながら見送ると、立ち上がってベッドの上に二人分の旅装束を置いた。
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