27.残念令嬢のデビュタント

 慌ただしいノックとともに、返事も待たずにドアが開いた。

 そのまま室内に踏み込んでくる足音に、パトリシアはぎょっとして振り向く。


「ちょっと。マルコム兄様……っ⁉」


 出かかった言葉は途中で消えた。


 そこにいたのは、礼服に身を包んだ見知らぬ若者だったからだ。

 いや、その整った顔立ちにはどことなく見覚えがあった。

 平民に多い赤褐色オーバーンの巻き毛に、特徴的なアイスブルーの瞳。

 王立学院で何度か見たことがある、この青年の名前は確か――。


「ロッド・ザイファート……?」

「ロッド・ザイファートです。初めまして、リドリー嬢」


 そう言うと、ロッドは持っていたブーケをベッドサイドのテーブルに無造作に置いた。

 白のラナンキュラスとカスミソウを束ねた、シンプルなクラッチブーケだ。

 花言葉はそれぞれ「純潔」と「無邪気」。

 デビュタントの令嬢に贈る花束として、無難な組み合わせではあるものの、いかんせんボリュームが足りない上、いかにも街の花屋で出来合いのものを買ってきました感が拭えない。

 

「外務大臣閣下より、本日、貴女のエスコート役を命じられました。ところで、私は王立学院卒業時に準男爵パロネットの位を賜っております。ですのでお呼びになる時は『サー』の称号をお忘れなく」

「…………」


 それが何? とパトリシアは思う。

 この国の準男爵は、地位でいえば男爵の下、騎士爵ナイトと同格に扱われる。

 王宮に出仕する平民の文官に与えられる地位で、称号としては最下位であり、「爵」の字がついていても貴族ではない。

 王立学院を首席で卒業した場合も自動的に授与されるが、多くの生徒はすでに爵位を持っているか、親の爵位を継ぐことが決まっているので、気にする者はほとんどいなかった。


 どう反応していいかわからず、黙ったままのパトリシアをよそに、ロッドはとうとうと話し続ける。


「さて、本日の段取りですが、拝謁は6時に始まります。今夜の王宮は馬車の混雑が予想されるため、余裕をもって、5時までには王宮入りしたほうがいいでしょう。貴女の拝謁は7時ごろと予想されますので、それまで控えの間で待機。8時から会食、10時から舞踏会。そこで我々は最初のワルツを踊り、その後適宜ダンスと歓談を済ませて退出、帰宅は午前1時から2時の間を予定しております。ここまでで何かご質問は?」

「…………」


 これは一体何なのだろう。


 パトリシアは茫然とした。

 

 デビュタントといえば、女の子にとっては人生初の晴れ舞台だ。

 その始まりは、生まれて初めて袖を通すフルレングスの純白のドレス。

 家族や集まった親戚たちがさかんに「きれいだ」と褒めそやす中、エスコート役の男性が颯爽と現れ、微笑みと惜しみない賛辞と共に白いブーケを差し出す。


 そうしたブーケは多くの場合、彼の屋敷の庭園で丹精こめて作られたバラやユリ、蘭といった華やかな花々を、専門の職人が形よく束ね、そのためだけに仕立てられたリボンで美しくくくられる。


 間違っても、乙女の寝室にズカズカ踏み込んできた男が、出来合いの花束をぽんと置き、事務的に予定を説明するなどという殺伐としたイベントではないはずだ。


 あまりのことに、口をはくはくさせることしかできないパトリシアを前に、ロッドは懐から出した懐中時計を確認すると「では」と軽く一礼した。


「支度がお済みになるまで、玄関ホールでお待ちします」


 ――今にして思えば。


 前世でそれなりに歳を重ねた〈私〉は考える。

 あの日のロッドは十九歳。

 平民の中でただ一人、厳しい奨学制度をクリアして王立学院に入ったばかりか、入学から卒業まで首席をキープし続けた彼が、どれほど学業に時間を割かねばならなかったかは想像に難くない。

 実際、王立学院で見かけた彼は、常に目の下にうっすらと隈が浮いていた。


 さらに。

 

 王立学院には礼儀作法マナーのクラスがあるが、これはあくまで洗練された身ごなしを修得するためのもの。

 はっきりいって、内容は体育の授業と大差ない。

 つまり、どう美しく動くかは教えても、どんな時にその動きが必要になるかはカリキュラムに入っていないのだ。

 

 というのも、季節の行事や冠婚葬祭のふるまいなど、貴族の家に生まれた者なら、幼いころから当たり前のように経験し、自然と身につくものだからだ。


 デビュタントのエスコートにしてもそう。


 リドリー家の娘はパトリシアだけだが、二人の兄がエスコート役になったとき、どれほど準備に気を遣い、事前にあれこれ手配していたかは間近に見てよく知っている。

 だが、そのような背景を持たないロッドは、貴族の細かい風習を見聞きする機会などほぼ皆無だっただろう。

 そしておそらく、私とは違う意味で浮いていたロッドに、こうしたことを教えてくれる友人はいなかったのではなかろうか。

 よしんば友人がいたとしても、貴族にとってはあまりに当然すぎて、教えることを思いつきもしなかったのか。


 ロッドを見込んでエスコートを命じたお父様さえ、優秀な部下が、まさかそんなところに弱点を抱えていようとは思ってもみなかったに違いない。


 けれど、十八歳の、それも、お世辞にも頭の出来がいいとはいえないパトリシアが、そんな事情を忖度できるはずもなく。

 あの日のデビュタントは、二人にとってトラウマ級の悲惨なイベントとして、記憶に長く刻まれることになったのだった……。

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