23.残念令嬢と雨の日の記憶

 財務に明るいイサーク様に話を聞こうと、リブリア公園で待ち合わせした私たち。

 イサーク様に取り入ろうと寄って来た人々と壮絶なレースを繰り広げた挙句、ボートでリブリア河に逃げ出したはいいものの……。


「ずいぶん遠くまで来てしまったな」


 イサーク様が、苦笑まじりにつぶやいた。

 今、私たちが漂っているのは、王都の外れも外れ、街を囲む城壁が見えるあたりである。

 公園から私たちを追ってきたボートの群れも、さすがに音を上げたのか、一隻、また一隻と引き返していき、今はどこにも姿がない。

 最後まで追ってきたレモンイエローの貸しボート――イモラが乗っていたボートも、彼女より先に漕ぎ手の男性がギブアップしてしまい、盛大な口喧嘩の声を川面に響かせながら戻っていった。


「我々もそろそろ帰ろうか」


 イサーク様がボートの向きを変え、上流に向かって漕ぎだしたとき。


 ぽつ。


 鼻の頭に、大粒の雨が落ちてきた。

 見上げれば、いつの間にか日は翳り、空はぶあつい雨雲に覆われている。


「……っと、これは」


 イサーク様が、急いでボートの舳先を岸壁に向ける。幸い近くに桟橋があり、ほどなく私たちは寂れた川辺に降り立った。

 古い石造りの建物が立ち並ぶ、住宅街とも倉庫街ともつかない中途半端な街並みが広がっている。


「さあ、これを。まずはどこか雨宿りできる場所を探して、それから馬車を手配しよう」


 ふぁさり、と何かが頭に被された。

 イサーク様が着ていらした淡いベージュのジャケットだ。

 

(――!)


 おお、イケメン!

 と、前世の〈私〉が感心する一方、長いこと顧みられることのなかった〈パトリシア〉の記憶がざわめく。

 イサーク様にとっては、おそらく紳士としてのごく普通の気遣い。それ以上でも、以下でもない。

 けれど、ほのかにムスクの香りが残る男物のジャケットの中で、パトリシアは何年も前の似たような雨の日を思い出していた。


 ◇◇◇


 王立学院では、学問と同じくらい、いや、それ以上に生徒間の交流が奨励される。

 将来この国を背負って立つ貴族の子女として、今から人脈を築いておくように、という意図があるからだ。

 礼儀作法マナーの授業とダンスの授業は男女のペアで参加するし、月に一度の模擬茶会では、親しい者同士が同じテーブルにつくのが原則だ。

 そんなとき、パトリシアは決まって一人で余ることになり、講師の先生が苦笑しながら相手役を務めるのが常だった。


 ――あれはいつのことだったか。


 本校舎から少し離れた講堂でダンスの授業が済んだ後、ふいに雨が降ってきたことがあった。

 生徒の誰も傘を持っておらず、さりとて本校舎まではそれなりに距離がある。

 どうしましょう、と、主に令嬢たちが途方に暮れる中、ふいにある少年が上着を脱いで一人の少女に着せかけた。

 

「どうぞ、これを。レオノーラ嬢」


 そして少女の手を取るや、雨の中を駆け出していったのだ。

 とたんに、講堂は黄色い歓声に包まれた。

 端正な目鼻立ちの少年は、ケレス王国の第一王子。

 凛とした顔立ちの美少女は、その婚約者。

 現王太子殿下と王太子妃殿下の、学生時代のエピソードである。


 前世でいえば映画のワンシーンのようなその光景に刺激され、残された生徒たちは、我先にペアを組み始めた。

 女子に上着を被せた後、手を取って丁寧にエスコートする者。王子たちがしたように、手に手を取って駆け出す者。

 中には大胆にもパートナーの女子をお姫様抱っこして歩き出した強者つわものもいて、これには皆が口笛を吹くやら拍手をするやら、講堂の前は大盛り上がりとなった。


 ――で。


 当然ながら、この時も一人あぶれたパトリシアは、エスコートも雨除けの上着もなく、皆の後からとぼとぼと泥濘ぬかるみの中を歩いていく破目になったのだが――……。


「リドリー嬢?」


 イサーク様の声にふと顔を上げれば、そこは古びた居酒屋パブの前だった。

 ドアの上には、かすれた文字で〈王の樽キングス・バレル〉と書かれている。


「このような場所で申し訳ないが、濡れるよりはましだろう。辻馬車を呼んでくるまで、中で待っているといい」


 そう言うと、イサーク様は、私の返事も聞かず、本降りの雨の中を駆けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る