Season 2

【幕間】残念令嬢の(元)婚約者

 ケレス王宮は、二つの翼棟をもつ三階建ての瀟洒な宮殿だ。

 数々の夜会が催される壮麗な大広間や、贅を尽くした千もの部屋べや。薔薇の迷路や噴水庭園、趣向を凝らした四阿やガゼボが点在する〈恋人たちの庭〉など、その豪華絢爛ぶりは国内外に広く知られているが――。


 王宮の裏手にひっそりと佇む、古びた塔の存在を知る者は少ない。


「離塔」と呼ばれるそこは、先々代の国王が今の宮殿を建てるまで使われていた旧城の名残りである。

 現在は資料室として使われているそこを、王宮勤めの人々は皮肉を込めて「離」と呼んだ。

 様々な理由から閑職に追いやられた廷臣や官吏が、最後に行きつく場所だからである。


「ザイファート。ザイファート。至急〈猟犬ハウンド〉執務室に出頭されたし。繰り返す。ザイファート、ザイファート……」


 伝声管特有の金属的なエコーを伴う声に、離塔の急な階段を上っていたロッドは足を止めた。

 肩に担いだモップと、水の入ったバケツを踊り場に降ろし、流れる汗をシャツの袖口で拭う。

 そのシャツも、サスペンダーで吊った毛織のズボンも、白い部分は薄黒く、黒い部分は白く汚れていた。

 かつては外務大臣の懐刀と言われた彼も、今は資料室の雑役係に過ぎない。


「おやま。猟犬からの呼び出しとは珍しい。あんたの古巣は、確か〈大鴉レイヴン〉じゃなかったかね」

 

 そう言ったのは、資料室長のリーベルだった。

 ロッドの現在の上司である。

 色褪せた毛糸の肩掛けにくるまった白髪の老婆は、およそ記憶にあるかぎり昔から、離塔のてっぺんに君臨しているという。


「鴉に巣からつつき出された挙句、猟犬にまで目をつけられるとは。あんたもよくよくツイてないねえ」

 

 リーベルはそう言うと、ヒヒッと笑った。

 ちなみに「大鴉」は外務官房を、「猟犬」は脱税・密輸取締局を指す宮廷内の符牒である。


「まあともかく、行っといで。戻ってきたら、また書庫の掃除に戻るんだよ」

「…………」

 

 ロッドは無言で一礼すると、上司の部屋を出ていった。


 ◇◇◇


 王宮に一歩足を踏み入れたとたん、あたりの景色は一変する。

 様々な色のローブを纏った官僚たち。あでやかに着飾った貴婦人たちに、美男揃いの侍従たち。

 忙しく行き交う下級の従僕たちでさえ、白いカツラのてっぺんから黒い革靴の爪先までぴかぴかに磨き上げている。

 そんな中、埃まみれでくたびれた自分の姿はいかにも場違いで、ロッドは自然とうつむきがちに、廊下の端を急ぎ足で歩いていった。

 目当てのドアをコツコツと叩けば、「入れ」とすぐに応答がある。


「失礼します」


 執務室のデスクについているのは、脱税・密輸取締局ハウンドの筆頭捜査官、イサーク・グスマンだった。


「〈メゾン・ド・リュバン〉の横領事件の記録が欲しい」


 挨拶も前置きもなく、手許の書類から顔も上げずにイサークは言った。


「確か、五、六年前に起きた事件のはずだ」

「六年前の十一月ですね」


 イサークが初めてこちらを見た。


「なぜ知っている」

「一昨日拭いた書庫の棚にあったので」

「なるほど。誰が担当した事件か見たか」


 ロッドは小さく肩をすくめた。


「さすがに、そこまでは」

「では資料だ。私はこの後出かけるが、今日中にこの部屋に届けてくれ」

「承知しました」

 

 ロッドはきびすを返したが、ドアに辿りつく前にイサークに呼び止められた。


「ところで、君はパトリシア・リドリー嬢と婚約していたそうだが」

「――はい」


 返事をしてから、ゆっくりと振り向く。


「それが何か」


 婚約破棄からしばらくの間、ロッドに対する周囲の見方は同情的だった。

 パトリシア嬢は、その容姿や服の趣味も相まって、社交界では何かと物笑いの種だったし、ゴルギ大使の令嬢が手を回して素早く広めたゴシップも、「被害者はロッドの方である」と人々に思わせるのに一役買っていたからだ。

 だが、その後一週間も経たないうちに、別の噂がまことしやかに流れ始めた。

 外務大臣の懐刀、ロッド・ザイファート氏が、こともあろうにマーセデス大使の娘と通じて隣国に情報を流している――。

 醜聞スキャンダルが広まるのは早い。

 それが将来を嘱望されたエリート官僚のものならなおさらだ。

 ロッドはあっという間に失脚し、最果ての離塔に飛ばされた。


 色素の薄いアイスブルーの瞳で、ロッドは筆頭捜査官のサファイアブルーの瞳をのぞきこんだ。


 こいつも俺を嘲弄するのか。


 元の職場の同僚はもちろん、夜会で一度挨拶を交わした程度の相手さえ、最近は何かと理由をつけてはロッドに話しかけてくる。

 指を振りたて、嘆かわしげに説教してくるご老体。大使の娘との関係を揶揄してくる同期生。

 皆、零落したロッドを相手に、優越感に浸りたくてたまらないのだ。


(王立学院きっての英才も、所詮は俗物だったということか)


 イサークはロッドの三学年上だった。

 年齢はひとつしか違わないが、イサークが飛び級しているからだ。

 ロッドも入学から卒業まで首席で通したが、イサークが在学中に打ち立てた記録には遠く及ばず、ひそかに歯噛みしたものだった。


 果たして、この優秀な捜査官から出てくるのは、おためごかしの説教か、はたまたとびきりの嘲笑か……。

 ひねくれた好奇心を胸に待ち構えていたロッドだが、かけられた言葉はそのどちらでもなかった。


「彼女に記憶術を手ほどきしたのは君か?」

「は?」


 思わず、素で聞き返してしまった。記憶術?


「失礼ですが、それは一体」

「その様子では違うようだな。いや、いい。忘れてくれ」


 イサークは書類に目を戻した。

 用は済んだということだ。

 今や一介の雑役係に過ぎないロッドは、退出せざるをえなかった。


 ◇◇◇

 

 行きと同様、急ぎ足で塔に続く渡り廊下を目指す。

 誰とも目を合わさないように、視線は下に向けたまま。

 だが――……。


「あれ、ザイファート? ザイファートじゃないか!」

「…………」


(――嫌な奴に会った)


 ロッドは内心辟易したが、無表情で頭を下げた。


「ファインズ様」

「何だよ、他人行儀だなあ。前みたいに仇名で呼んでくれよ。『ぺらぺら頭』とか『おしゃべり野郎』とかさあ」


 翡翠色のローブを纏い、目の前でへらへら笑う小柄な若者はネイト・ファインズ。ファインズ伯爵家の次男である。

 裕福な親のコネで外務官房にねじこまれ、ロッドの下に配属されたが、あまりの無能ぶりに、それこそ何度離塔送りにしてやろうと思ったことか。

 

「今回はとんだ災難だったねえ。いや、君の気持はよくわかるよ? 大きな声じゃ言えないけれど、僕だって婚約者がアレじゃあさ、他に癒しが欲しくなるって」

「申し訳ございません。急ぎの用を言いつかっておりますので」

 

 ペラペラと喋り続ける相手に構わず、一礼して立ち去ろうとしたが、ネイトは素早くロッドの前に回り込んだ。


「待てよ、平民。最下層の分際で、偉そうにしてんじゃねえよ」


 ロッドの唇が微かに引き攣る。


 --王立学院は、建前上は平民も通えることになっていた。

 奨学制度があるからだ。

 ただし、それを受けるには、とんでもなく難易度の高い資格試験をクリアして、卒業まで常に上位の成績を保たなければならない。

 だからロッドは努力した。

 同学年のネイトが毎回金を積んでパスする進級試験を常に一位で通過し、卒業試験は過去のイサークに肉薄する成績で首席をとった。

 コネも金もなしに外務官房に入った平民は、この国で彼が初めてだ。

 けれど――。


「お前さあ、今、離塔の使い走りなんだろ? だったら俺の用も聞いてくれよ」


 そう言うと、ネイトは履いていた靴を片方、廊下の向こうに蹴り飛ばした。


「そら、取ってこーい!」


 ロッドは無言で靴を取りに行き、ネイトの足元に静かに置いた。


「何スカしてんだよ。こういうときは『ご主人様、どうぞ』だろ?」

「楽しそうだな、ファインズ君」


 声と同時に、ネイトの肩に、ずしりと肉厚の手がかかった。

 立っていたのは、ネイトと同じ翡翠色のガウンを着た恰幅のいい男である。

 途端に、ネイトが青ざめた。

 

「ビュ、ビュフォン次官……」

「こんなところで、いつまで油を売っているのかね。怠け者の席は外務官房うちにはないぞ」

「は、はひぃっ!」


 慌てるあまり、靴を履くのも忘れたネイトが、片足だけ靴下のまま逃げていく。

 ビュフォン次官はロッドに向き直った。


「うちの馬鹿が失礼したね、ロッド君」

「感謝いたします、ビュフォン閣下」


 深々と頭を下げるロッドを前に、ビュフォンはやれやれとため息をつく。


「君がいなくなったおかげで、うちの部署は大変だよ。早く戻ってきてくれないかね」

「……そうおっしゃられましても」

「リドリー閣下に目をつけられては、復帰はなかなか難しい、か」


 そう言うと、ビュフォンはふいにロッドの耳に口を寄せた。


「何か困ったことがあれば、遠慮なく私を頼りなさい。ゴルギ大使のお嬢さんも、君のことをずいぶん心配していたぞ」


 そして、ロッドの返事も待たず、悠々と廊下を歩き去った。

 

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