2-2

『…………え』


 私がナイフを振り下ろした瞬間、体が急に後ろに引き寄せらせ、同時に手が上空で動かせなくなってしまいました。


 私の腰には逞しい腕、背中には人の温もりを感じます。


 お、おかしい。

 ここには私しかいないはず、村の人が私を見に来るわけもありません。


 何が起きたのか、分かりませんでした。


『だ、れですか?』


 困惑しながら問いかけると、低く、甘い囁き声が耳元に聞こえたのです。


『やっと、ぬしに触れられる』


 ゾクゾクと、体に甘い痺れが走り、思わず肩が震えます。


『クックックッ、安心するがよい。我は、ぬしの味方だ』


 腰に回されていた手が私の顎を固定してきました。


 強制的に後ろを振り向かされてしまいます。

 そこには、黒い布で顔を隠している男性が、銀髪を風で揺らしながら立っておりました。


『ふむ、今まで遠目でしか見る事が出来んかったが、やはり……。近くで見ると、より一層別嬪さんだな』


 その言葉だけでなく、現状すら理解できていない頭で、私は何とか問いかけました。


『あ、あの、貴方は一体誰なのですか……?』


『我か、確かにぬしは我とは初対面だったな。これは失敬』


 カッカッカッと笑うと、いきなり黒い布で隠している顔を近づかせてきました。

 少しでも動けばぶつかってしまいそうです。


 そんな彼の後ろには、人にはあるはずのないものがゆらゆらと、ゆっくりと揺れておりました。


『銀色の、九本の尾?』


『そうだ。我は九尾の狐、九火七氏きゅうかななしだ。あやかしのトップ、と言えばわかるか?』


『き、九尾の狐? なぜ、そのような有名な方が、私を助けたのですか?』


『死なれたら困るからな』


『困るとは、いったい――え、手から血がっ!!』


 横に垂れていた七氏さんの右手、血が出てしまっております。

 ナイフの刃部分をそのまま掴んでしまっているので、切れてしまっております。


 さっき、私がナイフを最後まで下ろすことが出来なかったのは、七氏さんがナイフを掴んだからでした。


『あぁ、これか。心配無用、この程度で我を倒すことなど出来ん』


 私から一歩分、後ろに下がり離れますと、七氏さんがナイフを"カラン"と落としました。


 開かれた手のひらはぱっくりと切れてしまっており、痛々しいです。

 これは、縫わなければならないのでは無いでしょうか。


 私が手を伸ばし、七氏さんの手を握ろうとした時、なぜか流れていた血が止まったように見えました。


『え、止まった……?』


 よくよく見ても、血は完全に止まっております。


 見続けていると、徐々にぱっくりと切れておりました傷が、たちまち塞がっていきました。


 完全に傷が塞がると、もう血は流れる事はなく、痕すら残っておりません。


 私が目を丸くしながら七氏さんの腕を見ていると、なぜかクククッと笑われました。


『さっきも言ったであろう、心配無用だと。我は九尾の狐、人間ではない。巫女であるぬしならわかるだろう?』


『少しだけしか……。九本の尾をもつ狐の霊獣、またはあやかしと。そのようなものしか聞いておりません』


『むっ、もう少し細かく知っていると思っておったぞ』


 私の返答を聞くと、黒い布の隙間から覗き見える口がへの字になってしまいました。


 そんな顔をされても、私はこの程度しか耳にしておりませんので仕方がありません。

 自分で調べるという事もできる環境ではありませんでしたし……。


『まぁ、良い。ぬし、一つ我の願いを叶えてはくれぬか?』


『え、九尾の狐の、願い?』


『そうだ。ぬし、我の嫁となれ』

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