クリスマスソングのすずの音

清瀬 六朗

第1話 二度と帰らない家

 瑠音るねは、いま手のなかに握っているものの感触を確かめた。

 そのものの名は、成美なるみナイフ。

 果物を切るためのナイフが「果物ナイフ」ならば、成美を切るためのナイフは「成美ナイフ」と呼ぶべきだ。

 瑠音の口もとがゆるんだ。

 お母さんは、締切まで時間がないというのに、講演旅行に行っている。本屋さんの会社に勤めているお父さんも、この季節、帰って来るのは夜遅くだ。

 お父さんにもお母さんにもまた会う機会はあるだろう。

 でも、そのときの瑠音はもう今朝までの瑠音ではない。古原こはら家というこの家もいままでとはまったく違った家になっている。

 ジャケットの右ポケットに入れた成美ナイフの束を手で握ってもういちど確かめる。

 それが確かにポケットに入っていることとか、握り心地とか。

 中学生のころから着ているベージュのコートを着て、玄関を出る。

 外から鍵をかける。

 もうここには二度と帰って来ない。

 たぶん。

 でも、瑠音の口もとから笑いが消えることはなかった。


 まだ五時を少し回ったくらいだけど、外は暗い。さすが一二月だ。

 坂道を下っていくと、イルミネーションに彩られた駅前の通りに出る。

 夜の暗さのなかで、その大きな通りが地面から夜空へ浮き上がっているように見える。

 大通りの脇の歩道を、瑠音はしっかりと顔を上げて歩いて行く。

 イルミネーションも、BGMとして流れているらしいクリスマスソングのメロディーも、瑠音を通り過ぎて行く。

 ただ、そのクリスマスソングのすずのおとだけはみみざわりだった。

 瑠音は、押し黙ったまま蒲沢かんざわ駅に着いた。

 電車はすぐに来た。電車の時間を見て家を出たのだから、当然だ。

 クリスマスを前に電車のなかの雰囲気も華やかだ。

 華やかというか、浮き立っているというか。

 席に隣り合わせに座って、ずっとおしゃべりをして、ときどき首のところに手を回して唇を寄せ合ってふざけている若い男女がいる。五人くらいでかたまって、大声でしゃべったり笑ったりしている、瑠音と同年代の女の子たちもいる。

 今日はそういうのがふしぎと気にならない。

 みんな、幸せにね、と思う。

 でも、このうちの何人かは幸せというわけにはいかないだろう。

 これから起こる惨劇の目撃者になるからだ。

 デートやパーティーどころではなくなるだろう。

 改札前にできた直径一メートルを超える赤い血だまり、救急搬送される色白美人の高校生、ぐったりしたまま連行されていく醜い女子、取り巻く人混みからときどき上がる悲鳴……。

 これからの長い一生のあいだ、クリスマスが来るたびに、そういうものを思い出して、気分が悪くなるかも知れない。

 瑠音は鼻からふっと息を吐いた。

 口もとがまたゆるんだ。

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