第二章 美月と竹流
1
午前七時十二分。――枕元の目覚まし時計に目を馳せると、美月は窓辺に行ってカーテンを引き開けた。
窓の向こうは塗りつぶしたような漆黒だった。闇に自分の顔が白く映っている。
あの分厚いシャッターのようなものが建物全体を覆っているのだ。そして、その向こうは土なのだと思うと、ものすごく不思議な気がした。
(今、わたし、地中にいるんだ)
どこにも逃げられない。おそらくずっと、何十年も。彼の言葉を信じるなら、あと百年も。
ならばここがわたしの居場所と腹を据え、ここで暮らしてゆく覚悟を決めなければ。
一晩じっと考えて、美月はそう決心したのだった。
(大丈夫よ。どこにだって幸せはあるもの。『アンネの日記』のアンネ・フランクだって、死と隣り合わせの過酷な暮らしの中で楽しみを見つけ、恋だってした。彼女に比べればわたしなんて――)
そこで美月は唐突に気づく。
(恋――もうすることはないんだわ)
この世界で唯一の他者は竹流だけなのである。そして竹流は美月の配偶者であるのだ。信じられないことに。
初対面の男性――しかもよりによって、あんな恐ろし
(……こんなことになるなら、恋愛くらいしておけばよかった)
なんだか自分が人として大事なものが足りない気がして、美月は少し落ち込んだ。
ふと、昨日触れた背中を思い出す。
細身の骨ばった、だが硬くしっかりした大人の骨格だった。同級生の男子とも違う、父親とも違う――。
美月は知らず自分の手を見つめているのに気づき、赤面した。
(違う! あれは――)
手負いの
(たとえこの世で二人きりだとしても、あの人を好きになることだけは絶対にないと思うわ……)
それほどまでに、竹流という人物は恐ろしく、どれだけ年月をかけようがけっしてわかりあえそうになかったのである。
(でも、これからずっと一緒に暮らしてゆくんだもの。仲良くは……なれなくても、せめて慣れていかなきゃ……)
美月は両手で頬を軽く叩いた。
「――よしっ」
気合を入れなければ、この部屋から出ることができない気がした。
ドアを開けると、珈琲の良い香りがホールに充ちていた。
美月は驚く。
(珈琲なんて、この世に存在するんだ)
どうやって手に入れているんだろう。外のジャングルに珈琲豆が自生しているのだろうか。それとも、美月のような人工生物を造ることができるのだから、珈琲を作ることくらい彼には簡単なのかもしれない。
何にせよよい香りである。美月は引き寄せられるように部屋から出ると、大理石の階段を靴下のまま降りた。
リビングには白衣姿の竹流が銀色のカップを手に、立ったまま壁付けの巨大モニターを見上げていた。
グラフや数値が次々と目まぐるしく表示されては物凄い速さで切り替わってゆく。読み取る前に次のデータが表れるものだから、美月には何の表示なのか一切わからなかった。
彼にはちゃんと読み取れているのだろうか。そうだとしたら、それはもはや人間
「あの――竹流さん、おはよう」
思いきって声をかけると、モニター表示が唐突にぴたりととまった。
竹流は前に顔を向けたまま「おう」と言った。
悪意の感じられない返答にほっとするやいなや、竹流がぐるりとこっちを向いた。変わらぬ不機嫌そうな顔に、思わず身構える。
「おい――あの
「え?」
「だっておまえ、寝る必要ねえだろ」
一瞬何のことを言っているのかと目を瞬いた。
「寝てるわ、ちゃんと」
竹流は微かに目を見開く。
「寝れるのか?」
「うん。練習して寝れるようになったの。こつをつかめば簡単だったよ」
竹流は呆気に取られたように美月を見つめたが、すぐに憮然として顔を反らせた。
「もったいねえなぁ。人生の三分の一をわざわざ無駄に使うたぁな」
まあ俺は六分の一だけどな、とカップを口に運ぶ。
(六分の一ということは、四時間しか寝てないってこと?)
美月なんて――かつてはいくら寝たって寝足りなくて、毎朝起きるのがつらかったのに。
「なんだよ。何で制服なんて着てんだ? 服ならクローゼットにわんさとあるだろうがよ」
「だってどれもドレスみたいで……恥ずかしいんだもの」
ひらひらした女子全開のワンピースばかりなのである。あまりにも少女趣味すぎてとても着れたもんじゃなかった。
ジーンズとかトレーナーとか、美月がふだん着ているような私服はいっさい見当たらなかった。
「恥ずかしいも何も、誰も見てねえだろ」
「あなたが見てるじゃない……」
赤面して俯く美月に、竹流は目を細めた。
「あー、その仕草に表情、いいじゃねえか。そこまで俺の好みどおりなのに、何で服の趣味は美月のままなんだろうなぁ。――まあしばらく服は入手できねえから、我慢して着とけよ」
きっと似合うぜ、とにやりと笑ってみせた。
確かにこのお城のようなお屋敷には似合うかもしれない。だが、まっすぐな黒髪の自分に似合うとは思えなかった。
(もっと可愛い西洋人形のような女の子なら、似合うのかもしれないけど――)
俯く美月を、竹流はじっと見つめる。
「ところでお前、なんで降りてきた? 俺に何か用なのか?」
「そうゆうわけじゃないけど……朝起きたら家族に顔を見せるものじゃない?」
「そうゆうもんなのか?」
竹流は首を傾げた。
「つうかな、おまえは家族じゃなくてペットだろ。人間じゃねえんだから」
意地悪そうに指を突きつけられ、美月はむっとする。
「ペットだって起きれば家族の
竹流は面食らったように美月を見た。
「……
一瞬、竹流の眼差しにさびしげなものが
「なんだお前。俺と家族ごっこでもしてえのか?」
竹流のほうが家族ごっこをしたいがために自分を造ったのではないのか――そう思ったが、さっきのさびしげな顔がよぎり、言えなかった。
竹流の攻撃的な口調が自分を守るためのものであることに、美月は徐々に気づき始めていた。
「そうなの。わたし、何かしたいの。家族ごっこでもままごとでも何でもいいから。ずっと部屋に閉じ籠もってはいられないもの」
竹流は小さく息を吐くと、がりがりと頭を掻きながら眉根を寄せた。
「つっても何かやることあったかなぁ……」
「掃除でも洗濯でも何でもするわ」
「掃除も洗濯も自動で済むからいらねーよ。食器洗いもな」
言いながらカップをテーブルの上に置いた。すかさず壁にぽっかりと穴が開き、そこからタカアシガニの脚のようなものが伸びてきてカップをつかんだ。
突然のことに美月はぎょっとする。
脚はカップごと穴に収納され、壁の穴は跡形もなく消えた。
目を見開いている美月に気づいた様子もなく、竹流は「そうだなぁ……」と再び頭を掻いた。――癖のようだった。
「じゃあ飯の用意でもやってもらうか」
「料理なら――」
好き、と言いかけて、はたと口をつぐんだ。
美月は料理が好きだった。週末は母の代わりによく夕御飯を作ったものだ。だが食材といえばカットされたり加工されたりしてパッケージに入ったものしか扱ったことがない。
この地上にスーパーマーケットやコンビニがあるとは思えなかった。卵焼きは上手に焼けても、魚を三枚におろすことさえできない美月が、この世界で食事を提供できるのだろうか。
(むしろ捕まえるところからのスタートだったらどうしよう……)
外に拡がる鬱蒼とした森には正体不明の生き物がわんさといそうではあるが――運よく捕まえたって、その命を奪うことなどできそうにない。
「あ――あの、食材は……」
おずおずと問うた美月に、竹流は眉根を寄せる。
「食材だぁ? そんなもんあるわけないだろ」
やっぱり――狩りでもさせようというのか。
青ざめた美月を
「ついて来い。この時代のお食事を教えてやる」
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