2
美月はベッドに横たわったまま天井を見上げていた。
いつの間にか眠っていたらしい。
どのくらい眠っていたんだろう。頭がすっきりとして、体が軽かった。普段の夜の睡眠よりもずっと――まるで身体をリセットしたかのようだった。
のろりと身を起こす。窓から差し込む西日が目をうち、目をすがめた。
(わたし……寝れるんだ)
目覚めた日から三日あまり、美月は一睡もしなかった。まったく眠気を感じなかったのだ。
それだけではない。お腹もすかないし、喉も乾かなかった。トイレにいきたくなることもなかった。
人間でないという事実を突きつけられた思いだった。あの男の言ったことは真実だったのだ。――そのことに気付いてしまった瞬間、気が違ってしまいそうなほどの衝撃に打たれ、恐怖が腹の底から突き上げた。
美月はベッドに突っ伏して泣きむせび、涙が枯れると暗く深い虚無の中でうずくまった。
そのまま、意識を失ってしまったのだ。
――そして、目が覚めた今。あの衝撃と悲しみは美月の中からすかっと消えていた。
(あんなにショックだったのに)
吹っ切れたとか、諦めたからというわけではない。
実感がわかないせいだ。なにせいつもの自分と何ら変わりないのだから。
自分はたしかに人間ではないと、ちゃんと理解したつもりだった。だが、目が覚めると現実感は遠のき、やっぱり夢だったんじゃないかと思っている自分がいる。
そして。美月の中で自分が何であるかということは、すでに二の次になっていた。
もっと大きい問題が、美月の胸を占めていた。
(――麻矢。もう、生きていないなんて)
人間でないことはなんとなくでも受け入れることができたというのに、娘のことを思うと苦しさが込み上げて身が引きちぎられるようだった。
顔も、その温もりも覚えていないというのに。
(……違う。覚えているんだわ)
視覚からの映像記憶は与えられなくとも、この身体が、細胞が覚えているのだ。でなければこんなに苦しいはずがない。
じわりと視界が歪み、あたたかい涙が頬を伝って
手の甲でぐいっと目元をぬぐい、再びシーツに手をついたその時――ひやりと不快な感触にぎょっと手を引っ込めた。
見ればシーツのいたるところに緑色のゼリーのような粘質なものが付着している。
「なにこれ……」
唖然とした。シーツだけではない。制服の胸元にも、スカートにもべったり付いていた。
いつの間にこんな状態になっていたのだろう。寝てる間にだろうか。
美月は震える指で緑の粘液に触れた。ねっとりと張りつく感触に
ゼリーのようだが、もっと粘る。まるでスライムのようである。
(これまさか――わたしから出たもの?)
見れば緑の粘液だけでなく、半透明の薄膜片のようなものがシーツのそこら中についている。なかには白っぽく変色した粘液もところどころにあった。
(この粉……緑のねばねばが乾いたもの?)
シーツを払うとはらはらと虹色に煌めきながら床に舞い落ちていった。美月はそれを茫然と見つめた。
(こんな気持ちの悪いものが出るなんて、わたし、ほんとうに化け物なんだ……)
その時。窓の景色が目に入り、美月はぎくりと身を強張らせた。
眩しいほどの西日はすでに落ち、空は深い色の紫に染まっている。
(夜が来る)
美月は夜を三回やりすごしていた。眠れぬままに夜を過ごすのはひどく
夜はあまりにも長くて、不安と恐怖に押しつぶされそうになる。光の届かぬ深淵にゆっくりと
嫌な想像が次から次へと頭に浮かんでは消えることなく、意識の中を際限なく回転しながら
緑の粘液にまみれたシーツを見やる。
(――嫌だ!!)
ぞっとして思わず目をそらした。
するとふいに机の横の三段のカラーボックスに目がとまった。書籍や雑誌が並んでいる。
(本がある)
どうして気づかなかったんだろう。ずっとうずくまっていたから、何も見えていなかったのだ。
美月はベッドから降りた。フローリングに足をつき、腰を上げたとたんによろめいた。なんだか全身が萎えている。
おぼつかない足取りでカラーボックスの前に立つと、かがんで中を眺めた。
上段にはブランド物のファッション誌や、バッグや貴金属、化粧品などのカタログばかり並んでいた。
(本物のわたしはこんな雑誌が好きだったのかな……)
――ぎくりとした。誰かのコピーであることを、自分はすでに認めているのか。
不穏な思いが頭の中を占拠しかけ――美月はかたく目をつむって頭を左右に振った。意識を書棚に戻す。
雑誌を一冊手に取ってパラパラとめくってみたが、すぐに戻した。正直なところ、ぜんぜん興味がなかった。
中段に目をやると文庫本が詰め込まれていた。積み木を隙間なく組み上げるように縦横きっちりと詰まっている。題名は――『沈む都』。よくありそうな、だが知らないタイトルだった。
美月は一巻を抜き出すと、ベッドに腰を掛けて表紙を開いた。
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