(この人、わたしの知り合いなのだろうか。こんな知り合いいただろうか)

 髪を染めてカラーコンタクトをしていることを差し引いても、その顔にはまったく覚えがなかった。

 男の歳は二十代半ばに見えたが、そもそもそれくらいの歳の男性の知り合いなんてほとんどいない。従兄弟のお兄ちゃんくらいである。

「……あの、どなたですか……?」

 どなたですかだあ――男は忌々しげに声を荒げた。その顔がまた怖くて美月は震えた。

「あ、あなたなんか知らないっ! だれか――お、お母さん!!」

 男の顔が苛立たしげに歪む。

「あのババアはとっくの昔に死んじまっただろ! おまえが二十五の歳に……」

(――二十五の歳?)

 美月は震えながらも男を見上げた。

「それ、わたしじゃないです。わたしはまだ、十七歳だもの。人違いです。……家に帰してください」

「おまえの家はここだ」

 男の目は鋭く、怒りを滾らせているように見えた。美月はすくみあがった。

「本当に俺のこと、記憶にないのか? ババアのことは覚えているくせによ」

「ばばあ……?」

「おまえの母親だよ。の結婚に散々反対しやがって。……しっかし、ずいぶん若い頃の姿をとったもんだな。俺と出会った頃の歳か。うかつに手ぇ出せねえじゃねえか」

 男は鋭い目をうっすらと細めると、不意にベッドに片膝を乗せた。

 怯えて壁際に縮こまる美月の腕を摑んで引き寄せ、ぐっと顔を寄せてくる。

「容姿はよくできたんだけどなぁ。まさか美月の記憶データが俺と出会う前までしか入らなかったとはな。でもまあ、一番上出来か」

「……やめてください」

 美月は震える声で呟いた。

 男はわらう。

「やめてください、か。なら唾吐きかけやがるぜ。性格も随分しおらしくなったじゃねえか」

(――本物の美月?)

 美月は思わず顔を上げた。男は紅蓮ぐれんの瞳でじっと見つめている。

「おまえの記憶は、その姿――十七歳の時までか? 俺と出会う前の――」

 さっきからこの男は何を言っているんだろう。答えられずに固まっている美月に、男はかまわず問いかけてくる。

「だったら、麻矢のことも記憶にないのか?」

 ――マヤ。

 ふいに、美月の中でなにかがざわめいた。

 そんな名前の知り合い、いただろうか。思い出せなかった。だが、マヤという言葉はじわりと美月の中を侵食してゆき、息が詰まるような、胸が熱くなるような、妙な胸騒ぎ覚えた。

 男は美月を見やり、小さく息を吐いた。

「まぁ、おまえの記憶が十七の時までならしょうがねえか。俺のこともすっかり忘れちまってるみたいだからな」

 俺に関しちゃ忘れてもらった方が都合がいいがな、と男は呟いた。

「あの、そのマヤって人……。わたしと何の関係があるんですか」

 妄言に乗ってはいけないと思いつつも、訊かずにはいられなかった。

 男は美月を一瞥する。

「麻矢は娘だ。そうだな、おまえのが十七歳なら、十年後の子供になるな」

 美月はぽかんと男を見上げた。

「信じてねぇ顔だな」

 あたりまえだと叫びたかったが、男の言葉はなぜかするりと胸の内に入ってきた。

 美月は何度も唾を飲み込み、おずおずと男を見上げた。

「……わたしが二十七になったら、あなたの子供を産むというの?」

「まあ、おまえがというか、オリジナルの美月が産んだんだ」

(オリジナル?)

 意味がわからない。男の言っている事は何一つ理解できなかった。――でも。

(……まや――そう、麻矢)

 この名から与えられるどうしようもない焦燥感が、ただの頭のおかしい男の妄言と切り捨てさせてくれないのだ。

 男はじっと美月を見ている。

 耐えきれず顔を背けた。うなじあたりに強い視線を感じ、鳥肌がたつ。

 硬く目をつむって堪えていると、とつぜん腕をつかまれた。

「来いよ。いいもん見せてやるから」

「……嫌」

 恐怖に強張った美月の顔をにらえ、男は低く言った。

「知りたくねえのか。自分のことだぞ」

 知りたくなどない。何も見たくない。

「お願い、家に帰して……!」

 男から逃げるように身をよじると、強い力で腕をぐいっと引っぱられた。

「――いいから来い」

 有無を言わせぬ口調だった。美月はこんなふうに誰かに高圧的に強いられたことなどない。

 当たり前のように命じてくる男は、美月の慣れ親しんだ世界とはまったく異質なにおいがして、ものすごく怖かった。

 美月は腕を引かれるままベッドからおり、クローゼットの前に半ば引きずられるように連れて行かれた。

 観音扉の前で立ちすくむ。ここで何をさせられるのか。

 ちらっと男に目を馳せると、男はぞっとするような暗い眼差しを向けてきた。

「ほら。開けてみろよ」

 美月は凍りつく。

 あのびらびらした服に着替えろとでもいうのか。この男の前で。

 ――着替えるだけで、許してもらえるのだろうか。

「……うっ……」

 涙で視界がにじみ、嗚咽が漏れた。

(怖い……お母さん……!)

「さっさとやれよ」

 男が苛立ったようにクローゼットを引き開けた。そしておもむろに色とりどりのワンピースが並んでいる中央あたりに手を突っ込むと、カーテンを開くかのように左右に押しのけた。

 現れたクローゼットの奥は、ただ壁が立ちふさいでいるだけである。これがなんなのだろう――問うように見上げると、男は唐突に美月の背を突き飛ばした。

 ぎょっとしたのもつかの間。美月はつんのめるようにクローゼットの中に倒れ込んだ。

 壁にぶつかる――美月はとっさに固く目をつむった。

 しかし痛みは来なかった。美月の頭は何の抵抗もなく壁を突きぬけ、に出たのだ。

 眼前には見慣れない部屋が広がっていた。

(……壁を通り抜けた?)

 頭を引っ込めると、やはり目の前には壁があった。おそるおそる手を伸ばすと、手は抵抗なく壁を突き抜けた。

(この壁、見えるだけで存在しないんだ)

 壁によって途切れた手首を信じられない思いで見つめていると、男はつまらなそうに言った。

「単なるホログラフィだ」

 それにしても――この壁の向こうの部屋はなんだったのだろう。自分の家の間取りに当てはめると、二階の廊下のはずなのに。

(……やっぱりここは自分の家でないんだ)

 あまりのことに茫然としていると、ふいに肩に手を置かれた。

「それよりな。実験室の入り口はここ一か所だから、ちゃんと覚えておけよ」

「実験室……?」

「そうだ。ほら、ぼーっとしてんなよ。さっさと入れ」

 男に背を押され、美月は再び壁を通り抜けた。

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