ナツキアキナ
第1話-SideA 不審者
「あ、しまった。ボディソープ切れてる」
那月明菜はキャビネットの中に期待したものがないことに気が付いた。
ストックがあると思っていたのだが、どうやら勘違いだったらしい。
お風呂に入る前に気付いてよかったが、もう少し早く気付けるとよかったな、とは思う。
時刻を見ると十九時過ぎ。
近くのドラッグストアはまだ開いている。
悩むこと十秒。
「うん、買いに行こう」
外はもうすっかり暗く、女子高生が一人で出歩く時間ではないのは重々承知だが、そうそう何かあるとは思えない。
季節は三月。
すっかり春の色が濃くなって、この時間でもある程度着込めば寒いというほどではない。
夜の散歩だと思えば普通だろう。
誰に見られるわけでもないので、ジーンズにスウェット、その上に学校指定のトレンチコートを羽織る。
スマホを持って行こうとしたが――電池残量計が赤い。そういえば充電を忘れていた。どうせすぐ帰ってくるから、と充電器につないで置いていくことにする。
マンションを出て少し歩いたところで、ちょうど家から出てくる人と遭遇した。
よく知っている人だ。
「こんばんは、杉山さん」
「あらこんばんは、明菜ちゃん。夜遅いのに、お散歩?」
「あ、いえ。ちょっと切れちゃったものがあって、買い物です。腰は大丈夫ですか?」
二日ほど前、ぎっくり腰で救急車騒ぎになっていたはずだ。
もう八十歳くらいのはずで、明菜は少しだけ心配になる。
「ああ、うん。あまりよくはないんだけどね……でも、この子の散歩、ヘルパーさんに頼み忘れちゃったから、しないとね」
見ると、リードに繋がれて、楽しそうにしっぽを全開で振っている可愛い仔犬がいる。杉山家の愛犬、チャロン君だ。
見た目は小さいが、明菜も子供の頃から馴染みのある子で、よくなついてくれていた。今も、見知った人を見たからだろう。とびかかるかどうか迷っているようにも見える。
「私がお散歩、代わりましょうか? 森林公園通るルートですよね。私、ドラッグストア行くから、ほぼ通り道ですし」
最短距離なら通らなくても良いが、公園内を軽く周るくらいは問題はない。
「え……ああ、でも……。じゃあ、お願いできる? 悪いわね……」
「いえいえ。初めてじゃないですし。じゃ、行こうか、チャロン君」
迷いつつもあっさりお願いしたあたり、やはりまだ腰の調子は良くないのだろう。
リードと、糞尿処理のためのセットを受け取る。
明菜は犬も猫も好きだが、さすがにペット禁止のマンションでは飼うことはできないので、こういう機会は大歓迎だ。
森林公園の脇を抜けて、目的のドラッグストアまでは十分程度。
入口にリードをつないで、大急ぎで目的のボディソープだけを買って出てきた。
まずないとは思うが、可愛い仔犬をさらう人がいたら大変だ。
「じゃ、行こうか、チャロン君」
行きはドラッグストアが閉店する前に来る必要があったのでまっすぐ来たが、帰りはそこまで急がなくていい。
今は春休み。
多少お風呂が遅くなったところで問題はない。
明菜は、以前教えてもらった散歩コースを思い出しながら、森林公園を歩いていく。
さすがに二十時近くという時間帯では、人の気配はほとんどない。
森林公園とはいっても、それほど木が密集しているわけではない。
ただかなり広く、敷地の広さだけなら隣接する学校よりもあった筈だ。
ところどころに灯りはあるので、お化けがでるかも、と言った怖さはない。
それに明菜はお化けの類は実はあまり怖いと思っていない。
これは、どちらかというと祖父の影響かも知れない。祖父はそういう怖いのはだいたい人間側に理由がある、などと幼い明菜にまで教えてくれるような人で、それで明菜は色々な事の理屈に興味を持つようになった。
その好奇心が、転じて今勉強に役立っているのだが。
「チャロン君、楽しそうだね」
しっぽを全開でフリフリしている様子が、可愛い。
とはいえ公園内の時計を見るとそろそろ二十時。少し寒くなってきた気もするので、そろそろ帰った方がいいだろう。
「そろそろ帰ろうか、チャロン君」
そういって顔を上げたところで――人がいるのに気が付いた。
他に散歩してる人がいたようだ。
シルエットは男性。背はかなり高い気がする。
一瞬どこかで見覚えが――と思った直後、灯りに照らされた顔を見て、明菜は驚きのあまり凍り付いた。
驚いたのは向こうも同様だったらしい。
「な、なんであなたが」
「おお? 明菜じゃないか。久しぶりだな。これはもう運命じゃないか?」
山北重雄。一つ年上の、かつての明菜の彼氏。
付き合い始めたのは、山北が中学を卒業する直前。サッカー部の元エースで容姿は実際整っている方だとは思った。
当時明菜はかなり人気があったがそれゆえに遠巻きされていて、山北から告白を受けた時、かっこいいと思って承諾した。
今思えば人生最大の汚点だ。本当にものを知らなかった。
すぐ山北が卒業してしまったため、学校で会うことはなかった。
春休みに何回か近場に出かけたくらいである。
山北の高校進学後は週末に会っていたが、その頻度がだんだん減っていった。
そして明菜が別の高校に進学した以後はほとんど会わなくなり――さすがにおかしいと思って、山北と同じ高校に進学した友人に聞いて、愕然とした。
山北は、高校に進学した直後から別の彼女がいたと発覚したのだ。
いわば一年あまり、二股をかけられていたのである。
明菜が初めての彼氏で恥ずかしくて、ほとんど友人に話していなかった――話したのは一番仲の良い香澄だけ――こともあり、誰も山北が二股をかけているとは知らなかったらしい。
それを問い詰めたら、面倒だ、と言われて別れたのが、去年の六月。
あの時は本当に落ち込んだ。なまじ一人暮らしだったこともあり、香澄がいなければ学校にも行かず、食事すらしなかっただろう。あの時のことは香澄には本当に感謝している。
会うのはそれ以来だ。
地元が同じである以上、偶然会う可能性はゼロではないとはいえ、山北の高校は電車の距離かつそれぞれの自宅の最寄り駅もおそらく違うので、これまでは一度も会うことはなかった。
「なあ。また付き合わないか? こうやって偶然会うなんて、運命だろう」
前は好きだと思っていたその声が、今では嫌悪感どころか怖気がするほど気持ち悪い、とすら思える。
「冗談でしょ。お断りします。あなたとはもう完全に終わった話です」
「そういうなよ。まあ二股かけてたのは悪いと思うから、そこはもうちゃんとするからさ」
近づいてくる。
その様は――あまりにも怖い、と思えてしまった。
「いや、来ないで!!」
反射的に踵を返す――が、チャロンは反応してくれなかった。
リードが引っ張られ――離してしまう。まずい、と思ったが、近づいてくる男から逃げる方を優先したくて、走り出す。
「おい、待てよ!」
山北が追いかけてきた。
怖い。
スマホを置いてきた自分を呪う。
とにかく逃げるしかない。
ふと、木々の隙間から学校の建物が見えた。
この時間に人がいる可能性は――ない。
ただそれでも、監視カメラなどは設置されているはずだ。
あるいはその近くに行ければ、さすがに迂闊なことはしてこないかもしれない。
全力で学校側に走るが――学校裏手に監視カメラはあまり設置されていないのか、少なくとも視界内には見当たらない。
「待てって言ってるだろうが!!」
怒声が響く。
距離はせいぜい五メートル。
元サッカー部だけあって、足の速さでは到底敵わない。
「来ないでよ!!」
無駄だと分かっても、大声を出すくらいしか対抗策がない。
誰かいてくれれば、と願ったその時。
突然、音楽が響き渡った。
これは確か、人気ロックバンドの曲だったか。
「な、なんだ!?」
山北が明らかに狼狽していた。
この場面、人に見られたら明らかにまずい、という自覚はあるらしい。
見上げると、森林公園に隣接する高校の、特別棟の屋上に人影があった。
屋上と言っても特別棟は二階建てであり、高さは低い。
十分人を視認出来る。
「ちっ……くそ!」
山北が舌打ちをして去って行った。
すぐに暗闇の中に消える。
同時に力が抜けた。
へなへなと座り込んでしまう。
そこに何かが飛び込んできた。
「あ、こら、チャロン君。酷いなぁ。友達を助けてくれないなんて」
そうはいっても、小さいこの子が迂闊に立ち向かったら、むしろ怪我をしていた可能性もあるから、逃げてくれたのは良かったと思う。
ようやく足に力が戻って立ち上がると、屋上に目をやる。
暗いし多少距離があるので顔は見えない。
シルエットから男子の学生服を着ていることが分かる。ということは在校生か。
「ありがとう、きみーっ」
本当に助かった。
こんな怖かったことは初めてだ。
「いえいえ。早く帰ってくださいねー」
返事があった。
少しだけ聞き心地がいい声だな、と思う。
もう一度会釈をして、急いで立ち去った。
森林公園を抜けるころにはもうすっかり落ち着いていて、とりあえず散歩の終わった仔犬を家に返してから、自宅に戻る。
時刻はすでに二十時をすでに大きく回っていた。
「お風呂入らなきゃ」
湯は出る前に張っていたので、すぐに入れた。
身体を洗い終えて湯船につかっていると、先ほどの恐怖が少しだけ思い出されてしまった。
自然、肩を抱くようにして震えてくる。
「ホントに……助かったな……」
偶然あそこに人がいなければ、そしてあのようにいることをわかるようにしてくれなければ、本当にどうなっていたのだろう。
掛け値なしに恩人と言える。
といっても、学年もクラスも、もちろん名前も分からない。
わかるのは男子だということだけ。
「そもそもなんであんな所にこの時間にいたんだろう?」
特別棟の屋上は出入りは自由ではあるが、滅多に人が来る場所ではない。
まして、あの時間は普通生徒はいない。しかも春休みだ。
つまりいるはずのない時間にいるはずのない人がいたことになる。
さすがに幽霊だとは思わないが、何があったのだろう、とは不思議になる。
音楽がかき鳴らされた時は何人かいるかとも思ったが、見えたのは一人だけなので、多分他に人はいなかったのだろう。
新一年生の可能性はないだろうから、自分と同じ二年生か、あるいは三年生。
もしかしたら時間外活動の許可などを申請しているかもしれないから、先生に聞けばわかるかもしれない。
夜に特別棟の屋上で何をしていたのだろうか、というのもわからない。
手がかりは声だけだが、そんなに申請してる人がいるとも思えない。
恩人にもう一度ちゃんとお礼くらいは言いたいものである。
新学期になったら、先生に訊いてみよう。
「誰だか分からないけど、本当にありがとう」
顔も名前も分からない誰かに、もう一度お礼を言う。
どんな人なのだろう、という期待と不安を胸に、明菜は新学期を迎えるのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――
というわけで。
これから本編の基本的に同一の内容を、夏輝視点ではなく明菜視点で書いていきます。予想できた人はいたと思いますが。
まあエピソードの構成はほぼ同じ予定です。まあ全部同じシーンにはならないかと思いますが、明菜のセリフがある場面は極力採用予定です。
最初から考えていたわけではなく、途中で思いつきました。
なので最初は『男主人公』というタグをつけてたのを途中で外してます(笑)
ちなみにこれと同じこと(男主人公視点の話をヒロイン視点で書く)を二次創作としてPixivでやったのがかなり好評だったので思いついたネタです。
そっちは二次創作(お隣の天使様)だったので、さすがに本編引用は極力省いて、原作エピソードの前後を描く、という方法をとりましたが、今回は自分の創作なので引用し放題(笑)
二人のやり取りのシーンはほぼほぼコピペなので楽です(ぉぃ
あと、本編中で言及できなかったので、第一話のワンちゃんについてここで説明。
あれは明菜の家の子ではないのです。
なんか見事に説明の場面を逃した……(笑)
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