ソフィスティック

舞寺文樹

ソフィスティック

  客が来た。僕は頭を下げる。

「いらっしゃいませ、こんばんは」

 客は僕の目の前を快速列車の如く過ぎ去った。その客はお酒ターミナルまで直通運転をしたあと、すぐに折り返し列車となってこちらに向かってきた。

「2点で380円になります」

客は黙ってICカードを機械にかざす。

「Suicaですね、こちらお願いします」

ピピっと機械音がなり、レシートが出てくる。

「こちら、レシ……」

客は知らん顔をして颯爽と店を後にした。

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

 誰もいない店内に僕の声が響き渡る。誰もいないすっからかんの店内の中を僕の思考は旅をする。

 誰のために頭を下げているのか、誰のために「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べているのか。なぜあんなぶっきらぼうな客に「またお越しくださいませ」なんて言わなきゃいけないのか。僕にはさっぱりわからなかった。 

 自分で頑張って作ったアップルパイが売れた。わざわざ僕のアップルパイを買ってくれてありがとう。また買ってくださいね。なら話はわかる。それなのにコンビニの誰が作ったかもわからない、ましてや人じゃなくてロボットが作ったかもしれない商品を買ってくれただけで、あんなにも深々と頭を下げて、「ありがとうございました。またお待ちしております」なんて、何の意味があるのだろうか。

 

 哲学との出会いは今から随分と前のことである。たまたま書店で手に取った本にプロタゴラスが紹介されていた。プロタゴラスは古代ギリシャのソフィスト、いわゆる先生である。彼の思想は「相対主義」というものだった。

 三〇〇円のホットドックを貧乏なA君からしたら「高い」と思うし、お金持ちのB君からしたら「安い」と思う。では、三〇〇円のホットドックの価値として、A君とB君どちらが正しいだろうか。

 答えは「両方正しい」である。三〇〇円のホットドックに対する価値観は絶対的に一つとは決まらない。その人がそのものに対して思ったことこそが正解である。この一連の考え方が相対主義である。

 僕はこれを読んで閃いた。これを使えばテストで百点をとれると。いくらトンチンカンな答えを導出したとしても、相対主義に基づいて「これが僕の中の正解なんだ」と言い張れば百点をとれてしまうと思ったのだ。

 しかし現実はそう甘くはなく、僕のヘリクツは先生を相対主義的な思考へと誘うことはできなかった。

 今思えば僕はただの痛いやつだ。

 

 それから月日が流れて、文学部哲学科に入学した僕は、気分上々というわけでもなかった。第一志望群の大学には全て落ちてしまった。なんとか哲学科に通う夢は叶ったが心の底から喜べた訳ではなかった。

 なぜ僕はもっと受験勉強を頑張らなかったのだろうか。なぜ英語が弱点と高校三年間口で言うだけで、手は動かさなかったのだろうか。

 そもそも、なぜ僕は大学に行こうとしたのだろうか。なぜあの大学は第一志望でなぜこの大学は第五志望なのだろうか。偏差値だろうか。環境だろうか。授業内容だろうか。

 それは一概には決められない。なぜならばこの世界には相対的な価値観がひしめき合って、絶対的な価値観などは存在しないからだ。それなのにあの先生は僕の答えを全てバツにした。僕は自信を持って出した答えを、全てバツにした。

「あんたねえ、中学一年生のテストで二十五点はまずいんだよねえ」

 二十五点がまずいってのも、その先生の相対的な価値観でしかない。

 僕は特別苦手だった英語という科目を、勝手に相対主義と関連付けて、ヘリクツにヘリクツを重ねまくって、出来なくても大丈夫、出来れば良いなんてのは絶対的な物じゃない。と思い込んでは現実逃避を繰り返すのだった。これこそ英語が苦手になるための秘訣である。

 

 哲学と聞くと根暗というイメージが浮かぶ。実際哲学科に通っていると、それに近しい人もいる。

 哲学は疑うことを学ぶ学問である。疑った先の桃源郷を見ようと哲学者は躍起になっている。

 それが故に、考え方が独特で距離を置かれるという側面もある。まさに中学一年生の頃に僕が英語の先生に対して抱いた強い反感もその例だろう。

 そんな僕でも一人の人間としてこの世界を生きているのだ。ラーメンを食べれば美味しいと思うし、カラオケに行っても楽しいと思う、それに恋愛だってする。そしてこれらを全て哲学だと思って生きているわけでもない。いちいちラーメンが美味しい理由を考えたり、そもそも美味しいとは何か考えたり。そんなめんどくさい人間では無い。

 

 あれはまだ年が明ける前だった。先生との二者面談を終えた僕は自分の理想と現実の非対称さに落胆していた。自分は志望校には行けない。何だか受験がもう終わった気がした。あたりはもう暗く肌寒い。虫の羽根の音もカエルの鳴き声も聞こえなかった。静まり返る校内、薄暗いフロア、落胆する僕。ほんの何歩か先が見えない廊下はまるで僕の未来みたいだった。

 スマホのライトを照らす。一気に世界が広がる。僕の人生のライトのスイッチは一体どこにあるのだろうか。

 階段を降りて靴を履く。駐輪場には自転車が二台。僕のクロスバイクと茶色のママチャリ。こんな時間にまだ学校に残っているのは誰だろうか。僕は思考を巡らせた。

 昼休みに耳にした会話が蘇る。

「今日さ図書館で一緒に勉強しない?」

「あー、ごめん。今日さー田中先生に英語教えてもらう約束してるんだよね。ほら、あの英検の面接のやつ」

「あー、そだったんだね、また誘うね」

「うん、ありがとー」

 不思議だ。目の前には殺風景な駐輪場が広がっているだけなのに、なぜあんなに綺麗で素敵で美しい光景が広がるのか。目の前の茶色のママチャリが僕の脳内に直接投影するそのシネマは僕のどうしようもない部分を貫いた。

 スマホを開き適当に明日の天気などを調べる。けれど全く頭に入らない。その一文字一文字に発音があって、意味があって、必死に僕に色々なことを伝えようとしているのに僕はその期待には応えられない。

 クレッシェンドの拍動が一気にフォルテッシモに駆け上がる。けれどいつまでもフォルテッシモではいられない。だんだんとでクレッシェンドが始まる。怖い、怖い、怖い。いつのまにか僕はピアニッシモな僕になった。駐輪場から一度離れる。もし今君がここに来たとしても、僕はどう振る舞えばいい。答えは見つからなかった。逃げるように僕は校舎の中に戻った。真っ暗な世界に逆戻りだ。

 トイレに行って気を落ち着かせる。ゆっくりと深呼吸してからまた、靴を履いて外に出る。駐輪場には僕のクロスバイクが一台寂しそうに佇んでいる。

 

 これでいいんだ、これでいいんだ、これで……

 

 自転車に跨ってペダルを踏み込む。なぜかいつもより軽い。夜風を切って、グイグイと進む。

 

 これじゃだめだ、これじゃだめだ、これじゃ……

 

 しかし君の背中はいつまでも見えてこない。あの茶色いママチャリがこんなにもすばしっこいなんて、思いもしなかった。どれだけ頑張ったって追いつかない。それは自転車も心も何もかも。置いてきぼりの僕の心は僕にとっては寂しいけれど君にとってはうれしいのだろうか。

 君から見た僕は一体どのように見えるのだろう。君と僕のニューロンとそれから身体。何もかもを一回とっかえっこして、僕が君になって君が僕になって。そしたら僕は百パーセントの君を知れて、君も百パーセントの僕を知れる。君が感じる痛みも悲しみも、幸せも嬉しさも、全部全部僕のもの。

 すると僕は気づくのだ。君が僕にとった行動全ての意図が。ああ儚い。愛想だなんて思っていたんだね。君のとびきりの可愛い笑顔はただの愛想笑い。好きなバンドが同じってわざわざ報告されたって、ただ同じバンドが好きなだけで、それが僕と君の架け橋になる何てただの妄想だっだんだ。

 

 ほら、僕が僕に話しかける。

「今度さ、映画でも見に行かない?」

「お、いいね。行こ行こ!」

 行くわけがない。こんなやつと、行くはずがない。なぜなら僕には彼氏がいるから。こんなやつとそんなごっこ遊びなんぞしてる暇はないのだから。

 

 今度はさっきと違う。悪い世界に僕はやってきたみたいだ。君と僕で何もかもとっかえっこなんてできるはずないのに、僕の頭の中ならそんな世界も存在している。何でもかんでも好きなように、好きな世界を僕たちは作れるのだ。悪い思考の悪循環。どんどん僕を僕たらしめる要素が陳腐でダサいようにしか思えなくなる。自転車に乗った君がさらにさらに遠くへ行ってしまう。リニアモーターカーで追いかけてももう追いつかないのだ。

 

 よからぬことを聞いてしまったのはそれから数ヶ月経った頃だった。僕がSNSにあげた写真に君が反応してきたのだ。

「それ、どこの写真?」

「幕張の海だよ」

「幕張かーいいねー」

「いいでしょー」

「うん、今度彼氏といってくるね」

 僕の自前の悪い世界が本当になってしまった。もう君は追いつくとかそのような概念じゃない。もう違う世界にいる。唐突なカミングアウトに私は枕を抱いて寝た。力いっぱい抱きしめながら寝た。もし君が枕ならとっくに圧死している。そしたら僕は獄中から君に手紙を書くだろう。戻っておいで。早くこっちの世界に戻っておいで。僕はそっちの世界には行けないから。行くなら君とじゃないと嫌だから。

 この現実の世界で君に彼氏ができたのならそれは死んだも同然だ。人間何をもって死ぬのか。人の記憶からも忘れ去られてしまったら死んだことになる。何ていう人もいるけれど、物理的な距離では死なないのだろうか。

 幕張の海に吹く風は何もかもをさらっていった。僕の世界の何もかもをさらっていった。君の形も魂も全てよその世界にさらっていった。だから君は僕の世界では死んだ。君にもう触れることもできない。想うことも、想われようとすることも、それは単なる墓参りに過ぎないのだ。

 

 死んだ君を取り戻すにはどうすればいいのか。蘇生させるのか、いや違う君を分身させてしまえばいい。なぜ人は一人だけを愛すのか。なぜ人は自分だけを愛して欲しいのか。不倫、浮気、二股なぜそれは悪なのか。なぜ人間は愛を独り占めにするのか。

 不思議だ。不思議でしかない。「愛する」ことはいいことだ。プラスのことだ。なのになぜ二人に三人に四人に、愛情を掛けて掛けて掛けるほどその人は不純と言われマイナスになっていくのだろうか。

「それはね……」

「そうなんだ。じゃあ君はもう生き返らないの?」

「それはわからない。けれど今は死んでる状態でいたい。こっちの世界だけで生きていたい」

「じゃあさ、もう会えないの?」

「うん、だって私はこっちの世界じゃ死んでいるんだもの」

「そうなんだ、じゃあもう君は跡形もなく消えるんだね。触れることも感じることも想うことも許されないんだね」

「うん、私もう死んでるんだから。それ以上何か言われても……さようなら……」

 

 おにぎりが大量にゴミ袋に詰められる。廃棄のおにぎりたちは自分の存在意義を果たすことなく死ぬ。袋の中でひしめき合うおにぎりの声がこだました。

「いらっしゃいませ。レジ入りまーす」

小走りでレジに向かう。

「お待たせいたしました。お預かりします」 

「あ、」

「え?」

僕は生き残ったおにぎりを手に持ったまま固まってしまった。死んだ人が目の前に立っている。僕の世界で死んだ君が、僕じゃない人の世界で生きる君が今、僕の前に立っている。おにぎり二つと緑茶二本を携えて、亡霊の如く立っている。

「久しぶり」

「久しぶり、元気にしてた?」

「まあ、そこそこ」

「そうなんだ、それにしても変わってないね」

「そお?」

「映画行ったの?」

「行ってないよ」

 正直あの映画なんて全く興味なかった。君が気になってる映画があるって話をどこかで聞いたから、そう誘っただけだ。

 

 ふと僕は思う。僕の世界で死んだ君。他の人の世界で生きる君。その君が今僕の前に立っている。ではこの世界は何の世界なのだろうか。誰の世界で、誰のための世界で、誰が幸せな世界なのだろうか。唯一君と僕が共存できるこの世界で、君は誰かのおにぎりと緑茶を買う。レシートを渡すと、颯爽と店から出ていった。自動ドアが開いて君が外に踏み出しだ瞬間、また君は死んでしまった。

 

 君の幸せ。僕の幸せ。それは残念ながら一致しない。相対的なもので満ち溢れた世界。君は君の正解、僕には僕の正解があるこの世界。これは残酷にも不正解だけをチョイスし続けなければいけない人もいる。でも不正解を選ぶのだって正解なんだ。そんな不安定な世界は僕と君の亡骸をまとめて抱き抱える。君はぴくりともしないのに、いつまでもいつまでも君の笑顔は素敵だった。

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