第15話

 図書室には図書委員を含めても数名しかおらず、とても静かな空間だった。

 彼らの注目を一気に集めることになった。


 『氷姫』と一緒にいる男は誰だ――。


 俺と遠山が入った時、視線が降り注いだ。


 遠山は徹底して他の生徒と距離を取っていたことを改めて理解した。


 そしてその本人はいま頭を抱えていた。

 小声ながらも、若干の興奮を交えたような声音で遠山は言った。


「……ちょっと。え? 嘘……よね……?」


 小手試しとばかりに遠山から出された問題を解いた紙を手渡すと、彼女は一瞬にして固まった。

 まあ、間違っているだろうなとは思っていたが、予想以上のリアクションだった。


「当時はそれなりにできたんだけどな。おかしいな。ははは……」


 頭をかいて笑ってみたが、遠山はまったく笑っていなかった。

 顔をふるふると小さく振ると、どこか遠くを眺めながら言う。


「……ごめんなさい。私の想像を遥かに超えていて混乱してるみたい……頭がくらくらするわ……」


「……ど、どうよ? 教え甲斐、ありそうだろう?」


「何を呑気なこと言っているの……。次のテストは来月なのよ。これじゃ赤点は確実――いえこのままじゃ留年するレベルだわ」


「そこをなんとかするのが遠山さんの恩返しってことで…………どうでしょう?」


「どうでしょうって……。安易に請け負ったことを猛烈に後悔しているわ……」


 遠山は顔を手で覆って大きなため息を吐く。


 さすがに申し訳ない気持ちになった。

 しかし10年以上も前の学校の勉強なんて覚えているわけがない。


 社会人になってからはIT業界でずっと生きてきたが、英語は最低限の単語が分かればなんとかなったし、化学結合なんて一切使ったことはない。

 サインコサインタンジェント? ドラクエにもFFにもそんな魔法はなかったと思うが?


「これは基礎から本気でやり直さないとダメね……」


 遠山はいつになく低い声で言う。


「ま、まあ……。俺も頑張るからさ、頼むよ」


「そうね……やる気があるだけまだ救いはある……あるのかしら……」


 ただでさえ白い顔を蒼白にして、がくりとうなだれる。

 

「とにかく今日から家でもちゃんと勉強して。さすがにこれじゃ私が教えるだけでは無理よ。時間的な拘束もあるのだから」


 遠山は生徒会もやっているし、仕事もしている。

 仕事は大抵は放課後か休日にしてもらっているらしいが、現場の都合がどうにも合わない場合は学校を早退している。

 その遅れを取り戻すために朝早く登校していると言っていた。


 俺が初登校をした日、あんなに早い時間に学校にいたのはそういうことだったのかと納得した。


 そんなわけで都合がよい時でも週3回くらいしか俺の勉強を見れないと言っていた。

 しかも遠山は両親――特に母親がけっこううるさいタイプだと言った。


 帰りが遅いだけで色々と言われるから、あまり遅くまでは付き合えない。

 頑張っても1時間程度だと、すまなそうに言った。


 俺としては付き合ってくれるだけ大変にありがたいのだから、そんなことは気にしなくて良いのだが、遠山はこういうところは案外律儀だ。



 遠山との初めての勉強会を終えて一緒に学校を出た。


 聞くと家の方面が同じだということがわかり、途中まで一緒に帰ることになった。

 遠山は学校の門を出るとすぐにカバンの中に手を入れた。

 取り出したるは黒縁の丸メガネだ。


「こうしておけば、あまり気付かれないから」


 言いながらそのメガネを掛ける。

 ついでに髪も後ろで2つに分けて肩から前に垂らした。

 最後にマスクをつけて完成らしい。


 隣にいる俺ですら「誰だ?」と思ってしまうくらいに顔が隠れている。

 芸能人がプライベートで変装している画像を見たことがあるが、まさにそれだ。


 確かにこれならばぱっと見て遠山とはわからないだろう。

 だが美少女の風格とでも言うのか、モデルとしてのオーラとでもいうのか。

 どこかしら漂う一般人離れした雰囲気は消せてはいなかったが。


「大変だな芸能人ってのも」


「時々、自分が誰なのかわからなくなる時があるわ」


 言って遠山はメガネをくいっと直して変装のアピールをする。


「やっぱ変なヤツに声かけられたり、後ろをつけられたりすんのか?」


「そうね……一度もない、といったら嘘になるわね」


「マジか。こわっ」


「全く知らない人が後ろからいつまでも着いてくるのよ、本当に恐怖しか無いわ」


「タクシーとかハイヤーとかはさすがに無理でも、自宅の車で送迎ってのは出来ないのか?」


「撮影時間が迫っている時はパパかママ、もしくは事務所のマネージャーが送り迎えしてくれることもあるけれど、普段はそういうことはないわね」


「遠山って結構な人気モデルなんだろ? 何かあってからじゃ遅いだろうに」 


「ふふ……。崎川が心配してくれるだけでも嬉しいわ」


 困ったような笑みを見せる遠山に、俺は本気で心配をしてしまう。


 学校では誰も寄せ付けない雰囲気を常に纏っているし、見た目も大人びている。

 しかし、ちょんと突いたら粉々に壊れてしまいそうな、そんな脆さを遠山から感じていた。

 遠山に初めて会った日から、どうにもそのイメージが離れない。


 この子は中学生の時からプロのモデルとして、しかも最前線で働いている。

 そこらにいる他の学生の誰よりも社会を知っている。


 きっと、学生と大人の狭間でもがいているのだ。


 そして誰も彼女の境遇と本当の思いを理解してあげられていないのだろう。

 実の両親でさえ彼女をビジネスの商品として扱っているのではないかと、遠山の話を聞いて俺は感じていた。


 そして遠山は、それをわかっている。

 わかってしまっている。


 だからこんな顔を俺に見せることになるんだ。


 だとしたら――。

 俺がこの子にしてあげられることって、何かないだろうか。


 社会に出て、ぼろぼろになるまで働いて、人間関係に悩まされた日々が何か活かせないものかと考えながら、俺は遠山と並んで歩いた。


 そして出した答えは、  


「そうだ、勉強会だけどさ」


「うん」


「こんな俺に付き合ってもらってありがとうな。ほんと感謝してるぜ、遠山」


 まっすぐに瞳を見て、素直に感謝を述べること。こんなことだけだった。

 でも俺が社会に出て感じていたことは、これだったのだ。


 仕事をしても誰からも褒められはしない。

 結果を出す為にやるのであり、褒められる為にやっているわけではないのだから当たり前だ。


 だからといって頑張ったことは当たり前のように流され、失敗ばかりが責められるのはどうかと思う。


 頑張っている姿を認める。

 感謝の言葉を表す。

 そのような環境がいかに大事かを、俺は知っている。


 だから俺がして欲しかった事を、遠山にしてあげたかった。

 それだけに過ぎないのだが、その効果はあったらしい。


「……そんな率直に言われると、なんだか照れるじゃない……」


 流れるような黒髪の毛先をもじもじといじりながら遠山は言った。

 まあ、俺の本心でもあるのだから伝えて悪いことではないはずだ。


「でも、もともとは私が恩返しするという話なのだから、気にしないで。私の方こそ申し訳ない気持ちなんだもの」


「じゃあ、お互い様ってことにするか」


「あなたのダメージが大きすぎる気はするけれども」

 

 遠山はすまなそうにして、俺に顔を向ける。

 タバコの身代わりになった件を気にしてくれている。


「だからもういいって。来月テストあるんだろ? 勉強教えて貰うのもいつまでもってわけにもいかないから、それまで世話になるってことでチャラにしようぜ」


「うん、わかった。……って、え? ちょっと待って。もしかしてテストのことも忘れていたの?」


「お、おお……。 そうだな忘れていた……かな?」


「はぁ……。ほんとどうかしているわ……」


「はは、ははは……」


 本当の事を言えないのがなんとももどかしかった。


 だがやはり記憶喪失ネタを使うのはやめておいた。

 誠意を見せてくれる遠山に対して、そもそも嘘であることを言いたくはなかった。


「さっき図書室でも話したけれどマークしたところは復習しておいて。わからなければネットでも解説動画があったりするから活用して。あと、私にLIMEしてくれてもいいわ。次の勉強会で理解度を確認しましょう」


「うっす、先生」


「しっかりね。頑張りましょう」


 手を軽く握って拳を作る遠山は、マスク越しでもわかるくらいに前向きな微笑を浮かべていた。


 そんな彼女を見て思う。


 ああ、久しぶりに必死に勉強するしかないか――。

 俺はそう覚悟を決めたのだった。


 それにしても遠山が笑わないというのが信じられなくなる。

 俺の前では随分と笑うのだがなぁ――。

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