第10話 女子校生「私のお願い、聞いてくれます?」

 終わった、俺の教員人生。


 咄嗟のこととはいえ、五十嵐を無理矢理部屋に連れ込んでしまったことを激しく後悔していた。


 近頃は教員が教え子に不埒な行為を働く事案が相次いでいる。そして社会はそのような教員に対し厳しい。


 そして俺がやったことも、そういう不埒な教員と大差がない。

 未成年を……それも自分の教え子の女の子を部屋に連れ込むなんて。

 同意の上でも問題なのに力ずくで、だなんて……。


 懲戒解雇、あるいは教員免許の剥奪、またはその両方。

 恐ろしい未来のビジョンが脳裏をよぎり、身体中に嫌な汗をかいていた。


「先生、そんなに動揺しないでください。跡をつけ――いきなり声をかけてしまったことは謝ります」


「あ……ありがとう五十嵐……ん? 今、『跡』がどうと言わなかったか?」


「……気のせいです」


「そうか、気のせいか」


「はい。ところで、先生。『座って話そう』と言ってベッドに座らせてくださったことにはお礼を言います。でもどうして先生は床に正座してるんですか?」


 五十嵐は心底不思議そうにそんなことを尋ねる。


 彼女が言った通り、現在俺はベッドに腰掛ける五十嵐に対し、床に正座して向き合っていた。

 位置関係的にスカートの中が見えそうになるので項垂れた姿勢で視線は逸らしている。


「よろしければ隣に座ってください」


 ぽんぽん、とマットレスの自分の横の位置を叩く。


「いや、遠慮する。先生はここでいい」


 五十嵐、君は子供でもないみたいだから分かんないんだね。男と女がベッドに並んで座るというのはすごく深い意味があるんだよ。


「はぁ……。それでは私も床に座ります。先生だけを床に座らせるなんてすごく申し訳ないです」


「いや、五十嵐はそこに座ってなさい。床は冷たくて硬い」


「ありがとうございます。それではこのままで」


 五十嵐は慇懃いんぎんに断りを入れ直し、姿勢を正す。


 その後、不快な沈黙が訪れる。

 俺は彷徨う視線を五十嵐のつま先の辺りに固定し、どうしてこうなったのかとひどく後悔していた。

 しかし後悔するより先にやるべきことがある。


「五十嵐、本当にすまない! 部屋に急に引き摺り込んでしまったことは謝る。怖い思いをさせただろうが、俺は乱暴しようなんてこれっぽっちも思ってない! ただ人に見られてはまずいと思って、それで……」


 俺は土下座した。冷たい床に額を擦り付け、誠心誠意詫びを入れた。


「ちょ!? 先生、土下座なんてやめてください! 別に気にしてませんから!」


「本当か?」


「もちろんです。能登先生が私に乱暴するなんて全く思ってませんし」


「そ、そうか……。それじゃあ……その……重ね重ね申し訳ないが、このことはどうか誰にも……」


「はい、誰にも言いません! ひまわりにも要にも絶対内緒にします」


 五十嵐はウィンクして約束してくれた。

 俺の保身にまみれた汚らしいお願いを、汚れのない笑顔で受け入れてくれた。なんて優しい子なんだ……。


「その代わり、質問させてください」


 ところがどっこい、そんな交換条件を出してきおる。


「質問? なんだ?」


「結婚しているというのは嘘だったんですか?」


「う……」


 あぁ、やっぱりそれか。

 結婚を報告したのに妻がおらず、それどころか単身者向けのアパートに住んでいる状況は矛盾している。


「嘘じゃない。実は……離婚したんだ」


「え……そう……だったんですね」


 ぱっちり大きな瞳がことさら大きく見開かれる。

 結婚したのは二年弱前。二年と経たずではスピード離婚と言えよう。芸能界では頻繁に起こっていることだが身近な大人が同じ末路を辿っていると知れば動揺もするだろう。ましてなんと声をかけてよいかなど、高校生の人生経験で分かるはずがない。


「もう一つ、伺います。離婚の原因は先生にあるんですか?」


 そう問う声はいつになく張り詰めていた。

 その声から五十嵐は、俺が妻を傷つけて三行半を突きつけられたと疑っていると取れる。

 そう考えると、語気は怒りさえ孕んでいるように聞こえる。


「ち、違う! 断じて違う! 離婚したのは妻が不倫したせいで――」


「ふ、不倫ですか!?」


 ゴシップでしか聞かない単語に五十嵐は過剰に反応し、顔を沸騰するヤカンみたいにした。


「そんな反応するくらいなら初めから聞くなよ……」


「すみません。でもまさか不倫されただなんて……。いったいなんと言ってよいやら」


「何も言わなくていい。子供が大人を気遣うもんじゃない」


「むぅ……そんな子供扱いしなくたって……。お辛いなら同情くらいさせてください」


 焼けた餅みたいにぷくーっと頬を膨らませて抗議される。

 気遣いを無碍にしたのは確かに失礼だった。だが、時として気遣いが患部に触ることもある。それが分からないところはまだまだお子様だ。


「最後に一つだけ聞かせてください。他の先生はそのことご存知なんですか?」


「……いや、知らせてない」


 正確には上役の校長と教頭には報告した。結婚式に招待してご祝儀までもらった手前、通す筋がある。

 それはともかく、どうしてそんなことを気にするのだ。


「ふーん、そうですか……。それじゃあ、離婚を知ってるのは私だけか……ふーん」


 五十嵐は何やらぶつぶつ念仏を唱え始めた。なぜか声のトーンがだんだん明るくなっている。


 そして――




「センセイがバツイチなこと……ヒミツにしてほしいですか?」




 瞬間、背中に悪寒が走る。背筋を氷柱つららで撫でられたような急激な怖気で身体が強張る。

 ガラスのような澄んだ瞳は雲隠れし、代わりに妖艶な三日月が二つ俺を見下ろしていた。


「私のお願い、聞いてくれればヒミツにしておいて上げますね」


「お、お願い?」


 それはお願いではなく要求ではないのか?

 金か、テスト問題か、あるいは内申点か……。


 身構える俺だったが、五十嵐の要求は予想外のものだった。


「先生のLINE ID、教えてください!」


「IDって……そんなものでいいのか?」


「はい!」


 五十嵐は興奮気味に頷いた。


 連絡先交換か……。それくらいなら……と言いたいが問題大ありだ。先にも述べた通り、近頃は教師と生徒が不適切な関係になる事案が相次いでいるが、それにはSNSが悪用されている。そのため市の教育委員会からは生徒とSNSで連絡を取り合うことを禁じられているのだ。


「他のものじゃダメか?」


「ダメです。先生の連絡先が知りたいです」


「生徒とそういうのはちょっと」


「どうしても?」


「どうしても……だ」


「じゃあバーキン。いっちばん高いやつで」


 急に具体的!?

 しかも金額エグい! それって五百万くらいするやつだよね?


「冗談です。そんな青い顔しないでください。ブランド品なんか欲しくありません。ただ、先生との繋がれたらそれで満足ですから」


 にっこり笑顔で本音を吐露する彼女は、朝霧に包まれた森林の景色のよう。

 美しいのに儚く、どこか裏寂しい。

 そんな彼女の表情に絆されて、俺は……


「分かった。教えるよ」


 超えてはならない一線を跨いでしまった。


「本当ですか!?」


「あぁ。その代わり、誰にも内緒だぞ。五十嵐だけだからな」


「私だけ……。はい、約束します! 誰にも言いません!」


 こうして俺と五十嵐は校外でも繋がりを持つことになった。

 本当はダメなんだが、たいして中身のある交流には至らないと甘く見ていた。

 どうせお悩み相談と緊急連絡くらいにしか使われないだろうと。


 だがそれは間違いだった。

 このことがきっかけで俺と五十嵐の道ならぬ関係を持っていく。


 そして予想だにしなかった。

 清廉で純真、白百合の妖精のような五十嵐が、本当は魔性の黒百合を携える小悪魔であるなどとは……。

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