第4話 女子校生「奥さんに悪いことしちゃった」

 私立愛宕あたご女学院は、緑豊かな北斉ほくせい市の近郊に校舎を構える中高一貫の女子校である。


 明治時代から続く清廉な伝統色と現代風の流行を取り入れた制服は地域の女の子の憧れで、男子の羨望の的とされている。


 市内一等地の広大な敷地は少女達の秘密の花園。

 穢れなき男子禁制な奥の院で、少女達は日々学問と自己研鑽に打ち込んでいる。


 それが、世間一般が抱く愛宕女学院のイメージだ。

 かくいう俺も高校、大学にいた頃は愛宕生を目にすると麗しげな様を妄想してはため息をついていた純朴な少年の一人であった。


 しかし実際の愛宕はイメージとはかけ離れている。


 *


「ねー、日焼け止めかして!」


「ほーい!」


 ぽーん、と放り投げられた日焼け止めのボトル。緩やかな放物線を描いたプラスチックの塊は、廊下の角から出てきた俺の側頭部に直撃した。


「きゃー! 能登っちに命中した!?」


「能登っち、大丈夫!?」


「大丈夫だけど、物を投げるんじゃありません! 目に入ったら危ないだろ! それと、能登先生と呼ぶように!」


「ごめんごめーん!」


「気をつけまーす、能登っちー」


 けたたましい笑い声を上げながら、少女達は走って退散する。


「廊下を走るんじゃなーい!」


 曲がり角でぶつかって怪我するだろ。

 それにそんなに短いスカートで走るなんて、はしたない。


 さて、これが愛宕女学院の日常だ。

 優美高妙ゆうびこうみょうな美しい花園なんかじゃない。

 元気いっぱいな思春期の少女達をお預かりする幼稚園。


 廊下は走るし、物は投げるし、大きな声で喋るし笑うし。

 おまけにスカート短くしてドタバタ走ったり、あぐらかいたりするからパンツが見えそうになる。というかちょくちょく見えてる。

 校外だとお嬢様校のプライドが働いてか行儀が良いんだけど、男の目が届かなくなるとこれですよ。一応、男はいるんだがね。


 慌ただしい日常に朝からため息が出る。

 まだHRも終わってないのになぁ、とため息をついたその時だ。


「だーれだ?」


 背中いっぱいに感じる心地良いぬくもり。むにゅっと押し付けられる二つの柔らかな物体。両脇から飛び出した細腕に、だきっと俺は拘束された。


「わー、誰だろー……」


「ヒントは……可愛くて、お淑やかで、すっごくチャーミングな女の子でーす!」


 腕の力が強くなり、むぎゅー、っと身体の密着度が一層増していく。

 肩甲骨の間あたりの硬い感触はおでこかな? すりすり擦って猫みたい。

 その下、背中のちょうど真ん中らへんの妙に柔らかい物体は……さて、なんだろなー(棒)。


「うーん、分かんないなー。夜間外出して、ナンパされて、メソメソ泣いてた女の子しか浮かばないなー」


「もう、能登っちの意地悪!」


 多分、背後でぷくーっとむくれてる。


 愛宕生あるある。男性教員との距離感バグりがち。

 女子高生から親しげに話しかけられたり、スキンシップ取られるのは役得感あるけど、女性教員の視線が痛いからほどほどにね。ほら、学年主任の先生がめっちゃ渋い顔でこっち見てるからさ。


「あー! 能登っちと凪音が不倫してる!? いけないんだー! 奥さんに言っちゃおー!」


「いやーん! ひまわり、フライデーに売っちゃダメー! 先生との不倫が全国に知れ渡ってお嫁に行けなくなっちゃう〜。その時は先生、私のこともらってくださいね♡」


「春日、誤解を生むようなこと言わない! 五十嵐も悪ノリすな!」


 抱きついてきた五十嵐とやじを飛ばす春日。さっきの日焼け止めの子達を含め、合計四人を指導する四月の朝。

 朝から消費カロリーが多すぎるなー。


 ようやく俺を解放した女子生徒は、すたた、と華麗なステップで俺の前に躍り出る。


 毛先を巻いた、烏の濡れ羽色のミディアムヘア。

 透けるような白い肌の清廉な顔立ち。

 愛宕の制服をきっちり着こなしながらもスカートは折って短め。

 山奥にふと見つけた泉を思わせる、澄んだ空気をまとうこの少女は五十嵐凪音。

 一昨日の夜、繁華街でナンパされて困り果てていた、俺の可愛い教え子だ。


「能登っち、おはようございまーす!」


「おはよう、五十嵐。いきなりじゃれつくと危ないからやめるように。あと、能登先生と呼ぶ」


「はーい、能登せんせー」


 返事はよろしいけど、君、一日一回は能登っちて呼ぶよね?


 もう高校二年生で下級生への示しもあるし、そろそろガツンと注意しようか。

 しかしわらう白百合の花のごとき笑顔で返事されると、こちらとしてもこれ以上強くは言えない。

 能登先生は基本、女の子に弱――優しい性分なのだ。

 あんまりしつこいと嫌われちゃうしね。


「凪音ー。そろそろ教室行こう。あんまり能登っちとイチャイチャしてると奥さんに悪いよー?」


「あ、そうだった! そういうわけだから能登先生、奥さんに謝っといてね?」


「謝るか!」


 旦那さんに抱きついてごめんなさい、とかどんな伝言だよ。


 というか謝る奥さんもういないし……。


 例によって五十嵐と春日はパタパタと慌ただしく教室へ駆けていく。


 だからそんな短いスカートで走るなと言うに。

 あーあ、言わんこっちゃない。五十嵐のスカートが翻って、ぷりぷりした真っ白な太ももの上にある水色の布が見えちゃった。


 栗林が見たら喜ぶだろうな。そして自慢したら憤死しそう。


 ……我ながら一体何を考えているんだ……自慢だなんて。

 教師としてあるまじきことだ。


 つま先に視線を向け、何も見なかったことにして歩きだす。


 そう、何も見てない。五十嵐の水色のパンツなんて見てませんよー。

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