第34話 旅館の食事
湯上がりの心地よい疲労感を抱えながら、私たちはコーヒー牛乳を片手に温泉旅館の廊下を歩いていた。
外はすっかり暗くなり、旅館の廊下に灯る柔らかな光が足元を照らす。
壁に掛けられた古びた絵画や時折窓から見える庭の風景が、非日常の雰囲気を一層引き立てていた。
「お風呂気持ち良かったですね~♡」
「そうだな」
紺が話し始める。
声にはまだ湯冷めした寒さが残っているようだった。
「でも露天風呂で他のお客さんが入ってきた時はびっくりしましたね〜」
俺は笑いながら返答する。
客は俺たちだけじゃないのだから他の客もいるに決まっているだろうと。
それでも紺は予想外の出来事に少し動揺していたようだ。
「あんな大胆なこと言ってきたクセに岩陰に隠れるとはな」
俺がちょっとからかうように言うと、紺は少し照れくさそうに頬を赤らめる。
「もしかして私のこと痴女だと思ってます?」
「半分だけな」
「半分も!? せめて1割にしてくださいよ〜!」
一割思っていいのかよ。
まぁ、女の魅力を少しでも見てくれということだろうな。
彼女は偽りの怒りを表しながらも、その表情は明るく楽しそうだった。
俺たちは部屋に着くなりくつろぐことに。
すると、時を見計らってか女将がノックしてきた。
「お風呂はいかがでしたか?」
彼女の声は暖かく、心地よい空気を感じさせる。
「そりゃもう、すごく良かったです!」
紺は子犬のように旅館を褒めちぎる。
俺も感謝を込めて「良かった」と答えると、女将は嬉しそうに
「お二人は仲が良さそうでこちらも良いお気持ちです」
俺たちの関係を暖かく見守るような表情を見せた。
それが嬉しかったのか
「はいっ、とっても仲良くさせてもらってます♡」
紺がそう応じると、俺は思わず顔を赤くなってしまう。
少しのぼせたことにしておこう。
その後、女将は手作りの懐石料理を持ってきてくれた。
「それはよかったです。そんなお二人に本日の料理をお持ちしました。こちらをどうぞ」
盛り付けられた料理は芸術的で、色とりどりの旬の食材が美しく配置されていた。
「すごい美味しそうです!」
「ほ、本当だな……」
紺は目を輝かせながら言う。
そして、女将は料理の説明をし始める。
「——以上となります、ではごゆっくりどうぞ」
女将が部屋を去ったので、食事をすることにした。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます!」
俺たちは料理を前に、日々の忙しさを忘れ、ゆっくりと食事を楽しむ。
「んっ、うまいな」
新鮮な魚の刺身の脂が乗っていて、口の中でとろける感触に感激する。
「おいひぃです〜♡」
紺も同じく感動しているようで、その喜びようが伝わってくる。
「このお刺身とかすごく新鮮で良いですね」
「そうだな、素材が良いからだな」
俺は食材に関する感想を述べる一方で、
「これ私にも作れるかなぁ、お魚を捌くのは慣れてないんですよねぇ」
紺は自分の技術に昇華させようとしている。
とても良い事だ。
「紺ならできるだろ」
「そうでしょうか? だって私お魚を見た瞬間、きゃーこわーいって言っちゃう方の人間なので」
「料理が出来ない子だったら信じてただろうな」
「えへへ、褒められちゃいました」
紺は嬉しそうに笑う。
彼女は努力家だから、なんだって出来るだろう。
だけど、べた褒めは厳禁だ。恥ずかしいから。
「じゃあ、いつか……」
と言いかけたところで俺は止めた。
「ん? どうしました?」
また、俺の言動に気付いたのか彼女は首を傾げる。
「いや、なんでもないよ」
俺は誤魔化すように笑った。
「えー言ってくださいよ?」
「いいや、本当になんでもないよ」
「ここには二人しかいませんし、内緒にしてあげますから♪」
「別にそういうことじゃないって」
内緒にできるならそうしたいものだ。
言えるはずもない——紺の料理が恋しくなるだなんて。
「見ればわかることをイチイチ口にしちゃう時ってあるだろ? そうだと思って言わないでおいたんだ」
だから言い訳をして、そっとふたを閉めた。
「んーー? 変なシューチさん」
俺は心の中で自分の贅沢を戒める。
紺の手料理が恋しいと思う自分がいる一方で、この瞬間の幸せを噛み締めておくべきだと心に誓った。
「じゃ、冷めないうちに食べましょう♪」
「そうだな」
そんな会話を交わしながら、食事を楽しんだ。
部屋の窓から見える夜の庭は静かで、ただふたりの時間が流れていく。紺との会話は心を満たし、どんな料理よりも心温まるものだった——
…………
……
そして、食事を終えると、紺が話しかけてきた。
「あの……さっきのこと覚えてますか?」
満腹になって横になっていた時だった。
紺は少し不安げな表情で聞いてくる。
「風呂で言ってたことか? もちろん、寝る前に何かあるんだろ?」
即答すると彼女は嬉しそうな表情を見せる。
そして、安心したのかホッと息をついた。
「もう~忘れてるかと思いましたよー」
「いやさっきのことを忘れるわけないだろ、なんだと思ってるんだ俺を」
文句を言うと、紺は舌を出して笑うのだ。
「えへへ。あ、そうだ。私ちょっと少しだけ夜風に当たってきていいですか?」
「ん、一人でか?」
火照った身体を冷ましたいのか。
いや、一人になりたい時もあるだろう。
「いいぞ、ナンパには気を付けてくれよ」
「それはもうないですね、ちゃーんと断りますから!」
「本当か?」
「本当です!」
ちょっとからかっただけなのに、何故か言葉に力が入っている。
まぁいいや。
「じゃあ行ってらっしゃい」
「はーい!」
バタンと紺が出ていった部屋はとても静かで
静寂とは程遠い、無に近い静かさ。
感情的に表せば『寂しさ』というだろうか。
そのギャップをひしひしと感じてしまう。
「先に布団を敷いといてやるか」
紺が出て行ったこと、俺は心のどこかで察していたんじゃないか。
間違いなく準備。
いつも「いやまさか」で片付けていたモノ。
それが唐突にやってくる。
そんなことが、これから起きることになるとは……俺には、まだ覚悟が足りなかった。
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