第26話

「……え、えたですか」

「そう、あなたも小学生の時に名前だけは学んでしょう。それとも今は教えないのかしらね。最近は教科書にまで口を出す人は減ったから」

「はい、聞いたことあります。えたひにんのえたですよね」

確かに学んだことはある。ただ「決して冗談でも言うな」と厳しい口調で教師が言っていたことしか覚えていない。いやきっとどういう人たちだったかの説明もなかったと思う。


「もちろん今はそのような身分はありません。過去の話です」

「でも瀬川はそう思わなかった、と」

「きっと彼も過去のことだとは理解していたと思います。意外なのは彼自身がそのことを知っていたことです。幼い頃にご両親に告げられていたのでしょうね」

不幸だったのは瀬川が知名度を売りにしていたYouTuberだったこと。確かに自分の先祖が被差別民だったらショックだし隠していたと思う。ただ自分の場合いったい周囲にバレてどれくらいの被害があろうか。


「差別論に関してはね『寝る子を起こすな』みたいな話もあってね。つまり話題に出さなければいつしかえたのことも忘れ去らる。だから話題に上げるべきではない、なんて話もあるのよ」

「でもそれだと」

「そうよね、根本的な解決ではない。また別の違う立場の人たちが差別されかねない」

「もしかして的場さんも?」

「あら、鋭いわね。そう彼も同じよ。だから瀬川君のところへ行ってしまった」


「啓蒙活動として有名人の影響力は計り知れないわ。それに若い子が見る媒体となるとね」

「それで的場さんは瀬川に接触したんですか」

二人が話していた日を思い出す。前期最後の講義の日、二人の様子。とてもとても古い記憶に思える。だからあの時瀬川はあんな青い顔をしていたんだな。


「彼について話せるのはここまでです。これ以上はわかりません。どこへ逃げたのか、これからどうするのか」

「いいえありがとうございます。しかし僕は知ってよかったんですかね? いくら友人とは言え」

「私は、あなたには知る権利があると思いここへお呼びしました。そのように憂うのであればやはりあなたにはお伝えしてよかったと思います。私は間違っていなかったと」

例えこのことを事件前から知っていたとして何か変わっただろうか。変わらない気がする。


「その、勉強不足で恐縮なんですけど今でも差別ってあるんですか? 自分の知識だとそれこそくらいしか」

「あるところにはあるのよ。あなたが想像するような激しいものではないにしても就職・結婚と人生の大事な局面でよく見られるわ。いつの時代も固陋な人間はいるものね」

「それで、えっと……あなたたちはどのような活動を?」

「まぁ、ごめんなさいね。名乗ってなかったわね。あの子も話さなかったのね。岩城由紀恵いわしろゆきえと申します。良太の母です」


「活動って言ってももう最近は何も出来てないわ。もっと大きな組織が別にあるし。今は小さな雑誌にまた小さな文章を送っているくらい。それが的場さんには我慢できなかったのかもしれないわ。若くてエネルギッシュな人だったもの」

俺は緩くなったお茶を初めて口にする。


「ミチルさん、えたってどう書くか知ってる?」

「僕はひらがなで学びましたけど」

「穢多と書いてえた。よく並んでるひにんは非人ね」

穢れが多いで穢多。

「これは彼らが動物の死体を片付けたり皮革業を生業にしていたことに由来するといわれているわ」

「確かに好まれる仕事ではないかもしれないですけど穢れが多いとまで言われるなんて。昔ならそれこそ人の命だって今よりずっと軽いでしょうに」

「この国の宗教的土台が穢れと判断させたの。えたの前身は奈良時代にあったと言われていてね、殺生を厭う仏教と血を穢れとする神道。今では考えられないほど迷信的な時代でこれだけの背景があると穢多となったのでしょうね」


「江戸時代に入ってより扱いはひどくなったわ。士農工商、歴史で習うわよね? その下にえたがいたの、『自分たちより下がいる』と不満のスケープゴートにされてきたの」

「歴史だとその後四民平等で名目上は解放されたんですよね?」

「そうよ、でも人道的な観点から解放したというよりは打算的な理由よ。1つは経済的な理由。明治政府は地租改正を行い土地に対してお金での納税を義務付けた。実は勘違いされがちだけど被差別民は特定の職業を独占していたという見方もできるの。つまり被差別民の中には一部とはいえ富裕層もいたのよ」

「でも戸籍に載ってなければ税金を取れない」

「そういうことよ」


「もう1つは国家としての体面よ」

「体面というとメンツのようなもんですかね?」

「当時の日本は不平等条約に頭を悩まされていたの。知ってるわよね?」

「さすがに知ってます。小学生ですら知ってることです」

「別にバカにしたつもりじゃないのよ。意外と忘れてる子も多いしね。話を戻すと日本はであることを欧米にアピールする必要がったの。事実はどうであれ、法的に被差別民がいることは都合が悪かった」


「でも昨日まで差別していた相手に今日からやめなさいと言ってもうまくいくはずもないわ。政府の対応も不完全、本気で救済しようと考えた人たちはごく一部だけ」

「彼らは従来の特権を奪われて名ばかりの平等の元、市民の中に放り込まれた」

「職業選択の自由があったとはいえ結局出来る仕事は今までと変わらない。家父長制の根強い当時では結婚だって自由に出来ない。結局解放されても出生を隠さなくてはならなかった。自分の生まれを隠さなくてはならない、これって平等かしら?」


「平成になっても差別事件は起きているのよ。『差別文書』がネットを通して配布されたのよ」

「なんですか? それ」

「悪名高き『部落地名総監』という物が昭和に発刊されたの。誰が買ってたと思う? 一流企業の人事部よ」

「本当、頭が痛くなる話ですね」

「『地名総監』自体には法的には何も問題なけど私たちは見つけ次第回収してるわ。わ。よね」

「紙? もしかして平成で起きた事件って、ネットでそれを?」

「まだインターネット黎明期だったから掲示板やSNSといった不特定多数の人の目に着くということはなかったのが不幸中の幸いかしら」


「もうこんな時間。瀬川君の話だけでよかったのに年寄りの長い話に付き合ってくれてありがとう」

「僕も勉強になりました」

「家まで良太に送らせるわね、若い子と話すとそれだけで若返るわ」

ソファから腰を上げたと同時にスマホに着信が来た。




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