懺悔録

杠明

第1部

第1話

「例えば改訂版ではここは『蓮華寺では広い庫裡の一部を仕切って、下宿するものを置いていた』となっていますが元の文章は……」

壇上に立つ老教授のレジュメを読み上げる嗄れ声しゃがれが教室に空しく響いている。自由選択科目の講義とあって大教室の7割以上の席は空いている。出席している生徒も各々自分の時間で忙しいらしく、誰もが顔を下へ向け教授の話を聞いていない。もちろん自分を含めてだ。

自分の机の上には税抜き三千円もした教科書が開かれているが今の講義内容が何ページ目に載ってるのかもわかっていない。


教科書をひっくり返し、巻末を確認すると著者紹介のところに目の前にいる老教授の名前が記されている。

「チッ、別に買わなくてよかった」

周囲に聞こえないように小さく舌打ちをして教科書を閉じる。今年は去年よりひどい、高い教科書を買わせておいて半分以上の講義でそれを使っていない。

学習能力の高い学生は二年生以降教科書を買わず、講義も出席を取らないものでは出ず、先輩から過去問を購入して単位を取る。

大学は勉強するところ? ってだけだよ。


教室の時計とにらめっこしていると教室の前方のドアが開かれた。

遅刻したその学生は悪びれた様子もなくカードリーダーに学生証を通し、教壇前の机に置かれた本日分のレジュメを手に取りキョロキョロと教室を見渡している。

目が合った瞬間ニカッと笑いながらパカパカとサンダルを鳴らしながら自分の横まで来て腰を下ろした。

瀬川虎児せがわとらじ自分と同じ学部で知人と友人の間くらいの関係だ。

「いやあ、昨日撮影が思ったより長引いちゃってさっきまで爆睡してたわ」

滝のように流れ落ちる汗をTシャツで拭いながら聞いても無い言い訳を口にした。

「瀬川、これで七回目だぞ。それに今日のは遅刻じゃなくて欠席扱いになるぞ」

教授にもよるが一定以上の時間遅れると欠席扱いになることはざらにある。少なくとも講義終了二十分前に入ってきて遅刻は無理がある。

「んー、まぁ卒業は出来るならしたいくらいだしなぁ」

そう言うと瀬川は大きくあくびをしてからはカバンからコンビニ袋を取り出し中に入っていた週刊マンガを読みだした。

去年までの取得単位数と現状のこの舐めた姿勢ではストレートでの卒業はおそらく無理であろう。下手したら在籍年数限界の8年でも無理だ。


「削除された単語や文章を書き替えた例もここに載ってるように……。そうですね、今日はここまでにしておきます。次の講義では試験の範囲と出題形式を説明するので普段出席してないお友達に来週は来るように伝えてください」

定刻より数分早く教授は講義を切り上げ早々と教室を後にした。

「ラッキー、おいミチル。食堂行こうぜ、フライング出来ればまだそんなに混んでないだろうよ。昨日から何も食べてないんだよ、腹減って死にそうなんだ」

瀬川は講義中、一切の筆記用具をカバンから出さなかったので教室から出る支度も早い。

「瀬川カバン変えたんだ?」

先週まではもう少し無粋で大きいカバンだったが、今瀬川の肩に掛かってるのは学生には不釣り合いな高級そうなものだ。

「やっぱYouTubeって儲かるんだな、俺にはそんなカバン縁がなさそうだよ」

「へへっ、まあな。仕事の関係で安く譲ってもらったんだ。中古だよ中古」


瀬川はいわゆるYouTuberだ。

顔見知りには恥ずかしくてチャンネルを教えたくないと言っていたが酔った勢いで先輩に話していたので知っている。

チャンネルの内容としては古今東西いろいろな話題を取り扱っている。例えば世界史の謎、時事問題、変わった動物、ネット発祥の怖い話。

それを帽子とサングラスで申し訳程度の身バレ対策の変装をした瀬川が面白おかしく語ると言った内容らしい。そう誰かが話していたのはをよく覚えている。

再生数はいいものだと数百万再生されている。相場はわからないがコンスタントに数十万~数百万再生の動画を週に五個程度出しているとなれば十分な額は稼いでいるであろう。


「中古でも十分羨ましいよ、俺らみたいな平民は安いカバンを使い潰すのが関の山だよ」

正直カバンは少しも羨ましくはないが副業と呼ぶには立派過ぎる収入には垂涎を禁じ得ない。

「……でもカバンでもなんでも大事に使えば4年くらい、大学にいる間ならもつだろ? 安いから、ショボいからダメってことではないだろ?」

なんだか歯切れの悪い言い方だ、こいつらしくもない。

「そんなこと言うなら貰っても前のカバン使えばいいじゃないか」

「そういう意味じゃないんだけど……ま、お前の言うとおりだな。行こうぜ食堂」


せっかく講義が早く終わったというのにそうこうしているうちにチャイムが鳴ってしまった。

「俺は今日これで終わり、午後は講義ないから帰るよ」

もう特段用もないのにごった返した食堂で食事をするなんて奇特な真似はしない。

「そうか、じゃあまた来週な」

俺は荷物をまとめ瀬川とは別の出口へと進む。


俺はこの日の選択を今日まで後悔している。

用が無くても飯くらい一緒に摂れば何か変わってたのかもしれない。

でも誰に分かろうか? 瀬川と会話らしい会話をしたのがこれで最後になるなんて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る