第2話 数年後に思い出すこと
月日が流れるのは、本当に早いものだ。四十歳を超えてから、特に早いと思い始めたが、四十五歳の時に静香と出会ってから、気が付けば五十歳になっていた。静香もすでに二十三歳、立派な女に成長していた。
あれは、三年前の五月五日、
「私、今日で二十歳なの」
いきなり朝起きて、そう言われた。それまで、静香が年のことを口にすることはなかった。十八歳だと聞いてから一年以上が経っているのだから、どこかで十九歳の誕生日があったはずだと思ったが、何も言おうとしないのだから、俊治も敢えて聞こうとはしなかった。
そんな静香が、まるで満を持したかのように、二十歳の誕生日を口にした。表情に感情はなかったが、言わなければいけないとでも思ったのか、覚悟のようなものが感じられた。
「それはおめでとう」
俊治は感情を込めて口にしたつもりだったが、どうにもぎこちなさが感じられた。
「ありがとう」
という静香の言葉も形式的にしか聞こえない。お互いに腹の探り合いのような時間が少し続いたが、静香がニッコリと笑ったのを見ると、急に緊張が解けたような気がした。
俊治は、静香の就職祝いをした時のことを思い出していた。
――そういえば、あの時は、余計なことを聞いてしまうと、静香がどこかに行ってしまうのではないかって思ったっけ――
今は、もう余計なことを聞こうとは思わない。あの日から二人の距離は一気に狭まった気がしていた。俊治は静香が自分の娘のような気がしてきて、狭い部屋にいたにも関わらず、いつになくお互いにそれぞれのことをしていても、何ら違和感のない生活を過ごしていた。
それでも静香は、ただの同居人ではなかった。自分の娘のような気がしていたからだったが、次第に娘では物足りない気がしてきていたのに、お互いに自分のしたいことをする生活に、満足もしていたのだ。
それは、干渉し合ってしまうと、お互いにギクシャクしてしまって、
――静香がいなくなってしまう――
という思いを、今さらながらに抱かなければいけなくなることに対して、情けなさを感じてくるからだった。
俊治は、自分の記憶の中に、封印してしまっている部分があることに、その頃気が付いていた。それが静香の二十歳の誕生日の前だったのか後ろだったのか、なぜかハッキリと覚えていない。
もし、その意識がハッキリとしていたのなら、静香の二十歳の誕生日が、自分の意識の中から消えてしまいそうな気がしたからだ。静香の意識は次第に俊治の意識を左右するようになっていた。静香の一言一言に重みを感じるようになってきたからだ。
かといって、静香は相変わらずの無口だった。あどけない表情をしてみたり、急におどけて見せたりするので、お茶目な部分が無口なイメージを払拭してしまうが、静香はまわりに与えるイメージと。俊治に与えるイメージとでは、かなりの差があるように思えたのだ。
俊治は時々静香を他人の目で見ようと心掛けることがあった。他人の目で見た方が、二人の関係を素直に見ることができ、暖かさを感じることができるからだ。静香と一緒にいて心地よい気分になれるのは、他人の目で見ている自分を意識できるからであった。
しかし、他人の目で見ていようが見ていまいが、お互いに最初から一緒に暮らそうと思っていたわけではない。静香は後から、転がり込んできたのだ。
――そういえば、二十五歳の時、時々他人のように見ている自分にドキッとしたことがあったっけ――
と、感じた。
それが誰のことだったのかすぐには思い出せなかったが、自分にその頃、
――結婚するなら、この人だ――
と思った人がいた。
相手がどこまで俊治のことを考えていたのか分からないが、結婚までは考えることのないただの恋愛だとしか思っていなかったのだろう。
俊治は、その時、自分が裏切られたような気がしていた。俊治が考えていたほど、お互いに気持ちが近かったとは誰が見ても思えなかっただろう。俊治が一人、先走っていたことだけは間違いないだろう。
思えば今から二十五年前のこと、時代もかなり変わった。しかし、俊治にとって、
――俺の時間は、あの時から止まってしまったんだ――
と感じるほどだった。
――あれだけ好きだったのに、あれだけ愛していたのに――
と、まるで恋愛ソングの歌詞のようだ。
しかし、そんな感覚も最近まで忘れていた。思い出すことは、それ以前のこと、時が止まったと思っている瞬間からこっち、思い出すほどの記憶があるわけではない。
そうやって考えると、何と自分の人生の薄っぺらいことだろう。二十五年前から時が止まってしまったと思っていることで、今でも自分は二十歳代のように感じることがある。そのくせ、頭の中の基準はやはり五十歳なのだ。
四十五歳で、静香と知り合って、一緒に暮らしている。静香に対して恋愛感情を持っているわけではない。可愛いとは思うが、普通に恋愛したいだとか、結婚したいだとか思わない。もしそんな感情を持ったとすれば、ここまで一緒にいなかったかも知れない。
そんな感情を持たない性格になってしまったのか、それとも、そんな感情を持つことが怖いと、自然に感じるようになってしまったのか。そして、自然に感じた怖さが、自分の感情を押し殺すことを感じさせないほど、感覚をマヒさせてしまっているのか、俊治はそのどちらかなのだということを、自分なりに感じていた。
二十五歳までの自分なら、そんな人生はまっぴらごめんだと思っていたことだろう。先に望みのない人生。そんなものは人生と言えないと思っていた。
二十五歳までは、感情の起伏が激しい性格だった。思ったことをすぐに行動に移したり、表情に表したりしていたものだ。そのたびに、先輩などから見かねて、
「お前はすぐにカッとなってしまうのか、すぐに顔や態度に感情が現れる。気を付けた方がいい」
と言われてきた。
今は、ほとんどそんなことはない。ただ、
「性格がそんなに簡単に変わるものではない」
と言われているが、俊治もその考えに賛成だ。
自分のまわりの人を見ていると、性格が変わったように見えて、それは表面上のこと、内面に変わりはない。そういう意味では、俊治の表に出しやすい性格もそう簡単に変わることはないだろう。今までに、それで損をしてきてことも多々あっただろう。
ただ、それを、
――損をした――
とさえ思わなければ、怒りに感じることもなく、諦めもつく。そんな性格に変わってきていた。
――俺の性格って最悪だよな――
表に出すことはやめられないくせに、諦めは簡単についてしまう。自己満足さえできれば、それでいいということなので、今のように決して表に出ようとさえしなければ、何とか時間を乗り越えていけると思っている。
――俺に夢はないのか?
と、自問自答することもあったが、考えてみれば、二十五歳までに自分の夢について考えたことがあっただろうか?
考えようとしたこともあったが、いつも、
――そのうちに見つかるさ――
と、その時見つからなくても、先延ばしにすることでその時は、
――考えることができただけでも良しとしよう――
と、自己満足していたのだ。
十八歳の静香を最初に見た時、違和感を持ったが、すぐに違和感は消えていたのを思い出した。
最初に感じた違和感は、
――この娘は、二十五歳の時に、喘いだ結果、自分が今の生き方を決めた時に似ている――
と感じたことだった。
自分のような性格の人は、そうはいないと思っていたはずで、もしいたとしても、そんな人が自分に近づいてくることはないと思っていた。実際に、二十五歳から自分のまわりにはそんな人はいなかった。いなかったからこそ、自分の中の時計を止めたまま、生きてくることができたのだと思っている。それが、
――孤独――
という言葉に似合った人生であり、寂しさを感じてはいるが、マヒした感覚に飲みこまれていることを分かっていた。そういう意味で、自分に似た性格の人が、自分の近くに寄ってきたことに対しての違和感だった。
そして、すぐに消えた違和感であるが、もし、自分の性格に似た人が、自分と年齢も近く、同じような経験から時を止めたと思っている人であったのなら、そのまま違和感は続いていたように思う。
静香のように、年齢も性別もまったく違っている人間であることが、
――まるで違う世界の人のようだ――
と感じさせたことから、違和感がなくなってしまったのかも知れない。
しかし、性格は同じに思える。突入経緯が違っているだけだ。その違っている突入経緯に興味があるわけではない。興味があるとすれば、その人そのものにである。
だから、俊治は静香を自分の部屋に連れていっても、余計なことは聞かなかった。
――聞いてしまうといなくなってしまいそうで怖い――
という、自分を臆病な性格だと思わせたのは、自分が臆病ではないと思うことで、静香の過去を知りたいという感情を呼び起こすことをしたくなかったからだ。
この思いも、怖がっていることに違いないが、少なくとも、自分を納得させるにはこちらの方が説得力はある。そのくせ、表にこの感情を出そうとは思わなかった。あくまでも自分の中で、
――聞いてしまうといなくなってしまいそうで怖い――
と思うことに徹したのだ。
俊治の性格の根本はここにある。肝心なことを自分の中に収めてしまって、その外にある性格を自分の性格だと思うことだ。その性格が功を奏したのか、最近まで、二十五歳で失恋してしまったということを覚えてはいても、どれほどのものだったのかということを覚えていない。
――まるで、部分的に記憶喪失になったかのようだ――
と感じるほどで、
――その時の感情を思い出すことができないわけではないが、もし、思い出したとすれば、それはまるで昨日のことのように感じるに違いない――
何しろ、自分の中で時間を止めてしまったのだ。そんなことができてしまうのだから、肝心なことを記憶の奥に封印して、思い出さないようにするくらいのことはできても不思議のないことだろう。
俊治は今、少しずつでもいいので、二十五年前のことを思い出せそうな気がしていた。一気に思い出すのではなく、徐々にである。一気に思い出してしまうことは自分の考えに自分から背くことであり、今の自分をも否定してしまいそうに感じるからだ。
どうして、そんな風に思うようになったのかというと、理由は静香にあった。
静香が俊治の部屋にやってきてから五年が経った。ずっと今まで静香だけを見ていたので、静香の成長は手に取るように分かった。
さすがに最初に出会った時の静香に比べれば、完全に大人のオンナに変わっていた。しっかりしてきたところもあれば、妖艶さも感じる。俊治は最初、しっかりしてきたところと、妖艶さが別のところから来ていると思っていた。
普通はそう思うだろう。
妖艶な雰囲気から、普段しっかりしている様子を感じることはなかなか難しい。妖艶な雰囲気と、しっかりしているところを同じ時間、同じ空間で感じることなどできないからだ。
感じることができるとすれば、完全に二重人格の相手を見ているからだと思う。静香には今まで一緒にいて、二重人格だと思えるところを感じたことはなかった。
――最初の一年で感じなければ、その後も感じることはない――
というのが、俊治の他人を見る目であった。
静香の中にあるしっかりした部分と、妖艶な部分、俊治には重ねて見ることができた。しかし、だからといって、
――静香が二重人格だ――
という思いに駆られるわけではない。
――静香のしっかりしている部分は、妖艶な部分の中に存在しているように思う――
本当なら、逆のような気がする。しっかりしているという基準があって、その中に時々見せる妖艶さが、たまらなく男性を惹きつけると思うからだ。
しかし、それは男性から見た勝手な思い込み、妖艶な女性のしっかりした部分を見てしまうと、男性の中には萎えてしまう人もいるだろう。女性の妖艶な部分を感じた男性は、相手の女性に求めるものは、
――自分に対しての服従心――
のようなものではないだろうか。異常性欲に感じられるが、それも男女の間の感情の一つ。否定するのは簡単なのかも知れないが、否定してしまうと、その二人は自分を見失いことになりかねない。
だが、静香に感じたのは逆の感情だった。こんなことを感じることができるのも、自分だけなのではないかと思う俊治だった。
俊治は自分が二十五才の時に好きだった女性と思い出せるようになっていた。それは、静香を見ていると、どこかその思い出がよみがえってくるからであった。しかし、完全に思い出せたわけではない。好きになった女性のことなのに、どうして思い出すことができないのか、自分でも不思議に思う俊治だった。
俊治には、その頃に好きになった女性が二人いた。
一人は、新入社員として入ってきた女の子だった。名前を中西加奈と言った。加奈自身も俊治のことを意識しているような気がしていたのを思い出したが、そもそもそう最初に感じたことが間違いの始まりだったのか、記憶の中に封印していた理由は、そのあたりにあるのかも知れない。
大人しさがあどけなさを控えさせているような雰囲気で、普通に見ているだけではあどけなさを感じることはできないに違いない。
地味な外見からは大人しい雰囲気しかイメージすることができない。何かきっかけがなければ、彼女のことを気にする男性はいないだろうと思えるほどだ。
俊治も最初は彼女のことを意識しているわけではなかったが、無意識に彼女のことを見ていたのだろう。まわりから、
「木村さんは、彼女のことを好きなのかも知れないわね」
という噂が聞こえてきた。
その噂を聞いて一番ビックリしているのは、当の本人である俊治だった。
「そんな、誤解もいいところですよ」
おせっかいなパートのおばさんから、声を掛けられて、必死で否定する。
俊治は、それまで何とも思っていなかったはずなのに、必死で否定しているうちに、何かむず痒さを感じていた。好きになったかどうか分からないが、まわりから、自分のことを話題にされるという状況に、くすぐったさを感じていた。
――まんざらでもないな――
と思うようになったからなのか、
――噂は本当のことになるかも知れない――
と感じた。
加奈は、四年制の大学を出ていた。俊治の会社で、四年制の大学を卒業して入ってくる女の子は珍しくはないが、皆それぞれに個性を持っていた。
そういう意味では地味な彼女が個性を持っているという印象はない。まわりの人たちが彼女をどのような目で見ていたのか分からないが、あまり人を近づけさせない雰囲気を持っているのは確かなようだ。
そんな雰囲気を持っている女性は、まず同性から好かれることはない。敵はいても、味方はほとんどいないに違いない。
俊治は、自分が天邪鬼だと思う時がある。それは好みの女性においてもそうだった。他の人が、口を揃えて付き合いたいと言っているような女の子に対して、自分も付き合いたいとは思わず、誰も見向きもしないような地味な女の子を好きになったりするところがある。
高校時代に、
「あなた、私に同情して付き合ってくれていたんじゃないの?」
と言われたことを思い出した。
自分ではそんなことなどないと思っているのに、相手からそう罵倒されると、
――お前は何様のつもりでいるんだ――
と、心の中で憤りを感じてしまう。そう思うということは、
――自分の中で、女性に対してどこか優越感を感じなければ、付き合って行くことができない――
と思っているに違いない。
ただ、加奈に関しては、そんな思いを感じさせなかった。感じる暇がなかったというのが本音なのかも知れない。
大人しくて地味な女の子だったが、俊治の前では感情をあらわにした。よく喧嘩にもなったし、わがままなところもあった。
わがままというのは、女性であるがゆえ、仕方がないところもあるが、そうもいかないのは、しょっちゅう喧嘩をしていたからなのかも知れない。
喧嘩の内容は、その時々で違った。些細なことが原因だったことも多く、何が原因で喧嘩になったのか、次の日には忘れていたりしたものだ。それだけに仲直りも早く、
――本当に前の日に喧嘩をした二人なのか?
と思わせるほど、熱しやすく冷めやすい二人だった。
しかし、そんな毎日を続けていると、どちらかが疲れてくるというもので、最初に疲れたのは、加奈の方だった。
「あなたの気持ちが分からなくなった」
その一言が決定的だったようで、気が付けば別れていた。
その間の記憶が、俊治にはないのである。記憶を封印していたのは、今思い出していた部分で、肝心の別れに向かっていくところが記憶の中にないことで、そのまわりすら記憶から消えていたように感じていたのだろう。
思い出してくると、ある程度までは雪崩式に思い出すことができるのだが、ある一点から先を思い出すことができないことに、俊治は自分のことでありながら、自分のことが信じられないということがあるのだと、思い知らされた気がした。
実は、俊治はその時に、もう一人好きな人がいた。加奈と付き合っている間は、その人のことを考える余裕もなかったので、自分の気持ちを分からなかったが、ひょっとして、二十五歳だったその頃も、分かっていたつもりで、意識していなかったのかも知れない。今になってから分かったというよりも、加奈のことを思い出したことで、その時に自分が表に出したくないと思っていた感情として、加奈のことと一緒に記憶の奥に封印していたのかも知れない。
一時に、二人の人を好きになることを決して悪いことだとは思っていないが、加奈と別れることになった理由の一つに、その人の存在が影響しているのかも知れないと感じた。
――加奈は知らないはずなのに――
と思っていたが、それだけ俊治が女性の勘というものを甘く見ていた証拠なのではないだろうか。
加奈はそれほど勘が鋭い女性だったという意識はない。ひょっとすると、本当に俊治のことを好きだったのかも知れないし、好きではなかったにしても、好きになろうという努力をしていたことで、俊治に対して神経が過敏になっていたのかも知れない。
もし、そうであるとすれば、俊治に罪がなかったと言えるだろうか?
それは、もう一人の女性を好きになったという意味ではなく、加奈に対して誤解していた部分があったことに対しての罪である。
俊治が同じ時期に好きだった女性は、名前を山田幹江という。
幹江とは、中学時代からの同級生で、高校まで同じだった。
俊治は大学に進み、幹江は短大に進んだが、家が近かったこともあり、高校卒業後も連絡を取り合っていた。
連絡を入れるのはほとんどが幹江の方からで、俊治の方から連絡を入れることはなかった。元々不精な性格で、大学時代に付き合っていた女性に対しても、相手に、
「あなた、私に同情して付き合ってくれていたんじゃないの?」
と思わせたことも、不精なところが相手に不信感を抱かせた原因になったのかも知れない。
相手が誰というわけでなく、付き合い始めるまではこまめに連絡を取ったりしてマメなところがあるのだが、いざ付き合い始めると、急に不精なところが顔を出す。本人としては、
――釣った魚にエサをやらない――
という性格ではなく、ただ単に不精なだけなのだ。
――誤解されている――
と自分では思っているが、相手は別に誤解しているわけではない。不精な性格とはいえ、それまでマメだった人間が急に気を遣わなくなってしまえば、釣った魚にエサをやらないと思われて仕方のないことだ。
お互いにすれ違い、溝が深まるのも当たり前というものだ。相手は不信感を持っているのに、本人は悪いとは思っていないのだ。どこまで行っても交わることのない平行線を描いているのは、誰が見ても明らかだった。
俊治は、自分で反省しているつもりでも、まわりから見れば、そうでもないことが多かったりする。まわりからも不信感を持たれてくると、孤立してしまうのも仕方のないことだ。俊治の一番悪いところは、人のせいにしてしまうところだった。
人の助言を素直に受け入れる性格が災いしてか、受け入れても自分の中で咀嚼しようとせずに、そのまま解釈してしまう。融通の利かないところがあることが、俊治の性格を頑なにしてしまっていた。
一度人からの助言通りにしてうまくいかないと、その人すべてが信用できなくなってしまう。こちらが不信感を持つと、相手にもその気持ちが分かるというもの。そんな感情が渦巻いてしまうと、まず、歩み寄りは見られないだろう。俊治の性格は、一度頑なになってしまうと、まわりが見えなくなってしまう。
――すべてが悪い方に向かってしまう――
と考えてしまうと、自分の意識の中から、消し去ってしまおうと思う自分がいる。
加奈のことを忘れてしまっていたのも、加奈と自分の間のことだけではなく、他に誰かが介在していることで、忘れてしまう原因になったのではないかと、俊治は考えていた。
加奈と喧嘩してしまったことを、幹江に話したことがあった。
「あなたは、女心が分かっていないところがあるからね。でも、喧嘩するほど仲がいいって言うじゃない。私は羨ましいくらいだわ」
と、幹江は話した。それを聞いて、
「どういうことなんだい?」
と訊ねると、
「それが分からないから、女心が分かっていないっていうのよ。私はあまり人を好きになったことがないから、男の人と喧嘩したこともない。そういう意味で羨ましいって言ったのよ」
幹江は、性格的に気が強い方だった。それは女性としての気の強さというよりも、見た目が、
――男っぽさが感じられる――
という気の強さだった。
ある意味、そんな女性が好きな男性がいるかも知れないが、少なくとも俊治のまわりには、幹江のような女性を好きになりそうな男性はいないように思えた。
しかし、俊治は加奈と向き合っている時、急に幹江のことを思い出したりすることがあった。加奈と喧嘩になって、喧嘩している時は頭に血が昇ってしまって、何も考えられなくなるが、少し落ち着いてくると、頭に想い浮かぶのは、幹江のことだった。
――幹江は、俺のことをどう思っているんだろう?
時々話をする時も、二人とも気心知れた相手としてなのか、溜め口で話す。しかも、俊治は他の人には話せないことでも、幹江には話せてしまうところがありがたかったりしたのだ。
幹江も、そのことに関してはまんざらでもないように見受けられる。
「俊治と話をしていると、まるで弟ができたような気がするのよ」
「何言っているんだい。同い年じゃないか」
「同い年だからそう思うのよ。男性より女性の方が、同い年ならしっかりしているって言われるでしょう?」
「それは世間一般に言われていることであって、人それぞれに違うもんさ」
「じゃあ、私たちは?」
と聞かれてしばらく答えられなかった。
その様子を幹江は黙って見ていた。
「ほら、やっぱり答えられない。私たちって、特別な関係なのかも知れないわね」
と、アッサリと言ってのけたが、それが幹江の性格でもあった。
――大切なことでも、サラッと話ができてしまう幹江を見ていると、少々の悩みごとでも、小さいことのように思えてくる――
話をしているだけで、少々の悩みなら吹き飛んでいきそうな気がするのだった。そこが幹江の魅力だった。だが、そのことを最初に感じたのは、高校の頃だったのだが、
――他の女の子と話はできないけど、幹江とならどんな話でも気軽にできる――
と思ったことだった。
しかも、幹江と話をしているうちに、他の女の子とも話ができるような気がしてきたからなのか、加奈にも声を掛けることができたのだ。
加奈と付き合うきっかけになったのは、まわりの人が背中を押してくれたからで、お膳立てを整えてくれたからだったが、実際にお膳立てを整えてくれても、最終的には俊治自身がその場で何も話すことができなければ、うまくいくものも、うまくいくはずがなくなってしまうというものだ。
俊治が、加奈との初デートで話をキチンとすることができたから、付き合うようになったのであって、喧嘩になってもまた仲直りできるのも、俊治が決して相手を女性だと言うことで臆しているわけではないからだった。
もし、幹江という女性がいなければ、俊治は加奈と付き合うこともなかっただろうと思う。加奈と喧嘩ばかりしている時、たまに幹江のことを思い出して、懐かしさを感じるのは、やはり、幹江に対しても少なからずの想いを持っていることを思い知ったからに違いない。
加奈との仲が、修復不可能だと感じるまで、かなり時間が掛かった。加奈の方は、すでに自覚していたようだが、俊治には自覚する勇気がなかった。
今から思えば、加奈との仲が修復不可能になり、そのまま別れてしまっては、幹江とも関係が遠のいてしまうように感じた。
もちろん、根拠があるわけではない。元々加奈との関係を考えている時に、幹江のことを考えるというのは、不謹慎と言えるだろう。
――そんなだから、加奈との仲が修復不可能になっても、諦めきれないんだ――
と感じた。
すべてが悪循環なのかも知れない。
最初に二人のうちどちらを意識し始めたのか覚えていないが、二人とも、見た目は似ているようでも、接して見ると、結構性格的には違っていた。正確に言えば、幹江の場合は見た目とあまり変わりはないが、加奈の場合は、付き合い始めると、実際とは違っていた。そのことにもっと早く気が付けばよかったのだが、俊治は気付くのに遅れた。それが悲惨な結果を招くことになったのだろう。
どちらを先に好きになったのかは別にして、最初にアプローチしたのは、加奈だった。それは加奈の方からも俊治に対して、歩み寄りの姿勢があったからだ。ただ、それは歩み寄りの姿勢がハッキリと見えたわけではなく、加奈の思わせぶりな態度があったからだ。
加奈は、俊治の気持ちが分かっていて、わざと意識しないようなフリをしていた。しかし、加奈に「フリ」などできるはずもない。もちろん、俊治にはそんなことは分かっていなかった。
加奈には、幹江にはない力があった。それは、
――見つめられると、目を逸らすことができない――
と感じるほどの「目力」だった。
そんな「目力」で見つめられた上に、加奈は自分の感情を抑えることもなく、押し付けてくる方だった。
俊治は、いろいろと考える方なのだが、加奈と付き合っていると、考える間を与えられない。押し付けられた感情には、わがままな部分が多大に含まれていて、到底承服できないような内容も結構ある。喧嘩が絶えないのは当然のことで、それでも、目力に操られて、最後には、俊治の方が折れている。
――俺は大人の行動を取っているんだーー
女性の態度に対して男性が折れるという方が、大人の対応だと思っている俊治は、そう言って、自分に言い聞かせていた。
今から思えば、加奈と付き合った期間は一年ほどだった。
もし、加奈に目力がなく、しかもわがままな態度を露骨に出していなければ、ひょっとすると、もっと早く別れていたかも知れないと、俊治は感じていた。
なぜなら、加奈と付き合っている間、俊治は考える暇もなかったからである。
俊治は考え始めると、結構深いところまで考える方だった。
考えが纏まらないことも多かったが、それは考えが、
――堂々巡りを繰り返す――
ことになるからだった。
ある程度まで深く考えてしまうと、そこから先は、考えが前に戻ってしまう。今までに何度同じ経験をしたことだろう。
ただ、本人が考えが深いと思っていることでも、実際には、その間にも何度か考えが元に戻っていることもある。そのことに気付かずにいるのは、
――まだ、考えの底が見えてこない――
と考えているからだ。
実際にあるはずのない、
――考えの底――
という発想は、堂々巡りを繰り返す自分に対して、納得させるための、一種の方便なのかも知れない。だが、底という概念は存在する。行きつく先が見えてくると、考え方を一定の速度に保つことができるからだ。
――底なし沼――
であってしまっては、考える方も最後には疲れてしまい、自分を納得させる結論を生むことはできない。
そもそも、自分を納得させる結論が存在するのかどうか、疑っているのも自分自身ではないだろうか。堂々巡りを繰り返すことで、俊治は、
――自分は、できる限り考えたんだ――
と納得できるまでに気持ちを持っていける。堂々巡りはそのためには、避けて通ることのできないものに違いない。
――堂々巡りを繰り返していると、永遠に結論など生まれるはずもない――
と、考えていた時期があったが、加奈に対してだけは違っていた。
――堂々巡りを繰り返すことで、結論が少し見えてきたような気がする――
と感じたことがあった。
本当に結論が見えてきたのかどうか、今となっては思い出すことなど不可能だが、もし見えてきたのだとすれば、
――その時に意識していた幹江の影響が強かったのではないか――
と、感じるようになっていた。
――幹江のことを意識する暇など、なかったはずなのに――
と、今だから感じるその思い、当時、本当に俊治の中で、同じ時期に二人の女性に好意を持っていたという意識があったのだろうか?
今だから感じることではないかと思う。当時の自分と今の自分とでは、それだけのことを取っても違っているのだから、二十五年という時期は、かなり長かったことになるのだろう。
だが、俊治の中では、
――二十五歳から、自分の時間は止まっている――
と感じている。
その思いに至らせたのは、幹江という女性の存在が大きいのかも知れない。
幹江とは、中学、高校と一緒に過ごしてきた。
俊治が異性を意識した最初は、中学二年生の頃のことだった。
相手は誰だったのか覚えていない。俊治が異性を意識し始めたというのは、女性を好きになったことから感じるようになったわけではないからだ。
俊治が異性を意識するようになったのは、
――羨ましい――
という感情から始まっていた。
自分のまわりの男子が、女の子と一緒にいる時、今までに見たことのない楽しそうな表情をしている。しかも、
「どうだ、羨ましいだろう」
と口には出さないが、いかにも相手を見下すような「どや顔」になっているのだ。俊治でなくとも、そんな顔を見せられれば、男として、屈辱感を感じることだろう。
――羨ましい――
という感情は、そのまま自分に対して、
――屈辱感――
を産むことになるのだ。
屈辱感は、妬みとなり、それが、どのように異性への意識に変わって行ったのかまでは、今では分からないが、きっかけは、
――羨ましいという思いから生まれた屈辱感――
だったのだ。
中学時代の頃の意識は、極端に記憶としては残っていない。
時間もあっという間に過ぎてしまったという印象と、
――暗い時代だった――
という印象しか残っていない。
高校時代の三年間は、彼女ができない時期もあったし、やっとできたとしても、
「同情で付き合っている」
と罵られた屈辱もあった。
しかし、暗い時代だったという意識は、中学時代に比べれば薄かった。それはきっと、
――まだまだこれからだ――
という、異性に対しての想いだけではなく、他のことに対しても感じていたからだ。
それは、自分の中に「可能性」を感じていたからなのかも知れない。
――諦めない――
という気持ちが一番強かった時期なのかも知れないとも思っている。
大学時代は、逆に明るい時代だったと思っているが、明るいだけで、それに似合う「実績」は残っていない。完全に、
――空洞の時代――
だったのだ。
その証拠に、大学時代にたくさん友達は作ったが、卒業してから連絡を取り合っている人はほとんどいなかった。
最初の頃にいるにはいたが、お互いに仕事を覚えなければいけないという思いが強く、どうしても遠慮してしまっていた。本当は、話をしたいと思った時に連絡してきてくれない相手に不信感も抱いたりした。それは、お互いさまなのにである。
遠慮が自分本位の考えからしか生まれないということに気が付いた時、俊治は学生時代のことは頭の中から消すように心掛けた。
――そういう意味では、早めに学生ボケから開放されたのはよかった――
というべきであろうが、そのために負ってしまったリスクが大きかったことを、俊治には分からなかった。その思いが仕事に慣れてからというもの、毎日をただやり過ごす生活になってしまったことに気が付かなかった。
要するに、
――楽な道を選んでしまった――
ということである。
幹江は、俊治のことを誰よりも分かっていた。
「俺が何を考えているのか、いつも分かっているようだな」
というと、
「ええ、分かるわよ。俊治って分かりやすいもんね」
と言って笑っていた。
分かりやすいという表現は、友達の間でもされたことがあった。ただ、それは行動パターンというわけではなく、女性の好みに対してだった。
「お前は、俺たちがあまり意識しないような女の子が好きなようだからな。反対のことを言えば、たいてい当たるさ」
と言われた。さらに、
「お前と女の取り合いだけはしなくて済む」
と言われたことで、俊治は自分が初めて、
――皆と女性の好みが違うんだ――
ということが分かった。
だから、高校時代に付き合っていた女の子の口から、
「同情で付き合っている」
などという言葉が出てきたのだ。この時に、彼女が言った意味がやっと分かったのである。
そのことを幹江は分かっていたようだ。
「俊治は正直だから、女性と付き合う時はよほど気を付けないとね」
と、高校時代に言われたことがあった。
「どうして?」
と、聞いても答えなかったが、その時に感じたのは、
――正直だったら、どうして気を付けなければいけないんだ? 正直に越したことないじゃないか――
と頭を傾げたが、すぐに、
――幹江のやつ、やきもち妬いてるのかな?
と思った。
今ならその思いが分かる気がする。
幹江は俊治の女性の好みを分かっているので、いずれ俊治が彼女にフラれるであろうことを察知していたのであろう。
しかし、露骨にフラれるとは言えないので、
「正直だから」
という言葉で、何とか悟らせようとしてくれたのだろうが、いい方にしか取らない俊治に、幹江の気持ちは通じなかったのだ。
それだけ俊治はその時、付き合っている彼女に自分が好かれていると思っていた。その裏返しに、
――君を好きになる男性は、僕くらいのものさ――
という思いがあったに違いない。
競争相手がいないことの気楽さと、誰からも好かれることのなかった彼女は、
――自分を好きになってくれる人がいれば、きっとその人に逆らう気持ちなどあるはずはない――
という気持ちであるに違いないと思いこんでいる俊治は、自分に都合よく考えることで、自分がまるで救世主になったような気がしていたことだろう。それは同情とは違っているのだろうが、もっと悪い考え方である。そのことを認めたくないという思いから、同情という言葉も否定しようとする。俊治は分かっていないつもりでも、本当は分かっていたのかも知れない。
幹江に対して抱いていたイメージを思い出した。
――しっかりしている中に、あどけなさを感じる――
というものだった。
そのイメージは、静香の中に感じられたものに似ていた。
静香には、あどけなさの方が表に出ているように感じたが、あどけなさという部分だけを取ってみると、本当によく似ているような気がしてきた。
俊治は静香を見ていて、加奈のことを思い出したと最初は思ったが、実際には、
――幹江のことを思い出したことで、加奈のことを思い出したのであって、後に思い出した方が表に出てきただけのことなのかも知れない――
と、感じていた。
加奈との別れはあっけなかった。
俊治は、必死になって加奈を繋ぎとめようとしていたのだが、
「私、今度結婚するの」
と、想像もしていなかったことを言われた。あまりにも唐突で想像もつかないことだったので、
――俺と別れたいがために、そんなウソまでつくのか?
と感じたが、実際に結婚相手を紹介されては、さすがに俊治も折れるしかなかった。
加奈はそれから三か月もしないうちに婚約し、あっという間に結婚という形で、俊治の前から去って行った。要するに、俊治は二股を掛けられていたのだ。
あっけにとられたことで、怒りも生まれなかった。
最初に怒りを感じなければ、途中から怒りを感じることはない。逆に、最初に怒りを感じたら、その怒りの気持ちが変わることはない。もし、怒りの内容が勘違いだったとすれば、その時俊治は、自分を責めることで、何とか気持ちを収めようとする。しかし、自分を責める謂れはないので、結局、
――ないものに対してあるかのごとく振る舞っている――
という状況に、堂々巡りの感情が繰り返され、感覚がマヒしてしまう状態に陥ると、後は、時間が解決してくれるしかないことにいつ気づくかということが問題になってくるのだ。
加奈が自分の前からいなくなったことで、俊治はそれまでの自分が何をしていたのか急に分からなくなっていた。加奈のことを忘れてしまっていたのも、その時に感じていた空洞感のようなものが影響しているのかも知れない。しかし、加奈と別れたからといって、すぐに幹江に靡くようなことはなかった。空洞があまりにも大きかったことで、その中に誰かを引きこむことを自分の中で拒んだのだ。
そのうちに、幹江との連絡も取らなくなっていった。
――あの時の空洞は、幹江とも連絡が取れなくなり、一人きりになった時のことを示唆していたのかも知れないな――
と感じるようになっていった。
ここまで思い出してくると、分からないことまで思い出されてきた。
――分からないことがなければ、記憶の奥に封印することもなかったのだろうか?
と思ったが、分からないことがなくても、きっと記憶の奥に封印していたように思えてきた。
しかし、同じ記憶の奥に封印したにしても、その場所は違っていたと思う。その場所がどれほどの遠さだったのか、今となっては分からないが、記憶を封印する場所がどれほどのものなのか、想像するのは難しかった。
幹江がそれからどうなったのか、噂にも聞いたわけではなかった。俊治にとっての二十五歳が、
――時間が止まってしまった――
と思うようになったのは、加奈にフラれたことよりも、幹江と連絡が取れなくなってしまったことで止まってしまったのだった。
二十五歳から三十歳までは、孤独である自分を、
――情けない――
と思っていた。
決して、孤独に納得していたわけではない。そのうちに自分に似合う女性が現れると真剣に思っていたのだ。加奈にフラれたショックは少し尾を引いていたが、それも、
――自分は悪くない――
という思いがあったことで、理不尽な思いが解けなかったからだった。
今でも、加奈との間のことは、
――仕方がなかったことだ――
と思うことで、自分を納得させてきた。
しいて言えば、
――相性の合わない人と付き合った自分が悪いんだ――
と言えなくないと思っていた。
――もし、加奈に出会うことがなかったとしたら、最初から幹江と付き合っていたのだろうか?
と考えてみたが、その答えはノーだった。
もし、加奈がいなかったら、幹江のことを意識することもなかったに違いないと思っている。幹江という女性は、誰かと比較しなければ、彼女の本当のイメージが湧いてこないのかも知れない。
幹江は、俊治にとって、
――影のような存在――
だったのかも知れない。
しかし、確実に存在していたのは確かで、忘れていたことが悪いのだ。しかし、忘れてしまうには、それなりに何か理由があったのではないだろうか。
俊治は、幹江と付き合った時期があったのは本当だった。
加奈と別れてからしばらくは、何をしたいのか、何をすればいいのか、見当もつかなかった。そんな時、そばにいたのは幹江だった。
幹江は慰めてくれたわけでも、叱咤激励してくれたわけでもない。ただそばにいただけだった。あまり存在感がなかったからなのか、幹江を抱いても、感情が籠っていなかったような気がした。
それは、加奈と付き合っていた時期が、あまりにも波乱万丈だったからなのかも知れない。
加奈とはいい意味でも悪い意味でも、喧嘩が絶えなかった。そういう意味では毎日が激しい戦場のようで、気が付けば疲れていた。それは、加奈のことをいつも考えているようで、実際には自分のことしか考えていなかったのだろう。喧嘩をするほど仲がいいなんて言葉、詭弁にしかなかったに違いない。
最初は波乱万丈で、起伏の激しい毎日だと思っていたが、よく考えてみると、単純な毎日でもあった。
――今日は、どんなことが起こるのかな?
と期待してみても、結局最後は、喧嘩して、自分が折れてしまうのだ。疲れを伴うだけで、自分にとってのメリットはどこにもない。
――昨日よりも今日、今日よりも明日――
と言えるような毎日ではない。ただ、その日を何とか終わらせることに終始していた。
そのことを分かっていたのは、加奈の方だったのかも知れない。喧嘩しながら、次第に苛立ちが激しくなる。そんな毎日にウンザリしていたのだろう。日に日に苛立ちが募ってきて、そのうちに収拾がつかなくなる。そんな加奈の気持ちをまったく知らない俊治は、加奈が考えているよりも、はるか後ろにいるのだった。
加奈も気が付けば自分だけが先の方に行っていて、俊治を置き去りにしていることに気付くと、自分が悪いのか、それともこの期に及んで、まだ自分の立場が分かっていない俊治に対して苛立っているのか、悔しい気分になっていたことだろう。
――どうして私だけが、こんなに気を病まなければいけないの?
と思い始めると、俊治を蔑んだ目で見るようになった。
――しょせん、この男も大したことはないわ――
ここまでくれば、もう修復はできない。
最初こそ、喧嘩だったものが、途中から一方的な蔑みにすぎなくなってしまう。完全に立場が固まってしまうと、そこから脱却することはできなくなった。
加奈も、ここまで雁字搦めに固めてしまうつもりなどなかったに違いないが、一度固まってしまうと、表に出すことはできない。
加奈は、自分の中で完全に俊治を見限った。後ろの方に置いてきた男が何を言おうとも、もう聞く耳を持たない。そこまで来て、初めて俊治は加奈の異変に気付いた。
――気付いたところで、もうあとの祭りだ――
俊治は、そのことに気付かない。
いずれは自分のところに戻ってくるなどという甘い考えを持っていたことで、
「俺は君がそばにいてくれるだけで、それだけでいいんだ」
と、言うことを口に出して言った。
俊治にしてみれば、まだまだ自分に未練があると思っているので、その言葉で、加奈は少しは考えてくれるだろうという考えだった。しかし、加奈にしてみれば、そんな言葉はすでに過去に想像しただけで、一瞬にして通り過ぎていた幻想だったのだ。
――何を今さら――
と、心の中で、舌打ちをしていたに違いない。
――しょせん、こんな男なんだ――
と思ってしまえば、ここから先は上から目線でしか見ることができなくなっていた。
俊治は自分の中にある男としてのプライドから、目線は当然上から目線であった。いくら口では下手に出るような言い方をしていても、出てくる態度は、上から目線であった。
相手も上から見下ろしているのだから、そこに接点などあるはずもない。結局、二人は行き違ってしまって、交わることはありえないのだ。
――磁石の同極が反発しあうのと同じだわ――
加奈は、そう感じたことだろう。
そして、きっとお互いに似たところが多いことで、付き合うことになったのだろうが、一旦すれ違ってしまうと、似たところがあるだけに、平行線となって、遠ざかることはなくとも、近づくこともない。そんな関係は友達としてならいいのかも知れないが、男女の間に成立するものではない。さっさと別れるしかないのだ。加奈は理解していたのだろうが、俊治に理解できるはずもなかった。
――似ているところが多いから、すぐに修復できるだろう――
と思っていた。似たところがあることで、お互いにいいところも悪いところも丸見えになることが、どれほどの諸刃の剣なのか、俊治には分かっていなかったのだ。
だから喧嘩が絶えなかった。お互いの主張が重なって、それが微妙にずれている。
何がいけなかったのかというと、
――お互いに相手の考えていることが分かるくせに、妥協を許さなかった――
というのが、一番だったのかも知れない。
そのことを心の奥では意識しながら、
――妥協を許さない――
という思いが強いと、相手のことが分かるだけに、ずるいところがどうしても見えてくる。そこへ持ってきて、妥協が許せないのだから、始末に負えないのだろう。
喧嘩でも、言葉は自然と露骨になってくる。
――こういえば、相手の感情を逆撫でするんだろうな――
と思うことでも、敢えて口にしてしまう。
相手が、顔を真っ赤にして怒りだし、次第に顔が真っ青になってきたりしているのを見ると、
――してやったりだ――
とまで思えてくる。
自分も相手の言葉に対し、自分の中の逆鱗に触れたことで、怒りに震えているのだから、相手にもダメージを与えないと自分が情けなくなる。完全にジャブの打ち合いで、いつ、どちらかが倒れるかを気にしているだけだった。
それでも、お互いに倒れることはない。
攻撃をしているうちに、防御も分かってくる。
――自分を守らなければいけない――
と思うと、今度は攻撃の手が緩んでくる。つまりは、最初に相手に対し、立ち直れないだけのダメージを与えない限り、最後は痛み分けにしかならないということだった。
それが、付き合っている者同士の喧嘩なのかも知れない。
俊治は加奈と別れてから、
――二人が別れるきっかけになったのは、喧嘩ばかりしていたからじゃないのかも知れない――
と感じるようになった。
確かに喧嘩ばかりしていて、
――疲れた――
というのは、本音であろう。しかし、それだけで別れを決めるほど、喧嘩の内容がくだらないことではなかった。喧嘩をするには、それなりの理由があり、最後は痛み分けになったとしても、相手のことが分かるだけに、仲直りをすぐに考えられるほど、切り替えができていたのだ。
ただ、相手のことが分かるというのは、心底からの考え方ではなかった。どちらかというと、
――相手の行動パターンから、何を考えているかが分かる――
という程度のもので、相手に対しての恒久的な考えが分かるわけではなく、どちらかというと流動的で、その時々のことしか分かっていないので、表面上しか見えていないのかも知れない。
付き合っていた期間は、一年くらいのものだっただろうか。最初に二か月ほどは喧嘩をすることはなかったが、それから後は、ほとんど喧嘩が絶えない毎日だったような気がする。
――よくも、こんなにも毎日喧嘩するネタがあるな――
と俊治は感じていたが、きっと加奈も同じ思いだったに違いない。
喧嘩をして、どちらから歩み寄っていたのかといえば、最初の方は、加奈の方だった。俊治の方としては、
――こんなに喧嘩になるんだったら、別れてもいいや――
と思っているところに、加奈が謝罪してくる。
――可愛いところがあるじゃないか――
という思いから、次第に加奈のことを好きになってくる自分が分かってくる。少々の喧嘩くらいは、仕方がないと思うようになってきたのだ。
しかし、途中から加奈は謝りを入れてこなくなった。それまで分かっていると思っていた加奈のことが、今度は分からなくなった。これが加奈のことを分かるのが遅れた理由だったのだ。
しかし、一旦好きになってしまった相手を嫌いになるのは、好きになることよりも難しい。それを分かってきたことで、俊治は加奈から離れられなくなった自分に初めて気が付き、まるでクモの巣に引っかかってしまった蝶のように、もがけばもがくほど抜けられないという地獄を味わうことになることを悟った。それが、別れに直面した時に、どうしていいのか分からなくなる感情だったのだ。
意地になっていたという感情もあった。意地になっている時は自分でも分かるもので、意地になっているからこそ、意地から抜けられなくなってしまう。それは、
――意地を通すことが、自分の存在意義でもある――
という、特殊な感情があったからに違いない。
しかし、意地を通そうとするということは、それだけ自分が他の人と交わりを持っていないという証拠であり、心を割って話のできる人がいないということであったからだ。
だが、それが勘違いであったことを教えてくれたのが、幹江だった。
もう一人の好きになった相手、それが幹江だった。
しかし、幹江に対しては、加奈に対しての感情とは少し違っていて、加奈に対してが表の感情であったのであれば、幹江に対しては影のような感情だったと言えるだろう。
幹江と会う回数は、加奈と会う回数に比べれば、かなり少なかった。
加奈と俊治が付き合っているというのは、自他ともに認める事実であり、幹江に対しての感情は、付き合っている相手としての感情とは違うものだった。
――幹江にたいしては、姉さんのようなイメージになるのかな?
幹江との付き合いは、表から見ると、俊治の方がお兄さんで、幹江の方が妹のように見えるだろう。実際に、幹江も俊治に対して慕っているかのようだったからだ。
だが、実際に慕っていたのは俊治の方で、相談事が多いのも俊治の方だった。
幹江は、そんな物事を判断するのが得意な方ではなかったようだが、こと俊治のことに対してだけは、絶対の自信があったようだ。俊治に対して自信があったからこそ、他のことに関してはそれほど自信がなかったのかも知れない。
――俊治のことが万事に適用するというわけではない――
ということであろう。
そのことを幹江も最初は分からなかった。
――俊治のことはほとんどのことが分かるのに、どうして他の人のことになると、分からないんだろう?
と悩んだりもした。
しかし、人には一人くらい俊治を相手にするように、一人はよく分かる人がいても不思議ではないのだろう。幹江にとってそれが俊治だったというだけで、別に深く考えるようなことではないはずだ。
それが分かってくると、今度は逆に俊治に対して凝りを保つようになった。下手にべったりとくっついてしまうと、本当に他の人のことが分からなくなるからだ。
当の俊治はそんなことは分からない。まさか、幹江がそんなことを考えているなんて分からないので、恋愛感情が表に出てこなかったのは、そのせいであろう。それでも、自分の考えていることはすべて幹江には分かっていると思うと、慕いたいという気持ちは、さらに増してくるのだった。
幹江は、俊治との距離を保っていることで、
――自分は次第に控えめな立場になるのが、一番いいことだ――
と思うようになっていった。
俊治の前だけではなく、他の人の前でも幹江は控えめな態度を取るようになっていた。
そんな幹江を見ていて、俊治が感じたのは、
――姉のようだ――
と思うことだった。
だが、それは底の方で考えていることであって、表向きは幹江を妹のように思っているという感情もあった。そのせいで表向きにも、表面上の感情も、妹のように思っていた。そんな関係が、俊治と幹江の間では一番いい関係だったのだ。
中学時代に知り合った時の幹江は、本当に暗いタイプの女の子だった。集合写真でも、いつもどこにいるか分からないような女の子である。逆に俊治は、目立ちたがり屋で、必ず中央近くにいようとしていた。ただ、それが空回りになっているということを本人は分かっていない。そんな俊治を冷めた目で見ていた同級生も結構いただろう。
しかし、幹江は冷静には見ていたが、決して冷めた目で見ていたわけではなかった。どちらかというと、慰めの目で見ていた感覚である。
慰めの目は決して憐みの目ではなかった。憐みの目ができるほど、幹江は自分に自信があるわけではない。
それでは、もし幹江が自分に自信があったらどうだっただろう?
きっと他の人たちのように、冷めた目で見ていたかも知れない。幹江は他の人たちと違って自分をわきまえていた。
――自分に自信もないくせに、人に対して冷めた目で見るなんて、そんなおこがましいことができるはずはない――
と思っていたのだ。
逆に、自分に自信を持てているはずがないと思える人が、俊治を冷めた目で見ている人がいれば、そんな人に対して、露骨に冷ややかな目をしたかも知れない。自分と同じように自信を持てない人は見ていて分かる。そんな人が、人のことを蔑もなど、信じられないことだった。
――どんな心境になれば、そんなことができるのかしら?
と、半分呆れかえっていた。
俊治を見ていると、時々苛立ちを感じることがあった。自分に自信がない幹江にとってこの感情は信じられないものだった。
――何? この感情は――
苛立ちは、俊治が身の程を知らないのが分かっていて、それを自分が指摘できないことにもあった。そしていつの間にか俊治が、
――彼は自分のことを分かっているのではないか――
と思うようになっていた。
身の程知らずに見えているが、本当は分かっていて、しかも、分かっていることに対して、自分でどうすることもできないことに自分の中で苛立ちを覚えている。それを見ていて、幹江も苛立ちを覚えるのだった。
俊治は幹江が自分のことを見つめていることに次第に気付くようになった。どちらかというと鈍感な俊治は、幹江のことを分かっていなかったのだ。
そのうちに、
――彼女の視線、あれは何なんだろう?
鋭い視線を感じたが、腹を立てているように見える。自分が一体何をしたのか、心当たりのない俊治だった。
心当たりなどあるはずはない。俊治は彼女に何かをしたわけではなく、俊治の態度に苛立ちを覚えているだけなのだ。もちろん、そんなことを俊治が悟れるわけもなく、俊治はしばらく、
――不思議な視線――
に晒されることを余儀なくされた。
しかし、次第にその視線が心地よく感じられるようになった。鋭い視線ではあるが、グサっと来るような痛さではない。チクチクくるような痛みであって、くすぐったさを感じさせるような視線に、心地よさを感じたのだ。
俊治が自分の視線に気付いたことが分かると、幹江は次第に恥かしくなった。今度は、幹江が俊治の視線を感じる番だった。
――私がこんなに恥かしがり屋だったなんて――
感じたことのない視線は、実は幹江の視線に感じた俊治の感情に似ていた。くすぐったいような心地よさに包まれる幹江は、次第に気持ちよさを感じるようになった。
幹江にはM性のあることを俊治は次第に感じるようになったが、幹江は自分にM性があることを、俊治の視線で感じたのだ。
恥かしがり屋だという感情から気が付いたのだが、それがどのようなものなのか、幹江にはよく分からなかった。ただ、Mな感覚が悪いことではないというのは、以前から分かっていた気がした。
それは、幹江の小学生時代の嫌な思い出があったからだ。
幹江は嫌な思い出だとずっと思っていたこと。それは、近所のお兄さんとの、
――秘密の遊戯――
があったからだ。
「絶対、誰にも言うなよ」
と言われて、
「うん、言わない」
こんなこと、誰にも言えるはずなどないと思っていた。
屈辱的な経験をしたこともあった。いくら小学生と言っても、異常体験には変わりない。
近所にあった空き家に連れ込まれて、裸にされたり、おしっこするところを見られたり、屈辱的な体験だった。
「恥かしい」
この言葉を、お兄さんは一番喜んでくれた。
期間としては、一か月ほどの短い間だけだったが、
――こんなことが永遠に続くんだろうか?
と思えた矢先、急にお兄さんは親の都合で引っ越すことになった。
「じゃあな」
と、お兄さんは別れることに何ら感情を浮かべていない。
――寂しいって感情がないのかしら?
悪戯されていた幹江の方が、寂しさを感じていた。永遠に続くと思われた屈辱的なことが終わりを告げたのだから喜ばしいことのはずなのに、幹江には、寂しさの方が優先されたのである。
――どうして、私は寂しいって思うのかしら?
その思いは、幹江の中でトラウマとして残っていた。
もちろん、俊治に幹江のそんな感情など分かるはずもない。幹江の中にM性を感じながら、それがどこから来るものなのか、分からなった。
分かろうという思いもなかったようだ。別に知ったところで、それがどうなるというものではない。却って知ってはいけないことのように思えたからだ。
――知ってしまっては、相手に対しての感情が変わってしまう恐れがある――
という思いもあった。
――知らぬが仏という言葉もあるではないか――
と感じた。
相手のことを知りたいと思う感情は悪いことではないが、人にはそれぞれ知られたくない一面というのがあってしかるべきだということを、俊治はおぼろげに感じるようになっていた。
ハッキリとした確証があるわけではないが、人の気持ちに入りすぎるのは危険だということを感じるようになっていた。
それなのに、加奈と付き合っている時は、その思いを感じる暇がなかった。それほど喧嘩ばかりしていたということでもあるのだが、それ以上に、喧嘩することで、余計に相手のことが気になってしまい、抜けられなくなってしまったというところがあった。きっと、知らず知らずに相手の気持ちに入り込んでしまっていたからだろう。
そのことも最初は分からなかったが、分かった時にはすでに遅く、別れるしかなくなっていたというのが真実だったのかも知れない。
幹江とは今までに付き合ったという感情はなかった。それなのに、
――一番気持ちが通じていた相手だ――
と感じたのはなぜだろう?
幹江に姉のような感情を持っていたのは、
――幹江には、心の奥を覗いても構わないと思えるところを見ることができない――
という感情であった。
相手には知られたくない部分があり、そこを見ようとはしなかったが、それ以外のところは見てもいいと思い、見てみようと試みることはあった。しかし、幹江に関しては、知られたくない部分だと思って見ていたにも関わらず、中に入りこむと、まるで入り込まれるのを待っていたかのように、包み込もうとするものがあった。
――しまった。罠かも知れない――
戻ろうとしても、戻ってくることができない。しかし、入り込んでしまった感情を感じることはできた。
――自分の身体から離れた感情がもう一つ別の場所で存在している――
というおかしな感情が生まれたのだ。
――その感情は、いまだに幹江の中で生きている気がする――
五十歳になった俊治は、そう感じていた。
もう一つの感情が存在していて、その気持ちが他で確かに生きているというのは、幹江に対してだけだった。
俊治は、その感情が遠くなったり近づいたりしていたことに気が付いていた。それを、
――二人の気持ちの距離と比例しているんだ――
と感じていた。
二人の距離は、幹江の存在を感じている間、遠くなったりも近づいたりもしていた思いはない。加奈と付き合っている間であっても、俊治は幹江との距離が近づいたり遠ざかったりした感覚はなかった。加奈と別れることになって、幹江を恋しく感じるようになった時でも、この気持ちが感じている距離が変わることはなかった。
――だからこそ、幹江を求めることができたんだ――
と感じた。
幹江のことは、ずっと好きだった。
――愛している――
という感情とは少し違っていたように思う。
オンナとして見ていなかったわけではないが、セックスしたいほど相手を求めたわけではない。
いや、別の意味で求めていた。身体や精神などという言葉で表すことのないものが、幹江との間に存在していたように思う。
――男女の間で、気持ちと身体以外に何があるというんだ?
俊治はそう思っていたが、
――じゃあ、男女の関係ではなかったのかも知れないな――
好きだという感情が、恋愛感情とは少し違っていたことは分かっていた。
――では、何だっていうんだ?
と思うようになった。
男女の関係という言葉で表してしまうと、それ以上でもそれ以下でもないことを公言しているように思えてならない。
恋愛の行きつく先があるのだとすれば、さらにそれ以上を求めることはできない。求めるのであれば、
――別れを意識しないわけにはいかなくなるんじゃないか?
と感じていたのは、俊治だけではなく、幹江の方もそうだった。
だが、幹江の方は、俊治よりも、さらに冷静に見ていた。
――別れも仕方がない――
と思っていたのだ。
俊治は幹江が自分の前からいなくなることを考えたこともなかったが、幹江にしてみれば、俊治が自分の前からいなくなることを感じていた。そこが、
――冷静になれるかなれないかの違い――
だったのだ。
俊治と幹江の別れは、意外と簡単だった。
あれだけ、
――幹江が自分の前からいなくなることは考えられない――
と思っていたくせに、実際に自分の前からいなくなった幹江に対し、口惜しさはなかった。
幹江がいなくなったというのは、
「私、今度結婚することにしたの」
という今までなら信じられないことを言われた時だった。
「えっ?」
確かに目の前が真っ暗になった。まったく予想もしていないことだったからである。しかし、悔しそうな表情を幹江の前でしてはいけないことは分かっていたように思う。何とか平静を装ったが、その時に何を話したのかなど、覚えているはずもない。
平静を装ったというのは、本当は自分の中だけでに感情であり、実際にはそのまま気絶していたということである。
「まさか、俺が?」
「ええ、そう」
話を聞かされた店の奥にあるソファーで目を覚ました。一時間ほど気絶していたようだ。
「救急車呼びましょうか?」
と言ってくれた店の人のことを制して、
「いえ、大丈夫です。ちょっと疲れていたんでしょうね。すぐに目を覚ますでしょうから、すみませんが、目が覚めるまで、このままにしてあげてください」
と、幹江が話したようだ。
「冷静な彼女さんですね」
と、後でマスターに言われたが、気絶したことの情けなさが頭の中で、今度は自分を冷静に持っていくことに繋がったというのは皮肉なことだった。
――気絶したことだけで、冷静になれたわけではないが――
冷静になれたのは、初めて自分の中で「孤独」という言葉を意識できたからなのかも知れない。
「孤独」という言葉、それまでにも何度も意識はしていた。しかし実際に自分に降りかかってきたのは、その時が初めてだった。ある意味、覚悟はできていたのだ。
実際に孤独を感じてみると、
――まんざらでもない――
と思うようになった。
以前の俊治なら、自分の好きな相手が結婚するなどと言われたら、
――きっと取り乱して、情けない態度を取るに違いない――
と思っていた。
それは、未練からではない。
――このまま、黙っておくのは後になって自分の後悔に繋がる――
と思ったからである。
――少しでも抵抗しなければ、自分を許せなくなる――
という思いから、取り乱すのだろうが、一度取り乱してしまうと、今度は、客観的に見ている自分の目が、可哀そうに見えてしまうのだ。
――自分のことを自分で可哀そうに思う――
この感情は、主人公の自分としては、今の気持ちに正直に生きるしかなくなってしまうのだった。それが、俊治の本当の気持ちだからである。
幹江の結婚は、冷静になって自分を考えることができた初めてのことだったかも知れない。しかし、逆に、
――自分に対して正直に生きる――
ということを考えるきっかけになった最初の時だった。
そのせいもあってか、俊治は二重人格になってしまった。
相手を冷静に見なければいけないと思う自分と、自分の気持ちに正直にならなければならないと思う自分。
ただ、基本的にはその二つが同じものを目指してさえいれば、それでいいだけのことだった。双方が相容れないというわけではなく、
――自分に正直になった結果、相手を冷静に見れるようになった――
ということもあれば、
――相手を冷静に見ることができたので、自分に正直になれたことに気がついた――
ということでもある。
しかし、そう考えてみると、最初に相手を冷静に見ることができなければ、自分は正直になれないように感じるが、実際は逆である。
――気が付いた――
ということは、自分に正直になることができなければ、冷静に見ることはできないことになるのではないか。
――気が付くということと、結果に繋がることは別なんだ――
と思うようになった。
相手を冷静に見ることの方が難しい。まずは自分の中を解決させなければならないからだ。
ただ、俊治は幹江の結婚式に顔を出すことはなかった。幹江は俊治に結婚式の招待状を送ってこなかった。それはもちろん、幹江の気持ちからだったが、まさに幹江は俊治にとって、
――影のような存在――
だったことを、最後の最後に示したようだったからだ。
幹江の結婚式の日、俊治は一人で呑んだ。自分の部屋ででもなく、居酒屋でもない。当てもなく出歩いて、見つけた一軒のバーだった。
中に入ると一人の客がいるだけで、カウンターの中にいるマスターと話をしていただけだ。
―――一人になりたいのに――
と思ったが、一度扉を開けたのに、そのまま踵を返すのは失礼に思えた。
――こんな時に、何を普段から使いもしない気を遣ったりしたんだ?
と、思わず苦笑いしたが、こんな時だからこそ、取った行動だったのかも知れない。
一人の客は女性客、背中を丸めて、俊治が入ってきても、後ろを振り向こうともせずに、カウンターの手前で一人で呑んでいた。
「いらっしゃい」
マスターも声を掛けてはくれたが、こちらを振り向こうとはしない。一瞬あっけにとられた俊治だったが、そのままカウンターの奥に腰を下ろした。
――どうせ、もう来ることもない店だ――
と思いながらカウンターに腰かける。
「何があるのかな?」
バーに来ることもない俊治だったので、メニューを貰っても、よく分からない。とりあえず、名前を聞いたことがあったソルティードッグと、食事を軽く注文した。砂ずりをスライスにした土瓶蒸しがあるようなので、それをいただくことにした。オイルソースにソルティードッグが似合うような気がしたのだ。
その日、一人で呑んでいる客が男女一人ずつ。結局お互いに何も話すことはなかった。それどころか、マスターも一言も何も言わない。不思議な時間だけが過ぎていき、俊治の中に残ったのは、オイルソースの味だけだった。
だが、この日、思っていたよりも時間があっという間に過ぎていた。最初の十分は、相当に時間が掛かった。時計をすぐに確認し、
――三十分は経ったような気がしたのに、まだ三分しか経っていない――
と感じたほどだ。
しかし、十分を過ぎた頃から、急に時間を気にしなくなった。それは、カウンターの奥から香ばしい香りがしてきたからだ。それがオイルソースの香りであることはすぐに分かった。
すると、お腹が反応した。
――ショックな時でも胃袋には反応するんだな――
と、思わず苦笑いをしたが、考えてみれば、ショックな時ほど反応しやすいのかも知れない。神経はほとんどが、堂々巡りしか繰り返さない頭に行っている。胃袋の感覚はマヒしていた。ただ、少々の匂いでは、胃袋は反応しなかったに違いない。それだけオイルソースの匂いは、俊治にとって神経を感じさせるに十分な香りだったに違いない。
その時に、
――相手を冷静に見ることと、自分に正直に生きるにはどうしたらいいのだろうか?
ということを、頭の中は考えていたようだ。
別にショックで何も考えていないわけではない。結婚式に行かなかったことで、冷静に考えることができる。それが自分に正直に生きることに繋がるのかどうかすぐには分からなかったが、少なくとも余計なことを考えなくてもいいことには繋がるようだった。
しかし、一つだけ後悔が残った。それは、
――幹江のイメージが頭の中に残ってしまった――
ということだ。
イメージが残ってしまってから、頭の中では割り切ったつもりでいたが、寝ても冷めても頭の中は幹江のことばかりだった。そんな毎日を過ごしているうちに、
――俺は一体何をしているんだろう?
と思うようになった。
それまでの人生が何だったのか分からなくなる。幹江だけのことが頭に残ってしまったからだ。好きだった加奈のイメージは払拭され、何を目指して頑張ってきたのかが分からなくなってきた。
元々から、別に何になりたいなどという思いがあったわけではなかったが、中学高校時代に少し描いていた絵を、そのうちにまたできるようになれればいいというくらいのものだった。
受験勉強に疲れて始めた絵を描くことだった。大げさにキャンバスに描くというわけではないただのデッサンだったが、それでも気分転換には十分になった。ちょうどその頃に一緒にいてくれたのが幹江だった。
「俊治はなかなか絵の素質あるんじゃないの?」
と、茶化したように言われて、それでもまんざらでもないと思いながらも
「そんなことはないさ。ただ時間潰しにやっているだけだ」
受験勉強の合間に、逃げの気持ちで始めたのだが、そんなことは口が裂けても言えなかった。こんな風にありきたりのことを平気で言える時というのは、ウソをついている時なのだということを、その時初めて知った。
そういう意味で考えれば、
――どんなにウソが世の中に蔓延していることだろう――
と思えてきた。
本音と建て前が平気で横行している世の中であったが、俊治は次第にそれも悪くないことだと思うようになった。
最初から何も分かっていないのではなく、分かった上で納得し、それで悪くないと思うのであれば、それが自分にとっての真実であり、そう思いこむことが自分の信念に繋がるのだと思うようになっていったのだ。
絵を描いていると、自分が今まで見ていたことが、大きく感じられた。絵を描いているということは、画用紙の中に収めようとしていることで、どうしてもバランスと遠近感だけにこだわってしまう。
――バランスと遠近感が、絵を描くことでは一番大切なんだ――
ということを悟ってはいたが、それは絵の中だけで解釈することで、現実社会に決して結びつけてはいけないと思っていた。
だが、それは間違いだった。
――絵というのを、自分が見ている世界の縮図だ――
と考えさえすれば、バランスも遠近感も悪いことではない。むしろ、そのことを知らない方がまずいのだ。
――知ってこその自分の人生――
と思うようになったが、それだけではない。
――知らないということを自覚していなければ、知っていることだけを見つめても、それは中途半端でしかない――
まるで鏡を見ずに、自分の姿を解釈しようとしているにすぎないと思うようになっていた。
鏡はすべての反対を映し出すのだが、寸分狂わずの正反対を映し出すのだ。だから、反対という意味では、すべてが正対なのかも知れない。そう思うと、絵を描いている時に、思わず描いている自分を思い浮かべるというのもおかしなことではない。
絵を描くことによって俊治は、自分が何をしたいのかということが、おぼろげであるが分かってきたような気がした。
まず、絵を描くことで精神的に余裕が生まれたような気がしてきた。そんな気持ちをしばらく忘れていた。それは、受験にも成功し、友達もできたことで、絵を描くことの意義が一番ではなくなってしまったからだ。
あくまでも絵を描くことは、趣味であった。その時々で楽しいことは少しずつ変化していくが、趣味によって得られる満足感は不変なものだった。だから、他のことで満足感が得られれば、絵を描く必要はなくなってくる。趣味が自分の影であるような気がしてくるだけだった。
幹江に感じた、
――影のような存在――
とは、少しイメージが違っているようだが、自分にとって同じ影のような存在であると思っていることで、
――幹江への気持ちも不変なものであってしかるべき――
だと思うようになっていた。
そして、幹江に対しては自分の気持ちを前向きにする存在であると、感じさせる相手なのを自覚していた。
――幹江にだって、分かっているはずのことだ――
と考えるようになった。
俊治は、最初、加奈と別れてから、かなりのショックがあった。それはトラウマとなって残るほどで、さらに幹江から、
「私結婚するの」
と言われて、ショックに追い打ちを掛けられ、
――とどめを刺された――
と、感じるほどだったのだ。
それでも、幹江との別れがトラウマとなって残ることはなかった。心の奥で、
――幹江はいずれ帰ってくる――
というあり得ない妄想を抱くようになった。
――結婚する相手を祝福するどころか、自分のところに戻ってくる妄想を抱くなんて――
と、自己嫌悪に陥る気持ちになったが、実は、その頃から自分が、
――孤独なんて、そんなに怖いことではない。まんざらでもないさ――
と思うようになっていたことに気が付いた。その理由としては、
――開き直りさえできてしまえば、人間しょせんは一人なんだ。一人で生きていけるようにできているんだ――
テレビドラマなどでは、
「人間は一人では生きていけない」
というテーマの話が結構多いような気がする。それは、視聴率を稼ぐドラマを作るための発想には欠かせないものだからだ。孤独をテーマにしてしまうと、どうしても暗くなってしまう。それでは、視聴率を稼ぐどころか、すべてが暗くなってしまう。もっとも、ホラーなどのように、最初から暗いイメージの話であれば別である。しかし、それも、
――元々明るい人間が陥る世界が孤独である――
という、落差を強調したイメージが、ドラマを影から演出することで成り立っているだけで、決してメインテーマではない。やはり、孤独というものは影であり、表に出てくるものではない。
俊治は、今まで描いてきた絵を見なおしてみたが、
――何て暗い絵なんだ――
と、それまで描いていた絵に対しての、自分の見方が変わってしまったことに驚いていた。
自分の描いた作品が、描いた時と後で見た時とで精神状態が違えば、まったく違ったものに見えてくることもある。
――本当に正反対なのかも知れないな――
そういえば、さっちゃー錯視という言葉を聞いたことがあった。
「上から見た時と、下から見た時で、まったく違う印象を与える絵があるが、それをサッチャー錯視というらしいぞ」
と言って、ラクダのような絵を見せてくれた先輩がいた。前から上下でまったく違って見える絵があるのを知っていたが、それを改まって言われると、新しい発見があるような気がした。
俊治は、その言葉そのものよりも、改めて何かを言われることで、それまで思っていた発想が変わってくるのを感じたからだ。
――「孤独」という言葉が、それに当て嵌まるのかも知れないな――
と感じるようになっていた。
俊治は、本当は静香が読んでいるようなSFや奇妙な話に興味があった。しかし、絵を描いている時に感じることは、奇妙な話を彷彿させるようなものだったりする。現実と空想の世界の境目を感じることができなくなってしまうことを恐れていたのかも知れない。特に孤独というものを感じてからずっと妄想ばかりしてきたことで、次第にネットの世界を知ることになると、
「得てして、現実とバーチャルの区別がつかなくなることがあるらしい」
という話を聞いて、
――俺はそんなことはない――
と思っていたくせに、気が付けば、バーチャルな世界に入りこんだ時があった。
静香を自分の部屋に住まわせることに抵抗がなかったのも、どこからどこまでが現実なのか、自分でも分からなくなっていたからだろう。
――自覚しているという自覚が錯覚であったら?
と、まるで禅問答のように頭の中で繰り返すことがあった。それこそ、
――バーチャルと現実の区別がつかなくなっている――
ということなのかも知れない……。
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