タイムアップ・リベンジ
森本 晃次
第1話 雨の中の少女
木村俊治が、静香という女性に出会った時、雨が降っていたのは確かだった。
それほど強い雨ではなかったが、しとしとと降る雨が、無性に寂しさを誘う時があるのをその頃に初めて知ったような気がした。雨の中を歩くのを好きな人は、そうはいないと思うが、俊治もそれが土砂降りであっても、しとしとと降る雨であっても、精神的にはあまり変わらないと思っていた。
――毎日を何も考えず、ただ無為に過ごす――
そんな言葉が一番適切だった時期。つい最近のことであっても、ほとんど覚えていることもなく、覚えていることでも、
――どっちが最近のことなんだろう?
と思うほど、意識して覚えているわけではなく、ただ忘れていないというだけのことだったのだ。
だが、静香と出会ったその日、降っていた雨が土砂降りでなかったことを、俊治はよかったと思っている。理由はすぐには分からなかったが、後から考えて、
――思い出したくないことを思い出さずに済んだ――
と思ったからだ。
だが、ひょっとしてその時に思い出したくないことを思い出していれば、それから後の俊治の人生はまったく違っていたことだろう。もちろん、そんなことをその時の俊治に分かるわけもなかった……。
「おじさん、私、どこに行っていいのか分からないの」
「えっ?」
何をおかしなことを言っているのだろうか。しとしととしか雨が降っていないわりに、彼女の身体はびしょ濡れだった。髪の毛は完全に濡れそぼっていて、まるで柳の枝のようにしな垂れていた。うつむき加減な状態では、しな垂れた髪の毛が邪魔をして、表情を拝むことができない。
だが、身体全体が濡れているので、相当寒いのだろう。身体は小刻みに震えていた。少なくとも、このまま放っておける状態ではなかったのである。
彼女がどこの誰であるか、そんなことはどうでもよかった。
――どうせ自分だって、まわりから見れば、どこの誰か分からないような人間なんだからな――
と感じたからだ。
俊治は、自分を客観的に見ることができる人間だと思っていた。というよりも、何でも他人事にしか見えてこないと言った方が正解かも知れない。客観的に見えるなどという表現は、「方便」でしかないのだ。
――いつ頃からこんな風になってしまったんだろう?
そんな風に感じていた頃もあった。しかし、それも次第に感じることもなくなってくると、何かを考えているようで、実は何も考えていないような気になってくるのだった。
最初は、
――考えれば考えるほど、悪い方にしか考えられない――
という思いが強かった。それを悪いことだと言って戒めてくれる人もおらず、、一人で考えていたのだが、気が付けば、あまり余計なことを気にしなくなっていた。
そうすると、気持ちがスーッとするのだ。
――余計なことを考えなくなったおかげで、悪い方にも考えないようになってきた――
と思うことで、今まで背負ってきた重荷を下ろすことができたような気がしていた。
そのことが、自分の感覚をマヒさせ、すべてを他人事のようにしか見ることができない人間にしてしまったことを、分かっていなかった。
実は、四十五歳になったその時でもまったく分かっていなかった。ただ、気が楽になったことだけがすべてであり、良くも悪くも、自分にはそれしかなかったのである。
俊治は、余計なことを考えないようになったことが、自分の感覚をマヒさせてしまったことを知らないわけではなかった。ただ、それを「逃げ」だとは思いたくなかった。あくまでも、自分の中で考えて、そして得た結論だと思いたいのだ。
それがいいことなのか悪いことなのか分からない。ただ、その答えが出るのはいつのことになるのだろう?
――十年後だろうか、一年後だろうか、明日かも知れない。いや、ひょっとすると答えは出ていて、そのことに気付いていないだけなのかも知れない。しかも、気付いていないのは自分だけで、まわりから見ている人には、答えが見えているのではないだろうか?
感覚がマヒしているくせに、こういうことを考え始めると、元からの悪いくせで、考えは留まるところを知らない。それは、きっと考えていることを自分のことではなく、あくまでも他人事だとして考えているからではないだろうか。そう思うと、考えすぎるということが悪いわけではなく、それを自分のことだと思ってしまうから、余計なことを考えてしまうのだろう。だから、俊治は感覚がマヒしていると思いながらも、他人事のように考えることを悪いことだとは思っていないのだ。
それもこれも、他人事として考えすぎるくらいに考えたことは、自分の中で納得できるからである。
俊治は彼女を自分の家に連れていった。一人暮らしなので、さほど広い部屋ではなく、しかも男やもめで殺風景だ。決して片付いているとは言えない部屋に、まさか女性を入れることになるなど想像もつかなかった。しかし、その日はなぜか、自分の部屋がさらに散らかっていたとしても、別に恥かしいなどという気持ちは起きなかったであろう。それは、感覚がマヒしているからだというわけでも、彼女がいう「行くところがない」相手だからだというわけでもなかった。彼女に関係のないところで、俊治にとって今日という日が人を招き入れるのに「ふさわしい」と思える日であるというだけのことだったのだ。
彼女は俊治の部屋に入る頃には、少し落ち着きを取り戻していた。相変わらず震えは止まっていなかったが、寒いのだから、それは仕方がないことだった。
男の一人暮らしなので、女性物の服があるはずもない。
「ごめん、こんなものしかないけど、着替えていいよ」
そう言って、俊治は着替えと、髪の毛を拭くための大きめのバスタオルを渡し、彼女に気を遣って、風呂場に入ろうとした。
「ここにいてください」
さっきまで一言も言葉を発しなかった彼女が初めて口にした言葉だった。
最初に「行くところがない」と言ってから、ずっと黙りこんでいた。この部屋に来るように促した時も、ただ頷いただけで、言葉は発しなかった。
最初に、彼女の声を聞いた時、
――前にも聞いたことがあるような声だ――
と感じたが、それから一言も発しなかったので、
――気のせいか――
と思ったが、部屋で初めて聞いた彼女の声は、明らかに最初に聞いた声とは違っていた。そういう意味で、気のせいだと思った感覚に間違いはなかったと言わざるおえないに違いない。
俊治は部屋に暖房を入れた。狭い部屋なので暖かくなるまでには、そんなに時間も掛からない。
「分かった。ここにいるから、着替えていいよ」
と言って、後ろを振り向いた。さすがにそれ以上何も言わなかった彼女は、俊治が後ろを振り向いた瞬間から着替え始めた。静かな部屋に衣擦れの音が聞こえてきたのが分かったからだ。
俊治に気を遣ってか、彼女の着替えは素早かった。
「もういいですよ」
いつのまに髪の毛を拭いたのか、着替えもきちんと終わっているだけではなく、髪の毛もさっきまであれだけずぶ濡れだったものが、綺麗に乾かされていた。
肩よりも長く、綺麗なストレートロングの黒髪は、俊治にとってドキッとさせられるほどだった。
実は、最初に彼女を見た時にも、ドキッとしていた。それは、髪の毛がしな垂れていたのを見たからで、言葉は悪いが、エロく見えたのだ。それが綺麗に乾かされた髪の毛を見ると、今度は、可愛らしさの中に大人っぽさを感じさせる髪型に、ドキッとさせられたのだ。
髪の毛を乾かした彼女の雰囲気をあらかじめ想像していた。
それは、
――大人っぽさの中に、可愛らしいあどけなさを見つけることができるのではないだろうか――
と思っていたが、実際にはその逆だった。
発音としてのニュアンスは似ているが、実際に感じてみると、まったく想像とは違っていた。その時点で、
――彼女は、捉えどころのない魅力を秘めているんだ――
と感じた。
捉えどころのない魅力とは、自分を納得させることができるかどうか分からないほど、彼女の魅力が未知数だということだ。俊治は、自分の発想が、すべて自分を納得させられるものだとは思っていなかったが、以前よりはかなり納得させられるものだと思うようになってきた。それは、感覚がマヒしていると感じるほど、他人事のように思うようになったからである。そういう意味でも、他人事のように思うことが悪いことだとは、正直思えなくなっていたのだ。
「せめて、名前だけでも教えてくれると嬉しいんだけどな」
俊治は、彼女に訊ねた。
「静香」
彼女は一言、そう言って、少し黙ってしまった。
「静香ちゃんか、いいお名前だね。僕は俊治。木村俊治と言います。よろしくね」
静香のその一言は、まるでひねり出すような言葉だった。名前を言うだけで、そこまで必死にならなければいけないのはなぜなのか、俊治には想像もつかなかった。
――でも、苗字は?
今、必要以上のことを聞いてはいけない気がした。
「お風呂、入れてくるから、ちょっと待っててね」
と、言って俊治が立ち上がった時、静香は何も言わなかった。ただ、静香に背中を向けて立ちあがった時、俊治の背中に熱いほどの視線を感じた。
――こんな鋭い視線を浴びるの久しぶりだな――
今までの俊治はずっと一人だったこともあって、人と会話することがあるとすれば、ほとんどが、会社で仕事をする時だけだったからだ。
だが、久しぶりだと思った瞬間、
――本当にそうだったのかな?
と感じた。
まるで昨日も同じような視線を感じたような気がしたからだ。しかも、その感覚は、一瞬感じただけではなく、まるで余韻のように頭の中に残っていたのだ。
――耳鳴りのように響いている――
耳が感じたわけではないのに、響きを感じる。それは、余韻という意識がそうさせるのだろうが、余韻が残っているということは、
――まるで昨日も感じたような気がする――
と感じたのも、まんざらではないような気がしていた。
風呂場から帰ってくると、彼女は最初に感じたよりもさらに小さくなっていた。それはかしこまっていたからだというわけではない、普通にしているのに、なぜか大きさを感じないのだ。
――背筋が曲がっているわけでもないのに――
と思って静香を見つめていると、またしても、静香の視線を感じた。
今度は正面からの視線なので、ハッキリと彼女の目力を感じる。
だが、先ほど背中に感じたほどの力を正面からの目力で感じることはできない。
――確かに静香は他の女の子に比べれば、目力は強いように思えるが、背中が感じるほどの鋭さではない。正面から見て感じることのできる、ただそれだけの力でしかないんだ――
と感じた。
――この娘は一体いくつなんだろう?
最初に感じたのは、二十五歳くらいではないかと思った。しかし、部屋に連れて帰って髪の毛を拭いて、着替えを終わってからこちらを見上げる表情から考えれば、もっと若く見える。
――まさか、未成年?
とも思えるくらいだった。
だが、自分も四十五歳を超えた立派なおじさんなのだ。若い女の子の年齢を簡単に言い当てられるほどではないだろう。
だが俊治は、
――俺の年齢は、二十五歳から動いていないんだ――
と思っていた。だから、彼女の年齢を分かるとすれば、同じ年齢の男性であれば、自分しかいないと思っている。
――ずっと一人暮らしをしてきて、余計なことを考えないようになると、悟りのようなものが出てくるのかも知れない――
と感じていた。
だが、今までの人生に後悔がないなどとは思っていない。後悔だらけというわけでもない。ただ、一つの後悔がずっと尾を引いているのは間違いないことだ。それは俊治にだけ限ったことではないだろう。
俊治は、どこの誰とも分からない静香を家に連れてきて、今ここで一緒にいることに対して、気持ちがマヒしていないことを感じていた。そう簡単に信じられるような出来事ではないが、自分を納得させられないことではないような気がしていた。
――自分を納得させるって、どういうことなのだろう?
俊治はそんなことを考えながら、その時、目の前の静香を見下ろしている自分を感じていた。
「静香ちゃんは、一体いくつなんだい?」
思い切って聞いてみた。
自分の年齢が二十五歳から動いていないと感じていながらも、実際の身体が進行していないとは思っていない。体力や見た目、そして体調などは、すべて今の四十五歳にふさわしいのではないかと感じているからだ。
四十五歳の目から見て、若い女の子の年齢など、想像するのは難しかった。もっとも、昔から女性の年齢を想像するのは苦手で、若い頃の方が、女性の年齢が分からなかったであろう。
特に年上の女性は分からなかった。三十歳を超えていると思っても、それが四十歳に近いのか、下手をすれば、四十後半でも分からないに違いない。
そんな俊治は、今さら若い女の子の年齢を想像することになるなど思ってもみなかったので、逆に想像してみるのも楽しかった。二十五歳から止まってしまった年齢は、俊治に「孤独」しか与えなかった。
だが、孤独が悪いことだけだとは思っていない。途中までは孤独がそのまま寂しさに繋がって、前を見ている限り、
――永遠に逃れることができないのが、孤独という「この世の地獄」なのだ――
とまで思っていた。
前が見えないことほど怖いものはない。
いや、怖いというよりも気持ち悪いと言った方が正解なのかも知れない。
俊治は、怖さよりも気持ち悪さの方に、恐怖を感じる。それは、
――前が見えない――
という感覚を思い浮かべた時に感じるものだった。
孤独は怖さよりも、気持ち悪いものである。それが逃れることのできないという気持ちから繋がっているのだ。
静香に年齢を訊ねてから答えが返ってくるまでのほんの短い間、それだけのことを考えていた。
少しだけ考える間があった静香は、聞き取れるにはギリギリの小さな声で呟いた。
「十八歳です」
一瞬、ビックリしたのか、ドキッとした感じだったが、すぐに落ち着いて、自分が考えていた最低ラインの年齢であることを知った。
別に十八歳だからどうだという問題ではない。自分が想像した年齢の間に入っているかどうかだけが、俊治にとっての問題だったのだ。
十八歳だと聞いて再度静香を見直してみた。
あどけなさは、確かに十八歳に違いない。だが、それ以外の部分で十八歳だと言われて納得できる部分はなかった。それでも、最初にドキッとしただけで、納得できた。つまりは、あどけなさだけで俊治を納得させられるだけの魅力が、そのまま静香の特徴になっていることを表しているのだろう。
俊治は、自分が十八歳の頃を思い出そうとした。
十八歳というと、高校三年生だった。受験勉強以外は頭にはなく、最初に何かを考えることに感情がマヒした時期だった。
――いや、今から思い出すだけでも、一番感覚がマヒしていたのは、あの時だったのかも知れない――
今も感覚がマヒしているとは思っているが、今とは比較にならないような気がする。言葉にすると同じ「感覚がマヒしている」ということになるのだろうが、実際には違う種類のものではないかと、俊治は感じていた。
高校時代の俊治は、受験しか頭になかったわけではない。受験勉強している自分の感覚がマヒしていたと感じたのは、受験勉強がすべてだと思っていたからで、今から思えば少し違ったように思う。
――受験勉強という建前を隠れ蓑にして、何かから逃げていたのかも知れない――
俊治はそんなことまで考えるようになっていた。
――一体何から逃れようとしていたのだろう?
家族の人たちは、
「俊治の受験勉強の邪魔にならないように」
ということで、かなり気を遣ってくれていた。
俊治はそのことを分かっていたので、気を遣ってくれた家族をありがたいと思っていた。
確かに気を遣ってくれていたことは嬉しかったが、そんな中で、違和感が家族の中から感じられたのも事実である。それが、
――不協和音――
という言葉であったことを俊治は感じていた。
実際に離婚までには至らなかったが、家族の中に一度芽生えた不信感は如何ともしがたく、俊治が大学に入学してから家を離れるまで変わらなかった。
両親がその後離婚したという話は聞いていない。今から思えば、
――離婚するだけのエネルギーも残っていなかったのかも知れない――
と感じた。
「離婚には、結婚の時の何倍ものエネルギーが必要だ」
という話を聞いたことがある。
両親は、自分が家を出てからしばらくすれば離婚するものだと思っていた。信じて疑わないというほど確信めいたものがあったはずなのに、それでも離婚しなかったということは、離婚するだけのエネルギーが残っていなかったとしか思えないではないか。
それほど疲れたということだろうか。
疲れたことに関しては、俊治にも責任があるのかも知れない。自分が意図したことではなかったが、受験という期間があったことで、その間に何とか我慢したことを、受験が終わってしまったことで、両親の中で、
――気が抜けた――
のかも知れない。
俊治にとってそれ以降の人生の中で、この時に感じた両親への感情が、想像以上に大きかったということに気が付いたのは最近のことだった。
もっとも、
「その時正しかったどうかは、終わってみなければ分からない」
つまりは、
「歴史が答えを出してくれる」
という考えに通じるのだ。
俊治は、終わっているのか終わっていないのか分からない中で、気が付けば、悟りのようなものを持っていた。それは、自分の中で、
――感覚がマヒしている――
と感じるようになった頃からのことで、
――俺は両親と同じ道を歩むことがなくてよかった――
と思うようになった。
両親に対しての思いは今も昔も変わっていないが、両親に感じたことを、そのまま自分に当て嵌めてみるなどということはしたことがなかった。
それだけ、両親に対して感じていることは、
――自分は自分だ――
という考えをもたらすための、「反面教師」的な意味合いだったのだ。
俊治は四十五歳になるまでの自分が、あっという間だったことをその時に改めて感じていた。静香に出会うことがなくても、あっという間だったということは日ごろから思っていたことだが、改めて感じるというのは、いいことであれ悪いことであれ、新鮮な気がしたのだ。
目の前にいる静香という女性が、十八歳で、どこにも行くところがないと言って、俊治の前に現れたということだけが、その時の「事実」だった。
いろいろなことが頭を巡る。
――静香は昨日までどうしていたのだろう?
普通に考えれば、友達のところを泊まり歩いていたという考えだが、さらにもっと考えれば、泊めてくれる男を探していたと言えなくもない。
――怖くないんだろうか?
知らない男、初めて会う男にお願いをするのだ。当然男は自分が絶対的な優位に立っていることを自覚し、してはいけない妄想を抱くことだろう。
男がどういう動物なのかということは十八歳にもなれば分かるであろう。だが、
「最初だけだわ」
つまりは、
「一度目だけ我慢すれば、あとは慣れてくるだけだ」
と思っているのかも知れない。
ただ、その考えは、その一度の中にも言えることではないだろうか。
「セックスだって、最初だけ我慢できれば、後は大丈夫」
と思っているのかも知れない。
その思いは俊治には分かるような気がした。
――そうだ。感覚をマヒさせてしまえばいいだけのことなんだ――
そして、静香は本当に感覚をマヒさせることができる女の子なのかも知れないと思うのだった。
それは、自分に対しての、
――マインドコントロール――
実際に俊治も自分でできるようになっていると思っていたが、そこまでできるようになるまでに、いろいろな経験と時間が必要だった。
――経験というよりも、時間の方が重要な気がする――
と思った。
経験に関しては、二十代前半までにほとんどしていた気がしたのだが、実際にマインドコントロールを自分でできると感じるようになったのは、三十歳を回ってからのことだった。
その理由は、
――マインドコントロール自体をそれまで意識したこともなく、そんな言葉があることすら知らなかった――
ということだった。
静香がどれほどの経験をしているのか分からないが、十八歳というのは、あまりにも若すぎる。
――幼すぎる――
と言ってもいいくらいだ。
静香のことを見ていると、最初に感じていたよりも、次第に年齢を感じるようになってきた。
十八歳と聞かされて、
――そんなに若いんだ――
と、印象から見ても、かなり十八歳が若いと思っているにも関わらず、さらに年齢を感じるというのは、実年齢から、さらに印象が離れていっているという証拠でもあった。
ただ、それは俊治にとって、今までの自分の経験からいけば、ごく当たり前のことでもあった。
――相手を知れば知るほど、最初に感じていたよりも、年齢を感じるようになるんだった――
ということを思い出したからだ。
それは、時間の経過とともに、自分の感覚が研ぎ澄まされていくことを自覚しているからだった。
――最初に感じていたことよりも、後から考えた方が間違いではない――
と感じる。
考えれば考えるほど、正しい方に向かっているという考えだ。
しかし、これは自分の今までと、矛盾している。
余計なことばかり考えていたので、今は余計なことを考えないようにしている。そのことは、
今までの自分があっという間に過ぎてしまったことをいかに納得させるかということであり、
「年を取ってくると、時間の経つのが早くなってくる」
という話が自分の中で一番納得のいく考えであることの証拠であったのだ。
「十八歳というと、高校生?」
本当は聞いてはいけないことだというのは、重々分かっているつもりだったが、俊治は敢えて聞いてみた。彼女のリアクションを確かめたいからで、それは一度でいいことだった。一度確かめれば、今後の静香の考えを態度から判断するのに、大きな助けになると思ったからである。
案の定、静香はすぐに答えようとはしなかった。それでも、
「言いたくなければ、言わなくてもいい」
とは言えない。
もし、そこで言わなくてもいいと言ってしまうと、敢えて聞いた意味がなくなってしまうからだ。
「いえ、高校は中退しました」
なるほど、言いたくないわけだ。
当然、俊治の頭の中には、その答えが返ってくることは想定内のことだった。むしろ、かなりの確率での回答だっただけに、
――やはり――
と、感情が答えている。ひょっとすると、表情にも出たのかも知れない。急に、静香の表情に怯えのようなものが走ったからだ。敢えて聞いたわりには相手に悟られてはいけないと思いながらも、いとも簡単に看破されてしまうとは、何とも情けない話である。
俊治は、静香の顔を今度は見上げるように、座っている静香よりもさらに低い体勢を取った。態度としてはぎこちないが、見下ろす静香の表情には、落ち着いたような雰囲気が見られた。
「今日は、もう寝なさい」
少し時間的には寝るには早いが、会話にもならない気がしたので、俊治はそう言って彼女を自分のベッドに寝かせ、自分は、ソファーに眠った。
――明日には、布団を買ってこなければ――
と、明日以降も、静香をここに置いてあげることを前提に考えていた。普通だったら、
――明日から、どうしよう?
と思うのだろうが、どちらかというと、
――明日は明日の風が吹く――
と考える方なので、あまり気にしないようにした。
余計なことは考えるくせに、こういう時は意外と適当だ。それは、買い物をする時にも性格が現れる。
一万円以上のものを買う時は、買うということに関して迷いは生じないが、千円台のものを買う時は、結構買うことに対して考えてしまう。普通なら逆ではないかと思うのだろうが、
「高級なものは、最初から覚悟を決めて買いに行くので、すでに購入に関して迷うことはないが、中途半端な値段のものは、ついつい財布の中身や、その月の計画を考えて、なかなか購入に際して気持ちが定まらない」
という考えを持っている。
「お前は変わっているな」
と、知り合いから言われたことがあるが、
「ただ、理論的に考えているだけだよ」
と答えると、
「それはそうなのかも知れないが、潔いのか、考えが中途半端なのか、よく分からない」
と言われると、少し理不尽ではあるが、
「誰だってそうなんじゃないのか?」
と、吐き捨てるように言うと、
「そんなことはないと思うけど」
と、相手も負けていない。
しかし、それ以上の口論は、水掛け論でしかない。しょせんはその人の性格のことなのだ。
――分かることだけが分かるだけなのだ――
と思うと、話は平行線にしかならない。そう思うと、会話がそれ以上続くことはないと思うのだった。
その晩、俊治はなかなか寝付けなかった。何度も寝返りを打っては、目を覚ます。普段から慣れているわけではないソファーで寝ているというのもあるが、いつもは一人しかいない部屋の中に、もう一人いるというのは、どうしても違和感がある。
それもいるのは女性で、しかも、まだ未成年と来ている。一度このまま寝てしまうと、どんな夢を見るか分からないという思いと、目を覚まして現実に引き戻されると、どんな気持ちになってしまうかを考えると、
――オチオチ寝てもいられない――
と考えるのだった。
何度目かに目を覚ました時、時計を見ると、まだ午前二時くらいだった。彼女と出会ったのは、金曜日だったので、今日は休みになる。朝から、
――仕事に行かないといけない――
という思いにならないだけでもありがたかった。それでもまだ午前二時というのは、まだまだ夜中である。いくら熟睡をしてはいないとはいえ、時間の感覚に狂いがあるというのは、寝ていた証拠だろう。
――そろそろ日が昇るくらいの時間だと思ったのに――
と考えていた。
季節的には、そろそろ初夏が近いと思わせる五月の中旬。この間までGWだったこともあって、人によっては、まだ休みボケが残っている人もいるくらいだ。
さすがに、俊治はこの年になれば、何十回と味わってきたGWだ。それほど気になるものではない。
ただ、毎年GWが長くなってきているように思うのは気のせいだろうか。若い頃には、
――気が付けば、終わっていた――
と、何もなく過ごす休暇を、もったいないと思っていたくせに、この年になれば、いつの間にか終わっていたと感じることが、普通のことに思えて仕方がない。逆に、何事もなく終わってくれた方が気が楽だったりする。それでも、連休前は若い頃と同じように、ワクワクした気分になったりするが、別に気のせいではない。ただ、実際のGWが、
――ただの中身のない休みだ――
というだけのことだった。
ベッドの方を見ていると、静香は向こうを向いて寝ていた。微かだが、寝息が聞こえてくる。少し、寝息の間隔が早いように思え、
――結構疲れていたんだな――
と、感じた。
熟睡しているかどうかまでは分からなかったが、寝ているのを見ていると気持ちよさそうに感じられた。
――俺も彼女を見ていると、眠れるかも知れないな――
だいぶ夜も更けてきてからのことだったが、朝起きて仕事ではないことが安心させたのか、気が付いたら眠りに就いていたようだ。しかも、熟睡していたようで、目が覚めると、部屋に差し込む朝日は、結構眩しかった。
カーテンを引いていても、朝日の眩しい時は、朝日の眩しさで目を覚ます。そのおかげで、休みの日であっても、それほど朝寝坊することはない。少々前の日に夜更かししても、いつもであれば九時までには目を覚ましていた。しかし、その日の朝日の眩しさは、九時どころではなさそうだ。
時計を見ると、そろそろ十時半を差していた。
「こんなに寝ていたのか?」
と思うのと同時に、違和感があった。
「あれ?」
自分がソファーで寝ていることが違和感の原因であり、なぜソファーに寝ているのか、すぐに思い出せなかった。
「あっ」
昨夜からのことをやっと思い出し、なぜ忘れていたのか、自分が不覚に思えて仕方がない。きっとそれだけ熟睡をしていたのだろうが、それまで眠れなかったのがウソのようだ。
今までにも眠れなかったことは何度かあり、そのたびに、気が付けば熟睡をしていたのがいつものパターンだったが、この部屋に今まで他に誰も泊めたことがなかったのもあってか、熟睡してしまったことで、忘れてしまったのだろう。
――もし、相手をオンナだと意識していたら、忘れてしまったりしただろうか?
中年のおじさんになったとはいえ、まだまだ現役だと思っていた。確かに、ずっと一人だったことで、女性とセックスをしていない期間は結構長かった。
――愛のないセックス――
であれば、時々はある。風俗に通うという手があるからだ。
俊治は、風俗に通うことを悪いことだとは思っていない。最初はさすがに背徳感のようなものがあったが、それも仕方がないこと、我慢する方がいいのかどうか、俊治には分からなかったが、我慢しすぎると体調を崩しそうな気がしていた。
――精神的なものから体調を崩すと、長引きそうな気がする――
根拠があるわけではないが、一人孤独でいるようになってから、俊治なりにいろいろ考えていた。そこから見つけた結論は他にもあるのだが、一つ一ついい悪いの判断をする気にはなれなかった。
――自分で見つけた結論なのだから、信じるしかない――
そう思うようになっていた。
一人孤独で暮らしていると、最初は寂しさで押し潰されそうだった。そこには先の見えない暗いトンネルが横たわっているだけにしか見えなかったからだ。それでも、慣れてくると、少しずつまわりが見えてくるように感じる。
――暗いところでも目が慣れてくると見えてくるようになるじゃないか――
と思うのと同じことだった。
ただ、一つ言えることは、
――暗闇で目が慣れてきたと言っても、見えるのは目の前のことだけ――
ということであった。
しかし、考えてみれば、孤独ではない人間がどれだけ自分の将来について見えているというのだろう。彼らにしても、しょせん目の前のことだけしか見えていないのではないか。特に家庭を持ってしまうと、自分のことを二の次にして、
――家族のために頑張ることだけが自分の人生だ――
と思っている人もいるだろう。
それはそれで悪いとは思わないが。、
――孤独とどこが違うというんだ――
と感じる。
要するに、孤独な人間も、孤独ではない人間も、
――いかに自分のことを大切に考えることができるか――
ということに掛かっているのではないかと思うのだ。
次第に目が覚めてくると、台所の方から音が聞こえてきた。何かが焼ける香ばしい匂いがしてきたかと思うと、お腹が空いていることを自覚するようになった。
「目が覚めましたか?」
台所から静香の声が聞こえてきて、彼女が朝食を作ってくれているのが分かった。
「ごめんなさい。勝手に冷蔵庫開けて、朝食を作ったりして、でも、何かお礼がしたいという気持ちもあったので、せめて朝食だけでも作らせてください」
と言ってくれた。気を遣ってくれているようで嬉しかった。
一人になって最初の頃は自炊していたのだが、途中からしなくなった。仕事が忙しくなったというのが一番の理由だが、一度しなくなると、仕事が一段落ついたからと言って、もう一度自炊しようとは思わなかった。
怠け癖がついたというよりも、悪い意味での生活のリズムができたと言った方がいいだろう。次第に台所に近づくこともなくなり、冷蔵庫には、電子レンジで調理できるような簡単なものしか入っていなかった。
ただ、それも四十歳になるまでだった。
四十歳になってから、急に思い立ったように、朝食を作ってみようと思い立ったのだ。
前の日に、スーパーで買い出しをして、翌朝、台所に立った。もちろん、簡単なものしかできない。作ると言っても、スクランブルエッグに、ベーコンをちょっと焼く程度、サラダも、パックになっている一人前の野菜セットを買ってきていたので、大きな皿に盛りつけるだけだった。
トースターでトーストを焼くのも久しぶりで、
「何分だったっけ?」
と、手探り状態で時々開けて、焼け具合を確認しながらだったので、朝食ができるまで結構時間は掛かった。
一番簡単だったのはコーヒーで、インスタントコーヒーと砂糖をカップに入れてお湯を入れてかき混ぜるだけだった。俊治はミルクが苦手だったので、砂糖だけしか入れなかった。
コーヒーに関しては、時々入れていたので、苦になることはない。一番最後にコーヒーを入れて出来上がりなのだが、実際に掛かった時間よりも、経ってみれば、あっという間だった。
その時感じたのは、カーテンから洩れてくる朝日が暖かさを運んでくるようで、スクランブルエッグの甘さと、ベーコンやトーストの香ばしさ。そして、ローストなコーヒーの香り。それぞれに暖かさを感じた。
コーヒーの香りはいつも感じているくせに、その日の香りはいつもと違っていた。それが忘れられなくなったのか、朝食を次の日も作った。メニューは同じだったが、前の日に負けず劣らず、いい香りが暖かさを包み込むように、部屋に充満しているのが嬉しかったのだ。
二日続けると、その日から朝食を作るのは日課になった。元々は作っていたので、違和感はない。しかも、朝食を作っていなかった時期が十年近くもあったはずなのに、数か月作っていなかったくらいの短い感覚しかなかった。
――朝の時間というのを、今まで無駄に使っていたんだな――
と思うようになった。
さすがに夕食に関しては、毎日作るということはない。たまに作る程度だったが、それでも作ろうと思った時は、前に買っておいた料理の本を見ながら、何にしようかを考えたりしたものだ。
男やもめで、どうしても綺麗にはならないが、それでも、料理をするようになって、少しは部屋が片付いたような気がする。三十歳代の頃の部屋は散らかり放題で、スーパーやコンビニの袋が散乱していても気にもならなかった。一か所汚い場所を気にしなくなると、部屋全体が汚くても気にならなくなった。部屋の中で全体を見渡しているわけでもない。かといって、一点を集中して見ているわけでもない。目には入ってくるが、見ているわけではないのだ。
四十歳になるまでの俊治は、万事がそうだった。
全体を見ているわけでもなく、一か所を見ているわけでもない。気にしなければいけないところが気にならないのだ。
――ひょっとすると、仕事の面でもそんな性格が災いして、結構損をしていたりするんじゃないだろうか?
と考えたりもした。
俊治は、それまでに恋愛経験がなかったわけではない。大学時代に最初に好きになった女性と付き合うことができたのだが、うまく行くことはなく、別れることになった。何が原因なのか、その頃の俊治には分からなかった。しかし、それがトラウマとなって、「孤独」という言葉を、その時初めて意識した。
それまでも、彼女ができないことに寂しさを感じていたが、
――きっとそのうちに彼女だってできるさ――
という思いがあればこそ、寂しさが孤独にはつながらなかった。
大学に入ってできた彼女は、他の人から決して人気がある女の子ではなかった。
「どこにでもいる大人しい女の子」
つまりは、
「地味で内気な女の子」
というレッテルが一番似合っている女の子だった。
そういう意味では競争相手がいるわけでもない。逆に彼女の中にも、
――自分が男性から好かれるわけはない――
という思いがあったのも事実のようだった。
そんな彼女だったが、俊治には愛おしく思えたのは間違いなかったはずだ。
付き合っている間、どんな会話をしたのか覚えていない。俊治も女性と付き合うのは初めてで、何をどうしていいのか分からないところがあった。相手も男性と付き合うのは初めてだったので、会話がなかなか続かない。
きっとまわりから見ていると、
「何やってるんだ」
と、じれったさを感じさせたことだろう。
「あの二人、時間の問題だぜ」
とも言われていたはずだ。客観的に二人を見れば、普通は時間の問題だという結論に落ち着くことは分かっていただろう。
その予想は見事に的中した。
実際に、俊治も最後の方では、
「時間の問題なのかも知れないな」
と感じていた。
そのうちに、彼女の方から、
「ちょっと話があるの」
と呼び出された。
こんなことは初めてだったので、
――一体、何を言われるのだろう?
と、正直ビビッていた。最初からビビッていたので、結果は目に見えていたのかも知れない。
「俊治は、私のことをどう思っているの?」
「どうって、愛おしいと思っているよ」
「だって、一緒にいる時、なかなか話をしてくれないじゃないの。私のことを考えてくれているのなら、会話の話題くらいあるはずだわ」
完全に、罵倒されていた。だが、最初に臆してしまったため、何も言えない。さらに彼女は俊治に追い打ちを掛ける。
「あなた、私に同情して付き合ってくれていたんじゃないの?」
そんな言葉が返ってくるなど、想像していなかった。
「えっ?」
と、思わず目を見開いて彼女を見たのも無理のないことだろう。
しかし、彼女は逆に取ったようだ。俊治の視線を、
――ズバリ指摘されて驚いているんだわ――
と感じた。本当はまったく逆なのにである。
その思いが最後まで修復できない状況を作ってしまった。その言葉に対して、俊治は言い訳ができなかった。
その時の俊治は相当な勢いで考えが頭を巡った。いろいろと考えていたのだが、すべてが見当違いのこと。相手と考え方が違っているのだから、当然である。
答えを示そうとしない俊治に対して彼女は、愛想をつかしたようだ。
「もういいわ。結局あなたは、そうやって自己満足していただけなのね。私のことなんかどうでもよかったのよ」
――ここまで相手を罵倒できるのなら、なぜ、一緒にいる時、少しでも何かを言ってくれなかったんだろう?
と思ったが、これも結局は他力本願。本当は自分がしなければいけなかったことを相手に指摘されて、ショックを受けているだけのことである。
本当なら、完膚なきまでに叩きのめされたと言えばいいのだろう。ただ、華々しく散ったわけではない。惨めな状態をそのまま放置することで、その場の苦痛から逃れただけのことだった。
完全に別れることになったが、俊治にショックは不思議と残らなかった。トラウマだけは残ってしまったが、それが、孤独に対して免疫ができたということなのかも知れない。
俊治はそれが最初の失恋だった。それからの俊治は付き合う機会がなかったわけではないがなかなか付き合うところまではいかなかった。就職してから合コンに誘われて一緒に行ったこともあった。そして、仲良くなった女性もいるにはいたが、最後に俊治の方が尻込みしてしまった。
――どうしてなんだろう?
ショックは残っていなかったはずなのに、前の彼女と別れたことが引っかかっているのは分かっている。トラウマになっているだろうことも分かっていたが、ショックがないだけに吹っ切れていると思っていたのだ。
ただ、実際に、
――付き合うかも知れない――
と感じた時、そこまで高めてきた思いが、急に冷めてしまうのだった。
冷めてしまったものをもう一度高めることは難しい。それは男なら分かることかも知れない。
「萎えたものを元気にさせるには、コツがいるのさ」
と言っていたやつがいたが、その気持ち、俊治には分かる気がした。ただ、そんなコツは別にいらない。卑猥な発想になるくらいなら、冷めた状態の方がいいと思ったのだろう。そう思うと、女性と仲良くなるにつれて、相手が淫らな発想になっていることに気付く瞬間があるのが分かる。その時に気が付くか気が付かないかは、その女性と長く付き合っていけるかどうかに大きく関わっているような気がした。
そのことは、男性にだけ言えることではない。女性にも言える。男性が淫らな気持ちを抱いた時、女性がどのように感じるか、そして、どのように受け入れるかによって、二人の相性と、それからの付き合いに大きな影を落とすことになるのかどうか、大きな問題となるだろう。それから二十五歳まで長かったのか短かったのか、その年にも、大きな失恋があったが、今すぐには思い出せるものではなかった。
俊治は、静香を見ていると、雰囲気は淫らに見えた。自分が若い頃であれば、なるべく近づきたくないと思うような相手だった。手を出してはいけないと思いながらも、気持ちを抑えることができなくなりそうで、そんな時に自分がどんな行動を取るのか分かっていない。
だが、静香と一晩一緒にいて、
――彼女となら、これからも一緒に暮らしていてもいいかも知れない――
と感じた。
彼女がもし二十歳を超えていれば、何ら問題はなかった。俊治は結婚しているわけではないのだから、不倫にもならない。年の差があるというだけのことである。
俊治はいざとなると、年の差を考えるかも知れないと感じていた。あるとすれば、コンプレックスだけだが、自分にはコンプレックスはないと思っているはずなのに、なぜ年の差を意識してしまうのか、俊治には分からなかった。
――朝ごはんを作ってくれたからかも知れないな――
表から見ていると、淫らさはまったく感じられない。しかし、俊治の想像では、逆に淫らになってくるのを感じる。本当は淫らな姿というのは、誰にでも見えているのかも知れないが、それを意識するには何らかのきっかけが必要なのかも知れない。そのきっかけが、爽やかな朝を迎えている時間を感じたからなのだ。
俊治は、静香の年齢を聞いた時、
「十八歳」
と答えた時の声を思い出していた。
あの時の声は、緊張しているのか、ハスキーだった。喉が渇いていたのは分かっていたので、その後に冷蔵庫からジュースを注いであげると、一気に飲み干したのを思い出した。
その時に感じたのは、あどけなさだった。
ただ、十八歳だと思って見てみると、その表情はあどけなさの中に落ち着きのようなものを感じた。その落ち着きが妖艶さだと感じたのは、朝になって、ご飯を作っている静香を見たからだった。
――こんなにも、雰囲気が変わってしまうなんて――
朝の静香は、自分の家の台所で朝ごはんを作っているかのように楽しそうだった。部屋が殺風景なので、どうしても限界があるが、この部屋がパッと明るくなったようで、今までの殺風景さが一瞬ウソのようになっていた。
ただ、それも少しの間のことで、すぐに殺風景さが戻ってきた。静香が悪いわけではない。俊治が自分の部屋を殺風景にしないと気が済まないのだ。
――どんなに明るくしても、限界がある――
静香を見ていて、
――十八歳だと言われて静香を見つめたが、どうしても、十八歳には見えない。二十歳は過ぎていると思うのは、勝手な想像なだけだろうか――
それでも、二十歳を超えていると思って見ると、今度はあどけなさを感じてしまう。
――手を出してはいけない――
二十歳以上だと思うと、今度は背徳感を感じてしまう。何ともちぐはぐな感じがしてくるのだった。
もし、静香が二十歳以上だとするならば、どうしてそんなウソをついたのだろうか?
考えられることはただ一つ、襲われないようにするためであろう。
今まで静香が、どこでどのようにして暮らしてきたのか分からない。元々、どうして一人、行くところがないと言って、自分にすがってきたのか、その理由も分からない。
――未成年だと言えば、俺が襲わないとでも思ったのだろうか?
だとすれば、静香は俊治のことを危ないと思ったのだろう。
しかし、逆に襲うつもりであれば、相手が未成年であろうが、関係ないとは思わなかったのだろうか?
――相手が俺だからよかったものの――
と、改めて昨夜声を掛けてきた時の異様な雰囲気を思い出すと、少しおかしな気分になっていた。
それにしても、俊治はどうして彼女を泊める気になったのだろう?
ずっと一人で暮らしてきて、孤独には慣れていた。逆に誰かがこの部屋に来ることを嫌っているふしもあった。一気に部屋が狭くなったような気がして、自分の部屋なのに、何となく遠慮しなければいけないのは、肩身の狭い思いをしてしまうに違いない。
実際に、今朝目を覚ますまでは肩身が狭い感じがした。眠れなかったのもそのせいである。今日が休みで、朝方は眠りに就けたからよかったものの、
――厄介なものを拾ってきた――
としか思えなかった。
――静香に淫らな感覚や妖艶さを感じながら、肩身が狭い思いをするなんて、踏んだり蹴ったりだ――
最初から静香は、
――泊めてくれる人――
を探していただけなのだ。偶然通りかかった俊治に、白羽の矢が立っただけで、静香にとって泊めてくれる人であれば、誰でもよかったのだろう。
――ひょっとすると、身体の関係も覚悟の上なのかも知れないな――
だと考えると、年齢が十八歳と言っていたのも、なまじウソではないのかも知れない。
いろいろなことが頭を巡っていたが、次第にどうでもいいことのように思えてきた。朝起きて、台所に静香が立っている。まるで新婚生活のような甘い雰囲気が部屋に充満しているのは、まんざらでもない。
――こんな時間がずっと続いてくれればいいのに――
と、今までに味わったことのない、少しくすぐったいような感覚になっていた。
――もし、彼女が、このままここにいたいというのなら、いてくれてもいいのにな――
と、俊治は考えるようになっていた。
「食事したら、公園にでも散歩に行こうか?」
と、誘ってみると、
「いいですね。私、公園って好きなんですよ」
「どうしてなんだい?」
「私はブランコが好きで、何かを考える時、よくブランコに揺られていたんです」
「それで、考えが纏まるのかい?」
「どうなんでしょう? 纏まらない時もあるんですが、ただ揺られているだけで安心できるというか、今は纏まらなくても、いずれ纏まるような気がしてくるんですよ。そう思えるだけでも、時間の無駄ではないような気がしてきますよね」
「僕もブランコに乗るのは好きだったんだよ」
「どうしてなんですか?」
「子供の頃には、ブランコに揺られていると、まるで特撮テレビのヒーローになったような気分になれたんだよ。ずっと忘れていた感覚だったけど、でも、今から思えば、子供時代が楽しかったのは、そんな些細なことの積み重ねだったような気がしてくるんだ」
俊治は、子供の頃を思い出していた。
ブランコに揺られながら、まるで風を切っているかのような感覚に、なるほど、特撮ヒーローを思い浮かべていた自分が、まだまだ子供だったこと、今はそんなことを想像できなくなってしまった自分を少し寂しく思うことを感じていた。
かといって、子供に戻りたいとは思わない。どこかの時代に戻って、そこからやり直したいとも思わない。なぜなら、もしやり直しが利いたとしても、
――結局は同じ道をまた歩み始めるのではないか――
と思うからだった。
二人で一緒に公園のブランコに揺られていた。俊治が前に出ると、静香が後ろにいる。当然すぐに反対になるのだが、途中で交差する部分で、俊治は静香の横顔を見ていた。
――初めて会ったような気がしないな――
今までにも、前から知り合いだったような気がしていたのは、何人かいた気がしたが、その誰とも静香は雰囲気が違っていた。年齢差の大きさがその思いにさせる。前から知り合いだったというよりも、目の前にいる静香を見ていると、以前に知り合いだった誰かに似ていると思うからだった。
静香から、
「十八歳」
と言われて、すぐには信じられなかったのと同じ感覚である。
俊治は静香の年齢が十八歳だと聞いて、最初に思い起したのは、自分が十八歳の時のことである。まだ高校生だった俊治は、時々高校時代のことを思い出すことがあったが、それもフラッと思い出すのであって、意識して思い出すことはなかった。なぜなら、意識して思い出そうとした時というのは、まず自分が思い出したいと思っているところまで思い出すことは不可能だったからだ。
ただ、高校時代のことを思い出そうとすると、どうしても、その頃付き合っていた女の子を思い出してしまう。
――同情なんかで付き合ったわけじゃない――
と、最悪とも言える別れ方をした彼女のことを思い出し、自分にとって屈辱的なことを言われたのを、今でも忌々しく思っていた。
その時、俊治は同情などしているわけではなかったのに、相手の言葉に臆してしまい、
――そんなつもりはなかったのに、同情で付き合っていたんだ――
と思うことで、自分に負い目を感じ、そのため、自分が負け犬になってしまったと思った。すべてが、悪い方に進んでいて、責めなくてもいいのに、自分を責めたりした。
その娘のことは、印象もすでになく、頭の中から消えていたので、静香を見た時に、彼女とダブってしまったことはなかった。もし、ダブってしまっていたのなら、少しは忘れてしまった彼女のことを、もう少し思い出していたことだろう。しかし、出来事だけは思い出すことはできても、相手の印象や雰囲気を思い出すことはできない。つまりは、その時、彼女に対して感じたことも、思い出すことはできなくなっていたのだ。
十八歳の頃というよりも、二十歳を過ぎてからの自分の方が、なぜかもっと昔だったような気がする。高校時代と今とでは、明らかに壁があるほど遠い過去だと思っているのに、それ以上前に思える二十歳過ぎというのがどういう時代だったのか、俊治は思い出そうとしていた。
――静香と一緒にいれば、思い出せそうな気がするな――
ずっと一人でいて、四十五歳という年齢になってしまったことで、
――過去を思い出そうなどと思わないんだろうな――
と思っていたが、実際には思い出そうという気持ちよりも、勝手に意識が若い頃に戻っているようで、そこにどんな力が働いているのか、俊治はその時、あまり分かっていなかった。
横顔を見ていると、その視線に気付いたのか、静香はブランコを漕ぐのをやめた。そして、ゆっくりと足を地面につけて、手は、しっかりとブランコのチェーンを握り締めている。
俊治も、ブランコを漕ぐのを止め、足でブレーキを掛けて止まった。うつむき加減で足元を見ていると、横の静香はそんな俊治をじっと見ていた。
「似ているわ」
「えっ?」
静香は、俊治を見ながら呟いたその言葉には、今までの静香にはない重たさが感じられた。
――一体誰に似ているというんだ?
俊治も、静香の横顔を見ながら、以前に知っていたはずの誰かに似ていると感じていた。それが誰なのか分からないまま、意識はしていたが、静香には悟られないようにしようと思っていた。
「私、お父さんを知らないの」
俊治には、静香が何を言い出すのか、想像もつかなくなっていた。言葉が続けて出てくるわけでもなく、その言葉は前の言葉とのつながりを感じさせない、脈絡のなさである。静香が今までほとんど何も話したくないと思っているのは、家族か彼氏のことだろうと思っていたからだ。
――お父さんを知らない――
というのは、想像がついたが、それを口にするなどということは、昨日静香と知り合ってからここまでのパターンから考えて、静香の口から出てくることではないと思えたのである。
――父親を知らない――
という言葉について考えてみた。
まず考えられるのは、父親が静香のまだ物心がつく前に死んでしまったということだ。それから後は母子家庭だったのか、それとも、母親が再婚して、新しい父親ができたのか分からない。むしろ、父親が死んだということよりも、そこから先の人生の方が大きな問題だったのかも知れない。
そしてもう一つ考えられるのは、静香の母親が、誰とも分からない男性の子供を産んだということだ。
もし、そうであれば、母親がいくつの時のことなのか分からないが、静香は養子に出されたということも考えられる。ただ、そうなると、母親からも引き離されたことになり、養子は考えにくい。そう思ってくると、やはり、父親が若くして死んだと考えるのが一番だろう。
だが、本当に死んだと言えるのだろうか? ひょっとすると、両親の離婚ということも十分に考えられる。
だが、俊治には、父親は死んでしまったという発想の方が強かった。もちろん、確証があったわけではないが、
――父親を知らない――
という言い方は、父親が死んだと考える方が自然に思えた。
――静香は、俺に父親を見ているのかも知れない――
父親なら、滅多なことはしないだろうという思いが、俊治に対しての警戒心をなくしたのかも知れない。
「静香ちゃんは、僕のことをどう思うんだい?」
静かに、
「お父さんみたいに思う」
と言ってほしかった。
しかし、しばらく考えた後、静香から言われた言葉は、
「私の知らない男性であってほしい」
という言葉だった。
遠まわしに考えれば、自分の知らない男性ということは、すなわち、父親だということになる。父親を知らないと言った言葉の含みは、この思いに繋がっているとも考えられるからだ。
しかし、俊治は別のことも考えていた。
――静香は父親を知らないと言った。つまり、知らない男性であってほしいというのは、本当の父親という意味ではなく、自分が想像している父親というイメージのことではないのだろうか?
そこまでは、理屈的にも合致するところがあるのだが、それは、
――自分の知らない男性――
というのが、父親だという発想に固まってしまっていることに疑問を感じないことを意識していないということだった。
最初に、父親を知らないと言ったのが、伏線だと思うのは、少し強引なのかも知れないが、もしその言葉に含みがあるとすれば、
――父親のことを知らないくせに、意識だけ持っている自分を救ってほしい――
という意味合いも考えられる。
だから、
「自分の知らない男性」
という言葉が出てきたのではないだろうか。
――待てよ――
俊治は、静香のことを考えながら、その発想は自分にも言えるのではないかと考えるようになっていた。
――俺の中にも、自分の知らない女性を求めている意識があるのかも知れない――
と感じた。
静香と出会ったのは偶然ではなく、お互いに似たようなイメージを頭に抱いていて、その抱いた相手が、俊治にとっては静香で、静香にとっては、俊治なのかも知れないと思うと、
――運命という言葉、信じてみてもいいのかも知れないな――
と感じた。
すると、今度は、静香に自分の気持ちを見透かされているような気がして仕方がなかった。それは自分にだけ言えることではなく、静香も同じように俊治を見ているのかも知れないと思った。
静香に対して、父親のことをそれ以上聞かなかった。その時、静香のそれ以上父親のことを話そうとはしなかった。
――やはり、何か含みがあって言葉にしたのかも知れないけど、でも、本当に父親のことを話したくないというのも、まんざらでもないんだろうな――
と、感じた。
「これから、一緒に暮らそうか?」
俊治は、どこにも行くところがないという静香と一緒に暮らそうと思った。本当なら、もっといろいろ聞くべきなのだろうが、聞けば聞くほど、
「一緒に暮らそう」
と言った言葉が色褪せてくるように感じた。
俊治は、建て前や一般常識と言われるような言葉は大嫌いだった。思ったことを口にしてしまう方だったが、無茶なことをすることはなかった。いきなり一緒に暮らそうと言ったのは、正直思いつきだったが、後悔はしなかった。実際に一緒に暮らし始めて後悔したことなどなかった。
相変わらず、静香は自分のことを話そうとはしない。どこから来て、どこに行こうとしたのか、俊治に出会うまで、どのような生活をしていたのか。考えればロクなことを考えない。考えないようにするしかなかったのだ。
俊治も静香とあまり変わりないように思えた。
友達がいるわけでも、彼女がいるわけでもない。毎日のように朝仕事に行って、夕方帰ってくる。テレビはつけていても、別に見入っているわけではない。内容も覚えていないし、意識もしていない。
気が付けば、眠くなっている。そろそろ寝る時間が近づいてきたのを、体内時計が教えてくれるだけだ。
それが、俊治の静香に会うまでの毎日だった。
――どこが変わった?
基本的には変わっていない。ただ、同居人として静香がいるというだけで、時々声を掛けることで、ちょっとした会話の時間がある。それ以外はお互いに自由な時間だった。
――異様な生活なんだろうか?
俊治は、別に異様だとは思っていない。ただ気になるのが、
――静香はこれでいいのか?
と思うことだった。
自分のことよりも静香のことを考えている自分が、今までと一番変わったところだと気が付いた俊治は、何となくくすぐったい気持ちになっていた。
静香は読書が好きだった。俊治も以前は読書が好きで、ミステリーなどを読んでいたが、静香が読む本は少し違っているようだった。
「どんな本を読んでいるんだい?」
と聞いてみると、
「私が好きなのは、奇妙なお話なんですよ。SFやホラーのようなお話なんだけど、どこか、結論が見えないようなお話が好きですね」
静香が読み終わった本を貸してもらって読んでみたが、確かに捉えどころのないような本だった。タイムスリップのような話なので、SFなのかと思えば、都市伝説のようなところはホラーのような話で、結局、何が言いたいのか分からない内容だった。
「何が言いたいのかなんて考えていたら、分かるものも分からないかも知れませんね」
と、本の内容に負けず劣らず、静香は訳の分からないことをいう。
「じゃあ、静香は本の内容を分からずに読んでいるってこと?」
「そうですね。無理に理解しようなんて思っていないですね」
「それで、読んでいて面白いの?」
「でも、俊治さんだって、ミステリーを読んでいるのは、どうしてなの?」
「理由があるわけではないけど、読んでいて楽しいからかな?」
「そうでしょう? 内容を理解したいって思って読んでいるわけではないですよね? 要するに、私も面白いから読んでいるんですよ。面白いという基準や、発想が違っているだけのことなんじゃないですか?」
確かに俊治が本を読むのは、簡単に読めて、時間を感じさせないような感覚に、
――時間を贅沢に使った――
と、感じたいからだった。
そういう意味ではミステリーは、論理立てて読み込めるので、読み込めば読み込むほど、理解しやすい。しかも論理立てているだけに、知的な感じがする。読みやすさと知的さで、自分が高貴な趣味を持っているかのような気分になれるのは錯覚かも知れないが、それでも俊治はよかったのだ。
俊治は年を重ねれば重ねるほど、難しいものから遠ざかってきたような気がする。テレビを見ていても、あまり考えることのないようなバラエティ番組が画面を踊っているが、実際に見ているという感覚があるわけではない。
――何となく過ぎていく時間というのも、悪くない――
と、感じていた。
静香を「拾ってきた」のも、何となく過ぎていく時間の中の一つの出来事だったにすぎない。出会った時は確かにセンセーショナルな出会いだったが、一緒にいればいるほど、違和感がなくなっていって、感覚が完全にマヒしてしまっていた。
――静香がどこの誰であっても、関係ない――
と思うようになった。
――まさか、静香が自分に声を掛けてきたのは、最初からそのことが分かっていたからなのか?
とも思ったが、最初から分かっていたとしても、結果は変わっていないと思う。静香が一緒にいることが、俊治にとってのその時の唯一の真実だったのだ。
静香との最初の半年は、お互いに手探り状態だったような気がする。お互いに同じ部屋にいても、ただの同居人。それでも違和感がなかったのは、お互いに寂しさには慣れていたからなのかも知れない。
それでも、たまに一緒に出掛けたりもしていた。静香がここに住むようになって二か月後には、アルバイトではあるが、静香の働き口が見つかった。
「就職祝いをしよう」
と言って、静香と一緒に出掛けた炉端焼き屋。さすがに静香にお酒を呑ませるわけにはいかなかったが、初めての炉端焼き屋に、静香は大はしゃぎだった。はしゃいでいる静香を見れたことが嬉しくて、俊治もその日は、あまり呑める方ではないくせに、結構酔っ払っていた。それでも、酔い潰れなかったのは、
――一緒にいるのは、静香なんだ――
と思ったからだ。
「今日は、ありがとう」
「いいさ、これで静香も肩身の狭い思いしなくていいだろう?」
「うん、俊治さんがいてくれなかったら、私今頃どうなっていたかって思うと、怖いくらいだよ」
本当は、静香のことをもっと知りたかった。ちょうど就職祝いの席がその機会になるのではないかと思っていたが、実際に場を設けてみると、今度は怖気づいてしまった。
――今さら、下手なことを聞くと、静香は黙って自分の目の前からいなくなってしまうんじゃないか?
と感じたからだった。
本当はいい機会なのだろうが、一歩間違うと、すべてを失ってしまうのではないかと思うのだった。
どうしてそんな風に感じたのかその時は分からなかったが、少ししてから、その時のことを思い出して、ピンと来るものがあった。
――静香を女の子として見ていたつもりだったのに、女性として意識するようになったからではないだろうか?
女性という言葉の意味は、いくつか解釈できる。
大人のオンナという意味で、幼さやあどけなさの反対でもある妖艶さが、身体の奥から滲み出てくるのを感じた時であったり、レディという言葉に代表されるような、常識をわきまえた人を女性として意識する場合がある。
この二つは、決して交わることのない平行線のように、俊治は感じていた。正反対という意味であれば、背中合わせであることを意識することもあるだろうが、大人のオンナと、レディとでは、片方をイメージしている間、もう片方をイメージすることのできないもののように思える。
――この時の静香は、レディだった――
と思っている。
しかし、そんな静香が次第に妖艶さを醸し出すようになり、大人のオンナに変わっていく様子を見ることになるなど、その時はまったく考えてもいなかった。
俊治にとって、大人のオンナというのは、開けてはいけない「パンドラの匣」であった。――思い出してはいけないこと――
つまりは、以前に感じたことがあるもので、今は忘れてしまっていることだった。
俊治には、大人のオンナと呼べるような女性と付き合ったこともなければ、どちらかというと毛嫌いしている方だ。なぜ嫌いなのかは、自分でも意識しているわけではないので分からなかったが、どうやら、過去の何やら怪しげな記憶があり、封印されてしまっているようだった。
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