完全なる破壊
森本 晃次
第1話 髪の毛
この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。
「最近の社会現象で一番気になるのは、完成したばかりの建物が急に壊れるという現象が多発しているということですね」
テレビをつけると、情報番組をやっているいつもの朝の目覚めの時間、メインキャスターの言葉だった。十年前にはアイドルとして一世を風靡した時期があったその人は、今ではすっかり朝の顔である。ネクタイを締めたその姿はさまになっていて、最初にキャスターを始めた頃のぎこちなさは、すでになくなっていた。
「アイドルがキャスターをする時代なんだ」
と思っていたのは、かなり昔のこと、今ではアイドルグループの女の子が気象予報士の資格を取って、毎日の天気を伝えている時代だ。
それすらも、すでに過去の話になってきている。時代の流れは自分が思っているよりもかなり早い。それだけ感じている毎日があっという間だということになるのだろうが、年を取ってきた証拠だともいえるだろう。
川村マミ、三十三歳。結婚適齢期を過ぎてしまい、もう結婚願望もなくなってしまったことで、毎日があっという間に過ぎるようになっていた。
――漠然とした毎日――
それが今は一番幸せを感じる。
毎日を平凡に過ごせればいい、それは、
――平凡に暮らすことが本当は一番難しい――
という思いに至ったからだ。
二十歳代には、
「三十歳までには結婚して、三十五歳までに三人の子供を作って、四十五歳になった頃には子育ても終わり、自分の趣味を何か持って、自分の人生を生きていくんだ」
と勝手に人生設計を立てていた。
短大を卒業するまでは、将来について何も考えていなかった。結婚願望があったわけでもなく、仕事にしても何かをやりたいという思いもなかった。
ただ、無難に就職して、仕事を適当にしているうちに、誰か恋愛できる人に出会うだろうという思いくらいしかなかったのだ。
実際に就職した会社も、地元の中小企業の事務員だった。社員数も数十人程度のもので、地元ではそれなりに名前が通っていたので、就職先としては文句のないところだった。実際に仕事も大変というわけでもなく、毎日定時には帰ることができる。事務員は自分が入社した時には、三十歳の「お局様」が一人いるだけだった。
二十歳のマミから見ると三十歳というのは、かなり遠い存在だった。先輩でも三つ上くらいまでを想像していたので、最初から距離を置いて見るくせがついてしまっていた。何かを言われるとどうしても逃げ腰になってしまい、自分が悪くなくても小言を言われるごとに、
――私が悪いんだわ――
という思いに駆られていた。
しかし落ち着いて考えると、自分が悪いわけではない。そのことに気付くと、最初に自分が悪いと認めてしまった自分に対してのジレンマがあり、それがストレスになってたまっていった。
そんなストレスを解消するためのすべを持ち合わせていないマミは、自分の殻に閉じこもってしまっていた。同僚とまではいかなくても少しでも年齢の近い先輩がいれば話をすることもできるのだが、そんな相手もいない。ますます自分の殻が結界のように固まってしまうのを、どうすることもできずにいた。
それでも、何とか最初の一年をやり過ごすと、次の年には後輩の女の子が入ってきた。
彼女は、素直で男性社員からも人気があり、仕事覚えも早いことで、マミとはうまくできそうだった。
しかし、「お局様」からは好かれることはなかった。何事もそつなくこなしてしまうのことは、「お局様」の機嫌を損ねたようだった。マミに対してのように文句を言うわけにはいかず、自分のストレスの発散ができずに苛立っているのが感じられた。
――どうして私にそのストレスをぶつけないんだろう?
マミは、その方がありがたいのに、今までのように「お局様風」を発揮してこないことを気持ち悪く感じていた。そのうちに彼女は会社を辞めてしまった。あれだけ圧倒的な存在感のあった人が、辞める時には、まるで蝋燭の火が消えるかのように、静かに辞めていったのだ。
辞めていってからというもの、お局様のウワサをする人は誰もいなくなった。まるで最初からいなかったかのように、会社の業務も、仕事場の雰囲気も自然に流れていく。
――私が辞めることがあっても、こんな感じなのかしら――
と思うと複雑な感じがした。
――別にそれでいいじゃない。仕事場というだけで、ここが生活のすべてではないわけだし、いなくなってからウワサされなくても、自分がそのことを知る由もないわけなんで、気にすることもないんだわ――
と考えた。
それから、後輩の女の子と自分との二人は、しばらくはうまくやっていた。男性社員からもそれぞれのファンがいるようで、マミもまんざらでもなかった。
――やっぱり、同年代の女の子が同僚にいるということはありがたいんだわ――
と思うと、自分が入ってくるまで、数年間お局様が一人だったということを聞いていたので、お局様がどんな気持ちで仕事をしていたのかということを、想像してみようという気になっていたことに気がついた。
しかし、実際にそんな状況に自分がなっているわけではないので、想像も限界がある。最初から、
――想像の域を出ない――
と思っているので、想像することが結局、堂々巡りを繰り返してしまうしかないということに気がついた。
一人で辞めていったお局様を思い出すと、その心境には彼女の、
――潔さ――
を最初に感じることができる。
潔さを感じてしまうと、それ以上の感情が浮かんでこない。
――潔さというのは、最終結論だったんだ――
と思うと、最初にどうして潔さを感じたのかが不思議だった。
しかし、いろいろ考えてみたが、
――結局は、あの人は何においても、一言で表すことのできる人なんだ――
という結論に至った。
それが潔さということに違いないのであって、何をどう考えても、潔さは最終的に堂々巡りを繰り返すだけの言葉でしかないということであった。
三年ほど、二人の事務員で回してきた。すると急に、
「私、辞めることにしたの」
と、後輩の女の子が口にした。
あまりにもいきなりの言葉にあっけに取られてしまったマミは、
「えっ、どういうことなの?」
「私、今度結婚することにしたの」
と言った。
彼女は、話をしている時は、結婚に対してさほど興味のないようなことを言っていたが、話を聞いているうちに、
――結構願望、結構あるんじゃないかしら?
と感じるようになっていった。
しかし、彼女は仕事が終わっても、結構マミと一緒に食事をしたり、呑みにいくことが多かったので、誰かと出会う機会などないと思って、たかをくくっていた。別に彼女に先に結婚されても気にすることはないと思っていたはずなのに、どうしてビックリしたのだろう?
――そうか、いきなり言われたからだ――
そんなことにもすぐには気付かなかった。
話を聞いてみると、結婚相手は最近知り合った相手ではないという。学生時代から付き合っていた相手で、ある意味、
「長すぎた春」
だったようで、それまでは、お互いの楽しみを邪魔することのない生活をしていたのだったが、相手の男が、この長すぎる春に対して疑問を感じ始めたようだった。
プロポーズしてきた時、彼女は戸惑ったようだったが、二つ返事で、
「はい」
と答えたという。
彼女も自分では気付いていなかっただけで、その言葉を持ち望んでいたのかも知れない。
「結婚というのは最終ゴールのようなものなので、それまでは遊んでおかないと損をするわよ」
と、独身を謳歌していた彼女のいきなりの結婚話には、驚かされて当然だった。
もっとも、一番ビックリしたのは、自分だったようで、
「プロポーズされた時、二つ返事だったわよ」
と、ビックリしているといいながら、その表情には満足感が溢れていて、羨ましい限りだった。
「それはご馳走さん」
としかいえない自分に情けなさすら感じたほどだった。
彼女ののろけは結構続いた。アルコールが入るとその傾向は特に上がり、聞いている方が恥ずかしくなるほどで、いい加減嫌になっていた。
しかし、普段よりも酔いの周りが早かったのは幸いだった。いつの間にか眠ってしまっていて、マミは彼女をそのままにしておけないので、しょうがないから店の表に連れ出して、どこに行こうか迷ったが、目の前にあったラブホテルへと連れ込んだ。
――もう、しょうがないわね――
マミはそういいながら、彼女をベッドに寝かせると、自分もシャワーを浴びに行った。
マミはラブホテルに入るのは初めてではなかった。学生時代に付き合っていた男性と一緒に来たことがあったので、別に抵抗があったわけではない。相手が酔っ払いの女性というだけで、何かが起こるというわけではないので、別にかまわないだろうと思っていた。
シャワーを浴びていると、さっきまで彼女を介抱しなければいけないという思いもあってか、酔いが覚めたつもりでいた。しかし、熱湯を身体に浴びているうちに、ほんのりと温まってくる身体が火照ってくるようで、酔いが再度まわってくるのを感じた。
「はぁはぁ」
息切れしてくるのを感じたが、苦しいわけではなかった。どちらかというと、
――切ない――
と言った方が正解かも知れない。
シャワーが身体に当たるたびに、敏感になっている部分に集中的に無意識ではあったが当てていると、切ない思いがさらに増してきて、息切れが完全に喘ぎ声に変わってきていた。
そんな様子を彼女は知らないだろうと思っていた。しかし、彼女はすでに酔いが覚めていたようで、裸になって浴室に入ってくる。
「あっ」
後ろから抱きしめられて、あまりに突然だったにも関わらず、抱きしめられた瞬間に、急に脱力感を感じたのはどうしてだろう?
本当であれば、いきなり抱きつかれたのだから、身体が硬直して当然なのに、どうして力が抜けてしまったのか、マミは今の自分が置かれている立場を見失いかけていたようだった。
「どうしたの?」
というと、
「マミ先輩の身体、温かい」
と言って、さらに身体を密着させてくる。
「もうすぐ結婚するって人が、こんなことしちゃいけないじゃない」
というと、
「いいの。もうすぐ結婚するから、今しかないから、こうやっていたいの。マミ先輩は気付いていないかも知れないんだけど、私、マミ先輩のことが好きだったのよ」
なんという告白だろう。ただ、その思いは実は知っていた。知っていて、知らないふりをしていたというよりも、
――知っていたことを密かに楽しんでいた――
と言った方がいいだろう。
誰かに好かれるということがどれほど心地よい気持ちにさせられるのかということを、本当はずっと味わっていたかった。相手が女性であっても同じことであるが、むしろ相手が女性であることの方が嬉しかった。
男性という異性であれば、気持ち悪さもあるが、女性という自分も知っている身体の構造の相手であれば、どこが感じるのかも熟知していることが分かっているからだ。
しかも、
――禁断の恋――
という言葉に密かに憧れがあり、短大時代に付き合っていた男性も、実は高校時代の担任の先生だった。
相手が先生だという禁断の恋に、密かに燃える思いがあったマミは、人知れずという言葉が自分に似合っていると思っていた。
だから、後輩が迫ってきた時も口では諭すような言い方をしながら、相手の興奮を煽っていたのだ。その状況、そして相手の反応に興奮しながら、マミはもうすぐ手の届かないところに行ってしまうであろう相手を、今だけという限られた時間を精一杯楽しむことが終える思いに決着をつけることになると思うのだった。
ホテルの部屋には湿気を含んだジメッとした空気が漂っていた。その空気には独特の匂いがあり、甘酸っぱい匂いがしてきたかと思うと、何か不快な香りも感じられた。
その不快な香りの正体は最初どこから来るのか分からなかったが、どこか懐かしさを感じた。
――何かが腐ったような匂い?
そう感じたが、少し違っていた。
――そうだ、石の匂いだ――
子供の頃に小学校で鉄棒をしていて、握りを間違えてしまったことで、背中から転落したことがあった。打ちどころが悪かったのか、息ができなくなってしまったが、その時、石の匂いを感じたのだった。どうして石の匂いを感じたのか分からなかったが、その時も懐かしさを感じたのを思い出した。
しばらくして石の匂いをいつ感じたのか思い出した。
それは、もうすぐ雨が降りそうだと感じた時だった。湿気がゆっくりと忍び寄ってくるのを感じながら、ノートや教科書を触った時に感じたグニャっとした感覚。さらには身体に纏わりついてくる湿気が、不必要な汗を滲ませるようで、その時、鼻についたのが石の匂いだったのだ。
――何となく身体がだるい――
と感じた。
湿気が身体に纏わりつくことで身体が重たく感じ、まるで水の中でもがいているような感覚になるのだと思ったが、どうもそれだけではないようだった。その原因が息苦しさから来るものだということは何となく分かっていたような気がしたが、実際に自覚するまでにはかなりの時間がかかったようだ。
だから余計に石の匂いが不快であると感じていた。
もし、息苦しさがなければ、石の匂いを不快な匂いだとは感じなかったかも知れない。石自体にはさほど意識しなければいけないほどの匂いがあるとは思えない。
――息苦しさを感じた時、表に出てくるのが石の匂いであり、石の匂いを感じることで、息苦しさを再認識するというのも、その時と場合の状況によって、変わってくるものではないだろうか――
と感じるようになっていた。
ラブホテルの換気は結構強力だと思っていた。それなのに、甘酸っぱい香りと石の匂いを感じるというのは、よほどその時、鼻の通りがよかったのか、それとも、ラブホテルという環境と、そこにいるのが男性ではなく女性であるという意識が働いているからなのかではないだろうか。もっとも、相手が女性であっても、ラブホテルの雰囲気からは、男性に抱かれているという感覚が身体の奥から湧いてくるのは仕方のないことで、抱かれながら包み込まれる感覚は、まさに相手が男性であるという意識の元だった。
後輩の彼女は、ホテルに入ると女性でありがなら、マミをまるで男性のように抱きしめた。マミは相手がまったく知らない男性であれば拒否反応を示すはずなのに、包み込まれることに安心感を抱いている自分を感じると、学生時代に付き合っていた男性を思い出した。
学生時代の彼とは、
――将来結婚してもいいかも?
と思っていた相手だったので、初めての相手はその男性だった。
場所もラブホテルで、シチュエーションは思ったよりも自分の想像通りに進んでいたことで、状況に酔っていたといってもいいくらいだろう。
恥ずかしさから、はしゃいでしまった自分を、いまさらながらに恥ずかしく思う。そんな行動が彼にマミが処女であることを悟らせるには容易だったことに気付きもしなかったのだ。
彼はマミのその顔を見て優しく笑った。あどけなさの残る顔だったので、余計に恥ずかしくなった。自分は初めてで、相手は慣れているはずなのに、本当であれば、余裕のある顔を見せてくれると思っていたのに、そのあどけなさがどこから来るのか分からなかった。だが、考えてみれば、彼の素朴さを好きになったマミだったのだから、あどけなさの残る顔そのものが、自分の見たかった顔であり、一度見てしまうと、ずっと見ていたいと思う表情だった。そう思うと、あどけない顔に対してさらに恥ずかしさを深めたマミは、自分の純情さをさらに感じるのだった。
――純情な私を好きになってくれたんだわ。今はそれだけが嬉しい。こういうのを幸せっていうんだわ――
と思い、彼の腕に抱かれている時間が、このまま終わらないことを祈った。
彼の腕の中にあるものは安心感だった。安心感は暖かさがバロメーターで、さっきまで身体から噴出していた汗も次第に乾いてきて、暖かさを素直に感じることができるようになると、眠気を感じてくるようになった。
――このまま眠っちゃったらもったいない――
という感覚があった。
クーラーをつけると寒く感じる時期だったので、空調だけにしておいたが、暖かさを感じていくうちに暑くなったと思ったのか、彼が、
「暑くない会? クーラーつけようか?」
と言ってくれた。
「ううん、大丈夫」
と答えたが、それは本音だった。
マミは初めてだったが、さほどの痛みを感じることもなく、
――儀式――
を終えたが、脱処女の証である鮮血は、しっかりと残っていた。
あまり痛がる様子がなかったので、鮮血を見た時、彼は少し驚いているようだったが、すぐに嬉しそうな顔になり、マミを抱きしめた。
――余裕のあるこの顔、癪に触るわ――
と感じたが、それは一瞬のことで、暖かさを含んだ包容力にすぐに恥ずかしさを感じると、もう彼の顔をまともに見ることができなくなり、彼の胸に顔をうずめたまま、抱きついてしまった。
彼はさらに強く抱きしめてくれ、チラッと垣間見た彼の顔にあどけなさを感じたことで、さっきの感覚に戻ってきて、彼が自分を好きになってくれたことを感じたのだ。
彼の身体から感じる匂いはなかった。最初は甘酸っぱい香りを感じたが、それが彼の汗によるものだと分かると、
――私の汗の匂いも、彼には分かっているに違いない――
と感じたが、不思議と恥ずかしさはなかった。
――激しく愛し合っているのだから、お互いに汗を掻くのは当たり前のことで、お互いに汗を掻いているのだから、別に恥ずかしがることはない――
と思った。
相手を貪るように愛し合っている間は、お互いに遠慮もなければ、優劣感覚もない。そんな時に恥ずかしさを感じる必要などまったくないのだ。そう思うと、貪りあっている瞬間から、すでにマミは処女ではない感覚に陥っていて、彼に貫かれた瞬間も、さほどの感動もなければ、痛みもなかったのだと感じた。
残りの時間を彼の身体を堪能する時間に使ったことで、自分が処女だったというのが、ずっと昔だったような気がしてきた。
――これで大人になったんだわ――
などという感動はなかった。
処女を失う瞬間というのは、感動があるものだと思っていたマミだったのに、その思いはどこに行ってしまったのだろう?
――もし、相手が彼でなかったら、感動があったのかしら?
と思ったが、感動はあったかも知れないが、それ以上に、彼から与えられた満足感と安心感はなかったに違いない。それはすべて包容力から来ているものだと思った。
本当は、すべてが包容力だというのは信じられないが、包容力に形を変えて、集約された形で彼が与えてくれたものだと考えれば、マミには納得がいくのだった。
その日、シャワーは使ったが、お風呂には入らなかった。お互いにそれぞれ一人でシャワーを浴びて、もう一人はベッドの中で待っていた。
先にシャワーを浴びたのはマミだった。
「浴びておいで」
と、彼から言われて素直に浴びに行ったのだが、その時に初めて鮮血を感じた。
それまで、感じなかった鮮血がシャワーに流されて、排水溝に吸い込まれていくのをゾッとするような感覚で眺めていた。
――よく、気持ち悪くならなかったわ――
と感じるほどであったが、その時は、シャワーが熱湯であるということを忘れているほどであることには違いなかった。
しばらく眺めていたが、すっかりと排水溝に流れ終わると、我に返った自分が、今度はもう一度夢の世界に入り込んでいくような気がした。まるで、
――夢から覚める夢を見ていた――
というような感覚で、どこまで行っても夢が覚めないような気がしていたが、それならそれで、
――別にかまわない――
という思いが頭をよぎっていた。
それは、夢を見ている時に、それが夢だとは感じないからだ。もし、それを夢だと感じると、きっと現実世界の方が夢のように思えてくるからではないかと思っている。だから、夢を見ている時に、夢だという意識を持たせないと感じていた。夢の世界なのか、現実の世界なのか、頭が混乱してしまうと、そのどちらでもない狭間の世界に落ち込んで、抜けられなくなってしまうのではないかという妄想を、いつの頃か抱くようになっていたマミだった。
――彼の方はどうだったんだろう?
彼に抱かれながら、ウトウトとしていると、次第に彼の気持ちになって考えている自分がいることに気づいた。
――この人は、自分が最初の時を思い出しているんじゃないかしら?
マミが初めてだと知ると、相手のことを考えるならば、自分が同じ立場だった時のことを思い出すに違いないとマミは思った。
――彼にも自分が感じるのと同じ思いでいてほしい――
そう思ったマミは、目を瞑って、自分がその時の彼の相手になったような気分になっていた。
もちろん、自分にはそんな気持ちになれるはずはないという思いを持ちながらであるが、彼が考えていることに少しでも近づきたいという思いがあるから、無理を承知で考えてみようと思ったのだ。
彼が高校一年生だという妄想を抱いてみた。設定としては、彼がまだニキビが顔に残っていて、本当なら気持ち悪く感じるであろうその顔を、舐めるように見ている年上の女性が想像された。
彼女は学生ではない。勝手な妄想ではナースだった。盲腸か何かで入院している時、ナースに誘惑されるという設定だ。
したがって、場所はホテルでもなければ、彼の部屋でもない。病室で深夜、他の患者に気付かれないように静かにことを運んでいる様子だった。
彼は、まったく抗おうとはしない。表情をまったく変えることもしない。当然恥ずかしいなどという感情は表に出てくるはずもなく、相手のなすがままにされているのだ。
マミは自分で想像しながら、恥ずかしがっていた。そしてそのうちに妖艶に歪むナースの表情を見ながら、苛立っていく自分を感じていた。
――これって嫉妬なのかしら?
相手にされるがままの彼を想像しながら、
――これしかないんだわ――
と感じたのは、彼が初めての時を想像するシチュエーションのパターンが他に思い浮かばなかったことで感じた彼のリアクションだった。
だが、マミをその腕に抱いている彼の余裕のある表情を見ていると、彼が初めての時、どのような表情をするのか、まったく想像がつかないのだ。
そうなると、考えられるのは、
――無表情な彼――
だったのだ。
そこから彼への発想のすべてが始まった。いわゆる逆算の形でいろいろ思い浮かべていると、相手が学生ではなく、ナースであること、ナースであれば、人に気付かれないように病室でのアバンチュールであること、しかもそのアバンチュールの主役はナースであることから、彼が無表情なのも納得できるという逆説が成り立つこと。そこまで考えると、マミは自分がそれ以上、彼の初めてを想像することが、その時の二人の穏やかな感情を崩しかねないと思い、断念することにしたのだった。
すると、そこで急に覚めた気持ちになった。
――何かしら? この感覚は――
何か、急に冷静になっている自分を感じた。
覚めてきたという表現は適切ではないかも知れない。むしろ、別の夢が出現し、そちらに自分が移行してしまったかのような感覚だった。
「夢から覚める夢を見た」
という話を聞いたことがあるが、それは、自分が見ている夢の中に夢が入り込んでいるという意味であり、実際に別の夢であっても一向に構わない気がする。そう思うと、夢が別にもう一つ存在したとしても不思議ではない。その夢が発展系であるかも知れないと思うのは、
――夢にも時系列が存在するのかも知れない――
と思ったからだ。
覚えている夢を?ぎ合わせると、時系列に並んでいるわけではない。断片的にしか覚えていないのは、
――夢を忘れようとする意識があるからだ――
と感じたが、夢が一つの世界ではないと考えると、時系列に並んでいないという考えもまんざら無理なことでもない。そう思うと、夢の時系列が本当に存在しないのか、考えてみるのも悪くないと考えたマミだった。
そんな思いを、かなり昔のことだと思っていたはずなのに、思い出してみると、ついこの間のことのように思える。
今回、後輩の女の子の思いもよらぬ告白に戸惑いながらも受け入れてしまった自分を、いじらしくさえ思えるマミだった。
最初は自分が彼女に誘われるように、まだ見ぬ禁断の世界を覗いてしまったことで、主導権は彼女にあると思っていたが、そのうちに彼女の慕ってくる態度に、主導権を握るのは自分のように思えてきた。
女同士の関係は、もちろん初めてのことなのに、過去にも経験があって、それを自分の方から誘っているかのような、
――いけないお姉さん――
を演じているように思えた。
ただ、それも演じているだけであり、これが本当の自分だとは思えない。
「レナちゃん」
後輩の名前は、中村レナと言った。
「お互いに、下の名前がカタカナというのは、親近感があるわね」
と言っていたのは、マミの方だった。
仕事の時に、下の名前で呼び合うようなことはしたことがなかったが、時々仕事が終わって呑みに行く時などは、下の名前で呼び合うことにしていたので、ホテルの中で名前で呼ぶことには抵抗はなかったが、恥ずかしさは余計に倍増していた。
実はホテルに一緒に入るのは、これが初めてではなかった。
以前にも、会社の飲み会の帰りに、終電がなくなってしまったことで、
「ここ、入りましょう」
と、半ば強引にレナに連れてきてもらったのが最初だった。
初めて入ったホテルではなかったのに、思ったよりも広く感じられた。
初めてでなければ、小さく感じられるのが普通ではないかと思ったのに、大きく感じたということは、同じホテルという場所でも、相手が違うと感じ方も変わってくるということを思い知った気がした。
ただ、相手が違うというだけではなく、性別が違うのだ。
最初は男性となので、ある意味ノーマルな関係だが、今回は相手が女性であり、
「禁断の仲」
という甘酸っぱい感覚が、二人を包んでいたのだ。
甘酸っぱい匂いは、相手が男性の時とは明らかに違う。自分とは生理学的に違う相手と身体を重ねることの方が、生理学的に同じ相手と身体を重ねる方がノーマルだというのも、禁断という言葉に拍車をかけたのだ。
今まで想像もしなかった女性との禁断の関係、いや、本当に想像していなかったのだろうか? マミは初めて一緒に入ったはずのレナだったのに、前からその身体を知っているかのように思えたのが不思議だった。
その答えはすぐに見つかった。
――学生の頃に感じた自分の身体が、今のレナとソックレナんだわ――
という思いを抱いたからだ。
学生の頃のマミ、それはまだ処女だった頃であるが、その頃は、男性とのセックスに思いを馳せる普通の女の子だった。身体はすでに大人の女になっていて、あとは自分にふさわしいと思える男性を受け入れるだけになっていたはずなのに、なかなかそんな男性も現れなかった。思春期の身体は火照りやすく、ちょっとしたことで、身体が反応してしまっていた。
――想像することだけで、身体が火照って、たまらなくなるわ――
そう思い、自分で自分を慰めていたものだ。
――こんなこと、いけないわ――
と思いながらも、欲望に勝てるはずもなく、一人自分を慰めるというシチュエーションに酔っていた。
――ああ、たまらない――
絶頂はすぐにやってくる。
しかし、すぐにいってしまってはもったいないという思いがあったのも事実で、自分をじらすことを覚えると、その感覚が自分を大人にしていくのだとまで思うようになっていた。
そんな時に想像する相手、最初は男性のごつごつした腕に抱きしめられながら、その反面、顔はあどけなさの残る少年のような男性を想像していた。そんな時、すぐにいってしまう自分がもどかしかったのだが、じらすということを考え始めた時、相手がどんな人なのか、想像できない時期があった。
そんな時は、自分で自分を慰めても、むなしいだけだった。
「むなしいというのは、何もない『無」が、『無しい』ということになるので、何もないことがさらに何もないことを誘発しているようで、本当に辛いものなんだわ』
と独りごちたことがあった。
しかし、そんな時期はあまり長く続かなかった。
――自分を想像すればいいんだ――
と感じたからだ。
一人で自分を慰めている時、想像する相手がもう一人の自分だと思うようになると、興奮は最高潮に達するようになった。
――自分なんだから、自分が一番感じるところを知っていて当たり前だ――
という思いが原点にあった。
だが、冷静に考えてみると、
――自分のことを知っているようで一番知らないのは、意外と自分なのかも知れないわ――
と感じることもあった。
だが、自分で自分を慰めるようになってから、その思いは性欲とは関係のないことのように思えて仕方がなかった。つまり、慰めているのが自分だと思うから恥ずかしいのであって、自分も含めた女性全般だと思うと、そこまで恥ずかしさを感じなくなったのだ。
それが学生時代のいつ頃だったのか分からない。ただ、処女を捧げた先生と初めて身体を重ねた時よりも前だったような気がした。最初は先生であっても、一緒にホテルに入ることには抵抗があったはずなのに、誘われてしまうと、抵抗ができなくなっていた自分を懐疑的に見ていた自分を覚えているからだ。
先生とは少しの間付き合ったが、すぐにぎこちなくなった。
別に先生が浮気をしたとか、他に好きな女性ができたというようなことではなかった。むしろ先生は、真剣に結婚も考えてくれていたようだ。もっとも、マミも、
――結婚してもいい――
と感じてはいたが、途中から急に覚めてしまった。
先生の心の中に、
――結婚してもいい――
という自分と同じ気持ちが見えたことで、なぜか急に覚めてしまったのだ。
本当なら、
――先生も同じことを考えてくれているんだわ――
と二人の気持ちの一致を喜ぶべきところなのだろうが、なぜかそうはならなかった。
「ねえ、先生。別れましょうか?」
というと、
「何言ってるんだ。せっかくこれからだと思っているのに」
と言ってくれるかと思っていたのに、しばし黙り込んで考えていたが、
「そうだな。それがいいのかも知れないな」
と二つ返事ではなかったが、彼も抗うことはなかった。
どうして間があったのかを考えてみたが、きっとその間に、二人が過ごした時間を思い出そうとしていたのだろう。
もし、思い出せたのだとすれば、もっと長くその時間に浸っていたのかも知れないと思ったが、想像以上に短い時間だったということは、その間、彼は思い出すことができなかったに違いないとしか思えなかったのだ。
二人の別れは、突然訪れた。自分から切り出したくせに、
――突然訪れた――
とは、何とも他人事のようだが、実際にそうとしかいえなかった。
そんな気持ちをお互いに共有していることを考えると、
――今なら、淡い思いで別れることができる――
という気持ちを持ったまま別れることができるのだろう。
あれから先生とは会っていない。もし目の前に現れると、きっと他人事のように振る舞うだろう。しかし、その視線はお互いにアイコンタクトが成立していて、
――あなたのことはお見通し――
とお互いに考えていることを分かレナがら、微笑むに違いない。
その微笑みは愛想笑いなどではなく、
――二人にしか通じ合うことのできない秘密の感情――
だといえるのではないだろうか。
それから、マミはさらに自分で自分を慰める毎日を過ごしていた。それを悪いことだとは思わない。
――たまったストレスを発散させる――
という思いがあることからか、最後、いってしまった後に残る脱力感には、必ず睡魔が付きまとう。
「睡魔に関しては、誰だって付きまとうわよ」
と言われると思っていたが、マミは自分にしか味わうことのできない快感を知っているから睡魔を心地よく迎えることができると思っている。
それは人それぞれに違う感覚なので、人と共有できるものではない。そういう意味で、人に話をすることがタブーであり、秘密の快楽としてその人それぞれの快感を持てるのだと思っていた。
いつまで経っても、快楽を貪っている時に想像する相手は自分だった。
しかし、実際にいく時に想像する相手は、途中から自分ではないのではないかと思うようになっていた。まだ見ぬその相手は、顔が逆光になっているせいか、シルエットになっていて、どんな顔をしているのか分からない。ただ、
「はぁはぁ」
という吐息だけが漏れてきて、それが湿気を含んだ甘酸っぱい匂いを運んでくるのを感じていた。
「あなたは誰なの?」
と、声にならない声を発しているマミだったが、相変わらず吐息しか聞こえない。
「がまんできないわ」
と、切ない顔をしている自分を想像すると、その瞬間から我慢が始まる。いわゆる、
「じらし」
であった。
「我慢しなくていいのよ」
と、相手は初めて口を開いた。
その声はハスキーな大人の女性の声だった。その声に刺激されたマミは、
「あああ……」
と言って、まるで後ろから迫ってくるブラックホールにでも吸い込まれるかのような錯覚に陥り、ジェットコースターのような快感に身を奪われるのだった。
そのまま気がつけば目が覚めていた。
――夢だったのかしら?
と一瞬思ったが、
――いや、快感を貪るようにいってしまった瞬間、夢の世界へ委ねられたに違いない――
と感じた。
つまりはいく瞬間というのは、決して夢であるわけはない。絶頂を迎えたことで、身体は完全に宙に浮いてしまい、その状態でしか夢の世界には突入できないのではないかと思うのだった。
ということは、
――夢を見る時というのは、眠りに就くとき、完全に身体が宙に浮いたような状態の時しかありえないのではないか?
と考えるようになった。
「マミ、あなたは、ここから夢の世界に入るのよ」
という声が聞こえてきたような気がするが、その声はハスキーな声ではなく、あどけなさの残る舌足らずな声で、まるでいたいけな少女を思わせる。
――子供の頃の私?
マミは、自分が少女の頃、舌足らずだったという意識はない。
もちろん、思春期前であれば、声代わりをする前なので、これくらいあどけなさの残る声だったのかも知れないが、この声には、癒しが含まれている。そうでなければ睡魔に襲われたり、夢に入るために完全に宙に浮くという感覚になることはないように思えたのだった。
――レナと一緒にホテルの部屋で抱き合っている時の彼女の声、あどけなさの残る舌足らずな声だと感じたわ――
かなり前に感じた声だったのに、この時に聞いたレナの声が結びついているというのを感じたのは、奇跡のように思えたくらいだった。
――あれは本当にいつ頃のことだったんだろう?
先生と付き合っている頃を基準に考えると、さらに昔にも思えたが、そう思うと余計なことを考えてしまうようで、
――まるで昨日のことのようだ――
と、ありえない発想を抱いてしまうのだった。
「あなたにとって私はどんな存在なの?」
と、レナは耳元で囁いた。
「あなたは、私自身なのかも知れないわ」
と、夢心地で答えていた。
彼女の指はマミの敏感な部分を怪しくくすぐる。
「あぁ」
身悶えしながら、マミも攻撃の手を緩めない。
お互いにお互いの急所を知っているかのように貪る様子は、初めて感じるものではないようだった。
――この感覚――
マミは自分の身体に襲い来る波の強弱を感じながら、寄せては返す波に自分の身を任せていた。
最初は任せるだけだったが、次第に波に乗れるようになると、主導権を握りに行く。
――負けてはいられない――
相手が男性であれば、身を任せるだけしか考えないに違いないが、相手が自分と同じ女性であり、しかも年下の後輩だと思うと、その優劣はまるで男女の差くらいに感じられた。そう思うと自分が男性役で、相手は女性という構図ができあがっていることに気付かされた。
しかし、主導権を自分が握ることを相手は許さない。敏感な指が微妙に肌に触るか触らないかのラインをくすぐっていると、身体から力のすべてが抜けていくようだった。
そんな時、
「あなたにとって私はどんな存在なの?」
という質問が浴びせられた。
その答えを見つけようと考えた時、答えをこれから探そうと思ったはずの自分の口から思わず、
「あなたは、私自身なのかも知れないわ」
ともらしてしまったのだ。
自分の気持ちが夢心地だったというのは言い訳に過ぎないかも知れないが、この答えがえてして的を得ていないとも思えない。その証拠に相手のレナもその言葉を聞いて、かすかに微笑んだ。そして攻撃はさらに続いたのだ。その手法は誰よりも自分が一番知っていたことで、次にはどのような攻撃があるのか身構えることができた……はずだった。
しかし、自分の予想をはるかに超える快感が襲ってきた。
――どうしてなの? 同じ指の動き、同じタイミングで私の想像していた通りだったはずなのに――
と感じ、それが戸惑いに変わっていた。
考えてみれば当たり前である。攻撃に使われた指に違いがある。
かたや自分の指であり、かたや相手の指である。同じ強弱でも、自分の意思が入っているかいないかで微妙に違うのは当たり前だ。しかも、その微妙さというのが、本人にしか分からないもので、その証拠に最初は分からなかった。それが戸惑いとなり、余計に快感を増幅するのだった。
また、指自体が違っている。一口に指といっても、自分の指であれば、自分の脳と直結していることで、指にも快感が移っている。指と敏感な部分の両方で快感を得ていることになり、下手をすると、快感が分散されているということにもなる。
たとえば、両方の手のひらで、片方が熱く、片方が平温だった場合。その両方を握り合わせた時には、そちらの感覚を余計に感じるかということを考えたことってあるだろうか?
暖かい方を感じると、そのまま暖かさだけが頭に残ってしまう。冷たい感覚を味わおうと思うと、今度は感覚をもう一方の手のひらに集中させなければならないだろう。意識をすると、どうしても両方の感覚が均衡してしまい、どちらにも集中できなくなってしまうだろう。それが快感であれば、分散させられても無理もないことではないだろうか。
実際には、触っている指に神経を集中させることはない。あくまでも快感を得るために使っているという指なのだ。しかし、その指も快感を得ている方からすれば、
「もっと」
と思うことで、その思いが脳に指令され、指をさらに貪らせるようになる。
いく寸前になると、その思いは無意識になり、本能のおもむくままに貪ることになるのだろう。
相手がいる場合は、そんな余計な感覚を持つ必要は無い。責められている時は、素直にその思いにふければいいのであって、こちらが責めている時は、自分が感じる部分を思い出しながら相手を責めていると、相手が感情をあらわにしてくれる。
相手が悦んでくれることが満足感に繋がり、
――私は満足感を得るために責めている――
感じることで、普段感じることのできない快感を得ることができるのだ。
マミは果たしてどちらの快感を普段は求めているのだろうか?
だが、やはりマミも女である。自分が責めるよりも相手に責められる方に快感を覚えた。最初こそ、マミの方から責めることもあったが、一度責められる快感を覚えてしまうと抜けられなくなった。しかも、相手を責める方がレナも好きなようで、普段の立場と逆なところがレナには快感だったようだ。
それは、マミにもいえることで、普段とのギャップを楽しんでいる自分を感じていた。
その日は酔いに任せての行為だったので、マミはレナが誘ってくることはもうないだろうと思っていた。それならそれでもいいのだが、少し寂しい気がした。もしレナに誘われなければまた一人で慰める日々が続くことが分かっていたからだ。
翌日の会社では、二人とも何ごともなかったかのように自分の仕事に従事していた。
「川村先輩、これでよろしいでしょうか?」
自分が任せた仕事をこなして自分の元に持ってくるレナの姿は、実に凛々しいものだった。普段からレナの毅然とした態度は仕事をしていてすがすがしく見えていた。その姿に頼もしさを感じるのはマミだけではないだろう。
レナの声はハスキーで、女性っぽさのないところから、あまり男性には人気がなかった。どちらかというと、マミの方が男性に人気があり、ひそかにマミのことを気にしている先輩社員もいたりした。
マミはそんな男性の視線には鈍感だった。だが、対照的にレナの場合は、男性の視線には敏感で、マミを狙っている先輩社員が誰なのか、大体把握しているつもりだった。
ただ、それは他人に対しての視線だけで、自分に対しての視線には鈍感だった。それに、自分が男勝りだという自覚を持っていることで、
――私なんかに興味を持ってくれる男性などいないに決まっている――
と思っていたので、余計に盲目になっていたのだろう。
その時点で誰がレナに対して意識していたのかは誰にも分からなかったが、実際に存在していたのは事実だったのだ。
「ええ、上出来だわ。さすが中村さん」
と言って、ニッコリと笑って答えたが、その表情に含み笑いが隠れていることをレナは分かっていただろうか。
意識することもなく踵を返したレナは、そそくさと自分の席に戻って仕事の続きをこなしていた。マミはそんなレナを見ながら、
――無視されたわけではなく、仕事場での彼女のケジメなんだわ――
と感じると、ますます頼もしく感じるのだった。
仕事を無難にこなしながら、時間が定時に近づいてくると、マミは自分がそわそわしてくるのを感じた。今までなら何も考えることなく、いつものようにどこかで食材を買って帰るだけで、しいて言えば、
――今夜は何を食べよう――
と感じるだけの毎日で、別に感動も何もない毎日が繰り返されるだけだった。
しかし、その日は違った。
前の日のレナとの濃密な一夜を思い出して顔を赤らめる自分を感じていた。さすがに仕事中は集中しているつもりだったが、気が付けば思い出していて、仕事も上の空の時間帯があった。
そのせいもあってか、今日一日は結構時間が長く感じられた。終わってみればあっという間だったような気がするが、一日仕事をしていて、実際のリアルな時間経過と、終わってから感じるその日の時間にこれほど開きがあったことはなかったと思う。それだけ今までの毎日がいかに平凡だったのかということを示していて、リアルな毎日を感じるよりも後から思い返して感じる時間の方が、本当の時間ではなかったかということを感じるようになっていた。
仕事が終わったマミは、レナがまだ仕事をしているのを見た。
「まだ、仕事が残っているの?」
普段であれば、自分の方が早く終わっても他の人のことを気にすることもなく、さっさと帰ってしまうのだが、その日はレナが気になって仕方がなかった。自分がよこしまな考えを抱いていることがバレバレなのも分かっていて、それを承知でレナに声をかけたのだった。
「ええ、でももうすぐ終わります」
レナは声をかけてくれたマミの方を振り向くことなく返事をしたので、普段なら、
――何、この娘。何様のつもレナのかしrふぁ?
と感じ、露骨に不快感をあらわにしていただろうに、その日は別に不快感を感じることはなかった。
――きっと恥ずかしいんだわ――
と感じたからだ。
ただ、レナの態度は普段と微塵も変わっていなかった。それなのに、マミはレナが今までとは違っていると思い込んでいたのだ。
――早く終わればいいのに――
と心待ちにしている自分がいた。
もちろん、この後の時間を、自分と一緒に過ごしてくれるという思いを抱いていて、その思いに一片の歪みもなかった。
少し待っていると、レナは仕事が終わったのか、すっくと立ち上がり、机の上を整理して、パソコンの電源をオフにしていた。身支度を整えてカバンを持つと、椅子を机の奥に入れ込んで、自分の席を離れた。
誰もがやっている終業時の行動なのだが、誰かのその時の行動を意識して見るなど初めてだった。
――私もあんな感じなのかしら?
思った以上に事務的な行動であり、そこに何かの意識が入っている必要などさらさらないことで、当然といえば当然の行動である。今さらながら何かを感じる必要もないというものだ。
なるべく見つからないように隠れて見ているつもりだったが、
――気づかれたかしら?
とも思った。
別に気づかれても相手がレナであれば別に関係ないと思っていた。
「レナちゃん、これから一緒に夕食でもどう?」
気軽にそう話しかけた。
すると、レナは表情を変えることもなく、
「ごめんなさい。今日はそんな気分じゃないの?」
と、けんもほろろだった。
まったくの予想外の反応に、どうしていいのか困っていたマミだった。それはまるで一緒に上った梯子で、先に相手に降りられてしまい、梯子をそのあと外されてしまったような感覚だ。
――置き去りにされた?
まさにそんな気持ちだった。
「えっ、どうして?」
混乱している頭の中を整理するなどできるはずもなく、ただうろたえながら聞いてみるしかなかった。
「どうしてって、今お返事した通りです」
「何か私が気に障ったことをしたの?」
マミはいきなり切り出した。本当なら、徐々に聞いていくべきところを聞いてしまったことがまずかったということを、その時すぐには気づかなかった。それだけ頭の中は混乱していたのだ。
「気に障ったといえば、そうですね……。さっき、川村先輩は、私が残りの仕事をしているところをずっと気にして見ておられたでしょう? しかも、私が仕事を終えて帰り支度をしているところまで。そんな時、私が帰ろうとしている姿を見て、明らかにワクワクしている様子が見てとれたんですよ。私はそれが嫌だと思ったんです。先輩はそんな気持ちはなかったんでしょうが、私にとっては気持ち悪い気分になってしまったことで、今日の気分を台無しにされた気がしたんです。申し訳ありませんが、今日はそういうことなので失礼させていただきます」
と言って、レナは一礼をして踵を返した。
その後ろ姿は明らかに凛々しいもので、本当であれば、その姿を自分だけに見せてほしいとさっきまで思っていた。いや、
――私だけのものだ――
とまで思っていたのだろう。
レナの本心がどこにあるのか分からないが、前日の行動は酔いに任せた一晩だけのアバンチュールだったのか、それとも、彼女のちょっとしたつまみ食いだったのか、はたまたいくつかの偶然が重なったことでの偶発的な出来事だったのか、その時のマミには分からなかった。
混乱は続いていた。しかし、このまま帰らないというわけにはいかない。マミも会社を出て最寄りの駅までくると、さっきまで感じていたレナへの気持ちがどんどん冷めてくるのを感じた。
――いったい何を求めていたんだろう?
普段から一人が気楽でいいと思っていたマミだったはずなのに、たった一晩の夢のような出来事に一喜一憂した今日一日が、急にバカバカしく思えてきたのだ。
いつものようにスーパーの惣菜屋の前に、気が付けば来ていた。
――思ったよりも明るいわ――
今日みたいな日は、むしろ暗い雰囲気の場所がいいと思っていた。こんな日は自虐的になることが自分のためになると思っていたからだった。
スーパーから自分の部屋までは、十五分ほどである。途中には公園があったり、川が流れていたりして、住宅街への入り口のようなところであった。
その日は公園を通り過ぎ、近道をするのだが、その日は公園を横切るようなことをせず、少し遠回りになるのが分かっていながら、公園に足を踏み入れることはなかった。そのため、
――普段は通らない道を通ってみよう――
と感じた。
その道というのは、公園に沿って歩いてきて、公園の角にあたる部分を道なりに直角に曲がるのだが、その日はそこを曲がることなく、公園を背にして、そのまま直進する道であった。
ほとんど通ったこともない道だったので、普段通る道よりも狭く感じられた。その理由は道の両側は大きな屋敷になっていて、その境目がコンクリートで覆われた塀になっていたからだ。大きな屋敷であれば、昔ながらの木塀ではないかと思えたが、そこはなぜかコンクリートの壁だった。
――まるで刑務所か何かのようだわ――
と、両側から迫ってくる壁に、圧迫を感じることで、道が狭く感じられたに違いない。
――雨でも降ってくるのかしら?
埃の匂いを感じた。
この匂いがした時は、いつも雨が降ってくる前兆であり、冬でも生暖かい空気が風に吹かれて身体に纏わりついてくるような気がしていたのだ。
その日は、さらに異様な匂いを感じた。
――何なのだろう?
生暖かさとは少し違ったその匂いは、悪臭であることに違いなかったのだが、かつて感じたことのある匂いであることに違いはなかった。
あれは、高校生の頃だったような気がしたのだが、高校生の頃だったとすれば、思い出した感覚としては、もっと最近のように思えてきたから不思議だった。
あの日は確か、雨の予報のない時だった。夏だったか梅雨の時期だったのか、ジメジメしていたのは間違いなかったように思う。ただ、蒸し暑かったことと、急に身体に照射されたビームのように照り付ける日差しを感じたのを覚えていることから、天候が急に変化した時だったように思えた。
それまで降っていた雨が止んで、差し込んできた日差しが半端ではないほど強かったのだろう。蒸し暑さをいきなり通り越してジリジリした暑さが襲ってきたのだから、蒸し暑さの余韻とジリジリした暑さが交差した感覚が、自分の中に残っていたのではないだろうか。
学校までは自転車通学をしていた。徒歩に電車でもよかったのだが、満員電車に乗ることを嫌ったマミは、自転車での通学にどれほど体力が消耗されるか分かっていなかった。かなりの時間と体力を要するのは覚悟していたことだったが、やってみると相当な疲れに後悔させられた。
しかし、いまさら電車通学に切り替える気にもならなかった。通勤電車で痴漢に遭ったという話も時々聞いていたので、痴漢に遭うよりはまだ体力の消耗の方がマシだと思っていた。
何がつらいと言って、梅雨から夏にかけての蒸し暑さが襲ってくる時期のことだった。身体に纏わり付く汗の気持ち悪さは半端ではなかった。途中で止まってでも水分補給を行わないと、体力がもたないのは当たり前のことだが、水分を摂ることで汗が滲み出ることへのジレンマは、どうしようもないと思いながらも、
――どうにかしなければいけない――
と考えながらも、どうしようもないことに気づかされるだけのもどかしさに、考えたことすら無駄だったとむなしさすら感じていた。
自転車に乗って通っていた時、最初はロングヘアーの髪の毛を、そのまま風に靡かせるようにして自転車をこいでいた。しかし、風にそよいでいる間はいいのだが、途中で止まったり、目的地に到着してからの呼吸を整えている間に、汗が髪の毛に纏わり付いて、べとべとになってしまっていた。
しかも、少しくせ毛なところがあるマミは、髪の毛がよれよれになってしまっていた。まるで水を頭から浴びたような乱れ方は、身体から発散される汗を完全に吸い込んでしまったかのように気持ち悪さしか残っていなかった。
――こんなに気持ち悪いなんて――
と感じていたが、最初の頃は髪の毛に悪臭を感じることはなかった。
だが、実際にはまわりの人にとって、大きな迷惑であった。
本人は気づいていないし、まわりの誰もそのことを指摘する人はいなかったので分からなかったが、どうやらマミの髪の毛の匂いは、他の人よりもきついようで、体質的に分泌液の匂いが、他人より濃いものであるようだった。
にんにくを食べた時でもそうなのだが、まわりには大きな迷惑でも、食べた本人はその匂いに気づいていない。口臭や体臭も同じであり、マミの髪の毛の匂いにしても、同じであった。
だが、あれはいつのことだったか、短大の頃だったように記憶しているが、
「あなたの髪の毛、相当匂い」
と、誰かに指摘されたことがあった。
いつ、誰からだったのか、ハッキリとは覚えていない。かなりの呼吸困難に陥った時で、あとから聞けば、自分が何かに怯えて、怯えた相手から追いかけられたことで必死に逃げ出した時に、誰かに助けられたことがあったのだが、その時のことのようだ。
そんな無責任な言葉を口にしたのは男性だったように思う。それが助けてくれた人からだったのか、それとも他の人だったのか覚えていないが、その言葉がマミの気持ちの中で大きく燻っていたのは間違いのないことだった。
その時の言葉がマミの中でトラウマになってしまっていたのだが、そのトラウマを思い出すことはほとんどなかった。
――自分が発する匂いに関しては、自分では気づかなくてもまわりには気づかれてしまうんだ――
ということへのリアルな意識だけはあったが、実際にそのことを意識させられることがなかったからだ。やはり自分で感じることでなければ、実感として沸いてこないことのようだった。
マミは、あまり化粧が濃いわけではなかった。人並みの身だしなみ程度はするが、必要以上の化粧を施すことはなかった。自分の顔のことは自分でよく分かっているつもりであり、自分が化粧の似合う顔でないということを自覚していたからであった。
それは一概に間違いではなかった。マミの顔は真面目な雰囲気と清楚な雰囲気が漂っているように男性から見れば感じるようで、入社早々の上司から見られていた雰囲気としては、
「川村くんは、真面目な雰囲気が好感が持てるし、上司の指示にも的確に従えるところから、仕事を任せられる人として信任も厚いと思うよ」
と、直属の課長からは言われていた。
マミもまんざらでもなく、
「そうですか? ありがとうございます」
本当は、手を叩いて喜びを表現したい気分なのだが、まわりが澄ました雰囲気の清楚さを求めていると感じたマミは、なるべく自分の感情を表に出さないように心掛けようと思うようになっていた。
そんなマミの態度とは裏腹に、彼女の本心は目立ちたがり屋なところにあった。中学高校時代と暗かった自分だったが、短大に入って、高校時代の先生と付き合うようになるまでは、目立ちたいと思っていたのだ。だが、短大に入ってしばらくしてから高校時代の担任の先生と付き合うようになってから、禁断の恋をひそかに育むしかなかったマミにとって、
――私が目立ちたいなんて考えること自体、おかしいのかしら?
と思うようになっていた。
しかも、社会人になってからの上司の目からは、目立ちたがり屋などという雰囲気とは正反対のイメージの烙印を押されてしまったことで、自分の本心はどこかに置いてきてしまわなければいけないと思うようになっていた。
化粧を施して、
――ケバい――
という印象をまわりに与えることはタブーだった。
もちろん、そんなことをする必要性がないわけで、マミも厚化粧は似合わないと自覚していることで、厚化粧のマミなど、ありえなかった。
香水もほとんど使っていなかったが、社会人になってから、少し使うようになった。
「香水くらいはしておいた方がいいですよ。自分では気づかない体臭というものがありますからね」
と、短大時代に、就職課の先生からアドバイスされたことがあった。
なるほど、確かにその通りであるが、短大時代に男性から、
「あなたの髪の毛、相当に臭い」
といわれた時の記憶がよみがえり、香水をすることで、少々汗を掻いたりした時でも、こんな失礼な言われ方をすることはないだろうと思った。
そして、同じ匂いが人の鼻を突いたとしても、香水が混じった匂いを相手に嗅がせることで、
――この人は、一応エチケットとして、香水を身体に振り掛けるくらいのことはしているんだ――
と、マナー面から相手に失礼な思いをさせたとしても、言い訳ができるのではないかと思うようになっていた。
その時のことを、なぜか会社の帰りに思い出していた。普段通らない道を通り、まわりの塀が迫ってくるような狭いエリアを抜けようとしている自分を感じたからなのかも知れない。
――髪の毛の匂いって、こんな匂いなのかしら?
何となく石と埃が混じったような匂いを感じた。
それは塀が湿気を帯びているように感じたからだったのか、湿気がなければこの匂いは成立しないと思っていたことを思い出したからなのか、マミは匂いを感じている自分が、先日自分に纏わりつくように絡み合ったレナの身体を思い出していた。
――レナにはどんな匂いを感じたんだっけ?
確かに匂いを感じたはずだった。
しかし、思い出すのは湿気を帯びた石のような匂いだけだった。どうして、レナとの間にあの湿気を帯びた匂いが存在しているのか分からなかった。女同士ということもあり、香水だったり、分泌液の甘酸っぱさだったりする匂いが漂っているのなら分かるが、それだけではなく石や埃の匂いが漂っていたのは、湿気というキーワードには石や埃の匂いが不可欠だという意識があるからなのかも知れない。
――そういえば、レナの髪の毛って、あんなに長かったかしら?
会社では髪を後ろで結んでいるので、あまり目立たないが、レナは会社を出ると、髪を解いて、ロングヘアーをまわりに見せつけようとする。マミもロングヘアーであるが、髪を後ろで束ねていれば、家に帰るまで髪を解くことはしなかった。だからマミが髪を解いた姿を見たことがある人は、会社にはいないはずだった。
レナとホテルに行った時、初めて会社の人間の前で髪を解いて見せた。
「まあ、なんて素敵な髪の毛なのかしら?」
レナはそう言って、マミの髪の毛を撫でるようにしながら、顔を近づけて、妖艶に微笑んだ。
その時はまだ男性のイメージはなく、
――魔性の女――
のイメージを醸し出していたのだった。
「レナさんも素敵な髪をしていらっしゃるじゃない」
というと、レナは少し困惑したような表情になり、
「そう? ありがとうと言っておくわ」
と言った。
その表情は、どこか怒っているように見えたが、
――髪の毛を褒められて嫌な気がする女性なんていない――
と思ったことから、怒りを感じさせられたイメージは、自分の中から消そうと思ったのだ。
「髪の毛がライトに照らされて光るのを見ていると、清潔感があって本当に素敵な気がするのよ。特に髪の長い女性は、同じ女である私から見ても、素敵に感じられるわ」
とマミは言った。
言いながら、短大時代に付き合っていた先生の言葉を思い出していたのだが、その時の言葉というのは、
「僕は、ロングヘアーも好きだけど、ショートヘアーの女の子が基本的に好きなんだよ」
という言葉であった。
マミは、自分はショートは似合わないと思っていたことで、
「そうかしら? 私には分からないわ」
と、はぐらかしてみたが、彼はさらに続けた。
「僕が言いたいのは、ショートが似合う女の子はロングにしても似合うと思っているってことであって、何も君に髪を切ってくれだなんていっているわけではない。君は君でロングが似合うんだよ」
この言葉を聞いて、本当であれば怒らなければいけないはずなのに、なぜか彼の言葉を信用してしまった。
――惚れたが負け――
ということなのかも知れないが、彼の言っていることも冷静になって考えればもっともだと思ったからだった。
彼には前からそういうところがあった。
――最初は不満を感じさせるような言葉であっても、ゆっくりと考えれば、彼の考えに一理あることを思い知らされる――
それが、彼の恋愛テクニックだったのではないかと思えるほどだった。
マミはどこか鋭いところがあった。普段は天然に見える人もいるようだが、ここぞという時には勘が鋭いところを見せるので、人によっては、マミに対しての見方が違っていることも多いようだ。
そのせいなのか、マミは先生を好きではあったが、全面的には信じていなかった。元々人を懐疑的に見ることの多いマミだったので、いくら好きになった相手だとはいえ、全面的に信じることはできなかった。そのため、少しでも疑問点が浮かんで来れば、その人を最初のように愛することができなくなってしまう。
それは先生に限ったことではなく、それまでに好きになった人に対してもそうだったし、それ以降好きになった相手に対しても同じだった。そのため、本気で好きになった相手がおらず、絶えず相手と自分とを比較することで、自分の中にあるであろう相手位対しての愛情の力量を計ろうとしていたのだ。
先生との別れは突然だった。マミの方から避けるようになると、最初こそ先生はマミを放すまいと、何度も、
「話し合おう」
と言って、連絡をしてくる。
しかし、もはや彼のそんな態度を未練としか思えないマミにとって彼の行動はストーカー並みに嫌なものだった。
話し合いたいという彼の言葉を無視し続けると、彼の方も切れてきたのか、
「もういい。お前のような傲慢な女はこっちから願い下げ打。お前は一体何様のつもレナんだよ」
という捨て台詞を吐いて離れていった。
――よかった――
とマミは感じた。
今までなら、そんなことを言われると、顔が真っ赤になって怒りがこみ上げてくるのだが、今回はそんなことはなかった。元々、相手を怒らせるような行動を取ったのは自分なので、当然と言えば当然だし、男の気持ちとしても、承服できないところがあるのは分かっている。
しかし、マミとしては、別れ際くらいは、もう少し潔くしてほしかった。だが、これで付き纏われることもないと思うと、ホッとしたマミだった。
そんなマミは、しばらくは男性と付き合う気にはなれなかった。心の中では、
――別れた彼以上の人はいない――
と思っているのも事実で、
「じゃあ、どうして別れたりしたんだ?」
と言われるだろうが、マミとしては、
「どんなにいい人だと思っても、飽きを感じてしまうと、元の状態に戻すことはできないのよ。それにね、一度完成したと思っていることは、後は崩れていくしかないの。だから、ちょっとしたことでも何か疑問を感じると、そこから綻びが生まれて、その綻びは次第に大きくなっていくものなのよ」
と言いたかった。
「そんなものなんですかね?」
「ええ、恋愛なんて、加算法と減算法が共存しているのよ。最初気持ちが盛り上がっていく時は加算法で、一度恋が成就してしまうと、そこから先は減算法になるの。恋というのは、加算法の段階であり、成就すれば、それが愛になる。でも、愛は完成型なので、そこから先は崩壊しかないの。愛は破滅の始まりだって考えるのは、無理なことなのかしらね?」
マミは自分の気持ちの中で、誰とも分からぬ相手に話しかけ、自分一人で納得していた。マミは自分で納得したことでなければ信じないところがある。なかなか自分を納得させることというのは難しいものだが、そんなマミが自分を納得させるために用いる手法としては、この時のように、自分の中に架空の相手を作り出し、その相手との会話の中で、自分を納得させる手順を踏むことが多い。
――下手に誰かに話をすると、自分で納得できない方向に話を持って行かれることがあるので、注意しないといけないわ――
と考えていた。
その気持ちがあるので、人に対してはどうしても懐疑的な目から入ってしまう。
マミは自分が恋愛に憧れていた時期があったというだけで、男性に対して興味があったわけではない。それは今でも同じで、
――異性を求めるという感覚、私には分からないわ――
と思っていたところへ現れたのが、レナという女性の存在だった。
レナとホテルで一夜を共にした時、今まで感じたことのない快感を得られたような気がした。
――女性との恋愛なんて――
と、基本的に真面目な考えのマミには、自分が垣間見てしまった世界が妖艶で、禁断な世界であることが分かっているだけに、必死で否定しようとしている自分を感じた。
しかし、否定する自分を横目で見ていると、どこか浅ましさのようなものが垣間見えた気がして、そんな自分を納得できるはずもなかった。
――レナちゃんは慣れていたような気がするわ――
一晩一緒にいただけで、相手をレナちゃんと呼び、馴れ馴れしく感じている自分を不思議には思わないことが不思議だった。
あの晩に感じたレナへのイメージは、
――こんな男性がいてくれたら、私は好きになっていたかも知れないわ――
先生と別れてから、男性と付き合うなどということは考えてもみなかったはずなのに、相手が女性で、しかも男性を感じさせる相手であると思うと、身体がムズムズしてきた。
――相手が男性に限らず、頼ったり身を任せられるような相手を欲していたということなのかしら?
まず、優先順位に、性別よりも自分が望んでいるものだということを考えると、それは無理もないことであり、そもそも同性同士での恋愛のどこが悪いというのだろう?
確かに、社会通念として、同性愛はタブーとされている傾向が多い。
特にHIVなどの病気において、同性愛者に多いことも一つであるが、太古の昔から、タブーとされてきていることに、何かの原因があるのかも知れない。
そもそも、世の中には男と女しかいないのだ。男女がまったく同じ人数であり、相手が必ず決まっているというのであれば、別にいいのだろうが、世の中には絶世の美男子美女がいて、その人が異性を一人占めにしているという事実もあれば、どう見てもモテるような顔をしていない人がいて、話をするのさえ敬遠してしまうような人は、いかに人間ができているとしても、恋愛に関してはまったくの劣等に属していることになる。これを不公平と言わずに何というのだろう。
――神様は本当に不公平だ――
と思っている人も少なくはない。
ただ、同じ恋愛劣等生であっても、人間的には立派であり、同性からは好かれる人も山ほどいるだろう。その人が、
――恋愛よりも友情だ――
と思っていればそれでいいのだが、そこまで自分を納得させられる聖人君子のような人は果たしてどれくらいいるだろう。
マミは、その日、レナの夢を見た。
「マミさんってステキだわ」
と言って、レナの指がマミの敏感な部分を容赦なく責めてくる。
「あぁ」
夢見心地だった。
――あっ、これは夢なんだわ――
夢の中で夢見心地になると、急に自分が夢を見ているということを再認識するようだった。
だが、夢を見ているということが分かったとはいえ、別に夢から覚めるということはなかった。むしろ、
――夢なら楽しめばいいんだ――
と、現実世界では理性が邪魔をして、抗うこともあったが、夢の中では抗う気持ちはまったくなかった。
しかし、それは心で思っているだけで、実際には、
「いや、ダメ」
と、抗って見せた。
しかし、それは愛情表現であり、本気で抗っているわけではない。その証拠に相手の目が血走っているのが分かり、普段なら怖いという感情が生まれてくるはずなのに、その時に恐怖は感じられなかった。恐怖というよりもむしろ見つめられることで自分が縛られているような感覚になった。
――私って、マゾなのかしら?
SMの世界というのは、話しには聞いたことがあり、写真やドラマでしか見たことがない程度だったが、知らないわけではない。それを快感の中で思い出すということは、自分の中に、そんな気持ちを掻きたてる血が流れているのではないかと思うのだった。
目を瞑ると、眼前に広がっている真っ赤な世界の中に、まるでクモの巣が張っているかのような黒い線が無数に見えた。それはある点を中心に放射状になっていて、細い線は真っ黒だった。
――まるで毛細血管のようだわ――
という発想が生まれ、毛細血管など見たことがないはずなのに、見えてきたことが気になってくると、目を開けることができなくなっていた。
目を瞑っているのをいいことに、レナの指先は敏感な部分をまさぐり続ける。さらには、濡れた感触が乳首に触れると、身体がビクンと反応した。それが舌の動きであることにすぐに気が付いた。
「あぁ」
またしても、唇から無意識に声が漏れた。
その声はまったく音のしない空間に吸い込まれるように響いていたが、虚空に吸い込まれるようで、すぐに消えていった。
快感が絶頂に達すると、マミはエビぞっていた。その瞬間に耳に響く超音波のような音に不快感を感じると、吐き気が襲ってくるのだった。
――吐いちゃいけない――
と思うと、必死で嘔吐を我慢していると、気を失ってしまいそうになる自分を感じたが、気が遠くなる感覚とは少し違っていたのだ。
――このままじゃいけないー―
何がこのままではいけないのかというと、このまま気を失ってしまうと、目が覚めてしまうことが分かっているからだった。
――まだ、目を覚ましたくない。このまま快感に自分を委ねていたい――
と感じていた。
快感というのは、襲ってくるものを無意識に感じることである。その快感に身を委ねていると、勝手に身体が反応し、ビクンビクンと痙攣に近い動きをする。それを快感というのだろうが、そこまで分かっているひとはどれほどいるだろう。もっとも、快感に身を委ねるということは、何も考えていないことを意味しているので、余計なことを考えるということは快感の波の中では矛盾していることを示している。
しかし、マミは自分が着実に夢の終焉に向かって進んでいることが分かっていた。
――絶頂を迎えてしまったからだわ――
と感じた。
――そういえば、いつの間に家に帰りついたんだろう?
公園を曲がらずに、いつもと違う通りを通って帰った。そして、その横に迫っているコンクリートの壁を両方から感じていたはずだった。それなのに、気が付けば家についていたのだ。
――確か、雨が降ってくるかのような感覚に陥って、湿気を感じたんだっけ――
そして、何となく気分が悪くなってきたのを感じたはずだった。
何とかして家に辿り着いたとしても、意識として何か残っていてもいいはずなのに、今思い立ってみると、意識らしい意識はない。湿気の中に意識を吸い取られてしまったような気分だった。
――本当に私は湿気に対してロクなことはないわ――
と感じていた。
雨が降ると体調を崩すという人がいるが、マミもそうだった。身体の節々が痛くなって、熱っぽくなることは子供の頃はしょっちゅうだった。高校生になった頃くらいから、少しずつそんなことは減ってきたが、どうしても、湿気に対してはトラウマがあるのか、気分的に滅入ってしまうことが多かった。
――嫌だわ――
湿気を感じることで匂いが付きまとってくることに気が付いたのは、高校生になってからだった。
それまでにも意識はあったはずなのに、そのことを無理に意識していなかっただけなのか、それとも、その時は意識していたはずなのに、時間が経つにつれて忘れていってしまっているのか、どちらなのか分からない。自分としては、後者ではないかと思っているが、そのことに対しての確証があるわけではなかった。
――湿気を感じると、髪の毛が鬱陶しいのよね――
それはいつも感じていることだった。
髪の毛に纏わりつく湿気は、身体から発する汗のように何も発するわけではないのに、汗に負けず劣らず、べとべとになっている。せっかくストレートにしていても、湿気を帯びてしまうと、まるでソバージュが掛かったかのように、自然と髪が身体にへばりついてくる感覚が襲ってくるのだった。
――湿気と髪の毛って、切っても切り離せない関係にあるようだわ――
マミはそのことをかなり以前から感じていた。
そのためにショートカットにしたこともあったが、つい髪が伸びてしまい、雨が降らない時は、そのまま延ばしてしまうことが多かった。そのせいか、マミのイメージをロングヘアーと感じている人が多く、髪の毛を切るには度胸を要するのだった。
マミは髪の毛の伸びる方だった。中学時代などは結構延ばしていたが、校則違反にならないように後ろで束ねていた。
「マミは髪の毛をほどくと、きっと違うイメージになるんでしょうね」
と、学校でしか会わない人からは、そう言われていた。
しかし、実際に学校以外で会う人とは、
「あまり変わらないわね」
と言われていた。
――どっちなんだろう?
と、普段あまり鏡を見ないマミは、感じていた。
「中学生になったんだから、鏡くらいは頻繁に見なさいよ」
と母親から言われていたが、現実的なところのあるマミは、
――どうして見ないといけないのかしら?
と疑問しか浮かばなかった。
自分で納得できないことは、たとえ目上の人から言われたことでも、しようとは思わない。反発してしまうことが多くなったのは、自分で納得できないことを人から言われることが多いのを自覚するようになったからである。
髪の長さに関しては、中学生になってから急に伸びるようになった。美容院に通うようになったのもその頃からで、
「マミちゃんの髪質はサラサラしていて、光沢もあるので、結構ステキだわね」
と美容師さんから言われたが、それが本心からなのか、営業トークからなのか分からないマミは、
「そうですね」
と、相槌を打つしかなかった。
ただ、実際に髪の毛の伸びるスピードが早いのは自覚していて、
――髪を洗うのが面倒くさい――
と思うようになっていた。
本当はバッサリと切って、ショートにすればいいのだろうが、せっかく生えてきた髪の毛をバッサリ切ることには抵抗があった。
「女性の髪の毛には魂が宿るって言われているので、怖いものなんですよ」
と美容師さんから言われた。
彼女は、世間話のつもレナのだろうが、マミにはなぜか気になってしまった。
「そうなんだ。じゃあ、あまり迂闊に髪をバッサリ切ったりすることは控えた方がいいのかしらね」
と聞くと、
「そうかも知れませんよ。せっかくこんなに綺麗な髪の毛をしているのに、それをむやみに切ってしまうのは、もったいない気がするのよね」
彼女の言う、
「もったいない」
という言葉が、最初の、
「魂が宿っているので怖い」
という言葉と矛盾していることに気付いてはいたが、怖いという言葉を他人から聞かされると、無視してはいけないという考えに至ってしまう自分がいたのだ。
――髪型はしばらくロングのままにしておこう――
と思って、しばらくロングヘアーにしていると、そのイメージが定着してしまい、急に髪の毛を切って、イメージを変えることが怖くなっていた。
高校生になった頃には、他の学校の男子生徒から、
「あの髪の長い女の子が気になる」
という噂があるということを、クラスメイトの女の子から聞かされて、ビックリした。
マミもそこは女の子で、異性から、
「気になる」
と言われて嫌な気がするはずもなかった。
だが、他校の男子生徒から告白されることはなく、噂は噂でしかなかったようだ。しかし、
「髪の長い女の子」
というフレーズは忘れられないでいた。
その思いが今も残っていて、短大時代から、異性よりも同性から好かれているという印象を受けるようになっていた。
どちらかというと、先輩から可愛がってもらうというタイプで、自分がまるで猫にでもなったかのようなイメージを受けていた。
だが、男性からは別の目で見られていたようで、
「川村さんは、髪が長いせいか、どちらかというと大人っぽく見られるので、お姉さまタイプのようだ」
と噂されているという話を小耳に挟んだことがあった。
――そんなことはないのに――
と思いながらも、まんざらでもない自分がいるのは確かだった。
しかし、相変わらず男性からの告白はおろか、自分のことを気にしているという話も聞かない。
「マミちゃんは、女性から見るとまるで猫のように従順なところがあるのに、男性からは大人っぽく見られるところがある。そのギャップが男性を遠ざけているのかも知れないわね」
と短大時代に先輩から言われたことがあった。
「私は普通に男性と恋愛をしたいのにな」
というと、
「いいのよ。あなたは男性と付き合うというイメージじゃないから、私たちと一緒にいればいいのよ」
と言われた。
「そんな勝手に決めないでよ」
と、本当は言いたかったが、言葉にすることはできなかった。
男性からも遠ざかられていて、女性の先輩からも反感を買ってしまうことが怖かったのだ。
もし、ここでどちらからも反感を買うことになると、自分はどうしていいのか分からなくなる。その頃から、マミは一人で自分を慰める回数が頻繁になってきたのだ。
――どちらからも嫌われていないと思っているから、自分を慰めることで快感を得ることができるんだわ――
と感じた。
男性か、女性先輩のどちらからかでも嫌われることがあったら、自分を慰める行為自体が虚しく感じられ、快感を得ることができなくなると思っていたのだ。
――行為自体が快感を得ることになるわけではない――
いずれ、自分の前に、自慰行為以外の快感を与えてくれる人が現れると思っているからこそ、妄想が膨らむのだ。妄想がなければ、快感を得ることができないという当たり前のことをマミは自分を慰めるたびに感じていた。
マミの初めての男性は、マミが想像していたほどの快感を与えてはくれなかった。彼が下手だったというわけではないと思っている。自分の妄想が彼のテクニックをカバーできなかったのだ。
「えっ、逆じゃないの?」
と言われるかも知れないが、マミにとっては、自分の妄想は、相手のテクニックをカバーするものだと思っていたのだ。そのために自慰行為を毎日のように繰り返し、妄想を膨らませていたと思っている。
――男性ではダメなのかしら?
マミは、自分が同性愛者だとは思っていないが、短大時代から可愛がってもらえる自分に酔っていたところがあった。
――やはり、自慰行為を繰り返していたのは、そこにもう一人の自分を感じていたからだったんだ――
と今さらながら感じていた。
男性の荒々しい指使いは、今までの自分への慰めでは考えられないものだった。自分だからこそ分かるピンポイントが、初めての相手で、しかも異性に分かるはずがない。それなのに、どうして女性は男性に惹かれるのか、マミには分からなかった。
――あんなに声を上げて快感を貪っていたのに――
それは夢の中のごとくであった。
身体が宙に浮いたような感覚は、指によって誘われているのは間違いないが、妄想の中で自分に降れている指先は、決して自分の一番敏感な部分を捉えているわけではない。微妙に震える指の感覚に、身悶えしている自分が、いつ絶頂を迎えようとしているのか、その準備段階に入っているのを感じていた。
だが、相手が男性だと、どうしても相手が自分本位でしかないことを思い知らされる。確かに他人の指というのは、自分の指とは比較にならないほどの快感を与えてくれるのは間違いではないが、それも、自分の想像と違っていることで快感を貪っている自分の気持ちを増幅させる作用があるからである。しかし、自慰行為を重ねてきたマミには、男性の指遣いは、想像の範囲内であった。
――それなのに、荒々しさしか感じないというのは、どういうことなんだろう?
普段の自分とは違うからこそ、他人の指を感じることができるのであって、得られる快感は自分の指と比べものにならないということを最初から分かっていることが災いしているのかも知れない。
マミは、短大時代に官能小説を読み漁ったことがあった。それは自慰行為のネタにするからである。
――想像力を豊かにすることが妄想を深くするんだわ――
これも当たり前の発想であり、そのためには、小説という文章が自分の頭をいかに刺激するかということを試してみたいというのが最初の動機だった。
友達に小説家を目指している人がいた。彼女は純文学からエンターテイメントまで、何でも書いていたが、途中から急に官能小説を書くようになった。
それまでは、小説を趣味で書いているという話を本人から聞いたことはあったが、それをわざわざ話題にすることはなかった。ただ、いろいろな小説を読んで、それを自分の小説の肥やしにしているという話だけは聞いていた。
しかし、ある日、
「私は、官能小説を真剣に書こうと思っているのよ」
と言い出した。
「官能小説って?」
マミは漠然としてしか知らなかったので聞いてみた。
「一言で言えば、男と女の愛情物語りって言えばいいのかしら? でもそれだけではないんだけどね」
と言われた。
「同性愛は違うのかしら?」
とマミが聞くと、
「そうそう、もちろんそういうのもありよね。むしろそっちの方が官能としては刺激的よね。愛には形なんてないのよ。いろいろな形があっていいと思うの。それにね、愛というのは発展形のもので、その前に恋というのがあるの。恋をテーマにしたものが恋愛小説で、愛をテーマにしたものが官能小説だっていう言い方をしてもいいんじゃないかって私は思うの」
と彼女は言った。
「なるほど、恋愛小説の発展形が官能小説というわけね。官能小説というと、いわゆるポルノ小説のようなものだって思っていたけど、そう言われると、何となく官能小説というのが分かる気がするわ」
「でもね、官能小説というのは、本当に書こうと思うと難しいのよ。刺激的で成人向けというのが官能小説でしょう? 当然濡れ場が出てくるわけで、それをいかに書くかというのが難しいところなの。ただの濡れ場だけではいけないし、恥かしがっていては書けないものだしね。下手をすると、まわりから官能小説を書いているというだけで、変な目で見られたりすることもあるかも知れないしね」
「そうですよね。他の小説と違って、官能小説のテーマとしては、刺激的で女性なら子宮に訴えるような話でなければいけないということですよね。読む人にそれぞれの感覚があって、人によっては、気持ち悪いと感じる人もいるかも知れないし、そう思うと確かに書き上げるのは難しいのかも知れませんね」
マミはそこまでいうと、自分が自分を慰めている場面を思い出して、思わず顔が紅潮しているのを感じた。
それを見た友達は、
「そうそう、その表情なのよ。私が官能小説を書いて、それを読んでくれた人がしてほしい表情はね。恥かしがっているんだけど、自分に当て嵌めて考えているから、まわりが見えていない。恥かしいと思いながらも、本当の自分の顔を表に出している。そんな顔を読んでいる人に期待したいのよ」
マミは、恥かしくて下を向いてしまった。
しかし、彼女の話を聞いているうちに、自信のようなものが漲ってきた。
「そうよね。女性であれ、男性であれ、性欲というのはあって当然のものですものね。それを掻きたてるということは、生きることを活性化させるということであり、何も恥かしがることではないんですよね」
というと、
「そう。でもね、恥かしがることも大切なのよ。恥かしいという気持ちがあるから、余計に快感を求めることができるのであって、だからこそ、人間は人を求め、異性を求め、場合によっては同性を求めてしまうものなんですよ。それを表現することで、私は欲望と恥辱を芸術として先を求めることができるって思うんですよね」
と、彼女の話には熱が入ってきた。
「私は、同性愛というのもありではないかと思っているんですよ」
というと、
「最初にそんな話をしていたわね」
「ええ、男性よりも女性の方が、敏感な部分が分かるような気がするんですよ」
と言って、顔が赤くなってくるのを感じた。自分が話をしている内容が、身体中心であることを示しているようで恥ずかしかったのだ。
「確かにあなたの言う通りかも知れないわね。でも、男性にしか分からない女性の部分というのもあるのよ。自分のことを知っているのは、自分よりもまわりの方だっていうこともあるでしょう?」
「そうですね。自分の姿を見ることは鏡などの媒体を使わないとできないですものね」
マミはここまで言うと、自分の考えていることを相手に見透かされているような気がして顔を上げることができなかった。
顔を下げると、髪の毛が長いせいもあってか、しな垂れている髪の毛が幸いしてか、表情を見られることはないだろう。しかし、しな垂れた髪の毛を想像すると、まるでホラー映画のようで、想像するだけで相手に失礼な気もしてきた。そう思うとさらに顔を上げることができなくなって、完全に顔を上げるタイミングを逸してしまった。
しばし沈黙があり、
――まずい――
と思っていたが、相手が自分を見つめているのかどうか分からないだけに、時間だけが無為に過ぎていった。
「マミちゃんの髪の毛って、本当に綺麗ね」
彼女はそう言って声を掛けてくれた。
「えっ?」
マミはその言葉が意外であり、何と答えていいのか分からなかった。
それと同時に、
――やはり、ずっと見つめられていたんだ――
と思うと恥かしかった。
しかし、見つめていたのは髪の毛であって、自分の表情ではないことを思うと、何と感じればいいのだろう。マミはそれ以上何も言えなかった。
「私は官能小説を書く時って、髪の毛を題材にすることが結構あるのよ。髪の毛って、触られるだけで感じるような気がするでしょう? 別に性感帯だって思っていないから、本人も触られて感じると、別に淫靡な気はしないのかも知れないわね。でも、髪の毛っていうのは、生きている証拠だって思うの」
と彼女はそこまで言うと、言葉を止めた。マミがその言葉に感じるものがあることに気が付いたからだった。
「どういうことなんですか?」
「髪の毛って、毎日伸びていることを感じることができるわよね。背が伸びたり大人びてきたりするのはなかなか気付かないけど、髪の毛が伸びるのは、毎日気付いているはずなのよ」
と言われて、少し違和感があったので怪訝な表情になったが、
「自分では気付いていないと思っているかも知れないけど、実際には気付いているのよ。特に女性の場合は髪の毛の伸びを意識するのは髪を洗っている時なの。だからほとんど毎日気付いているでしょう?」
「ええ、そのタイミングなら、必ず気付いているわ」
とマミがいうと、
「そうなのよ。それに髪が伸びるのって、成長期に関係ないのよね。子供の頃から髪はずっと伸びてくるものなのよ。どうしてだか分かる?」
「どうしてなんでしょう?」
とマミが聞くと、彼女は少し勝ち誇ったような表情になったかと思うと、
「それはね、髪の毛というのはある程度伸びると必ず切るでしょう? 一定まで伸びると一定分切る。この繰り返しなのよ。背が伸びるのは、そうはいかないでしょう? 背が伸びたからと言って、伸びた分を切るわけではない。なぜかというと、どんなに伸びても背の場合は限界があるのよ。でも、髪の毛というのは限界ってないんじゃないかしら?」
と言われて、
「確かに、世界には髪の毛が自分の身体よりもずっと長く伸びている人がいるって写真も見たことがあるわ。何年も髪の毛を切っていないといって、そんな写真を見せられたことがあったの」
とマミがいうと、彼女は頷きながら、
「そうなのよ。身長はいくら伸びたとしても、二メートルちょっとがいいところでしょう? 巨人のような人がいるわけではない。それを思うと、髪の毛というのは永遠の命を育んでいるものだって思えるのよ」
「でも、年を取ってくると髪が抜けたり、白髪になったりするよね。それは限界ではないのかしら?」
「それはきっと、人間にとって適度の長さにずっと保ってきているからなんじゃないかしら? 長すぎず短すぎずという長さの中で、自分に合うと思っている長さに各々が好き勝手に長さを保っている。それがその人の美しさとして反映されているのであれば、美しさがなくなれば、次第に髪の毛もその美しさを失っていくという考え方ね。だから抜けたり白髪になるのを私は限界だとは思いたくないのよ」
彼女の意見には一理ある。
しかも説得力も感じさせ、マミはその意見を自分の身体に当て嵌めて考えてみることにした。
マミは、彼女の話を聞いていて、一つ気になっていたのは、
「毎日お風呂に入る」
というくだりであった。
――毎日お風呂に入って髪の毛を洗っているんだけど、その時、たまにだけど、髪の毛が抜け落ちる時があるんだけど、それって彼女の話からどう解釈すればいいのかしら?
と考えていた。
「私、お風呂に入って髪の毛を洗った時、髪の毛が結構抜ける時があるのに気付くことがあるんだけど、気にしなくていいのかしら?」
と思い切って聞いてみた。
「髪の毛が抜けるのは、問題ないと思うわ。私も実際に髪を洗うと結構抜ける時があるもの。でも、私も最初は気になったものなのよ。どうしてこんなに抜けるんだろう? ってね。でもあまり必要以上に気にする必要はないのよ。考えすぎることがいい場合もあるけど、圧倒的に意味のないことの方が私には多かった気がするのよね」
という答えが返ってきた。
それでも、彼女の言葉の中で、さっきまでの信憑性ほど確実性が感じられないような気がした。半信半疑というべきか、きっと自分で納得できないことだと思っているからなのかも知れない。
マミは彼女と話をしているうちに、
――彼女の話を表面上だけで聞いていてはいけない気がするわ――
それは、自分が思っているよりも彼女は深いところで何かが言いたいのだと思った。いきなり官能小説の話を始めたのも、何か言いたいことを奥に秘めているような気がしたからだ。
「官能小説って本当に難しいんですね」
髪の毛の話を少し棚に上げた形にして、話を戻してみたのは、彼女の奥に秘めている考えを表に出そうと思ったからだ。
話を戻すことで彼女の奥に秘めた話を引き出すことができるのか疑問だったが、彼女ならマミの考えていることを看過してくれるのではないかと思ったからだった。
「ええ、そうね。実際に書いてみると普通の小説よりも結構難しいわね。基本的には読者の性欲を満たすような作品でなければいけないということだし、かといって、いくらR18指定で書いているとはいえ、露骨な表現もできないですよね。あまりにも露骨であれば、却って読んでいる人もあからさまな表現に興ざめしてしまうこともあるでしょうからね。私は本屋に行って、小説の書き方などの本が置いてあるコーナーにも何度か立ち寄ったことがあるんですけど、そこに、官能小説の書き方という本もあったりしましたからね。それだけ他の小説と違って異質なものだという意識はありますよ」
と言っていた。
「賞とかもあるんでしょうか?」
「ええ、ミステリーやホラー、恋愛小説などと同じように、官能小説大賞のようなものもあるようですよ。実際に本屋に行けば、文庫本のコーナーの中に、官能小説のコーナーもできているので、知名度はあるんじゃないかしら?」
「実際の写真やビデオなどとは違って、文章だけだと想像力が試されることになりますよね。それは他のジャンルの小説にも言えることではあると思うんですが、官能に関しては他の小説にはないあからさまなテーマがあるって思います」
「そうよね。しかも、買って読むには少し抵抗を持っている人もいるだろうし、それだけに秘密を一人で楽しむという興奮もあるわけよね」
と彼女に言われて、マミはまた顔を赤らめてしまった。
彼女のいう、
――秘密を一人で楽しむ――
というのは、日ごろ自分がしている、
――自分を慰める行為――
と同じ感覚ではないかと思ったからだ。
――やはり彼女には見抜かれているのかしら?
と考えていたが、本当は別に彼女は深い意味を持っていたわけではなかったのだろう。
「自分で自分を慰める行為なんて、誰だってしていることなんだからね」
と口には出さないが、そう言っているのと同じなのだろう。
しかし、官能小説や髪の毛の話をしている時、彼女の口から出てくることはなく、彼女としては、
――そんなことくらい分かっていることよね?
と思っているのかも知れない。
だが、マミはそれまでの話に深く入りこんで話を聞いていたために、彼女の言いたいことすべてを理解することはできなかった。それはえてして真面目な話をしている時などにはあったりするものではないだろうか。
マミは、会話の中で、立場的には対等ではないことを感じていた。
――あきらかに話の主導権は相手にあるのだ――
と思っていたのだ。
「ねえ、マミちゃんは髪の毛を触られて感じたりするの?」
彼女にそう言われて、考え込んでしまった。
「すぐに答えが出てこないということは、まだそこまでの感覚に陥ったことはないということね」
看破されたことが恥かしかった。
何も答えないでいると、
「いいのよ、何も言わなくて。いずれマミちゃんもその快感に浸れる時がくるわよ。今私がこうやってお話をしていることで、あなたの中では、想像力が増してきて、次第に妄想になってくると思うの。妄想を持つことは私は悪いことだとは思わない。髪の毛が次第に性感帯に変わっていくことを私は願っているわ」
「それにしても、あなたはどうしてそんなに髪の毛にこだわるんですか?」
「さっきも言ったけど、髪の毛には成長への限界がないのよ。次から次に生えてくる。だから切っても切ってもなくなることはなく、その分、新鮮なものに変わっていくの。それが生きていることの証明であり、その人の快感に直結していると思うのは無理なことではないと思うのよ」
「それは分かるんだけど、髪の毛っていうと、私のイメージでは、ホラー小説のネタになることが多くて、あまり気持ちのいいものではないと思うんです」
「それは逆ですよ」
「逆?」
「ええ、髪の毛が生きている証拠だからこそ、ホラー小説に使われるんだって思うんですよ。なぜなら、ホラー小説って、生と死との狭間をテーマにしているような気がするんですよね。もちろんホラーにもいろいろな種類があって一概には言えないんだけど、髪の毛がテーマになるようなホラー小説というと、やっぱり生と死の狭間がテーマのような気がするんですよ。だから生の証明が髪の毛であれば、死の世界にも何かを証明するものがあって、それぞれの結界を考えた時、見えているのが髪の毛の存在だって思うんですよ。そういう意味で、髪の毛が題材にされるのも無理のないことだって感じます」
と言われて、
「確かにそうですね」
と、彼女の説得力には頭が下がるだけだった。
マミがどこまで彼女の説得力を自分に納得させることができるかということは分からないが、彼女の話に圧倒されている自分を感じないわけにはいかなかった。
「髪の毛って、ある程度まで伸びるとそこで切ってしまうでしょう? ただ、これは伸びきったところが完成品だって考える人もいるようなのよね」
「完成品ですか?」
「ええ、伸びては切るの繰り返しでしょう? その一回一回を完結としないのが私の考えなんだけど、それを完結だと考えている人もいるようで、その人たちの考え方としては、髪の毛が伸びきったところが最盛期であり、髪の毛を切るのは、『完成品をそれ以上保たせておくことが破滅に繋がる』という考えに繋がるということなのよね」
今度は分からない話を始めた。
この話がさっきまでの話の継続なのか、それとも新規で始まった話なのか、マミには分からなかった。
「さっきまでのお話の続きなんですか?」
と聞いたが、彼女は
「あなたが続きだと思えば続きなのよ」
と、曖昧にしか答えなかった。
それだけ曖昧な話なのではないかと思うしかなかったのだ。
そんな話を聞いた時のことをなぜ思い出したのか、マミは急に我に返った。そして、自分が夢の中にいることに気付いたのだが、それがいつの夢なのか、そのことを考え始めていた。
髪の毛の話を思い出すことは今までにもあったような気がするが、それがいつだったのか、後になって思い出すことができなかった。
その時は覚えていたはずなのである。それなのに、思い出したことすら忘れてしまうというのは、後になって思い出した時にピンとくることだった。
――やはり夢の中だから忘れてしまうのかも知れないわね――
夢の中というのは、起きている時とは時間の流れが明らかに違っている。
「夢というのは、目が覚める寸前の数秒間で見るものらしいですよ」
という話を聞いてから、このイメージがマミの中で疑いようのない事実として意識させられるようになった。
だから、目が覚めるにしたがって夢を忘れていくものなのだと思うのであって、その証明だと思うと、自分を納得させられるのだ。
頭の中で辻褄が合ってくると、夢を別の世界だという発想もまんざら突飛な発想でないように思える。
「夢がごく短い間に見るものだっていう思いは分かる気がするんですけど、どうして目が覚める寸前だと言いきれるんですか?」
とマミが訊ねると、相手は少し拍子抜けしたような表情になったが、すぐに笑みを浮かべて、
「さすがにマミさんは、着眼点が違いますね。確かに目が覚める寸前かどうかというのは疑問に感じますよね。でも私にはそう思えて仕方がないんです。目が覚めるにしたがって夢を忘れていくと思っているからですね」
と彼女に言われて、
「そうそう、私もそうなんですよ。目が覚めるにしたがって夢を忘れていくんですけど、それを当たり前のことのように受け止めているんですが、その理由をあまり考えたことはないですね」
と、最初は身を乗り出すようにして興味を示したような態度を示したが、途中から次第に落ち着いてくるのを感じた。
「それはきっと、その考えが自分だけだという発想が根底にあるからじゃないですか? 少なくとも私はそうだったです。自分だけの考えだと思っていると、他の人には話せないと思うんですよ、そうなると、考えていることを自分で何とか納得させようとするんですよね。その時に考えるのが、当たり前のことだということなんでしょうね」
彼女もマミと同じような発想を持っているようだった。
マミは、なるべく興奮しないように平静を装いながら、
「なるほど、私にも同じような思いはありますね。当たり前のことだと考えているのがそういう思いからだとは考えたこともなかったですね。いわゆる逆転の発想のような感じですね」
本当は、当たり前だという発想に、
――自分を納得させること――
という思いがあることに気付いていた。
しかし、それをすぐに認めなかったのは、マミがもっと彼女の意見を聞きたかったからだ。マミが彼女と発想が同じだと相手に思わせると、話を端折ってしまって、本当に知りたいことを話してくれない可能性があると思ったからだ。少し遠回りになるかも知れないが、知りたいことを知ろうと思うと、遠回りをすることも余儀なくされるという思いを持っておく必要があるようだ。
「ところで夢って、本当に最後まで見ているんでしょうか?」
マミは自分の疑問を話してみた。
怖い夢であっても楽しい夢であっても、肝心なところで目が覚めてしまう。怖い時はその方がありがたいが、楽しい夢は、
――どうしてここで目が覚めちゃうのよ――
と感じたものだった。
「夢なら覚めないでって発想があるでしょう? それが怖いのよ」
と彼女が言った。
「どういうことなんですか?」
「怖い夢でも楽しい夢でも肝心なところで覚めるでしょう? そもそも夢というのはその人の潜在意識が見せるものだって言われているじゃないですか。肝心なところに差し掛かってしまい、そのまま夢を見続けると、今度はその夢の世界から抜けられなくなってしまう可能性があるから、夢からは目が覚めるようになっているんですよ」
という話に、
「潜在意識が見せるものだということだと、肝心な部分も自分の発想には違いないのよね。つまりは潜在意識の世界が夢の世界であって、そこにも自分がいて、そこに引きこもうとしているということなんでしょうか? でも、潜在意識のもう一つの作用で、このまま夢を見続けると、元の世界に戻ることができなくなるという発想から、目を覚まそうとするという発想なんでしょうか?」
というと、
「マミさんはなかなか発想が豊かですね。私はさすがに潜在意識の中で葛藤があるなどとは思ってもみなかったです。でも、マミさんに言われるとまさにその通りですよね。マミさんの言葉には自分に対して説得力が強いんだって思わせますよ」
と言ってくれた。
「それがいいことなのか悪いことなのか分からないけど、発想は自由だと思うと、いろいろな発想が生まれてきます。特に人とこうやって話をしていると、発想が膨らんでくるから不思議ですね」
「それは発想が発展途上だからなんでしょうね。でも、発展途上で終わるのがミソなんじゃないかって思うんですよ。これは夢を最後まで見ない発想とも似ているところがあると私は思っていますよ」
と、彼女は曖昧な言い回しをしながら、核心に迫っているような気がしていた。
「夢を最後まで見ないというのは、夢を完成させないという発想だと思えばいいのかな?」
というマミの発想に、
「そうそう、その通りです。夢を最後まで見ると、夢の世界から抜けられないという発想とは少し違う思いも私は抱いているんですよ」
「どういうことですか?」
「これは夢に限らずなんですが、何事も完成してしまうと、そこからは破滅の道が見えてくることがあると思うんです」
「というと?」
「形のあるものは、最後には必ず朽ち果てるという当たり前のことなんですが、この発想が夢にも言えるんじゃないかって思うんですよね。それはさっきマミさんが話した、夢の世界を別の世界だとは考えない発想なんですが、その人のあくまでも潜在意識の発展形だと考えると、夢が完成してしまうと、潜在意識は破滅へと向かう前兆を迎えることになる。それが私にとって、夢を自分の中で納得させる発想になるんですよ」
と彼女はいうと、自分が興奮しているのに気付いたのか、少し黙ってしまうのだった。
マミも彼女の話を聞いて、自分が金縛りに遭ったようだった。マミはその時の会話を今夢に見ていたのだ。
――これって本当に夢なのかしら?
と思うと、気が付けば目が覚めていた。
――夢だったんだ――
最後に夢を見ていると思いながらも、夢の存在に疑問を感じていたが、目が覚めてしまうと、いつもと変わらない自分に気が付いた。
この会話は、最近まで完全に忘れていたような気がする。話をした時には、
――決して忘れてはいけないことなんだ――
と思ったはずである、
それなのに完全に忘れてしまっているということは、必要以上に意識してしまうと、覚えていなければいけないと思うことは、本当に覚えているか、それとも完全に忘れてしまっているかのどちらかなのだと思うのだった。しかし、完全に忘れていると思っても何かのきっかけで思い出すことがある。それは忘れているのではなく、
――記憶の奥に封印しているだけなんだ――
ということなのだろう。
マミは、その日、つまりは普段と違う道を通って帰ったはずというところまでは覚えているのだが、気が付けば夢を意識していて、その夢がかつて忘れたくないと思っていた夢だと気付いたのだ。
――途中から記憶がないのはどうしてなんだろう? まさか夢の世界に何かの力で誘われてしまったのか、それとも、現実だと思っていたことの途中から、すでに夢に入っていて、夢と現実の世界の境界が曖昧になっていたからなのかも知れない――
と感じた。
マミはそう思った時、夢から覚めたと思っている今が、まだ夢の中ではないかとさえ思えた。
――前にも考えた通り、本当に夢というのが現実世界とは別世界だと思っていいのかしら?
と感じた。
ただ、気になっていたのは、
「完成した瞬間から破滅が始まっている」
という発想だった。
それは、確かに、
――形あるものは必ず壊れる――
という発想から来ているのだろうが、それ以外にも、
――一度滅んでしまってから、形がなくなったところから、新しいものが生まれてくる――
という発想も成り立つのではないかと思った。
要するに、生態系のループに似ているような気がするのだ。
たとえば、弱肉強食という言葉に表されるように、草食動物は草を食べて生きている。さらに草食動物をエサにして、肉食動物は生きている。その肉食動物を人間が食べる。さらに人間の排泄物は土に還り、草を育成する……。
この発想から、生命の分布図が形成され、
――形あるものは必ず滅びる――
という発想になるのだ。
つまりは、生態系の一角が急に増えたり、極端に減ったりすると、他の一角にも大きな影響を及ぼす。必ずその数の比率は一定していなければ生態系は成立しないのだ。
――まさか、その発想が夢の世界にも影響してくるなんて――
と思うと、他の超常現象と呼ばれていることも、この発想の中で生きてくるのではないかと思えてきた。
マミは、今回の夢の中で感じた思いだったが、
――今度こそ、この思いを忘れてはいけないんだわ――
と感じた。
しかし、そう思えば思うほど、忘れてしまうもののようで、
――どうしてこの夢を見たんだろう?
と思えば思うほど、せっかく忘れないようにしようと思った発想が次第に消えていくのだった。
――髪の毛――
夢に出てきたわけではないが。マミは髪の毛というキーワードが頭の中に残っていることに気付いていた。
それは、レナとの一夜を思い出させるもので、レナに髪の毛を触られたことが快感に繋がっていたことから、自分が眠りに就く時、髪の毛を触られたイメージを意識しているのだと思った。
眠りに就く時、
――このまま眠ってしまうんだわ――
と、わざわざ意識することは今まではなかったが、最近になって意識するようになっていたことを気にしていた。
――いつからだったんだろう?
最初は分からなかったが、それがレナと一夜を共にしてから後のことであることに気が付いたのは、この日、夢と滅亡の関係を思い出す夢を見たからだった。
――そういえば、夢と滅亡の話をしてくれた彼女、レナに雰囲気が似ていたわ――
とマミは思った。
なぜ自分がレナに惹かれたのかを考えた時、彼女の指技が忘れられなくなったからだと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。ただ、夢に出てきた彼女と、肉体的な関係になりたいなどという思いは微塵もなかったというのは、自信を持っていえる。
レナとのことだって、最初からそんな気持ちだったわけではないのに、どうしてそんな気分になったのかというのを思い出すと、
――やはり髪の毛を触られたからなのかも知れないわ――
と思った。
――私の髪の毛が何かを求めていたんだわ――
それが触られたことによる快感だけだったとは思えない。
その時、髪の毛が思ったよりもたくさん抜けていたことを思い出した。あの時、枕を見て、
――どうしてこんなに抜けるの?
と、自分でもビックリしたのを思い出した。
しかし、
――どうせ抜けた分だけ生えてくるんだわ――
と感じたのは確かだったし、そのことをまるで夢だったかのように忘れてしまっていた。
つまりは、思い出したくないこととして、まるで夢を見た時のように、記憶の奥に封印してしまっていたに違いなかった。
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