8 本当は……?
次の日に気になって見にいくと、誰かが出ていくのを見た。すれ違ったのはお医者さんのようだった。フェイシーは不安に駆られた。どうしてここにお医者さんがいるんだろう? 誰かが怪我をしたのだろうか。
フェイシーが家の前に行くと、
「あら、フェイシーちゃん」
妻はフェイシーを見つけて、声をかけてくれた。フェイシーは責められるように感じて、身をすくませた。
「よく来てくれたね、でもごめんね、今はちょっと立て込んでいて」
「どうしたんですか」
「夫の体調が急に悪くなったの。動けなくなって、喉も炎症を起こしてうまく喋れない。お医者さんはお酒の飲み過ぎだって言ってたけど、怖いねえ」
どうして? フェイシーは呆然とした。妻の願いが叶えられるように、ただ祈ったはずだった。青い花が何も作用しなかったの? フェイシーは、はじめに、青い花がただの花になってしまったのではと恐れた。なんの意味も持たない花になってしまう。叶えられない願いなんてないはずなのに。私は嘘つきになってしまうの?とフェイシーは悲しくなった。
「ああそうだそうだ、フェイシーちゃん、これあげるよ」
ドタドタと歩いて、手編みのセーターを女性は持ってきた。
「そんな」
「いいのよいいのよ。作るの楽しいんだから。この前お花をくれたでしょ、そのお礼」
辛い状況のはずなのに、ニコニコと女性は笑って差し出した。フェイシーは受け取ったが、うまく笑えなかった。青い花は確かに役目を果たして、萎れていった。もしかしたら変なふうに叶えてしまったのかもしれない。
「私のせいです……」
「フェイシーちゃんは何にも悪くないって、ほら、お花くれたでしょ? いいことしてくれたよ?」
彼女はフェイシーが原因だとは思っていないようだった。そのことを知って、フェイシーはほっとしてしまった。ほっとしてから、自分のことしか考えていなかったことに気がついた。もし責任があるのなら、責められるべきはきっと自分の方なのに。ごめんなさい、と言いたいのに、勇気が出ない。
「また来ます……」
フェイシーはセーターをぎゅっと握ると、トボトボと帰路を歩いた。
せめてもう一度、願い事を言ってくれたら……そう思って、フェイシーはお見舞いと手伝いに通い出した。女性の名前はエマだと分かったので、フェイシーは「エマさん」と呼ぶことにした。
「本当に、人生何があるかわかんないよねえ」
エマさんは編み物をする手を休めずに、しみじみと語った。
「ね、もしよかったら聞いてくれる?」
「もちろんです」
フェイシーは、今度こそ本当の願いが聞けるかもしれないと思って、前向きに頷いた。そして語られたのは、彼女の人生だった。それはフェイシーの思いもよらないものだった。
「私、もともとここの村の人じゃなくてね、向こうの村に住んでたの。……兄がいるんだけど、ずっと、ほとんどのように殴られてた。父親からも殴られて、髪の毛を掴まれて引きずられたこともあった。ここから逃げたくて、最初にプロポーズしてくれた人が現れた時に、二つ返事で頷いたの。逃げられると思ってた。でも、現実は違ったの。最初は優しかったけど、彼もまた暴力を振るうようになった」
エマさんは涙を手で拭うと、声を震わせる。
「何を間違えちゃったんだろう。ねえ、どうしてなんだろうね。どうして私だけこんな目に遭わなくちゃいけないのかな。私だって普通に生きたいだけなの、他に何も望んでいないのに……」
フェイシーは何も言えなかった。エマさんにとって、「普通に生きる」ことは、どんなに憧れただろう。それなのに、どうして理不尽な目に遭わないといけないのか、フェイシーにもわからなかった。でも、普通に生きたいエマさんが、青い花に願ったら、どうして夫が倒れることになったのだろう? その因果関係がわからない。フェイシーは考え続けていると、ふと、思いついたことがあった。
「あの」
フェイシーは勇気を出して訊いてみることにした。
「なあに」
「エマさんは作るのが好きなんですよね」
「ええ、そうよ」
「今、幸せですか?」
「幸せ?」
エマさんは驚いた表情になった。思いもよらない言葉だったようだ。
「そんなわけないと思うけれど……だって、夫が倒れて、結局私が働かなくちゃいけなくなって。確かに殴られる心配は無くなったわ。向こうは動けないもの。でもその分お世話しないといけなくなったから大変で……」
言葉があふれて止まらないようだった。エマさんもそんな自分に困惑しているようで、
「こんな愚痴を言ったって仕方ないのにね」
と弱々しく微笑んだ。それから話題が変わった。結局、フェイシーの聞きたかったことが本当なのかどうか、わからなかった。夫が倒れたということは、誰が何と言おうとも一家の支えは彼女がしなくてはいけない状況になる。「エマさん、働き続けたいのかもしれない」フェイシーはそんな気がした。それでも、エマさんが苦しそうに考え込んでいるのを見て、聞いてしまったことを後悔した。手伝いが終わると、フェイシーは心配になりながら家に帰った。
フェイシーの問いを、忘れてしまったのかなと思っていたけれど、エマさんなりにずっと考え続けていたらしい。一週間と数日が経った頃、
「私、気づいちゃったの。今が一番幸せかもしれない」
エマさんはフェイシーの耳に小さな声で伝えた。フェイシーは目を見開いて、まじまじとエマさんを見た。彼女自身も自分の感情に対して少し戸惑っているようだったけれど、さっきよりは大きめの声で理由を言った。
「夫も動けなくなって、家が静かになったし。恐ろしい考えよね。でも夫が元気になってしまったら、私は手に職も辞めてしまわないといけないのかって思うと、やっぱり……」
エマはその続きを言わないまま、口をつぐむ。フェイシーが咄嗟に「ごめんなさい」と言おうとしたけれど、エマが話す方が先だった。
「わからないわ。自分が本当はどうしたいかなんて。でもね」
エマはまたニコッと笑った。辛い状況でも笑顔でいようとする姿が、フェイシーにはとても眩しいものに見えた。
「もう誰かの犠牲になっているなんて考えるのはやめようと思う。子供のためにもね」
とお腹を優しく撫でる。フェイシーは初めて、膨らんでいることに気づいた。
「そこに子供さんがいるんですか?」
不思議に思って尋ねると、エマさんはおかしそうに微笑んだ。
「フェイシーちゃんだってそうでしょ? みんなお母さんのお腹の中から、赤ちゃんでね、生まれて、大きくなったんだから」
「そうなんですか」
フェイシーはしばらく黙った後、自分自身に想いを向けた。答えのない問いが、フェイシーの心を支配した。
「どうして私は作られたんでしょうか」
蝶人形として。人間ではなく、人間に似た何かとして。
でも、エマがそれを知るはずはなかった。優しいまなざしでフェイシーを見ながら、話し出す。
「きっとあなたを愛してたからよ。誰だって自分の子供は可愛いものだって言うもの」
そうなのだろうか? フェイシーはあの人を思い浮かべた。そこには優しさや温かみは感じられなかった。わからない。本当に自分は愛されていたのだろうか? まだ、答えは出せそうにない。
相手の嬉しそうな笑顔が見たくて、フェイシーは夢を叶える代理人になろうとした。それでも、本当の笑顔や達成感は、やっぱり自分で叶えてこそ得られるんだ……。フェイシーができるのは、ただ一輪の青い花をプレゼントすることだけ。けれども、それさえない方がいいこともあるのだろうか?
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