第20話 一難去って

「おはようございます」

 朝、美澄が事務室に行くと、いつもはいない雷鳴坊がいて、平花が半泣きになっていた。といってものっぺらぼうのままだから、雰囲気だけで察したものだけど。

 櫻子も美也もいて、2人とも困り顔だ。

「どうしたんですか?」

 いつもと違うただならぬ雰囲気に、美澄がそう聞くと、答えたのは美也だった。

「青次が風邪をひいたんですよ」

「妖怪も風邪ひくんですねぇ」

「珍しいことなんですけどね。ここのところ暑かったり、寒かったりしたし、青次は外にいることが多いですから」

 ドアマンとして働く送り雀の青次は、客が朝から夕方まで外に立っていることが多い。春で暖かな日が多いとはいえ、急に寒くなる日もあるから風邪をひいてしまっても仕方ないだろう。

 だが、それで平花が泣きそうになっているのは意味が分からない。

「なんで青次さんが風邪をひいたら、平花さんが泣きそうな雰囲気なんですか?」

 もしかして知らないところでお付き合いでもしているのだろうかと一瞬思ったが、それは平花自身に打ち砕かれた。

「私がドアマンなんて無理ですぅ」

「え?」

 思わず美也を見ると、相変わらず困った顔をしている。

「他にドアマンをする従業員がいないんですよ」

「う、潮さんとか東吾くんとかダメなんですかぁ」

「2人とも調理場の仕事があるでしょうが」

「ううっ、私だって経理の仕事がありますぅ」

「急ぎじゃないので、今日は経理の仕事しなくていいわよ」

 美也がそう言っても、めそめそとした空気は変わらない。目がないので分からないが、あったらきっと泣いていそうな雰囲気だ。

「今までこんなことがあったらどうしてたんですか?」

「青次がここに来て風邪をひくのは初めてなんです」

「初めての事態ってことですね」

「そういうことです」

「平花。諦めて今日だけでもドアマンしてくれないか?」

「旦那さまぁ」

 雷鳴坊の言葉に、平花の悲痛な声が漏れる。

 それでもこのホテルの主である雷鳴坊の言葉には逆らえないのか、肩を落としてくすんと鼻をすすった。もちろん鼻もないので音だけだが。

「平花。人間に化けなさい」

「はい……」

 雷鳴坊にそう言われて、平花が後ろを向く。化ける瞬間を見せたくないのか、振り返った平花には眉毛も目も鼻も口もあった。

 顔のある平花は、美澄と同じくらいの年齢の、地味な顔立ちの女性だった。

「平花、急いで化粧をして。お客様のお見送りの時間になってしまうわ」

「化粧!?」

 美也が急かしながら言うと、平花から悲鳴が上がった。

「け、化粧なんてもう20年以上してないのよ?」

「昔はブイブイ言わせてたじゃない」

「現代の化粧なんて分からないわよぉ……昔のケバいやつしか知らないもの」

「眉が太いアレね」

「化粧品も全部捨てちゃったし……」

 不意になにかを思い出したように、平花が美澄を見る。そうして美澄に詰め寄ると、泣きついてきた。

「若奥様! 私に化粧を教えてください」

「え?」

 そういえば先日マミに化粧をしてやったのは、この事務所内だった。もちろん平花もここにいて仕事をしていたから、見ていたのだろう。

「いいですよ」

「ありがとうございます!」

「これで一安心だな」

「よかったわぁ、美澄さんがいてくれて」

「儂らは仕事に戻るから、美澄さんあとは頼んだよ」

「はい」

 雷鳴坊と櫻子がそう言いながら、事務所を出て行く。残されたのは美澄と平花と美也だ。

 時計を見るとあまり時間はないようだ。

「時間がないので急ぎましょう。平花さんはヘアピンで前髪を上げていてください」

「は、はい」

 鞄の中に常備しているポーチからヘアピンを出して、平花に渡す。ポーチの中には試供品でもらった化粧水と乳液のセットと化粧下地が入ってる。マミに結構譲ったが、まだ残っているのがあったはずだ。

 平花はマミと違って化粧素人ではない。だから、できるところまでは自分でやってもらう。

「平花さん、この化粧水と乳液と化粧下地をつけてください」

「はい」

 その間に平花の肌の色をチェックする。マミのように日焼けをしているわけではないし、地肌も美澄に近いのでファンデーションは同じものが使えるだろう。

 アイシャドウの種類はそんなにないが、大人の女性として良さそうなブラウンを手に取った。

「で、できました」

 控えめな平花の声が聞こえて、美澄がそちらを見る。

「では、ファンデーションつけていきますね。アイシャドウはこのブラウンのもの。あとは取りに帰っている時間がないので、私のものをつかわせてもらいます」

「お、お願いします」

 パフにファンデーションをつけて、平花の顔に塗っていく。日頃外に出ないのか、染みもそばかすもない綺麗な肌だ。

「平花さん、日頃外に出ないんですか? のっぺらぼうって外に出れない妖怪じゃないですよね」

「用事がなくて……私住み込みですし」

「カフェに行ったり、買い物に行ったりとかは?」

「東京にあるようなおしゃれなカフェはこの辺りないし、買い物は通販です。いい時代になりました」

「まぁ、確かに」

「平花は通販魔なんですよ。なんでも通販で買っちゃうんです。音楽も本も服も全部」

 東京と違ってこの田舎では買い物だって一苦労だ。欲しいブランドの服は売っていないし、化粧品だってデパートのある大きな市まで行かないといけない。

「だって外に出るには人間に化けないといけないじゃないですか」

「そりゃそうですけど」

 ファンデーションを塗り終わり、眉を描く。少しだけハサミで整えてやるだけで、ぐっと印象が変わる。

「化粧した状態に化けることはできないんですか?」

 アイシャドウを塗りながらそう聞くと、答えたのは美也だった。

「それが出来ないんですよ。顔もこのままです。美人になりたくても、この顔のままなんですよ」

「遺伝、みたいなものですか?」

「そうですね」

 太郎坊に雷鳴坊という父親がいるように、美也や平花にも両親がいるのだろう。きっとその人たちは彼女たちに似ているに違いない。

「わ、私も化けるなら、もっと綺麗に化けたい……」

 美澄にチークを塗られていた平花がそうぽつりと漏らす。

「平花さん」

「は、はい」

「化粧で綺麗にしてあげますから」

「わ、若奥様……」

 泣きそうな顔で平花が美澄を見上げる。といっても本当に泣かれては困るので、美澄はすぐさまビューラーをポーチから出した。

「あとはマスカラと口紅です。ビューラーは使えますよね?」

「は、はい。そのくらいは」

 怖々とビューラーを睫毛に当てながら、時折痛がる声が上がる。

「いたたっ……若奥様、できました」

「よく上がってますね。マスカラ塗っていきます」

「はい」

 睫毛が伸びると噂のマスカラを平花の睫毛に塗っていく。つけまつげをしないでも、しっかりとした睫毛になるこのマスカラは美澄のお気に入りだ。それを平花の睫毛に塗っていけば、目元が華やかになった。

 その出来に満足して、仕上げとして美澄が口紅のパレットを取り出す。

 ドアマンなのだから派手すぎず、かといって地味すぎてもいけない。平花の地味な顔立ちが華やぐように、落ち着いたピンクの口紅を選んだ。

「口紅塗りますね」

 平花の薄い唇に、ピンクの口紅を塗る。それでこの化粧は終了だ。時計を見ると、時間はそれほど過ぎていない。そのことにほっとして、美澄は平花に声をかけた。

「できましたよ。今鏡を出しますね」

 ポーチから小さい手鏡を出して、平花に渡してやる。おそるおそるそれを覗く平花の顔が、一瞬にしてぱあっと明るくなった。

「凄いです! 私じゃないみたい」

「喜んでもらえてよかったです」

 マミもときもそうだが、喜んでもらえると嬉しい。10年以上そうやって働いてきたのだ。やはり人に化粧をするのは好きだなと、美澄は改めて思った。

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