第12話 7月14日(水)

「ああ、生きてる……よかった……」

 桐乃を抱えながら、僕は森林公園入口でようやく呼吸ができる。ここまで生きた心地がしなかった。

 むわっとした夕方前の空気に、しかしあの場から離れられた安心感が勝った。

「お疲れさま。案外動けるね」

 我妻は僕の運動能力に関してメモをしているのか、例の手帳に書き足していた。

「妹一人くらい、抱えることはできるよ」

 さすがに、と桐乃を抱えなおした。

 当の桐乃は、泣き疲れてしまったのか黙って抱えられている。

 腕に伝わる体温が高く、この様子だと家までで寝てしまうかもしれない。

 密着していて暑いが、今は桐乃が安全であることに、ほっと息をつける。


 それを、我妻はよくわからない笑顔で見つめていた。

「兄というものは大変だね。嫌われて、それでも行動して」

「ん?ああ」

 我妻の質問に、僕は自嘲気味に笑う。

「桐乃は、僕が母さんの味方をするから、僕を嫌ってるだけだよ」

 でも、桐乃は母さんの全部が全部嫌いなわけじゃない。ただ、反抗しているだけだ。

 その流れ弾で、桐乃は僕を嫌って、反抗している。

「母さん母さんなんて言ってると、マザコンって言われるかもしれないけど」

 別に我妻の手帳にマザコンと書かれても、まあ困らない。

「母さんは僕の味方になってくれたから」

「へぇ」

 我妻は催促することなく返答する。けれどそれは僕の言葉を促しているようにも思えた。

 なぜだか、僕の口は開いてしまう。

「昔さ、僕の運動音痴ぶりを心配した父さんに、サッカークラブに入れられたんだ。でも運動音痴は治らなくって、僕はフィールドだと邪魔だからキーパーにされたんだけど……」

 今でもサッカーボールは苦手だ。

「やっぱり運痴だから、ボールが体に当たってどこもかしこもあざだらけでさ」

 ボールのいくつかは、わざと当てられたものだった。

「体にも顔にも、痣作っていきたくないって泣いてた僕を、父さんは引きずってでもクラブに参加させようとしたんだけど。それを止めてくれたのが、母さんだったんだ」

 今でも忘れない。

 泣いて泣いて、お漏らしをするほど嫌がっていた僕を、父さんから抱き奪って、もうやめてくださいと懇願した、母の姿。

 父さんだけでなく、同居していた祖父母にも頭を下げて、僕を助けてくれた。

 初めて他人にしゃべる、昔話だ。

「だから、僕は母さんの味方でいたいんだ」

「ふぅん」

「まあでも、僕は母さんの味方だけど。それだけじゃなくって、桐乃の味方でもあるからさ」

 その言葉は我妻だけでなく、今抱えている桐乃へも。


「だから君は変態紳士たりうるのだろうね」

 世のエゴイスティックな変態共に爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。と我妻はぼやく。

「いやまぁ、その」

 褒められているのかけなされているのか、僕は返答に困った。

「それなりの倫理観を持ち合わせる上で、母さんや、祖父母の存在は欠かせなかったとは思うけどさ」

「そんな謙遜するな。家族の存在は人格形成に重要な役割を果たす。特に三世帯で暮らすということは、気を使わなければならない存在祖父母がいるのだから、自然と集団内でのふるまいが身につくわけだ」

 我妻は肩をすくめる。

「我が家は核家族どころか、別居状態で参考にすらできないけどね」

「え、なんかごめん」

「気にするな。状況としてはそこそこ愉快で、楽しめる」

 我妻の声に強がりなどは見られず、本当に現在の家庭環境を謳歌しているのだろう。

「パパがね、基本的に他人に嫌われてるから。ママにも嫌われてるし」

「た、大変だね」

「私は割と面白い人だとは思うけど」

 それでも毎日一緒は疲れるけどね。

 なんとなくわかる。僕も我妻といると疲れるもん。

「けっこう、普通の家庭とは、あ、ごめん」

「気にするな。別居状態がスタンダードでないことは重々承知だ」

 『普通』発言に、怒られると思った。しかし意外なことに我妻は柔らかい態度だった。

「僕の家も、スタンダードかと言われると違うだろうけど」

 核家族化が進み、三世帯は少ないほうだ。

「特殊だがな、まあまあ楽しいぞ。ママとパパの家を行き来するのは。実家が二つもあるからな」

 確かにそれは面白い状況だ。

 そんな特殊な状況だから、我妻のようなアグレッシブな人間が生まれるのだろう。

 その体力と行動力は見習いたい、と僕は思う。


「あ」

 自宅が見え始めた。表札が夕日を照り返している。

「じゃあ、家あそこだから」

「知ってる~」

 だろうな。

 けらけらと笑う我妻は駅の方向へ消える。父親か母親、どちらかの家に帰るのだろう。

 僕は少し重い足を進めた。

 手の甲で軽く汗を拭い、桐乃を抱えなおす。

「全部正直にしゃべろうな。兄ちゃんも隣に、いてやるから」

 僕の制服を掴む手が、きゅっと握りなす感触。

 桐乃からの返事はそれだけで十分だった。

 母からは、早退やらなにやらで僕も桐乃も怒られるだろう。

 兄妹おそろいだ。

 玄関を前にして深呼吸。


「ただいま」

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