2章 昆虫証明

第8話 7月13日(火)

「ただいまー」

 汗をふきふき、僕は重い体を引きずるように帰宅した。

 応援団の協力が得られることは、戦力が増えるためありがたかった。しかし、その説明やら挨拶やらなにやらで、結局放課後も潰れてしまい大変だった。

 あんなに大勢の人を相手するのは初めてだし、なにより、彼らは声が大きいからこちらの体力もそがれる。

 とはいえ、今日は僕の潔白を証明することができた。

 一歩進めたことは確かだろう。わずかな一歩だが、真犯人を暴くことができる、その確信と自信を得られたことは何よりもの幸いだ。

 いじめも、すぐになくなるわけではないだろうが。小野が説得してくれると言っていた。以前よりはましになるかもしれない。

 とりあえず、今日は我が家で安心して休むことができる。

 ああ、ベッドの上で冷房に当たりながら花宮さんを思い浮かべながらまどろみたい。


「いいかげんになさい!」

 そんな僕の願いは、一瞬で吹き飛ばされた。

 玄関開けたらお説教。

 好まれる光景ではない。

 説教の主は母。説教を受けているのは十歳年下の妹、桐乃キリノ

 妹は制服にランドセルを背負ったままの姿だった。妹は三浦学園初等部に通っている。

 初等部は現在夏服。白のセーラー調の制服のはず。しかし、妹の服は無残にも泥で真っ黒に。加えて手に持った虫かごは潰れて壊れている。

 いったいなにがあったのか。

「母さん、どうしたの?」

 僕は妹が心配になり、思わず割り込む。

「このこ、また制服のまま虫取りにいったのよ。しかも今回はこんな泥だらけで道具も壊して」

 はぁ、と母は重いため息を吐く。そして玄関にずらりと並んだ虫かごに鋭い視線を向けた。全ての虫かごに、昆虫が入っている。

 母は虫が嫌いだ。虫かごの昆虫は、全て桐乃がとってきた。嫌いなものがこうまで並んでいるとストレスだろう。

 僕も別に好きではない。かといって、妹の興味関心を邪魔することはできず、母と共にただ押し黙る。

 僕は籠の中のクワガタの、無機質な姿から目を逸らし、妹、桐乃に視線を向ける。

「ただいま、桐乃。泥だらけでびっくりしたよ。怪我はないか?」

 膝を折って妹と目線を合わせた。

 桐乃はその柔らかい眉間にしわを寄せる。僕の質問に、煩わし気にうなずいた。

 僕はいつもの様子に、特に指摘することはない。怪我がないことを確認し、意識して口角を上げた。

「そっか、よかった」

 桐乃が持つ虫かごに目を落とす。

「また虫をつかまえようとしたのか?桐乃は虫取りが上手だもんな」

 こくり、と桐乃はわずかにうなずいた。

「上手なのも悩みどころよ」

 母はまた深くため息を吐く。

 桐乃の虫取りを、いい加減止めたいところだが、母は強く言えない。

 理由は我が家の家族構成にある。我が家は三世帯。祖父母と両親と僕たち兄妹で暮らしている。

 そして、母は嫁いできた身。孫をかわいがる義理の両親の手前、子供の興味関心に対し強く言うことができない。父は特に口を挟むことはない。

 ストッパーがないぶん、孫かわいいという感情に負け祖父母は飼育キットなどをひたすら買い与えてしまうのだ。母にも僕にも止める手段はなく、もう、どうしようもない。

 そんな状況の中で、母の心労はいかほどか。考える間もなく、察することができる。

 だから、こういうのを言うのも、この家の中で僕に割り振られた役目だと思っている。

 できるだけ桐乃の目を見た。

「桐乃。桐乃は虫を捕まえるの、楽しいだろうね」

 でもね、と僕はなるべく優しく発声する。

「服を洗ったりするのはお母さんなんだよ?」

 覗き込んだ妹はいじけた顔だ。

「せっかく買ってもらった制服もランドセルも汚れちゃって、お母さん、悲しいだろうから。だから、あんまり心配されるようなことはしないようにしないとな」

 同意を促すように、僕は桐乃の表情を探った。

 しかし、むっ、と唇を突き出す桐乃。

「桐乃?」

 返事を貰おうと聞き返すが、それがいけなかったのか。

 どん、と肩に軽い衝撃が走る。

「うわっ」

 僕はバランスを崩ししりもちをついた。桐乃が僕を突き飛ばした。

 痛くはないが、僕はぺたりと座ってしまった。

 叱る間もなく、僕をしり目に、桐乃は自室に走る。

「頭おかしいお兄ちゃんに言われたくない」

 小学生とは思えない、冷たい声音。

「桐乃!」

 母の怒声が届く前に、子供部屋の扉が閉まる音がした。

「……あの子、まったく、もぅ」

 母はもう困ったように首に手を当てた。

「大丈夫だよ、僕は怪我してないし」

 桐乃をかばうようについ言葉が漏れる。

「甘やかしすぎたわね」

「あとで僕が言っておくから、母さんは心配しないで」

 なるべく母に心労を貯めさせたくない。

 だから僕がしっかりしなければ。

 僕は無意識に口元に寄せていた親指を強く握りこみ、母に笑いかけた。

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