第9話前編 それぞれの想い
どうしてこうなってしまったのだろう。ベッドに身を横たえた私はそんなことを思った。照明の明かりが眩しかった。瞼を閉じてもチラチラとその光は網膜を舐めた。その光の束が今日の午後の出来事の記憶を運んできた。
彼女の体温。少し濡れた髪。背中に回された大きな手。微かに香るシャンプーの匂い。
彼女を構成する全てがかつてないくらいに私の近くにあった。そして彼女を構成する全てが不思議なことに私を求めていた。私はその近さと熱さにびっくりして思わず彼女を突き飛ばしてしまった。
私は思わずぎゅっと手を握る。今でも掌に彼女の身体を押しのけた時の感触が残っていた。そして今でも脳裏には私に拒絶された瞬間の彼女の呆然とした顔が投影されていた。その顔が私の胸をチクチクと刺した。彼女は彼女に拒絶された時の私と同じ顔をしていた。拒絶されることの痛さや辛さが痛いくらいにわかるからこそ、彼女を傷つけたという実感が色濃く感じられて息が詰まるようだった。
私はただ彼女の隣に居られればそれで良かった。それ以外のことは何もいらなかった。けれど彼女はそうではなかった。実際彼女は私に告白をする時に言っていた。
「かんざしとキスをしたいと思う私」
それが彼女の中に存在すると。そしてそれが織り込まれた彼女の気持ちを私はたしかに受け入れたのだ。それなのにいざその時になったら私は彼女を突き飛ばした。
酷いのも悪いのも全て私でこんな理屈じゃ言い訳にもならないけれど、私の中でキスやハグといった行為もそれに付随する好意も全てが現実感のないものだった。
ずっと私には、彼女の隣にいたいという願いだけがあって、誰かとそういった関係になるなんて考えたこともなかった。もちろん彼女とも。
私はその彼女がくれた好きという感情を軽視しすぎていた。私は彼女がくれた好きという感情を良く吟味もせずに彼女の隣にいれるというただそれだけのために彼女の気持ちを受け入れた。
恐らく私は最低なことをしたのだと思う。彼女の気持ちを踏み躙ったも同然の行いをしたのだと思う。
彼女とまた離れるのは嫌だ。けれど彼女の気持ちを身をもって知ってしまった今では彼女の隣に居続けるという私の願いが彼女にとって酷く残酷なものにも思える。恐らく私が隣にいることで何度も彼女を傷つけてしまう。
それならば私も彼女と同じ気持ちを持てばいい。私も彼女を好きになればいい。
私は赤熊とまりのことが好き。
頭の中で発した言葉には現実感が欠如していた。そこに彼女の感情と同じような質量を感じることはできなかった。
そもそも好きってなんだろう。ずっと隣にいたいというこの気持ちは彼女の好きという気持ちとどう違うのだろう。
どうして私の変身は彼女のそれより遅いのだろう。いつから彼女は変身したのだろう。
私もいずれ変身を果たすことなく蛹の中で死に絶えるのだろうか。
◇
学校へと続く坂道を傘が埋め尽くしていた。桜の葉が雨の露を抱えて弾いて青々と光っていた。昨日から雨は降り続けていた。
気分が憂鬱な時にその象徴として降る雨なんてチープな小説の陳腐な描写のようだと思った。けれど実際その雨は私の憂鬱な気分を象徴しているように感じられた。
私は鉛のように重い心臓を抱えて坂を登っていた。靴の隙間から雨水が侵入してきて濡れた靴下が気持ち悪かった。傘と逆の手で持つ鞄もいつもより重く感じた。鞄を濡らさないようにするあまり肩が雨に濡れて冷たかった。胸に何かがつっかえたように呼吸が苦しかった。恐らく胸の中でつっかえているのは彼女の存在だった。
生まれて初めて私は彼女と顔を合わせたくないと思っていた。けれどクラスが同じである以上、彼女とはどうしても顔を合わせることになる。その時に私はどんな態度でいればいいのか、どんな言葉をかければいいのかわからなかった。足取りは自然と重くなった。このまま学校に着かなければいいのにと思った。家に帰ってしまおうかとも思った。けれどそれらの考えはただの投げやりな妄想で、実際の私は周囲の生徒たちの流れに流されるように坂を上っていた。
私の歩みに呼応して学校はどんどんと近づいてくる。圧迫され続けた心臓が遂には悲鳴を上げ息切れしたように呼吸が苦しくなった。学校に近づくにつれて彼女の存在感が増していった。私は未だに彼女とどんな風に顔を合わせればいいかわからないでいた。
わからないままで校門を潜った。そこからは一瞬だった。靴箱で靴を履き替え、傘立てに傘を刺し階段を登って廊下を歩いて、流れに身を任せているうちに教室のドアの前にたどり着いた。私は未だ煮え切らない胸の内を抱えたまま、目の前のドアを開けた。
彼女の姿は教室のどこにも見当たらなかった。私はほっと息を吐いた。それから自分の席に向かい腰を下ろした。
結局、彼女は教室に姿を現さないまま、ホームルームが始まった。教団に立った先生が開口一番に告げる。
「それではホームルームを始めます。早速出席確認ですが、今日は体調不良でお休みの赤熊さん以外に欠席の人はいませんね」
その先生の言葉に私はほっと胸を撫で下ろした。
それから、さっきも今も、彼女がいないと分かった瞬間に安心してしまった自分に気づいた。何て私は酷いのだろうと思った。
何で彼女はこんな私のことを好きになってくれたのだろう。
彼女のいない教室でその問いに答えてくれる人はいなかった。
チョークが黒板を擦る音と先生の抑揚のない声が教室に響いている。六時間目ということもあって周りには机に突っ伏している人が何人もいた。それに釣られて私の口からも欠伸が溢れた。
彼女のいない一日は、時間を薄ベラで引き伸ばされたように長くてつまらなかった。それは私に彼女と疎遠になっていた時の気持ちを思い出させた。遥か昔のことに思えるけれどたった一、二週間前に私が味わっていた感覚が今も目の前にあった。授業も休み時間も昼食も全てがつまらなくて起伏がなくて無色透明。そこでは六十秒はしっかりと六十秒だし一時間はしっかりと一時間だった。久しぶりに現れた等身大の時間は一人で消化するにはあまりに膨大で、私は前と同じように本を読んで授業を聞き流して何とかそれをやり過ごしていた。
朝に感じたような安堵はとうに消えていた。ただ、やはり彼女を傷つけた罪悪感は消えなかった。彼女に会いたいけれどどんな顔をして会えばいいのか、どんな言葉をかければいいのか分からなかった。
本当にどうしてあんなことをしてしまったのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。後悔と焦燥がただひたすらに募る。
これから私はどうすればいいのだろう。
前に彼女と疎遠になった時はもう一度友達になるよう頼むつもりだった。別に特別じゃなくてもその他大勢でも良いからと。そして実際にそれを伝えた。それ自体は彼女の告白もあって有耶無耶になったけれど、どのみち今はその方法はとても使えそうにない。だって彼女が私に望んでいるものは友情ではないから。
彼女は私のことが好きだから。
いつまで経ってもこの事実に対しての実感が湧かない。私はこの事実をまだ消化できていない。なのに私は彼女の隣にいれるという事実にばかり目を向けてそれを消化しようとすらしていなかった。
恐らくはそれが悪かったのだろう。私はこれからしっかりと彼女の気持ちに向き合ってそれに釣り合う何かを返さなければいけない。
それは簡単なようで難しい。だって私にはまだ好きという気持ちがわからない。
彼女の隣にいたいという気持ちだけを抱えてそれに守られてきた私に、それはとても壮大なもののように思える。だからその渦中に、それも彼女の感情の渦中に私がいるということは更に壮大な事実で、それが私に現実的な実感を失わせる。
ましてや彼女と私の身体や唇が触れ合うなんてそれはあまりにも近すぎる。あの時と同じ考えが再び脳裏をよぎる。あの光景や感触を思い出すだけでそれは容易に私の心の許容量を超えて鼓動が心臓から溢れ出す。彼女の好きという気持ちでさえも受け止めきれていないのにキスの記憶なんて受け止めきれるわけがない。私は逃げ出すように黒板の上の時計へと視線を移す。ちょうど長針が頂点に達しようとしていた。
「今日の授業はここまで」
先生の言葉と同時に鐘が鳴った。
◇
次の日もその次の日も彼女は学校に来なかった。私の目の前に再び色の無い霞んだ生活が現れた。
私は袋小路にとらわれたようにぐるぐると同じようなことを考えていた。彼女の気持ちについて。私の気持ちについて。そして好きという気持ちについて。
それらの思考が彼女に対しての罪悪感とないまぜになって私の心にいつまでものしかかっていた。それらは一時も離れることはなかった。私にとってそういった悩みを忘れるくらいの何かをもたらしてくれる存在は彼女だけで、しかしその悩みが彼女に根ざしたものである以上、私はその悩みから逃れることはできなかった。そこから逃れるために私は何かしらの答えを出さなければいけなかった。そしてその答えを引っ提げて彼女に会うことが必要だった。
しかしその答えは今の私には到底見つかりそうにもなかった。考えれば考えるほど深みに引き摺り込まれていった。
幾度も思考の海に沈む私を他所に学校の時間は進行していく。あとは紫月さんが号令をかければ学校は終わりで放課後が訪れる。そうすれば彼女を待つ必要のない私は坂を下ってまっすぐ家へと帰る。家から目と鼻の先に彼女はいる。しかし私には彼女に会うために必要な答えを何も持ち合わせていない。そうしてまた彼女がすぐ近くにいるにも関わらず思考の海に沈んで悶々と時間を浪費する。そんな諦念混じりの想像が頭をよぎった。
「起立、気をつけ、礼。さようなら」
私の想像をなぞるように紫月さんが号令をかけ放課後が訪れる。一気に喧騒が訪れて人が行き来し様々な集団が形成され始める。私はその中を縫うようにして教室の外へと向かう。
「広田さん」
不意に名前を呼ばれて私は振り向いた。その視線の先には話したことのないクラスメイトがいた。よく見ればその子は普段彼女と一緒にいるグループの女の子たちの内の一人だった。
「ごめん。広田さん。ちょっと良いかな」
そう繰り返す名前も知らないクラスメイトは真剣な眼差しで私を見つめていた。私は無言で首を縦に振った。
「私は石橋ほのか、よろしくね」
名前も知らないクラスメイトに名前がついた。石橋さんはまず初めにそんな自己紹介から話を始めた。
「いきなり話しかけてごめんね。けどどうしても広田さんと話がしたかったの」
そんな風に語る石橋さんの口調や佇まいは静かで落ち着いていて、その態度は部活の人たちでいる時の賑やかな態度とは一線を画していた。
「話ってなんですか?」
私は恐る恐る尋ねた。どうして石橋さんが私に話しかけてきたのか見当も付かなかった。ただチラリと彼女の顔がチラついた。まさか彼女についての話ではないだろう。しかし私の些細な危惧は現実のものとなった。
「ああごめんごめん。話しって言ってもそんな大層なものじゃないよ。ただ私が言いたいのは一つだけ。」
石橋さんは人当たりの良さそうな笑顔でそう前置きした。しかし次の瞬間ふっとその笑顔を取り下げて
「とまりときちんと向き合ってあげて欲しいんだ」
真剣な表情でそう言った。
その言葉を聴いた瞬間、私は頭を金槌で打たれたような衝撃に襲われた。石橋さんという第三者の言葉は私の脳天をかち割った。そこからドロドロとしたドス黒いものがこぼれ落ちるようだった。唖然として言葉を発することのできない私に石橋さんは柔らかな口調で続けた。
「本当は人の関係に口を出すのは良くないってわかってるんだけど、これだけはどうしても言いたくて。だから、とまりのことよろしくね。それじゃあ」
そう言って石橋さんは私の前から去っていた。私はずっとその場で立ち尽くしていた。
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