第3話 車窓

 Iさんの家は、窓から電車の通る鉄橋をが見える。


 Iさんの一日は始発の走行音から始まり、終電列車の走行音で終わる。


 毎日忙しなく走る電車の走行音を聞いてIさんは小さい頃から育ってきた。


 夜寝る前には最終列車が走り去る音を聞いて、「あぁ、一日が終わった」と無意識に一息つくのが、密かな日課にもなっていた。


 そのためか、Iさんはなんとなく電車のダイヤを把握していた。時計を見れば「あぁ、そろそろ電車が来る」と調べなくても、思い出せるくらいには馴染んでいた。




 その日もIさんは普段通り、最終列車の通り過ぎる音を聞いた。終電だとわかると、途端に眠くなる。


 終電が来れば一日が終わり、あとは眠るだけだ。


 長い間に刷り込まれた習慣だ。ベッドに潜り込み、睡魔に誘われるままIさんは眠りに着いた。


 ただ、その日は夢うつつに、終電を過ぎたはずなのに遠い意識の中で、電車の走る音を聞いた気がした。


 次の日起きた時には、そのことは忘れていた。




 Iさんは大学生で、電車通学だ。幾つもの山を越えて、遠方の大学に通っている。そのため早寝早起きの健康的な習慣を送っているが、大学生という年頃のため夜更かしもしたいし、友達と深夜まで飲み歩きもしたかった。しかし親の反対を押し切って進学した学校のため、あらゆる誘惑を抗って、Iさんは外出を最低限に控えていた。


 しかし、時には授業や研究のため夜遅くに帰らなければならない日もある。


 その日は研究課題が思いのほか長引いてしまい、珍しく夜遅くまで居残ってしまった。ちょうどいい電車も逃して、Iさんは終電で帰ることになった。


 終電に乗るのはあまり気が乗らない。――いつもならこの電車の音を聞きながら部屋のベッドで微睡んでいるはずなのに、それができないなんて。


 Iさんは誰か友人の家に泊めてもらえばよかったかもしれない、と思った。


 欠伸を噛み締めながら、Iさんは最寄り駅に降りて、街灯を頼りに夜の道を歩き出した。


 田舎の住宅街は夜が早い。人通りも少なく、営業している店なんてもはやなかった。夜風に体を震わせながら、Iさんは早足に家までの帰り道を急いだ。


 その時、列車の走行音が聞こえた。


 線路と鉄のタイヤが擦れる金切り声のような音。地面の奥底からうめくように鳴り轟く、静寂な深夜に似つかわしくない、首の後ろが痺れるような気味の悪い音。


 遠くで聞こえていたそれが、次第に近づいてくる。


 Iさんは頭上を見上げた。そこは家の窓からも見える鉄橋のすぐそばだ。


 遠くから電車が近づいてくるのが見えた。


 車庫に戻る途中の列車だろうか、とIさんは首を傾げた。


 しかし、その奇妙な列車は遠目から見ても、満員電車のように見えた。


 最終電車が走り去った後にやってくる——何か。


 Iさんは目を凝らし、目を見開いた。


 その電車の車窓には、男たちの顔が張り付いていた。


 男たちはみんな、まるで何かに憑かれたかのような茫然とした表情をしていた。よく見ると着古した襤褸のようなみすぼらしい恰好で、どこかやつれて青い顔をしている。


 人肌というにはあまりに白く、青く、暗かった。


 あれはなんだ、とIさんは目をみはった。


 電車はそのまま当たり前のように通り過ぎ、遠くへと走り去って行った。




 後ほどIさんはこの線路の向かう先の山は、以前は大きな炭鉱であったという話を聞いた。


 今ではすでに廃れており、跡地しか残っていないということだが、その話を聞いた時にIさんは真っ先にその夜に見た奇妙な列車を思い出した。


 しかし、なぜ深夜の近代的な列車に、彼らの炭鉱の男たちの姿が映るのか、その関連についてはIさんにもわからないということだった。


 今でも時々、終電が過ぎた後、Iさんは列車が走り去る音を聞くことがあるという。

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