第五章:矛盾する犬(4)

 円筒の怪物の防御を突破するのは、容易ではなかった。

 矛を展開する際には盾の隙間が出来るが、近づくのは容易ではなく、矛を叩き潰して接近しようとするとすぐに隙間は埋まってしまう。しかも矛は一度盾を閉じてしまえば無限に再生し、尽きることがない。

 まさに攻防一体の無敵要塞といった怪物の姿に、マリィもフランも、そしてレイも攻めあぐねていた。


「厄介だね……アタシやフランの神器じゃ傷一つつかない」

「ワタクシの神器でも矛を折るのが精一杯ですわ……このままではジリ貧ですわよ?」

「ちょっとだけ……あとちょっとでも隙があれば……」


 三人の声を聞きながら、リオはじっと前を見据えている。

 彼女たちがやってきてから、饒舌だったアズサの声が聞こえない。攻撃への対処に追われているだけかもしれないが、心を閉ざしてしまったようにリオには感じられた。

 踏み込むな、と彼女は言った。

 誰とでも仲良くしたいと言った彼女が、友達なら踏み込むな、と。そこに、アズサの秘めた恐怖の根源があるように思える。

 彼女を救うためには、彼女の恐怖を理解する必要がある。フランも、レイも、そして自分も、最後は自身の恐怖を他者が理解し、自身もそれと向き合うことで神性から解き放たれた。

 だから、考えろ。リオは自分に鞭を打つ。


「レイさん、最初の時みたいに、怪物の動きを一瞬だけ止める事って出来ますか?」


 後退してきたレイに問うと、彼女は一瞬考えるような表情をしてからすぐさま断言した。


「出来るか、ではありません。やって差し上げますわ!」

「ありがとうございます! タイミング、合わせてください!」


 ウインクして前線に戻っていくレイを見送りながら、リオは軽く深呼吸する。

 ここからは、賭けだ。


「お姉さま、少し手を貸してください! フランさんはレイさんと一緒に攻撃を!」


 リオの声かけにマリィが応え、フランはちらりとこちらを見てから覚悟の表情で頷く。

 説明を聞いたマリィは難色を示すように眉をしかめたが、リオの決意が固いことを見て取ると、ため息をつきながらも了承した。

 もう一度、リオは円筒の怪物を見据える。

 アズサの顔を思い浮かべ、リオは叫んだ。


「アズサ! もう一度お話ししよう!」


 ぐっと踏み込み、残る力を振り絞って前に出る。同時に、レイに向けて合図を送った。


「レイさん!」

「承りましてよ!」


 大槌を腰だめに構えつつ突進するレイ。フランがチェーンソーで牽制する横をすり抜け、レイの気迫が大気を裂いた。


「狂える星辰、幻夜げんやおののけ!」


 振り抜いた大槌が怪物に当たると同時、巨大な衝撃波が巻き起こる。周辺の矛がなぎ倒され、空間を強制的に揺らす波動が怪物に動くことを許さない。

 その間に、マリィはリオを抱えて飛翔し、怪物に向けて放り投げた。勢いをつけたリオは大剣を大きく突き出す。

 多量の矛を失った円筒の怪物、その盾の隙間に。

 軋むような金属音が鳴り、盾が大剣を噛んだ。盾はすべてが連動しているようで、それ以上閉じることが出来ない。

 同時に、矛も一度盾を閉じない限りは再生出来ず、回転のために盾を開けば大剣が深く突き刺さることになる。

 大剣を握りしめたまま、リオはもう一度アズサに呼びかけた。


「聞いてアズサ。わたしは知りたいの、アズサのこと。アズサが何を恐れてるのか、教えてほしい。怪物になってまであの子を拒絶した理由を、聞かせてほしい」

『……それを知って、どうする』


 これまでとは打って変わった重苦しい声が響く。明らかな防衛的態度に気を引き締めながら、リオは慎重に言葉を選んだ。


「どうもしないよ。わたしはただ、アズサの友達でいたいだけ」

『だったら、知る必要はない。言ったはずだ。友達だと思うなら、踏み込むなと』

「わたしも言ったよ。友達だから、踏み込むんだ。誰にも話せない恐怖が、怪物を生むんだよ。アズサや……わたしみたいに」

『関係ない。ボクはもう、怪物になった』


 リオの言葉すらも拒絶するように、円筒の怪物が唸りを上げる。神器ごとすり潰そうとするように、盾同士が激しく鳴動している。

 だが、リオは脅えることもなく囁いた。優しく、諭すように。


「ううん、大丈夫。きっとアズサも、生まれ変われる。だから……」


 静かな決意を胸に、神器の柄を握る手に力を込める。何かを悟ったように、怪物の抵抗が一層激しくなる。

 神器が、光を灯した。


「狂える星辰、煌夜に伏せ」


 光の帯が、円筒の怪物を貫く。

 盾同士の結合が引きちぎられ、円筒はバラバラに崩れ去った。内部からは行き場を失った矛が出鱈目に突き出され、膨張する眼球たちが次々と破裂していく。

 すべてが円筒から掻き出された後、最後に残ったのは、濡れそぼり縮こまった小さな白犬だった。

 大剣を地面に突き刺し、リオは犬の前に膝をつく。脅えるように震える小犬をそっと両腕で抱き、リオは小さく呟いた。


「ほんの少しで良いの。話して、ね?」


 互いの体温が伝わる距離を感じながら。





 父は蒸発して、今も行方が分かっていない。

 優しい父だった。母も優しい人だが、父はそれに輪をかけて優しかった。ボクのわがままには何でも答えてくれたし、悪いことをした時も頭ごなしに叱らず、諭すように話してくれた。

 そんな父が大好きだったし、信頼していた。

 警察の人が来て、母が泣き崩れ、ボクはそのとき何を考えていたか、今も思い出せない。

 違法薬物取引の容疑だと、後に聞いた。取引先に捜査が入ったことで芋づる式に父の容疑が浮上し、父は仕事から帰ってくることはなかった。

 その日を境に、ボクは仲の良かった友達からも距離を置かれるようになった。

 日々憔悴していく母を見ながら、ボクは考えていた。

 こんなにも呆気なく、脆いものなのだろうか、人同士の関係とは。

 母の実家が招いてくれたこともあり、ボクの小学校卒業を契機に、ボクたちはこの街に引っ越した。今は元気に振る舞う母も、当時は家計を支えるために慣れない仕事で疲弊しきってて、ボクは家事をしながらも母の邪魔にならないよう一人でいることが増えた。

 中学校に入って、ボクは人を観察するようになった。クラスメイトとはなるべく話をし、仲良くなってからはほどほどに距離を置いて付き合う。父の一件もあり、特定の誰かと仲良くなるのをなんとなく避けていたのもあると思う。

 人には、様々な価値観がある。なんとなく似たような価値観を共有する仲良しグループがある傍ら、全く違った価値観でも親友同士の子たちや、違う価値観を許せずいがみ合うグループもある。

 人を観察するうち、ボクはそういったモノを知ることに喜びを覚えるようになった。

 観察範囲に特異な人物が現れたのは、三年の時だ。

 彼はすべての物事に無関心に見えた。常に一人で過ごし、誰と会話することもなく、淡々と日々を過ごしていた。イジメにあっているでもなく、ただ誰も彼に触れないし、彼もそれを気にしていないようだった。

 ボクは、彼に話しかけた。

 素っ気なさとも無機的とも違う彼の態度は、ボクにとっては新鮮だった。ボクが話せば答えてはくれるけど、彼から何かを話そうとすることはほとんどなかった。彼がどんな価値観を持っているかを知るのは、困難だった。

 ボクは、踏み込んでしまった。

 知るほどに、彼はボクと似通っていた。喪失を経験し、誰かを信頼することを恐れている。ボクと違うのは、彼が誰とも距離を置き、一切の関わりを断っていたことだ。

 そこに、ボクが入り込んだ。

 彼と交際を始め、彼の内面に触れるうちに、ボクは次第に戻れなくなっていくのを感じていた。ボクらの関係は、言ってしまえば結局は傷の埋め合いだ。心を重ね、体を重ね、互いの傷で傷を塞ぐような行為。

 その癒着は、剥がせばより大きな傷になる。

 卒業式に来なかった彼の遺書はたった一言、「これで自由になれる」だったそうだ。自死を選んだ理由も、意図も、何も分からない。

 冷たくなった肌に触れたときから、ボクの体温は失われたままだ。抉れた傷からは、今も血が流れ続けている。

 もう要らない。

 信頼も、愛も、ボクから奪うだけで何も与えてはくれない。

 これ以上奪われたくない。

 ボクは、誰とでも仲良くしたい。キミたちの事を知りたい。キミたちのもつ価値観を知りたい。それ以上は要らない。だから、ボクにもそれ以上踏み込まないで。


「境遇には同情しますけど、随分な言い草ではありませんこと?」


 ……誰。


「誰かと仲良くしたいなら、大なり小なりの信頼は預けるものですわ。友人とは、そう言うものではなくて?」


 だったら、ボクは友人も要らない。

 ボクから何かを奪う存在は、近づけば排除する。それでいい。


「そんなのイヤだよ!」


 何故? 

 キミにはもう仲間がいるじゃないか。ボクにこだわる必要はないはずだろう?


「アズサは他にいないじゃない! 友達も、仲間も、一人だって同じ人はいないの! ただの友達の一人じゃない、『アズサ』って言う友達なんだから!」


 ……ずるいなぁ。

 アイドルのキミがそんなことを言ったら、特別な友達だって勘違いしてしまいそうだ。


「勘違いじゃないよ。だって――」





 白い小犬の背が縦に割れ、羽化するように少女が姿を現す。

 リオは彼女が倒れ込まないようにそっと支えると、ほころび始めた悪夢を縫うように廃夢への扉を開いた。マリィとも目配せでアズサの意識を連れていくことに同意を得る。

 アズサの肉体を残していくのは不安があったが、悪夢が終わってから扉を開いては面倒だ。それに、リオにはもう一つ懸念がある。

 悪夢の外では、おそらく細切れになった少年の残骸があるだろう。

 フランの時の記憶がよみがえる。マリィは、粉砕された男たちの血のにおいに気分を崩したように見えた。このまま悪夢が解けてしまうと、また同じことが起こるかもしれない。

 レイとフランにアズサを任せ、マリィを先に通してから、リオは崩れゆく悪夢の外を振り返った。

 日常が、異質に塗り替えられた片鱗が見える。

 騒ぎになりそうな気配を感じながら、リオは廃夢へと消えた。





「あら、目覚めましたわね」


 交代で様子を見に来ていたレイは、アズサがぼんやりと目を開いているのに気づいた。ベッドに横たわっていたアズサは、降ってきた声を頼りに上体を起こし、ゆっくりとそちらに首を向ける。

 ハーフアップの金髪を揺らして柔らかな笑顔を向ける少女に、見覚えがあった。


「キミは……確かリオと一緒にいた、大きなハンマーの……」

「鍛治屋敷レイですわ。気軽にレイとお呼びくださいませ」


 グラスの水を差し出すレイに、アズサはおずおずと受け取ってから小さく会釈する。

 半分ほど飲んだところで一息つくと、グラスを両手に持ったままぽつりと呟いた。


「生かされているのは、贖罪のためか……」

「違いますわよ?」


 即座に否定の言葉が飛んできたことに軽く驚く。レイの方を見上げると、何処かきょとんとしたような表情を浮かべている。


「あなたが生きているのは、あなたが『生きたい』と願ったからですわ」

「そんなこと……」

「リオさんのお友達でいたい、と思ったのでしょう?」

「……」


 レイの指摘に、アズサはうつむく。

 意識が途切れる直前に、アズサは確かに願った。リオが望んでくれるなら、このまま、リオの友人でありたいと。

 しかしその願いは、未だ完全に塞がらぬ自身の傷に脅かされる。

 レイは彼女の逡巡を慮りつつも、言わねばならぬことを口にした。


「おおよその事情は先の悪夢で把握していますけれど。それでも人として生きていく以上は、他者と信頼を預け合うことから逃げることは出来ませんわ」


 正論ともいえる言葉。アズサは苦々しい表情とともに、壊そうとする。


「……たとえそれが、いつか無残に引き剥がされるとしてもかい?」

「えぇ。その積み重ねが、また別の出会いを引き寄せるのですから」


 こうして、ワタクシたちが出会えたように。そう付け加え、グラスを回収したレイは一礼して部屋から去って行った。

 静寂の中、残されたアズサは両手で顔を覆った。こらえていたはずの涙が、両手の隙間からこぼれ落ちていく。

 これまでの傷口を、洗い流すように。


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