出張(中)【先生のアノニマ 2(上)〜11】

 イタリア・ガエータの米海軍基地に到着早々の俺を乗せたズムウォルト級一番艦のクローン艦【ドロシー】は、俺が艦内の何処かに腰を下ろす間もなくさっさと離岸し始めた。どうやら補給を兼ねて俺を待っていたらしく、

 ——もうすぐ日暮れだろうに。

 わざわざ暮れゆく海に出て行くとは何とも慌ただしい。まあ勝手知ったる艦の事ならば、案内は不要だ。とりあえず早速、俺に関係する艦内三役プラス一人に挨拶を済ませておいた。

 三役は上から順に艦長、副長、航空団司令。その筆頭は当然艦長であり海軍下級少将所謂准将だ。本艦は米海軍において一般的に水上戦闘艦三隻で構成される水上戦闘群SAGの旗艦の位置づけで、中等コンセプトの軍事システムであるそれの艦長とは本来大佐か代将所謂先任大佐が務めるものなのだが、限定的ながら単艦でその上位群となる空母打撃群CVSG遠征打撃群ESGの代替任務をも可能としている有意性から下級少将が据えられている訳だ。次席の副長は海軍大佐で、戦闘指揮所CICに詰めているようだったので艦内電話で済ませた。最後の航空団司令もやはり大佐。通常は艦載機の責任を引き受けるその長だが、やはり軽く済ませる。事実上の指揮権は追加の一人にあった。

 艦首側甲板の下にある格納庫を覗くと、三機の戦闘機に数十人の作業服姿の整備員がそれぞれかじりついている。その面々が俺の姿を認めると、揃って気軽に声をかけてくれた。正規兵にはない反応を見せる彼らは軍人ではない。米国軍需大手の一角【イーグルコーポレーション】が誇る極秘開発部門の特命チーム【規格外品エクスクラフト】の面々だ。

 次世代戦闘機開発構想は何も日本に限った事ではなく、唯一の完成形第五世代機を運用している米国でさえその例外ではない。むしろそれは米国こそが常に世界の最先端だ。各世代機で見られた開発競争は軍需大手を中心に国内外で熾烈を極め、その熱量が今のミリタリーバランスを生み出している訳で、エクスクラフトのような開発チームもその産物の一つ。こんな極秘チームが米軍内や軍需企業の中にどれ程あるのか俺の知った事ではないが、イーグルにとっては大手各社に負けじと巨額を投じて進める極秘中の極秘プロジェクトが、エクスクラフトにして、ドロシーにして、三機の戦闘機という訳だった。

 空母と比べるとまさに猫の額程の狭小格納庫においてメンテナンスに余念がない面々の中から、やはり俺の姿を認めた飛行服姿の男が手を止めて歩み寄って来る。一見して精悍で切れ物風情の立派なこの黒人こそが、追加の一人である空軍技術将校にして、テストパイロットをも兼任するプレイングマネージャーだった。一応役職的には航空隊長という事になっているこの空軍大佐は、船を降りて丘に戻ってもやはりこの三機の実験機の開発チームを統べる航空隊長であり、彼の行く所にチームがついて来る格好だ。状況や環境を求めて色々な所へ移っては開発を進めるチームの貪欲さは、ややもすると暴走や狂気の影がちらつきもするが、その中の唯一の良心であり支柱でもあるこの男は

「——インテリさん」

 というコールサインで呼ばれていた。直属の上司だが、チーム内では皆コールサインで呼び合う習わしであり、これも保秘の一環だ。

「インテリでいい。相変わらずだなタフネス」

 言いながらも手を差し出すインテリは、詳しく知らないが俺より何歳か年上のようであり、その渋さと落ち着き通りの、稀に見る出来る男と言って良い。そんな男の手を握り返すと

「すまんな。急に呼び出して」

「いえ」

「いつから飛べる?」

 とりあえずの謝罪も束の間、早速催促された。本来はそうした無茶を嫌う秩序的な男なのだが、つまりそれ程切迫しているという事なのだろう。

「今夜から大丈夫ですよ」

「分かった。着替えて食堂でコーヒーでも飲んでてくれ。後で行く」

 普段から冷静沈着で鳴らす隊長をもってしても、俄かに慌ただしい。その様子が詳細は分からないまでも、いよいよ任務の内容を確定的にしてくれたものだった。実戦だ。それも極秘中の極秘の。友軍にすら秘密にされるレベルのものだろう。

 アイリス副大統領から直接連絡があった時点で覚悟はしていた。何せその嫁ぎ先こそが、イーグルコーポレーションの創業家なのだ。政治と金の親和性は古今東西例外なく、世の中本当に狭いというか視野狭窄というか。人間など欲の塊なのだ。力を手に入れたならば、使いたくもなるだろう。賢いヤツはもっともらしい理由の作り方を知っている。恐らくは軍内でいくつかある次世代機開発プロジェクトの中で、果たしてイーグルは軍のリクエストに対してどこまでの結果を残してきているのか。単なるテストパイロットの俺の知るところではないが、実戦テストに漕ぎ着けるという事はそれなりのステータスが認められての事だろう。更にそれが成功裏に終われば、他のチームから何歩か抜け出す事は間違いない。それはイーグルにとって悲願だ。何せこれまでのイーグルの戦闘機開発競争の歴史は、各世代において後一歩のところまで漕ぎ着けながらも幾度となく詰めを誤り、逆転される失態を繰り返しては辛酸を舐め続けてきた。そのコンプレックスの塊が怨念となって、米国至上主義を掲げる本国スポンサーと融合した結果の一端が、この状況という訳だ。やる時は何であろうと思い切って突き抜ける。これもそんな米国の、一つの具現だ。

 早速担当する機体を確かめたかったが、今はまだ私服だし整備中に邪魔をしても悪い。

 ——とりあえず着替えるか。

 先に居住区へ向かう事にした。

 その道すがらで擦れ違うクルーは、皆気さくに声をかけてくれる。ここの連中は本土の正規兵連中のような陰湿さはない。流石に運命共同体ともなると、正規兵だの傭兵だの言ってる場合ではない事を理解している。一見当然の事だが、本土兵はそうした当たり前の想像力が乏しいのもまた現実なのだ。本土は絶対安全という不可侵神話が傲慢を生み出すのか、本土防衛を任される事への誇りが転じて不遜になるのか。知った事ではないが、やはり最前線の連中はそうした一部の本土兵腑抜けとは明確に一線を画しており、同レベルで危機感を共有出来る頼もしさだ。そんな連中と再会を祝いながらも断片情報を繋ぎ合わせた結果、自室も装備品も以前入っていた幹部居住区に用意されているようだった。

 尉官以上の居住区のそこへ入ると休憩中の士官がやはりいて、俺の部屋を教えてくれる。結局、以前乗艦した時に使っていた部屋だった。俺が抜けた昨年以降、

「空部屋のままだったか」

 という事は、俺の後釜・・は来なかったのか。

「当たり前だろが!」

「テックさん!?」

 昨夏のハイジャック事件以来だが、俺が呼ばれたという事は、この男もいて当然だ。

「久し振りに三人・・揃い踏みだ!」

「はあ」

 俺が抜けて以来、やはり・・・俺が担当していた実験機は後任がつかなかったらしい。

 ——やっぱり。

 俺の機体はそんな機体だ。正確には後任は何人か赴任したそうだが、何れもまるで使えなかった、とか。

休養・・は十分そうで何よりだ」

 コーヒーおごってやるから着替えたら食堂に来いや、と言ったテックは、ハイジャック事件時より少し表情が固いように見えた。


 約一〇後。

 食堂に行くとテックはいなかった。まだ夕食には早く、仲間内とお茶を楽しむクルーがちらほら見えるだけで、後は厨房の職員が黙々と夕食を準備中だ。やはりその面々が乗艦の労を労ってくれる中で、俺は士官食堂の近くの空席へ腰を降ろした。

 駆逐艦を無理矢理兼軽空母仕様に改修している艦内は、何処もかしこも想定されるミッションの多さの分だけ艦内スペースを圧迫しているようで、それは食堂も例外ではない。イメージとしては、殆ど潜水艦内の居住性に毛が生えたレベルといえば想像しやすいだろう。そんな艦だというのに正規兵に加えて開発チームエクスクラフトの面々が乗艦しているのだ。となれば、可動式パーテーションで仕切られている程度のスペース士官食堂

 ——矜持を示さなくてもなぁ。

 一応俺はそれを堂々と利用出来る身だが、前々から使う気にもなれなかった。そういう無駄な差別や区別は自分の身の上正規兵からの蔑視でうんざりしている俺だ。が、そこは軍の仕来りという事らしく、やはり以前のままであり、俺も以前の自分の例に倣う。

 ——それはともかく。

 確かにすぐ飛べるとは言ったものの、移動中の機内でそれなりに目を瞑りはしたが、東京横田から始まった東回りの旅はやはりそれなりに時差ボケ感が強い。ここ何か月かの規則正しい生活で体調はすっかり回復したが、ダメージには軟弱になった気がする。あくまでも慣れの問題だろうが、慣熟させる必要があるのは何も乗機だけではない。むしろ俺の身体を慣らす意味合いの方が強かった。

 機体は優秀なスタッフ達が開発を進め、メンテナンスをしているのだ。とどのつまり、俺の身体がそのステータスを引き出すまで耐え得るのか。俺の機体はそんな体力勝負の機体だ。何度か乗るうちに身体が思い出してくれれば良いのだが、果たしてどれ程の時間的猶予があるのか。

 ——それこそ。

 本当に今夜から慣熟に入るのであれば、熟睡防止でそれこそコーヒーでもあおった後で晩飯まで目や身体を休めておいた方がよい。狭い艦内とはいえコーヒーメーカーぐらいは置かれており、世界的メーカーのそれは中々好評だ。が、テックがおごってくれるというのに、先にそれを飲んでしまっては感じが悪いだろう。近況報告を兼ねて一杯おごってもらった後は、

 ——晩飯まで部屋で横になるか。

 などと思っていると、眠い目を閉じてその周囲にあるツボをマッサージする俺の傍に、気配が一つ擦り寄って来た。伏せていた目をそのまままた開くと、俺の目の前に淹れたてのコーヒーの湯気が仄かに上がるカップを置く手がある。テックかと思いきや、黒い袖に包まれたその手首に最早と表現するには余りにも太い、仰々しいまでの金色の刺繍が見えた。海軍の制服の袖章だ。その極太をつけるのは将官だけであり、この艦でその高みにいるのは唯一艦長だけなのだが。先程挨拶を済ませた時に、その人は作業服海軍の繋ぎだった筈だ。

 ——着替えたのか。

 と顔を上げつつ謝意を評しかけたところで、見上げた斜め上に得意気な紗生子の顔があった。

「あれ?」

 やはり久し振りの強行軍で、少し疲れているようだ。また少し俯き加減に目を伏せて、その周囲を揉んでやってから見上げると

「相席しても構わないか、少佐?」

 今度は聞き覚えのある凛々しい玉声が耳を突いた。

「え?——ええ、どうぞ」

 他人の空似か。それにしては俺を知っている様子だ。それにしても

 何とまぁ——

 見映えのする出立ちか。黒のダブルの冬制服は、米海軍も紗生子の母体である海自もデザインが殆ど同じで見分けがつきにくいのだが、女だてらにそれを見事に着熟している。しかも、

「それにしても何とも狭いなこの艦の居住区は」

 と愚痴を吐きながらも脱帽した一昔前のUFOの如きデザインのそれも、やはり見分けがつきにくいがどうやら日本の女性海上自衛官仕様だ。何故日本人がこの極秘艦に乗っているのか。いくら同盟国とはいえ有り得ないにも程がある。が、現実として、几帳面に束ねたお団子髪シニヨンが、思わず目を奪われる程の美しさを湛える艶やかな赤色だった。着帽していた時は何がなんだか分からなかったが、脱帽後は脳内の何処かに沈んでいたその玉顔美髪の記憶が途端に沸騰し始める。目の前の椅子に座った女は、紛れもなく紗生子だった。

「ええぇぇぇぇぇぇぇえ——っ!?」

 その俺の絶叫に周囲が驚く中で、目の前の紗生子も口をつける寸前だったコーヒーを慌てて置き直す。

「危ないな。こぼすところだったじゃないか」

 それはこっちの話だ。危うく口に含んでいたら間違いなく噴き出して、それこそ俺の目の前でその上半身がコーヒー塗れになっていた事だろう。

「な、な、な、何でこんな所に主幹がいるんですかっ!?」

「ここでその呼び方はいただけんな。皆はちゃんと提督と呼んでくれるぞ?」

「て、提督、ですか」

 袖章の刺繍金線で極太線と普通線が一本ずつといえば、日本の海自なら海将補だ。となれば確かに提督と呼ばれてもおかしくはないが、本当の階級は三佐の筈ではないか。

「何だ? 不満げだな」

「不満というか、色々出鱈目過ぎて——」

「開いた口が塞がらないか」

「そう、ですね。大抵の事には慣れていたつもりだったんですが」

 とりあえず、何処の世界にこれ程若くて美しい女提督がいるというのか。とでも胸の内では言っておこう。口に出したところでつけ上がるばかりだ。

「君が寂しがるかと思って応援に来てやったのさ。もうちょっとマシな反応をしてくれてもいいと思うんだがな?」

 そう言う顔は悪戯っぽい笑みで実に満足気であり、白々しいにも程がある。確かに事ある毎に紗生子の顔が浮かんではいたが、それはいつの間にか刷り込まれていた潜在的な洗脳のようなものだ。より端的に言えば、魔女の呪縛だ。良くも悪くもここ数か月はそれだけ日常的に接していたからであって、特別な何かがあったという訳ではない、と思う。

「指輪はどうした?」

「それは学園内だけの話でしょ?」

 そう言う紗生子の左環指にはそれがあった。

「軍艦内だから必要ないと思ってたんだが、虫除け・・・代わりがいきなり威力を発揮してな。乗艦早々テックに言い寄られた時には思わず噴き出しそうになった」

「さっき会った時は何も言ってませんでしたが」

 確かにあの女好きならやりそうな事だ。昨夏のハイジャック事件の折の御執心振りを見れば、あえていうまでもない。

「そうか。まぁ背中を見せんように気をつけろ。偽装だと言って言い寄られ続けるのも面倒だから、君と法律婚本当に結婚したと言ってやったんだ」

「マジですか!?」

「ああ、マジだ」

 何だかんだで勝手に突っ走るのは、いつも紗生子の方だ。

「別にわざわざ相手が俺でなくてもいいでしょ!?」

 テックの顔が俄かに固かった理由はこれなのかも知れない。保秘の観点から乗艦するクルーは基本的に独り者が選ばれている。それをまさかのパイロットがぶち破った格好だ。

「君はまだ日本で任務中なんだ。むしろその程度の事で降ろされるのなら好都合なんだよ。ザマぁ見ろだ」

 どうもそうした事情まで知っているところをみると、誰かへ向けた当てつけなのだろう。誰に対するものか知らないが。

「そもそも、いついらしたんです?」

「今日の昼前だ。私も今回ばかりは急遽の事でな。君が出発した後はそれなりに忙しかったんだ」

 何でも俺が輸送機でハワイに向かっている時には既に機上だったらしい。通りで連絡を寄越さなかった訳だ。それにしてもそういう事なら相談役も教えてくれればよかったものを。もっとも言いたくとも言えなかったという事なのだろうが、それでも人が悪いと言いたくなる。

「こっちは西回りだったから時差ボケはそうでもなかったが、とにかく早く行けの一点張りでな」

 羽田発のフィウミチーノ行き直行便が出た後でフランクフルト経由で来たそうだが、その乗り継ぎが早朝で眠かった、とか何とか。

「さっきまで部屋で昼寝していた」

「そもそもどういう役回りで——」

 こんな幽霊船に、日本の海自幹部の身分で乗り込んで来たのか。

「何だかさっきから説教臭くて敵わなんな。ついでに周りの目線も煩わしい」

「はあ?」

 言いながら俺の背後を紗生子の目が刺す仕種につられて辺りを見渡すと、いつの間やら耳をすます聴衆の人集りが出来ている。

「な、なんじゃこりゃあ!?」

 軍内でも極秘扱いのプロジェクトに絡むこの幽霊船に乗り込むクルーは、殆ど野郎ばかりだ。何人かは女性も乗ってはいるが、彼女達には悪いが紗生子程の美人ではなく、それを拝む目が緩んだり輝いたり怪しかったり。

「落ち着かんからさっさとカップの物を胃に流し込んで、艦内を案内してくれると助かるんだが。艦長からCIC戦闘指揮所を除く全域の立入許可は取りつけているしな」

 その人集りの中に、テックの姿があった。遠目にも悪ふざけで周囲をあおっている様子が見てとれる。

「ハイジャックの時のバディだったよな、テックは?」

「え? ええ」

「紹介しろって言われてたんだろう、私を?」

「——げ」

 そういえば、そんな事があったものだ。という事は、

「良かったじゃないか」

「は?」

「紹介出来ただろう。まさかこんな状況でお披露目されるとは思わなかったがな」

「いや——」

 それは普通、出し抜いたというのではないか。

「だからさっき背中に気をつけろと言っただろう。相変わらずにぶいヤツだな」

「とりあえず出ましょうか」

 このままでは何をされるか分かったものではない。

「眠くないのか? 君は強行軍の上に東回りで来たんだろう?」

 世界標準時より進んでいる極東日本からそれに近接した欧州へ向かう所謂西回りの空路は、一日の時間が長くなる旅だ。一日二四時間では物足りない欲深さに塗れた現代人には、体内時計を整えやすいだろう。一方でその逆の東回りは一日の時間が短くなる旅となるため、一般的に西回りよりもひどい時差ボケに陥りやすい。特にここ二日間の俺の旅は、一夜目は軍用輸送機での作戦行動で徹夜。加えて日付変更線を東へ越えたために前日に戻るというややこしさのおまけつきで、二夜目も空の上という無茶振りだったのだ。当然極秘行動のカモフラージュも兼ねてのエコノミーだった訳で、流石に頭はぼんやりとして身体はけだるいのだが、

「お陰様で、覚醒させられちゃいましたよ」

「そうか。では頼む」

 いくら提督・・とはいえ、虎狼の輩共の中に美女一人を放置する訳にもいかないだろう。もっとも紗生子なら、返り討ちにしてしまうのだろうが。


 艦内を案内する俺に紗生子が大人しく着いて来たのは、たったの数分でしかなかった。

「やっぱり固苦しいのは性に合わんな」

 堪り兼ねたように吐き出してはきっちり被っていた海自の制帽を脱ぎ、指に引っかけて何度かくるくる回すと、

「ほれ」

 と、そのまま俺に向かって放り投げる。俺が慌ててそれを落とさないように受け取り、雑に扱う紗生子の代わりに両手で丁寧に持っていると、その主はシニヨンを解いて無造作に頭を振っていた。まるで濡れた犬が水気を振り払うようだが、動きのあるスタイリッシュなショートヘアを掻きむしりながら嘆息する紗生子は、間違いなく俺が知る怖い物知らずの紗生子高飛車女だ。

「——どうした? やはり眠いか?」

「え? いや——」

 帽子に限らず軍服という物は上級者程華やかになる。日本の海自の物もその例に違わず、まして紗生子が今放り投げた帽子は将官の物だ。金線金葉で仰々しいそれは、普通軽々しく扱ってもよい代物ではない。それを

「この軽々しさがまた信じられないというか——」

 確かに紗生子らしいと言えばそうなのだが。それよりも何よりも、紗生子がこの場にいる事自体が未だに信じられない。

「こんなモンは所詮取ってつけたようなモンだ。私に言わせれば、無理矢理型にはめようとする時点で根腐れが始まってるも同じだな」

 要するに型に拘る余り、中身がおざなりになると言いたいのだろう。それは分からないでもない。

 まぁそれも——

 そうなのだが、それ以上に気になるのは、

「軍服ってのは、もっと着る者に寄り添ってない物だと思ってたんですが——」

 紗生子の制服の着熟し振りの秀逸さは一体どうした事か。今更それを熱弁するまでもない紗生子の外見だが、それにしても首を境に上下の違いがこれ程顕著な軍人もそういないだろう。

 外見だけをとっても、任務柄堅物の代名詞の筈の軍服を、抜群の均整を誇る妖艶な体躯が負ける事なく実に堂々と纏いながらも、唯一肌が露出した首から上は有名女優やモデルばりという煌びやかさだ。たまに軍の広報雑誌などでモデルが表紙を飾っているのを見かけるが、紗生子の見映えはその比ではない。モデルを物ともしない甘くも涼しくも華々しい、まさに妖艶な魔女の如き混沌たる美貌の下に、鉄弓の如き堂々たる威風としなやかな張りを合わせ持つ健康絶美の身体は、全体的な統一感として見ると見事な凛々しさな訳で、

 ——歴史に名を残す女将軍ってこんなんかな。

 そんなイメージを彷彿とさせる。

 だというのに、頭脳と身体の能力中身の懸隔もまた著しい紗生子だ。見事なプロポーションを誇る体躯ながらもその内に潜む恐るべき格闘能力。それを原資にあらゆる武器を使い熟す危険度最上級の国際的エージェント。その生業を成立させるおつむは一個の人間として極めて優秀だというのに、人として決定的な謙虚さが欠落。五倫五常でいうなれば智以外はまるで大出鱈目の混沌カオスにして唯我独尊振りで、恐れを知らぬ横暴な性悪女。

 結局——

 何だろうと悪いイメージでいうところの魔女だ。そのくせ真偽は不明だが年末には墓参りに行ったようで、妙な神妙さをちらつかせてくれる。人の事を散々チグハグだと笑い飛ばしておきながら、

 ——自分はどうなんだか。

 脳内で思わぬ脱線をしたが、つまり出来る者は見た目からして良くも悪くも異様という事だ。

「俺の制服なんて、何処行ってもこれっていうサイズがなくて——」

 仏米軍を渡り歩いてきた俺だが、それを着る機会など殆どなかったものの出来る事なら二度と袖を通したくないという情けなさは、そんなところでも負け組のレッテルを突きつけられたも同じな訳で。

 ——い、忌々しいな。

 嫌味な程に見映えする紗生子につい目がいって離れないそれは、乱暴にまとめて要するに男の性だ。史上を賑わせた女傑と同じなのなら、それも無理からぬものと勝手に一人で納得するのだが、これでは先程食堂で下卑た目を浴びせていた人集りを悪く言えたものではない。

「何だそんな事か。母艦に戻って来たせいで早くも頭が固くなったようだな。官品の制服が私の身体に合う筈がないだろう」

 とあっさり言った紗生子によると、何と勝手に公には内緒で個人的に制服を仕立てているらしかった。

「要するに良くも悪くもバレなければいいんだ。世の常道だぞ。ない知恵を絞っても頭が痛くなるだけだ。難しく考えるな」

「はあ」

 これだ。呆気に取られる俺の前で嘯くその女の目が、瞬く間に怪しさを増す。

「そろそろ中核施設・・・・を拝みたいモンだな。余り時間もない。晩飯は我らの歓迎会だし、遅れる訳にもいかん」

「そう、なんですか?」

「ああ。君はこの夜から慣熟に入るつもりだったようだが、身体を労れと前にも言って聞かせただろうに仕方ないヤツだ」

「だって——」

 この強行軍で招集されたのだ。時間がないと思うのが普通だろう。ならば早く慣らさなくては、そのツケはそっくりそのまま自分に回ってくるのだ。

「何がだってだ。子供じゃあるまいし」

 紗生子にかかれば俺などその程度のものなのも、今更特筆する事ではない。

「焦るな。確かに事態は切迫しているが猶予がない訳じゃない。そのために私は呼ばれたんだ。君は信用出来ないようだがな」

「そんな——」

 事はあるのだが。

「いいからそろそろハンガーへ案内してくれないか。とりあえず私も世の常道の一つの形を見ておきたいんだ。一連托生だからな」

 言い出すとせっかちな紗生子の事だ。俄かに艦長がそこへ行く許可を出した事が未だに信じ難いのだが、この期に及んで紗生子が俺に嘘をつくとも思えない。

「ここから先は想像力が物を言う世界だ。手に届く所にある物は直に触れて自分の感性で感じておきたい。私にとっては君もその一つだ」

「何でまた——」

 そこで俺が出るのか。

「ただ君の場合は少し度が過ぎて夫婦になってしまったがな」

 ははは、と軽く笑ってくれる紗生子が、

 ——少しで済ますんじゃねえ。

 わざとらしく俺をなぶってくれるのがまた忌々しい。

「さぁどうする? 勿体つけてくれるようだが、まだ案内する気になれんか? ご所望ならいくらでも出るぞ? ん?」

 と、その口先が急に怪しく俺の耳に接近し、小さくほくそ笑む。

「うわ」

「どうせ日本の自衛官がここにいる事自体極秘中の極秘なんだ。見せても減らんという艦長以下の計らいさ。私のせいで情報が漏れたのならば、安い首だがくれてやるだけだ」

 言っている事は実に血なまぐさいが、やっている事の見た目は明らかに、それこそ惚気たバカップルだ。こんなところを他のクルーに見られたら、また何を言われたものか分かったものではない。そもそもが夫婦で同じ艦に乗るなどと。しかも国を飛び越えて極秘任務に従事している男女が夫婦になってしまうなどと。今更ながらに色々有り得ないにも程がある。

 ——もう知らん。

 それこそ紗生子ではないが、俺の頭でそれを考え出すと絶対抜け出せない。こうなったら面倒な事は紗生子にあずけてしまえ。

「——分かりました」

「ようやくか」

 あえて重要施設を避けて案内していた事をあっさり見透かされた俺は、紗生子に言われるままいきなり極秘中の極秘施設である格納庫ハンガーへ向かった。

 格納庫は当然、入室権限を有する者しか立ち入れない。基本的には三重扉の前で生体認証により自動選別されているが、稀にゲストを入れる時には艦長の許可も勿論だが、その横にあるモニターで在室者を呼び出し入室を判断させる決まりだ。作業内容によっては例え艦長の許可があろうとも入室させない。

 ——とは言え。

 俺が知る限り、ゲストを入れた事は今までなかった筈だ。とりあえず早速中を呼び出してみると、

「どうしたタフ? 珍しいな」

 早速インテリが当然の反応を見せた。俺は入室にそれを使う必要がないし、そもそも使った事もなければ先程顔を見せたばかりだ。

提督・・が見学を希望されていまして、それでお連れしたんです」

「提督?」

 そしてやはり、懐疑的な声が返ってくる。

「ナイトメアだ」

 紗生子が横から割って入ると、俺の戸惑いに構わず扉が開いた。

「え!?」

 思いがけぬ開けゴマだ。そんな俺の横を、然も当然と中に入る紗生子に

「私のここ・・でのコールサインだ。お気に召せば以後御見知りおき願いたいものだな。ほら、行くぞ」

 と促された瞬間で立場が逆転。あっさり入室されてしまうと、整備員の数は減ってはいたが未だ整備中だった。減った連中の殆どは先程食堂で見たばかりで、要するに紗生子に鼻の下を伸ばしていたヤツらだ。その目減りした人の中でもやはり中心にいるのは軍側の開発責任者たるインテリであり、如才なく擦り寄って来る。

「今度はご夫婦・・・で見学という訳か?」

 と、俺の横を通り過ぎ様に失笑されたかと思うと、その男がそのまま

「ようこそお越しくださいました提督。拙い口で宜しければご説明致しましょうか?」

 どう考えても自分より年下の小娘然とした紗生子に、階級通りの服従を示した。

「配慮痛み入る大佐。今は眺めるだけで十分だ。邪魔をしても悪い」

 対する紗生子も実に堂々としたもので、何から何まで今回はどんなマジックを使ったものか。そのまま伏し目がちにまた整備に戻ったインテリには目もくれない紗生子が目を細めたと思うと、偶然か必然か知る由もないが俺の担当機の前で足を止めた。徐にそれを眺める御目の下の御口の先が唐突に、

「イーグルの主要株主の中に高坂のペーパーカンパニーがあってな」

 何かの一端を奏で始める。

「世界的な軍需大手とはいえ、資金力では世界的な多業種間巨大企業コングロマリットの足元にも及ばない。桁が違うんだ」

 つまりまた、影響力を及ぼすのは

「相談役、という訳でしたか」

「それ以外の要素がある訳ないだろう?」

 紗生子をして笑う外なし、という事のようだった。それは戦闘機開発における保険だったようだ。高坂単体で国産次世代機開発が叶わない時の奥の手がイーグルであり、受注が取れなくともそのノウハウで先を見据えていた、とか。

「イーグルは米国内の戦闘機開発では連戦連敗で後がないだろう。だから金に糸目をつけていない今回のプロジェクトの、その金の出所スポンサーは高坂って訳だ」

「それこそ乗っ取るおつもりで?」

 が、こてこての保守派にして

「盗人紛いはプライドが許さんだろうな。それに姉様あねさまの舶来物嫌いは中々頑固だ」

 という相談役は、あくまでも保険は保険であり、それ以上でも以下でもないらしかった。

「舶来物、ですか」

 国際人としても名を馳せた過去を有する相談役のイメージとはとても思えない、その旧態依然振りが俄かに信じ難いのだが。

「人ってのは、たまに理解出来ないモンだ」

 何れにせよ、そのプロジェクトの最大出資者の名代が紗生子という事なのだった。

「イーグルのプロジェクトでもフィクサーって事ですか」

「そういう事だ。何かの取引材料の一つに過ぎんがな。やっている事は褒められたモンじゃないし、まぁ綺麗事ばかり捲し立てて現実を見ない理想主義者に喧嘩を売ってるのさ」

 あの人も元気だからな、と吐き捨てる紗生子こそ、その最先鋒なのだが。

「誰かの代わりに悩んでおられるという事ですよね?」

「良く言えばな。支持の有無など気にするような柔な人じゃないが、やはりそう言ってもらうと悪い気はしないだろう」

 と言う紗生子が思わぬ事をつけ加えた。

「だからこそ、君も手管の一つにしたかったんだろうな」

「は?」

「今回の作戦では、我らは間違いなく日本代表・・・・だ。高坂の手管としてな」

「まさか学園の手管って事ですか?」

「流石にここへ来て学園モノ・・・・では収まらんさ。ただ——」

 俺が学園に赴任したのは、相談役の思惑だったようだ。著しく身体を擦り減らす機体のテストパイロットから一時的に外させるための、それでいて手元で管理するための人事が、昨年の梅雨時の訳の分からぬ転属の理由で、

「つまり全ては、相談役の掌の上だったんですね」

「君はそうは言ってもまだ新人だ。私なんか、もう何年手駒にされたモンか。あの人は質の悪い人材コレクターだからな」

 そういえば、この出張前にもそんな事を匂わせていた相談役だ。ここに至ると、全ての事情の理由が時間をかけてじっくりと、如何にも俺を驚かせないように開示されたような。そんな配慮すら感じる。それも相談役の思惑だったのだろう。

 イーグルの大口株主にしてエクスクラフトプロジェクトの最大出資者であれば、俺の素性など筒抜けなのも当然だ。それを知りながら、あしなが○じさんのように名乗らず影から見守るなど。それは確かに有り難いと思う反面、この年でそんな庇護を受けなければ危うかった自分の弱さが情けなくもある。しかしここまで隠し通していた人が、今になって何故事情を開示する気になったのか。

「何れきちんと話すつもりだったろうな。あの人はあれで、心持ちを大事にする人だ」

「は?」

 相変わらずの察しの良さの紗生子が

「今回の無茶振りは、もしも・・・の確率が高い」

 それをあっさり答えをくれた。何と思われようと事実を知らないままの手駒を死地に追いやりたくなかったという、せめてもの温情なのだろう。

「さて」

 と、改まった紗生子が

今この時・・・・が、デッドライン・・・・・・だ」

 ゆっくりと、それでいて一言一言を強調して言った。

「これまでの君には選択肢がなかっただろうが、相談役の手管となったからにはそうした配慮がある。先へ進むか引き返すか。二つに一つだ。選べ」

「選べって——」

「これ以上の事は、先に進む者にしか話せない」

 俺に対する極秘司令を、紗生子は止める事が出来るというのか。いや、出来るからこそ言っているのだろう。

「ハイジャックの時は、そんなのなかったんですが」

「あれは緊急事態だったし、もうあの一択しかなかったからだ。今回はそうじゃない。アメリカ側は是が非でも君を引っ張り出したいだろうがな」

 と言うからには米軍ですら、ひいては軍の最高指揮権を持つ大統領ですら退ける事が出来るのか。

「——相談役恐るべし、ですね」

「曲がりなりにも私が従ってるぐらいだからな」

「引退話はどうなったんです?」

「それはあくまで表向きだ。これからは本当の意味で、益々黒幕化するだろう」

 その手始めとして高坂は、今年中にもホールディングス持株会社化する動きがあるらしい。

「財閥再興、ですか?」

「反創業宗家派が調子に乗り過ぎてグループの価値を落としたからな。重い腰を上げざるを得なかったのさ」

 戦前からの財閥経営で戦後痛い目にあっている高坂グループにおいて、ホールディングス化は長い間グループ内で否定的な意見が多かった。それが、近年何度となく押し寄せる金融危機でグループ内の経営体力低下が露骨に顕在化し始めたところへ、高千穂の悪事に乗せられた反宗家閥の暗躍で信用までも失いかけた。

「高千穂の一件は膿を吐き出す一方で、グループ企業の支配体制強化の良い口実になったのさ」

「雨降って地固まる、ですか」

「フェレールに力負けして株を買い占められた屈辱の一件もあったからな」

 それを忘れる相談役ではない。

「高坂には巨大中核企業はない。企業一つひとつを見れば、巨大とまではいかないが各業界では大企業に列する企業が無数に並列している」

 だから再財閥化は都合が良い、のだそうだ。

「他の旧財閥系は、一つにまとめられられない程にグループが膨張してしまっているが、それを未だに統べる事が出来る状態を保っているところが高坂の凄さであり怖さでもある。フェレールは張り子と化していた鶏の尾を君の兄・・・踏まされて・・・・・、呼び覚ましてはならない木鶏をまんまと起こしてしまったのさ」

「木鶏、ですか?」

 高坂グループの最高意思決定会合の名称は、木鶏もっけい会と称するのだとか。

「荘子の故事の、ですか?」

「ああ」

「それは何とも——」

 木彫りの鶏のように全く動じない、闘鶏における最強の状態をいうそれだが、

「中々痛烈な皮肉だろう?」

 そうした事にまるで野心を持たないあの素朴な兄が引き鉄で、その復活の契機となろうとは。世の中本当に分からないものだ。

 この年、高坂創業宗家が保有するグループ企業株を元手にあからさまな再財閥化を目指し、見た目にも支配体制を明確化した新規設立法人【高坂グループホールディングス】は市場における大目玉上場となり、瞬く間に日本における時価総額ランキングで並み居る大企業をごぼう抜いて一位となるのはまた別の話。その社長には創業宗家の長男真琴氏の兄がつくとかで、表向きには元高坂重工会長である夫の退任によって、その権力後ろ盾を失う形で相談役によるあからさまな傀儡体制は終わる、という事なのだそうだが、

「それって全然終わった事にならないじゃないですか」

 後ろ盾が夫から実の息子に変わっただけではないか。

「所謂大御所や院政だ。今までは摂政だったからな」

 何ともひどい方便だ。紗生子ではないが、まさに事実上ワンランク上がった分だけ余計でも質が悪い。

「そういえば、クラークさんはどうしたんです?」

 最側衛が二人も外れてしまっては、流石にまずいだろう。

「実に元気なんだがインフルエンザでな。アメリカ在日米国大使館にぶち込んで来た。君の兼任先には名医がいるんだろう?」

「じゃないですかね? 本国から招致されるぐらいですから」

 若干内容が略されているようだが、要するに一時避難先として間違いないそこへぶち込むためのこじつけだ。本国から派遣された医師はいるだろうが、腕は知らないしそもそも会った事すらない。

「——あ、昨日残ってた授業って、結局どうなったんですが」

「中国語の一コマなら、私がやっといたぞ」

「出来るん——」

 と言いかけて止めた。紗生子なら如何にも使えそうだ。以前、ALTとして本格始動する前に、台湾華語の繁体字と中国普通話の簡体字の違いを理解していた事でもある。そもそも何か国語使えるのか。

君が使える言語日・中・英・仏に加えて、イタリア、ドイツ、スペイン、ポルトガル、アラビア、ペルシャ、マレー、韓国・朝鮮に、ロシア——ぐらいは完璧に使い熟せる」

 仕事柄、世界の主要言語はだいたい制覇しているらしい。まあ紗生子ならそれも嗜みレベルだろう。それに比べて俺のやっている事など、まるで戦国時代の槍働きのようなものだ。そんな俺に進退選択の余地などある訳が

 ——ないんだが。

 このまま答えず拗らしていると、何を言ってくれるのか。何となく

 どこまで——

 つき合ってくれるのか、その先が知りたくなる。

「あなたはこの状況をいつ頃から想像出来ていたんですか?」

「そんなモン、君に出会った時から分かってたさ」

 脈絡のない事を質問攻めする俺に、紗生子はいつになく端的に答え続けてくれる。

「軍人だぞ? それも正規兵の身代わりで危なっかしい任務を担い続けた傭兵だ。古今東西、暇な軍人程無駄なモンはないとくれば、只飯食らいを許す程今の時代は寛容じゃないだろう?」

「って事は、文化祭の頃にはもう動きがあったんですね」

 今ならそれが分かる。紗生子の言っている事がたまに分からなくなり始めた頃だ。急に無口になったり拗ねたりと、精神の抑揚のようなものが分かるようになった頃だ。つまり、

 やはり——

 戦争なのだろう。

「とはいえ、機体に殺されたんじゃパイロット達も敵わんな。文字通りの犬死だ」

 と、目の前の機体を軽く睨みつける紗生子は、やはりそれが俺の機体である事を認識していたらしい。

「ご存じでしたか」

「知らなかったが、機体形状を見れば素人なりに分かる」

 と言う事は、その特徴も分かるのだろう。

 米軍機は各機体を固有識別するために文字と数字を組み合わせた物で命名しているが、これには当然ルールがある。文字通り命名規則と呼ばれるものだ。一般的に攻撃機のAや爆撃機のB、戦闘機のFなどが有名だが、その頭文字は基本任務記号と呼ばれ、それを見ればまさに基本的な任務が分かる訳だ。そのアルファベットの後には一般的に数字が付与されているが、その数字の大小で各機種毎の開発順が分かるといって良いだろう。例えば戦闘機は、命名規則が導入された一九六二年以降に開発された機体については一番から始まり、今や三五まで付与されている。只、戦闘機開発におけるナンバリングは、一三や一九番が飛んだかと思うと二〇代と三〇代は欠番だらけとなった。一般的に欠番の理由は知られていない。

「陽炎とはよく言ったモンだな、【ヒート  HeatヘイズHaze  】は」

 紗生子が口にしたそれこそが、俺の担当機【XF-39】の愛称だった。機種番号のFは戦闘機のそれだが、その前の【X】とは基本的に正規に配備される機体にはつけられない試験機や実験機につけられるもので【現状接頭記号】と呼ばれ、その枠組みの中で比較的有名なのは試作機を意味するYだろう。戦闘機開発の歴史でもYFを冠する機体は何機か公になっており、最も新しくはF-22ラプター開発時の試作機YF-22とYF-23だ。基本的にYがつく機体は、後に正式採用されてYが取れた後の機体のプロトタイプの位置づけとなる。

 一方でXとは実験機を意味し、まだ軍が受領していない航空機又は標準構成が確定していない試作機に適用される。俺の担当機にしろ、この艦にもう二機ある【XF-37】【XF-38】も全て後者の物であり、当然公には伏せられた極秘開発中の機体だ。今思えば、過去の欠番の中にもこの三機のような極秘開発の実験機があったのだろう。俺はまさに、そのプロジェクトチームのテストパイロットと言う訳だった。

「君にしか乗れない、乗れば現実離れした動きで圧倒する。そういう意味でもまさに陽炎だ」

「詳しいですね」

 そういえば俺が学園に赴任した当日、いきなり初対面でそれを匂わせていた紗生子だ。

「この状況を想像出来る訳です」

「それは君も同じだろ。学園でもトレーニングを怠らなかった」

「俺は当事者ですから。抽象的な感覚でしかないですけど」

 俺の後任が定着しない事は知っていた。出戻るつもりはなかったが、元々は目の前の狂気・・・・・・を駆るためだけに米空軍に雇われた身だ。以後、様々な状況を想定してのテストで各地を転々とし続けたが、それでも陽炎・・は俺の身体に纏わりついて離れる事はなかった。過酷さは増すばかりで何度か死にかけたが、そんな生活を三年やって、何となくそろそろダメかと思い出した頃突然外されて。訳の分からぬまま学園へ変わらされた。それでも何れは、

「戻らされると思ってましたから」

 紗生子ではないが、暇を貪る傭兵など金がかかるだけなのだ。まさに機体愛称の如く、灼熱を纏うその業火で身を焼かれるその日まで、使い潰されると思っていた。

「その危機意識が世の全員に備わっていたらどんなに楽だろうな」

 それを一身に背負わされる者。まさに知る者の苦しみというヤツだ。俺はいつも、その詳細のところはそんな者達に任せてきた。押しつけてきた、と言っていい。まさに戦場の槍働きしか、

「それしか能がありませんから」

 所謂、使い捨ての鉄砲玉だ。知る者にあずけてきたからこそ、現状を招いたともいえる。何れにせよ難しい事は理解出来ないのだ。誰かがやらされる事で、今はそれが俺にしか出来ないのであれば、俺がやるしかないではないか。

 その何処かの部分の何かが紗生子に伝わったのか、

「一般的には使命感と言うのさ、それは」

 とのご高配を賜る。

「そんな上等なモンじゃありませんよ」

 どうせ天涯孤独だし、それしか他に生きる術がない傭兵稼業であれば、やれるとこまでやってやる。単にそれはもう殆ど、半分やけみたいなものだ。それは俺の機体の役割柄故でもある。

 電子戦特化型のXF-37、秘匿性特化型のXF-38は、そのまま現状接頭記号のXがYに変わって、そのまま正式採用されても良い程の完成度を既に保有している中で、只ひたすらステルス性能と高機動性能を追求するXF-39は、事実上前者二機を支えるための実験機だ。標準構成が確定していないX機に相応しく、様々なデータを積み上げ、定まった型を持つ事なく、大なり小なり常に変化し続ける。その積み重ねが機体とパイロットを翻弄し続ける有様は、実験機故の必然的悲哀だ。その過程で、操舵性を犠牲に獲得した運動性能は圧倒的の一言に尽きる。神経質さと豪快さが同居するチグハグ振りに戸惑わないパイロットはおらず、乗る者を壊すという狂気の翼は、

「実験でも実戦でも絶好のデコイになるとはこの上ない皮肉だな。愛称を生贄サクリファイスに変えた方がいいんじゃないのか」

 実に紗生子が端的に表現してくれた。軽ステルス機の特質を活かせば敵機に気づかれる事なく狙い撃てるが、それをやるのは事実上の上位機であるXF-37とXF-38だ。その二機のために俺が火器管制レーダーで敵機をロックオンしまくり、上位二機に死角から的を絞らせる。俺はというと、敵を探知するためのアクティブレーダーを派手に使えば如何にステルス機といえども敵機から逆探知される訳で、そこは得意の運動性能で何とかする、というやり切れなさだ。普通は心身共に持たない。

「そこまでご存じでしたか」

「当たり前だ。私は事実上の本作戦責任者だぞ。君の知識を私が知らない訳がないだろう」

 それを言わしめる背後の相談役にして、紗生子の能力という事なのか。俄かに

 ——信じられん。

 いくら何でも日本の自衛官が米軍主導の極秘作戦の指揮に関わるとは。しかもそれが

「実戦の指揮を取られる、と?」

「あくまで事実上だがな」

 アラサーの小娘がそれをするなどと。近代の米軍も結構無茶をしてきたものだが、それに負けず劣らずの

 ——はっちゃけ振りだなぁ。

 最早開いた口が塞がらない。

「何処へ向かってるか、ここまで来れば分かるだろう?」

「アドリア海、ですよね?」

 本来なら黒海まで入りたいが、そこはあからさま過ぎる。

「その先は?」

「キエフ近郊の制空権の維持、ですか?」

 近代戦の初手はそれがセオリーだ。

「その手順は?」

「こちらの都合を言えば、隠密巡航でNATO空域をこっそり抜けさせてもらって、ヒットアンドアウェイですね」

 これも俺達のセオリーだ。紗生子ではないが、気づかれなければいい。

「三機だけで何十機も相手に出来ると言う訳か」

「年末年始にゲームでイメトレさせてもらいましたし、大丈夫ですよ」

 今になって、紗生子があえてそれをさせてくれたのだと分かる。勿論それは気休めに過ぎないのだが、それが分からない紗生子ではない。要するに大切なのはその気持ちであり、イメージだ。

「それにウクライナ空軍機は旧ソ連製の中古品ばかりで期待出来ません。友軍を名乗れる状況でもありませんし」

「それでは最悪、ロシアもウクライナも敵に回す事になり兼ねん」

「オープニングはそうかも知れませんが、何度か繰り返せばウクライナ側は友軍と見てくれるでしょう」

「事情あって名乗らない正義の味方か。言葉にすると何かのヒーロー物っぽいな」

「それは結果として一番避けるべきですね。得体の知れない恐怖を植えつける方が先決です。幽霊みたいに」

 米軍があからさまに関与したとなれば、敵はロシアだ。黙ってはいないだろう。それは避けるべきだ。

「それだな。決まりだ」

「は?」

「作戦コードさ」

 昨年末頃から各種メディアを通してきな臭さを醸し出していたロシア軍の動きが、ついにあからさまにウクライナ国境に迫っていると伝えられ出したのはつい先頃の事だ。そうした時期にこの極秘艦が地中海にいて、極秘チームが帯同していれば、まさかここで純然たる開発テストという話でもあるまい。

「名づけは後でも良いのでは?」

 何にしても命名というものは、良くも悪くもその対象の存在を特定する。それによる秘密漏洩の可能性を考えれば、あえて名無しで放っておいた方がよいのだ。それに結果の良し悪しに関わらず、何れ後の人間が適当な命名をするのだから、そうした物好きに任せればよいと思うのだが。

「まぁそうヒステリックになるな」

「作戦参謀として腕の見せどころなのは分かりますが——」

「どうせ漏れる時は漏れるんだ。それなら妙な命名をされて悔やむよりも、先につけておいた方がいいだろう」

「まぁ、それはそうですが——」

 今回ばかりは果たして紗生子の道理がどこまで通用するものか。はっきり言える事は、いい加減な迂闊は許されないという事だ。一国の民と、その国の命運がかかっている。

 世にいう【ロシア・ウクライナ戦争】の直前に俺達はいた訳だ。これこそが、メディアよりも早く情勢を掴んでいた紗生子が折目節目で見せていた憂いの正体だったのだが、俺が関わる事はまだしもまさか紗生子まで参戦する事になろうとは。こういう時、積極介入はおろか間接的支援すら儘ならない日本の外面からは到底想像出来ない暗躍振りだ。

「米軍はロシアのクリミア併合以来、ウクライナにグリーンベレー陸軍特殊部隊を送り込んで部隊を育成してはいるが、今のところそこ・・止まりだ。ロシアとの全面対立を回避したい大統領は二の足を踏んでいる」

 アイリスが副大統領を務める現政権協和党は、所謂ハト派だ。例えロシアがウクライナに攻め込んでも直接対決は避けるだろう。代理戦争の構図では時を変え場所変え対立して来た両国だが、直接対決した事はないのだ。誰が大統領だとしても、まずは避けたいと思うだろう。あえて言うまでもないが核保有国同士のそれは、下手にエスカレーションすると核戦争に繋がる。

「ロシアは既に水面下ではNATOの直接参戦を牽制している。NATO側は最終的に武器供与には踏み切っても派兵する事はないだろう」

「NATO加盟の遅延が致命傷ですね。ウクライナとしては」

 軍事同盟の力の大きさだ。

「後はとりあえず国連頼みだろうが——」

 安全保障理事会安保理常任理事国には、ロシアを始めとして拒否権を持つ所謂東西陣営が名を連ねる。自ら・・の首を絞めるような法的拘束力を有する決議が採択される事はない。

いつもの事機能不全、ですか」

 結局は、力あるものの蹂躙を許す格好となる。

また・・ロシアのシナリオ通りだ」

また・・短期決戦狙いですか」

 それは戦の常道だ。

「何番煎じだ全く」

 近々では、クリミア併合のシナリオだ。国際社会がまごついている間にあっさり終わってしまったあのスピード感を、ロシアはまた狙っている。

「今回はそれを?」

「アイリスの一存で食い止めようってのさ。あのお嬢様も無茶が過ぎる」

 とは言うものの、大統領がまさか何も知らない事など有り得るのか。

 ——いや。

 要するに事が発覚すれば、アイリスが全責任を取るという事なのだろう。アイリスの手管を知っていてあえてそれを黙認したか、あるいは裏では繋がっているのか知らないが、あくまでもアイリスの一存でやるからには極秘の体裁は崩せない。と言う事は、表向きに米国が誇る数々の組織力にすがりつけないという事だ。

「ホントですね」

 いくら少数精鋭とはいえ、単艦で作戦を遂行するのはどう考えても無理がある。つまり既にウクライナ軍に入り込んでいる

「ひょっとして、グリーンベレーと?」

 上手く示し合わせるつもりらしい。

「さっき匂わせた・・・・から流石に気づいたか」

 紗生子はグリーンベレーに出向経験を有する出鱈目女だった。

「まさかあの時・・・の因果で私に白羽の矢が立つとはな。アイリスのヤツも人使いが荒い」

 出向というぐらいだから、在籍は長くても二、三年だろうが、グリーンベレーとは未だに親交があるようだ。

「クリミア併合以来、派遣された連中グリーンベレーは何もウクライナ軍の指導教育ばかりをやっていた訳じゃない。その手管を使う」

「CIAは?」

「使わないついでに囮として使う」

 正確には、大統領正規の命で淡々と任務を遂行してもらうという事だ。CIAのエージェント達が、それ・・でウクライナ入りする事は言うまでもない。その裏で幽霊本艦が蠢く。

「各国の高級エージェントなんぞ、東西陣営関係なしにお互いマークし合って手の内は知り尽くしているからな。精々牽制し合ってくれるだろう」

 目眩しにはちょうど良い、とか何とか。

「この艦にも潜り込んでるだろうから、まぁ上手く連携してくれるさ」

「CIAのエージェントが、ですか?」

「極秘開発の影にスパイはつき物だ」

 言われてみれば確かにそんなモンだろうが、それをあからさまに口にするところが如何にも紗生子らしい。

「——あ」

 そこで大事な事を思い出した。

「ここは盗聴されてますよ、そういえば」

 極秘開発現場だけに、それは嗜みだ。

「私がそれを知らないとでも思ったか?」

「——ですよね」

「耳を傾けてもらえたならば、自己紹介する手間が省けたってモンだ」

 聞かれてまずい事は通信妨害ジャミングしているとか。何をどうやってそれをやっているのか知らないが。

 まさにその時、ちょうどハンガーの壁掛電話が鳴り始めた。気がつくと、先程まで整備中だった面子がいつの間にか消えている。

「はいハンガーで——」

『お前らはホント噂通り、放っておくと何処だろうと何だろうと二人の世界に入り込むな全く』

 電話を取るなり、その向こう側のテックからいきなり呆れ声を浴びせられた。歓迎会の準備が出来たらしい。

「はいはい、行きます行きます」

 と一方的に切ると、

「で、どうするんだ?」

「食堂へ行くんじゃないですか?」

「ちょっと待て。何の話をしていたのか覚えているか?」

 話が噛み合わない。そんな時は、大抵俺のせいなのも毎度の事だ。

「は?」

「は? じゃあるか。進むか引き返すか選べと言ったろうが」

「——でしたね」

 と言われても、もう全部聞いてしまった。

「仕方ないヤツだなホント。君が相手だと、つい口が軽くなってしまう。私も焼きが回ったモンだ。これじゃ選択肢を与えた事にならない」

「後に引けない事は分かっています。その配慮だけで十分ですよ」

「どうかな。こき使うための方便かも知れんぞ?」

「前にももっと俺をこき使ってもいいって言いましたよ?」

「自分を労れと言ったろう?」

「以前は気持ち悪いって言われたような気がするんですが?」

「おかしくなるとしゃんとするんだったな確か?」

「そうでしたっけ?」

 俺のような小物の言った事をよく覚えているものだ。単に物覚えが良いという事なのだろうが、表向きにはそれだけではない関係性にまで到達してしまっている事ではあるし、それだけではないのかも知れない

 ——の、かな?

 気がつくと、何かを期待する自分がいる。

「まぁ頼られたからには一肌脱がないと男がすたりますよ」

「肌どころじゃ済まんぞ今回は」

「いいですよ。預けます、俺の命。あなたなら無駄にはしないでしょう?」

「簡単に言ってくれるな全く」

 そうだ。俺には知恵がないから簡単に言えるのだ。この世の真理に近いところにいる紗生子の苦しみなど、俺に理解出来る訳もない。だが、

「簡単じゃないですよ。去年からのつき合いじゃないですか」

 転々としてきた俺にとって、その月日を同じバディと過ごすのは兄以来だ。

「信頼出来る上官に仕える事は、下士官冥利に尽きます」

「何の下心か知らんが、後悔しても知らんからな」

 常に何処か太々しいのは知り過ぎる者の苦しみ故だ。最近になって何となくそれが分かってきた。それなら例え理解が及ばなくとも、歩み寄る事は出来る。

「下心は下心でも、志ですよ」

「君程日本語に堪能な米軍人も、そういないだろうな」

 紗生子が鼻で小さく笑うと、今度は艦内放送がやかましくも俺達を催促し始めた。


 三日後。二月下旬の夜中。アドリア海北西部。

 俺は慣熟飛行三日目に入っていた。時差ボケの影響は残っておらず体調に問題はない。のだが、やはり

 毎度毎度——

 吐きそうになる。

 XF-39ヒートヘイズSTOL短距離離着陸機だ。完装状態でも五〇〇mもあれば楽々離陸出来る。が、極秘開発中の機体を晒せるような場所は限られるため、基本的にはエドワーズかホーミーエリア51でなければ後は洋上だ。つまりXF-39に限らず、基本的に他二機も艦載機仕様で運用されている。それも駆逐艦を回収した極狭の幽霊船ドロシーでの発着を強いられるのだ。滑走路の長さは、精々離陸可能距離の五分の一。行き・・は空母によく見られるカタパルトを使って飛び出す。それも従来型の蒸気式ではなく、最新型の電磁式だ。蒸気型に比べエネルギー効率の良さが抜群のそれは、一方で莫大な電力を消費するため発電機性能頼みなのだが、そこは将来的に電磁砲レールガンを搭載する構想のある艦だけに、当然高性能発電機を備えているらしい。統合電力システムIPSと呼ばれる最新型の電力供給機構を採用した艦では、搭載しているガスタービン発電機で得たその電力が、基本的に推進を含めた艦内全てのエネルギー源となる。そういうところもハイテク艦な訳だ。

 で、そのカタパルトで強制射出された後は、大出鱈目機の試運転だ。インテリプロジェクトリーダーによるとXF-39は殆ど数か月振りの運用で、加えて直後に控える実戦仕様という事もあり、テスト時によくあったふざけた・・・・セッティングは完全に払拭されているらしい。が、それでも基本性能からして出鱈目なそれは、空虚重量が一万kgを割り込む軽量機ながらも、最強戦闘機F-22ラプターが搭載する最強の双筒エンジンの推力を優に超える恐るべき単筒エンジンをつけている。飛行中、操縦桿スティックに触れただけでひっくり返るような感覚の神経質ピーキーさは、軽戦闘機にあるまじき類を見ないじゃじゃ馬だ。例えるならば、直線のタイムを競うドラッグカーでカーブを伴う一般的なサーキットレースをやるような。未舗装ダートのコースをF1マシンで走るような。勿論本当にやった事はないが、例えるならそんなところだろう。その繊細さをクリアしても、その先にある強烈な重力加速度に耐え得る体力と思考を止めない精神力が要求されるのだ。どれが欠けてもじゃじゃ馬には騎乗出来ない。俺より繊細なヤツなどいくらでもいるだろう。俺より中距離走が早いヤツなど腐る程いる筈だ。強靭な精神力の持ち主も、日夜修行に励む修練者や昨今の排他的な世の中で謙虚に寛容に生きようとする篤実な人々の中にいくらでもいる。が、このじゃじゃ馬XF-39は、俺以外の乗り手を選んではくれない。

 そんなに俺の事が——

 好きなのか。英語で飛行機といえば女性名詞だ。俺はどう思っているのかというと、今のところ腐れ縁以上でも以下でもないのだが。久々に乗ったというのに相変わらずで、安心したのやら疲れたのやらで小一時間。帰りが怖いとは何かの歌にもあるが、一番の難関は着艦だ。

 空虚重量に近ければ着陸ランディングも五〇〇m程度で十分なのだが、そんな長さを駆逐艦に期待するヤツはいないだろう。空母でもそれは有り得ないのだから、基本的には機体のケツにつけている可動式フックを着艦用制アレスティング動索ワイヤーに引っかけて着艦する。それにフックが引っかからなければタッチアンドゴーの要領で再離陸するのだが、それは開放型滑走路を持つ空母の話。これが駆逐艦を改修した軽空母仕様の幽霊船だと、閉鎖型・・・滑走路という気が触れた構造だけに、やり直しは出来ないという無茶振りだ。正常な精神状態のパイロットなら「自殺行為だ」と言ってまずやらないだろう。そのザマは虎穴何とかではないが、まさに虎の穴に突っ込むようなものだ。頭がイカれたテックなどは、

「子宮に挿入する時みたいにゾクゾクすらぁ」

 などと訳の分からない事をほざいているが。表現は人それぞれだが、要するに常軌を逸した構造だ。

 機体の失速速度の限界に挑戦する程の低速でアプローチに入る。通常の艦載機ならフックがワイヤーに引っかからなかった時の再発艦に備えてフルスロットルで降りて行くが、幽霊船ではそんな保険はない。腹を決めて静々と墜落・・して行くのみだ。辛うじてあるのは最後の砦、エマージェンシーバリケードネットだが、これはパイロットを助けるためではない。機体の衝突による損害から艦を守るための防護網であって、そんなところまでパイロットをこけ・・にした構造だ。これに頼る時はいよいよ覚悟を要するのだが、幸いにも俺は今まで世話になった事はなく、久々の着艦作業も何とか事なきを得た。

 ハンガー内の休憩室で横になっていると、

「よ—ぅ地獄へおかえりカウボーイ」

 先に戻っていたテックが相変わらずの陽気さで入って来た。様々な比喩に尽きない艦内の様々な俗称は、殆どこの男のこの軽さ・・によって名づけられている。

「調子はどうだ?」

「吐きそうです」

「流石に乗り慣れてるな。今のかみさんといい、ヤバそう・・・・なのがお好きと見える」

「何とでも——」

 言いやがれ。正直、一々構う気になれない気持ち悪さなのだが、テックはそんな空気を読むような人間ではない。

「俺なんて危うく失神G-LOCしそうになったってのに——」

 俺が外れた後、試しに乗ってひどい目にあったらしく、以来XF-39のコックピットには近づきもしないのだとか。

「流石にご主人様は違うねぇ」

「慣らしただけですから。うぅ——」

 何せ思い切り引っ張り回せばステルス性も何もあったものではなく、チタンをメインとした自慢の軽量ボディーが摩擦熱で溶けるだとか、それ程の機動力でパイロットがGに負けて一瞬で死ぬだとか、そんな散々なはしゃぎっ振りが出来る機体なのだ。少し極端な表現だと、外目には遅い落雷のような高速鋭角的機動性と、それを可能にする程の頑強な筋骨を不遜なまでにたぎらせる常に不機嫌な荒くれ者。それは技術者達のエゴイズムが具現化したような物で、俺に言わせれば

 ——そういう事は無人機でやれ。

 イーグル自慢の最新型ターボファンエンジンは諸刃の剣の最たる物で、ぶっちゃけ話で言うところの欠陥品だ。それは低性能という意味ではなくむしろその逆で、怪物エンジンが生み出す高機動性が仇となって機体に摩擦熱が発生し、ステルスボディーを痛めつけ秘匿性を削ぎ落とす。それは明らかにバランスを度外視した技術のてんこ盛り感が否めず、故に欠陥機以外の何物でもないのだが、そこはやはり実験機の悲哀というヤツだ。一言技術者サイドに寄り添って言えば、エンジンの性能に機体のボディーが中々ついていけない。そこは新たな技術を開拓していくしかないのだろう。

 何の因果か知らないが、その実験につき合わされる俺の業とは何なのか。俺以外に乗り手がいない機体の事ならば、この身がくたばればじゃじゃ馬XF-39の研究開発は暗礁に乗り上げる。そんな乗り手に困る程の破壊力だというのに、当の本人じゃじゃ馬は設計コンセプトに忠実なものだから中々頑丈で壊れないときており、最早呆れるばかりだ。

 ハイテク機というのは確かにハイパフォーマンスだが、それだけ繊細なのもまた事実だ。それ故メンテナンスに時間と金と労力が嵩み、運用率の低さがネックになっている現実がある。そうした懸念を補う役割を課せられたのがやはりXF-39ヒートヘイズだ。トラブルの元凶になりがちな複雑な設計を可能な限り簡素化し、整備のしやすさを追求。その積み重ねが故障の少ない元気印を更に熟成させ、パイロット泣かせの運用率の高さを実現させたじゃじゃ馬は、まさにタフでなくては乗り熟せなくなった訳だ。

 注目すべきはそのターンアラウンドタイ再出撃にかかる時間ムで、無傷なら二〇分もあれば再出撃出来るその早さは、従来のステルス機の整備の概念を根底から覆した。となると、堂々巡って後はやはり、そのハードワークについて行く事が出来るパイロットの育成という事になるのだが、それは従来通り一朝一夕ではいかない訳で、

「久し振りでコイツも嬉しいのさ。相変わらず懐かれてるな」

 じゃじゃ馬は、俺以外に尻尾を振ろうとする素振りすら見せない。

「あーマジで冗談キツいです」

 そこへ、整備完了の放送が入った。

「何だ、また出るのか?」

「まだ舵の点検程度ですから」

 電気系統アビオニスクも見ておかなくてはならない。地上では正常に動く事は分かっている。が、実際にそれを使うのは激しく飛び回る空の上だ。今の時代の航空部品は、殆どそれに支配され依存している事を思えば、その調子如何が機体のコンディションの全てと言ってもよい。

「よーやるわ。夫婦共々、忙しい事だね」

 返答するのも億劫で、休憩室を出しなに手を振っていなした。歩きながら何度か深呼吸をした後で、リカバリーフック呼吸を試してみるとまだ少し気持ち悪い。脳の酸欠や虚血が招くブラックアウト対策のそれは、戦闘機乗りファイターパイロットの基本中の基本の嗜みだが、この基本こそが結構命を左右したりする。だからどんなヤツでも疎かにしない。一見して軽口を叩いているテックであってもだ。やる事をやっているからこその余裕であって、それは決して空元気ではない。自分を偽るヤツ、対話出来ないヤツは犬死するだけだ。

 耐Gスーツを着ているとはいえ、減G効果は良くて二、三G。最後は結局、己の気力体力勝負な訳で、

「もう一丁いきますか!」

 じゃじゃ馬を前に自分の両頬を両手で軽く叩いて、よくそれが日本人的に「何事も気合と根性だ」と呼ばれていた事を思い出した。

 実戦配備されている名だたる戦闘機は、仕様上の最大荷重制限が概ね九Gだ。機体自体は恐らくその一.五倍は耐えると言われているが、俺のじゃじゃ馬は今やその一.五倍が仕様上の制限値になってしまっている。

 こんな出鱈目だから——

 パイロットが持たず、育たないのは必然なのだ。それに専属で耐え続けなければならないと思うと気が重いどころの話ではない。かつてのエアレースで一二Gまで負荷が認められていた時代があったが、そんなオーバーGの中で敵機と対峙する事を想定しなくてはならない世界が俺の職場だ。そんな事を脳内で巡らすようになって何年か。

「はぁ——」

 つい、足が止まって溜息が出た。因みに、ジェットコースターのGは最強クラスの物で三から四Gと言われる。が、それはあくまでも瞬間的なものだ。一定時間、通常有り得ない殺人的なオーバーGに耐えなければならない状況が想定されるファイターパイロットの過酷さの一端がそこにある。と言っても世間ではその内情を理解する者は少なく、それこそ飛ぶ事しか出来ない能無しの槍働き者でしかない。

 ——流石に。

 久し振りの実機乗務のせいか、いつになく愚痴っぽい。勿論、誰も聞いてくれないから脳内の話だが。一応これでも前向きに、建設的に自分自身に言い聞かせているつもり、という事で勘弁してもらおう。

 本来ならば心身共にじっくり練っていきたいところだが、それでも慣熟を急ぐ理由は紗生子の動きのせいだった。


 遡る事数時間前の同日日没後。

 三日前、俺より少し早く乗艦した筈の提督・・は、

「時差ボケで眠い」

 とかで、乗艦以来ダラダラ惰眠を貪っていたのだったが、今日になって晩飯後間もなく突然騒ぎ始めた。何でも艦尾甲板下の格納庫で、艦載されている高速型複合艇ゴムボートを前に

「——出せ! 大至急だ!」

 と何人かのクルーに絡んでいるとか。で、突然降って湧いた騒動にその夫の

「——俺?」

 が担ぎ出されるのは自然の流れだ。

 ——おいおい。

 鳴り物入りで乗艦しておいて、今度は営倉でも入るつもりなのか。極秘実験機が目につかないよう、船舶の航行が落ち着く深夜帯を狙っての慣熟飛行に備えていた俺だったが、

「どうしました?」

 荒ぶる妻の鎮圧要請を受け慌てて顔を覗かせると、鮮やかなワインレッドの長いマントのようなコートに身を包んだ紗生子が、十数人のクルーを前に早くもヒートアップしていた。

 げ——

 私服というより何かのコスチュームのようなそれは、如何にも魔女というか怪盗ル○ンのような。少なくとも軍艦内でする格好ではなく、つまり出かける気満々という事らしい。一見して明らかに

 ——ヤバい。

 人の機微に疎い俺でも、不穏な空気を含んだ状況である事が分かる。その反射的な防御反応で、つい及び腰になった俺を見逃さない紗生子の捕食獣的な玉眼に捕まると、

「私が呼んだらすぐ来ないか!」

 早速雷を落とされ金縛りの刑に処せられた。

「イエッサー!」

「美女を前にサーがあるか! マムMa’amだ!」

「イエスマム!」

 迫力ではサー以上なのだが。が、ガス抜き成功だ。納得しないまでも瞬間で嘆息したその花唇から怒号が失せ、目論見通り癇癪が収まると、

「お、収まったぞ」

「流石は旦那だなぁ」

 などと、当てつけの冷やかしめいた静かなどよめきが起きた。

 ——やれやれ。

 魔女の気紛れにまだ慣れていない連中クルーの事ならば、紗生子といえども少しは気を遣って欲しいものだ。が、それが分かるようなら騒ぎを起こす訳もなく。という事は考えても詮無い事だ。それは良いとして。

 一息吐いた紗生子は委細構わず、

「ベネチアへ行く! 君からも船を出すよう言ってくれ!」

 無理なら君の乗機を出せ、と極自然な無茶までつけ加えてくれた。

 ——マジでそうなり兼ねんからな。

 急いで直属の上司であるインテリ経由で艦長へ取り次ぎ、ゴムボートの使用許可と乗組員の人選を任されると、本人はせっかち全開で早くもそれに乗り込んでは、また険悪さを蒸し返して手当たり次第周囲に喚き散らしている。

 ——うわ。

 何処へ行っても紗生子は紗生子だ。慌てて何人かのクルーを拝み倒してボートを出す段取りをすると、ドタバタと準備が整ったその出航直前になって魔女船長に荒っぽくも手を引かれ、

「いきなり待ったなしの土壇場かも知れんぞ! 心して調整しておけ!」

 と何やら紙を握らされた。

「恐らくナバホ・コードだ」

「——って、」

 誰がそんなものを。それは今でも有効なのか。先の大戦で米軍が少数部族の言語を暗号代わりに使ったそれは、映画にもなったものだが。

「全く凝った事を。あれから何年経ってると思ってるんだ」

 それはこっちの台詞だ。

「私は調べる暇がない! マニアにでも調べさせろ!」

 と叫んだ紗生子を乗せたゴムボートは、

「あっ、ちょっ——」

 戸惑う俺に構わず、颯爽と真っ暗闇の海へ飛び出して行った。

「——せっかちだなぁホント」

 手の中に残された紙を見てみると、走り書きのアルファベットの羅列が何とも流暢な筆記体で書かれている。如何にも紗生子らしいものだが、見た事がない単語ばかりで何の事やらさっぱりだ。事後報告がてら、すぐにまたインテリに相談すると、

「エイプリルフール以外で使うとは思えんがな」

 やはり首を捻った。

「ベネチアで直接連絡を取るつもりなのかも知れんな」

「アヴィアーノ、ですか?」

 ベネチア郊外のそこには米空軍基地がある、が空軍拠点だ。紗生子が当てにしているグリーンベレーと接点があるとは思えない。

「いや、ビチェンツァだろう」

 陸軍基地があるとか。流石は世界中に基地を持つ米軍だ。アヴィアーノ同様、ベネチアから一時間圏内らしい。何にしても、軍の基地へ行くのなら軍服でもよさそうなものだが、そこはやはり秘匿性を優先したのだろう。もっとも

 あんな派手な格好じゃあ——

 その配慮は台無しのような気もするのだが。そもそも海自の身分で、どうやって米陸軍基地に入るつもりなのか。謎だらけだ。

 ——にしても。

 誰とやり取りしているのか知らないが、暗号を用いるなど。紗生子も慎重になっているという事だ。そのスタンスなら理解出来る。

 現代の軍用通信がデジタルカスタマイズで暗号化されているとはいえ、通信内容は隠せても電波そのものを完全に隠し通す事は難しい。その迂闊な電波のやり取りだけで作戦行動の意図が読まれてしまう事はあるものだ。それを踏まえた上でドロシーは、機密保持のためにわざわざ既存艦そっくりに建造された極秘艦幽霊船にして、極秘作戦目前の身。とあれば、これ以上の説明は不要だろう。

 つまり情報通信に対する慎重さは、OPSEC作戦機密における基本中の基本という事だが、物事というのはまさにその基本こそが肝要である事を、俺は間もなく目の当たりにする事になる。が、それはもう少し先の別の話。

 まぁあんな形・・・・でも——

 とあえてつけ加えるが、あの提督・・・・もそうした通信の繊細さを知る船乗り海軍人という事だ。暗号を使っていたという事は、乗艦後は流石にCCカスタマイズされたスマートフォンも使っていないのだろう。当然と言えば当然だが、それにしてもそれを未解読のまま走り出してしまうとは。紗生子らしくないというか、一体どういうつもりなのか。

「にしても、ナバホ・コード  これ  は分からんぞ」

 という事で、二人して通信士官に尋ねてみると、本国からの定時メールの中に紗生子宛ての物があり、それを見た本人がいきなり騒ぎ始めた、という事情が判明した。その中身がこれだったのだろう。当然現代の海軍内でも、ナバホ・コードを使う事はないらしい。

「少しならすぐにでも分かりそうですが、どれも見た事がない単語ばかりで——」

 一見して、それが三〇弱並んでいる。

「——てこずりそうですよこれは。本国に照会すれば、すぐに分かると思うんですが?」

 本国から与えられた幽霊船ドロシーの表向きの任務は、そのステルス性と情報収集能力を買われてウクライナ情勢の注視というもので、本国と連絡を取り合う事に違和感はない。のだが、アイリス副大統領直々の極秘作戦向きの情報までやり取りしてしまっては本末転倒だ。だからこそ小難しい暗号になっている訳で、つまりそれは、

「——出来ませんよね、やっぱり」

「まぁねぇ」

 暗号文を送ってきた者の意図を台無しにし兼ねない。それにしても、

「どういう意味なんだろーなぁこりゃあ——?」

 つい溜息に、恨み節が滲む。

「タフさん、こういうの得意でしょ?」

「ナバホ語知ってる事が大前提でしょーが」

「そもそもが、本当にナバホ語なのか? これは?」

 インテリが割り込むと、

"うーん"

 と、その場の三人の声がはもってしまった。

「手伝ってやりたいが、流石に俺達パイロットは慣熟で無理だ。済まないが艦内のみんなで何とか大至急で頼む」

 最終的に締めたのは、やはりインテリだった。


 で、今の慣熟飛行の場面に戻る。

 魔女は帰って来ないし、暗号も解読されない。

 何なのかねぇ——。

 冬のアドリア海は、バルカン半島の北西から南東部に横たわるディナル・アルプス山脈から【ボラ】と呼ばれる北東季節風が吹き降ろす事があるそうだが、ここ何日間は落ち着いていて海も穏やかだ。船の現在地はベネチア湾の入口におり、ゴムボートならベネチアまでは片道二時間程度だろう。じゃじゃ馬XF-39で飛んでいても、上空も穏やかだ。麗かな季節の昼間にでも飛ぶ事が出来たなら、それはそれは風光明媚で名高いアドリア海の事。空軍上がりの豚が主人公の物語をなぞらえるような景色の一つも拝めるのだろうが、今は夜中な訳でそんなお気楽な状況ではない。しかも乗機は奇しくも物語同様にじゃじゃ馬だが、時代が一世紀も違えば流石に基本性能が違い過ぎる。が、劇中で語っていた

 インスピレーションが大事ってのは——

 確かに同意だった。当然、乗り熟す上で最低限の心技体は必要で、このじゃじゃ馬はその基本的レベルがバカに高いのだが、そこを乗り越えたなら後は閃きの世界だ。いつの時代のパイロットだろうと優秀なヤツならあっという間に現代のハイテク機にも順応しそうな気もする訳で、可能であれば

 ——俺と代わってくんねーかなぁ。

 結局、愚痴に繋がる。

 確かに二〇世紀の前半は動乱に次ぐ動乱の時代で、実戦経験に裏打ちされた歴戦の雄が育つ下地があった。だからこそ、後世に名を残す化け物染みたエースパイロットが数多く誕生したともいえる。が、二〇世紀後半以降は冷戦構造が進み、合わせて兵器の次世代化が進んだ事で、パイロットのレベル一つで戦局を覆すような時代ではなくなった。当然そんな背景で、昔のような数百機もの撃墜記録を誇る文字通りの撃墜王など出てくる訳もなく。だからこそ、巨大化し複雑化した国家間で繰り広げられる局地戦という名の小競り合いに傭兵として担ぎだされた、何処の馬の骨とも分からない俺のような人間が、うっかり撃墜王などと呼ばれてしまうのだ。

 ——冗談じゃない。

 戦いの規模は小さくなっても、軍事技術が進んでも、変わらないのはそれによって死ぬ人間がおり、悲劇が繰り返される構造だ。本当なら、そんなものに加担したい筈がない。中には好き好んで戦いに身を投じる能動的な戦争屋もいるが、俺は明らかに受動的なのだ。人生を遡れば要所要所の分かれ道で、たまたまきな臭い道が身近にあった。それだけなのだ。

 戦争はこの世で最も愚かな行為である事は、嫌という程理解している。それでも俺が関わるのは、善悪を抜きにして、それが人の責任で行われなければならないと思うからだ。次世代はあらゆる兵器の無人化が進むと目される。AIが戦争をする時代だ。そうなった時、人は機械に国家の存亡を押しつけるのか。それを委ねる事が出来るのか。核戦争をおっ始めたらそれを黙って黙認するのか。

 そんなモン——

 出来る訳がないのだ。ならば、誰かが犠牲になって人の意思でそれをやり、人の意思で終わらせなければならないのだ。それが槍働きしか出来ないような能無しで、天涯孤独のヤツならば。その都合の良さは説明するまでもないだろう。

 ——結局俺かよ。

 べつに格好をつける気はないのだが、交戦的でもないのに自分で言うのも何だが、操縦に限らず俺の傭兵レベルの高さは一体全体何なのだ。

 ——コウモリじゃあるまいし。

 夜な夜な戦の準備のための慣熟ではなく、少しは白日の風光明媚の情景の中をのんびり遊覧飛行でもしたいものだ。が、そんな事をこの極秘開発中の実験機じゃじゃ馬で出来る訳もなく。

 諺だか格言だか比喩だか何だか知らんが——

 バカと煙は高い所へ上るというのは、どうやら本当らしい。俺は高い所は嫌いじゃない。むしろ飛行機で飛ぶ空は好きだ。何もかも忘れさせてくれる開放感が、などとよく聞くが、俺の表現では空の雄大さは良くも悪くも人間のちっぽけさを教えてくれる。大宇宙に対する地球のそれと似たような感覚だ。人間など、この大きさの前には取るに足らない存在なのだ。その小さい存在が抱える悩みなど、大抵は取るに足らない小さなものなのだ。いつも変わらずそこにある、善悪を超越し達観した存在。

 ——なんてなぁ。

 大した脳を持っていないくせに、何となく哲学的になってくるのは俺の悪い癖だ。

 気がつくと吐き気は治まっていた。先程までは久々の操縦でつい頭が突っ込み過ぎて、頭と心臓に高低差・・・が出来たために脳が軽い酸欠になっていたのだろう。戦闘機のような動きの激しい機体に乗る上で、頭と心臓の位置関係は重要だ。なるべくこの二つの高低差をなくす事で、脳への血液供給効率を高めプラックアウトを予防する。良い仕事をするには入れ込み過ぎてはいけない感覚と同じだ。ギリギリの緊張感の中で、より多くのゆとりを獲得出来る者こそが死中に活を見出す事が出来る。緊張感がもたらす集中力は一見すると呆けて散漫に見えたりするが、実は超然としたもので、別の感覚でしっかり状況を拾い続けている。分かりやすく言えば、ゾーンというヤツだ。もっともそんなに都合良く、上手くいく事は少ないのだが。

 強烈なプレッシャーの中でそれを和らげようとして、エンドルフィンと呼ばれる脳内麻薬が分泌される。それはゾーンに入るきっかけの一つだ。が、大抵人はプレッシャーを前にネガティブな思考が勝ってしまいがちで、アドレナリンが闘争本能を過剰に刺激し感情的になり、自らゾーンの素地を壊してしまう。スポーツでもビジネスでも、最後はメンタルコントロールだ。その見た目には分からない身体を掌握する脳内の働きが、俺が生きる世界では如実に生死を分ける。そんな世界で俺のような受け身の男が生き抜いてこられたのは、そんな事を他人より少し知っていて、それを他人より少し上手く実行出来ただけの事だ。

HHダブルエイチ、こちらドロシー、送れ』

 そこへ無線が入った。ダブルエイチはじゃじゃ馬の愛称であるヒートヘイズの頭文字を取ったコールサインだ。声の主はどうやらインテリ直々のようで、

『慣熟を切り上げて戻れ』

 とか何とか。普段管制卓に出入りする事はあっても、直接無線を飛ばす事はないのだが。

 ——珍しい。

 何かあったか、となれば、すぐに思いつくのは紗生子の動きと暗号文だ。

 果たして戻ってみると、やはりそうだった。ハンガーに降り立つなり早速インテリが駆け寄って来て、

「先程ゴムボートの連中が帰って来たんだが——!」

 まだ落ち着かないじゃじゃ馬の排気音に構わず、共に休憩室に向かいがてらで紗生子だけ帰って来なかった事が告げられる。

「何処へ——!?」

「明後日には戻ると言って出て行ったらしい!」

 やはりビチェンツァの基地に行っていたらしい。が、そこから一体何処へ行ったものか。

「お前、何か聞かなかったのか!?」

「聞く間もなく出て行ったんですよ! メモだけ預けられて!」

「おお、そうだ!」

 と、休憩室に入ったところで、今後は問題の暗号文に話題が移る。

「これをどう読む?」

 ナバホ・コードはナバホ語の単語を個別に英訳し、その頭文字のアルファベットだけを順番に読む事で平文非暗号文読みが可能な筈なのだが、

「何の事やらさっぱりですね」

 メモのものは、どうやら更に並べ替えが必要のようだ。

「通信のモンもここまで良くやってくれたんだが、ここから先がどうも手強いようでな」

 並べ替えてみても、しっくりくる意味が見出せない、とか。

「英文じゃないのかも知れんぞ」

 と漏らしたインテリその一言で

「ひょっとして——」

 閃いた。

「どうした?」

 英単語の母音比率は四割弱という研究結果を耳にした事がある。が、メモ紙のアルファベットは

「母音と子音の数がほぼ同じようなので——」

 という事は、母音と子音を組み合わせて一文字ずつの音を表記する他言語ではないか。しかも、

「——日本語のローマ字表記かも知れません」

 の可能性が高い。その証拠に、部分的には既に何個か読めるのだ。

 となると——

 それを押しつけられた時の紗生子の慌て振りが、

「——まさか!?」

 俺の脳内で往年の暗号文を思い起こさせた。慌てて休憩室内のホワイトボードにそれを並べ替えたものを書き出してみると、いくらかアルファベットが余ったが

「やっぱり!」

 日本語の一文が出現する。

「おい、これって?」

「開戦暗号電報ですよ。旧日本海軍の」

「日本海軍?」

 連合艦隊司令部が、各機動部隊に真珠湾攻撃を命じた有名なそれだ。

「ニイタカヤマノボレ、でいいのか?」

「ええ」

 にしても、

 ——誰の趣味なんだこりゃあ?

 まさかこんなところ米軍の極秘艦船内でそれを拝まされるとは。送信者など知る由もないが、あれから何年経っていると思っているのか。まさにベネチアへ出しなの紗生子の一言に、激しく同意だ。

 とりあえずそれは置いておくとして、問題は余ったアルファベットを並べ替える事で出現した日付だった。それだけは英語であり、強調するためにそうした事が窺える。

「二月二四日、です」

 何処の誰だか知らないが、開戦日を知らせる暗号文だったのだ。

「信用出来るのか? これ?」

「こういう事で冗談かます人間じゃありませんよ、あの提督・・は」

 やっている事は冗談キツい事ばかりだが。

「——分かった。やはりお前を呼び戻して正解だった。今夜はもう休め。明晩も有事に備えて調整程度だ」

 といっても、もう日付が変わってしまっている。という事は、

「明日が——」

 開戦日だ。まさに紗生子が吐き捨てた展開になってきたではないか。

 ——マジかよ。

 一言、時間がない。


 紗生子はその開戦日当日、日付が変わって間もない頃に帰って来た。日数的には二日間空けた格好だが、時間的には三〇時間も経っていないというのに、

「大至急各機にこれをつけさせろ!」

「な、何です? これ?」

「ウクライナ空軍が使っている敵味方識別装置IFFだ!」

 調整飛行を済ませ、例によってハンガーの休憩室で一息ついていた俺に殴りかかる勢いでそれを突きつけてきた紗生子は、何と陸路でウクライナへ行っていたらしかった。

「詳しい事は後で話す! とりあえず整備士にこれをつけさせろ!」

「そ、そんな事言われましても——」

 俺の一存で、そんな出所確かからずの怪しい物を搭載出来る訳がないではないか。

「イエスマム!」

 そこへインテリが入って来て割り込んだ。

「上には私から話しておきます。急ぎましょう提督!」

「ああ、頼む!」

 と、車のバッテリー程の物がいくらか入っているようなズダ袋を持ったままの紗生子が、慌ただしくもまたハンガーへ出て行く。まるで、

 ——竜巻みたいな女だ全く。

 帰艦そうそう賑やかな事だ。確かに開戦直前ともなれば、悠長にしている方がおかしいのだが。

 近代兵器は一にも二にも、まずは電波とのつき合い方が物をいう。如何に優れた兵器を持っていても、同士討ちをしては意味がない。それ故の識別装置だ。NATO軍では最新型の物に改修が始まって何年か経つが、ウクライナはNATO加盟国ではなく、恐らく未だに旧ソ連製の使い古しを継承して使っている。それを何処から仕入れてきたのか知らないが、紗生子の持って来た物が

 本物なら——

 ウクライナ軍から背後を襲われる可能性は随分低くなったという事だ。両軍が乱れる空域に割り込み、ロシア軍機だけを退けるつもりだった事を思うと、紗生子の仕事の大きさは語るまでもない。

 慌ただしさを増すハンガーの作業をぼんやり眺めていると、やはり紗生子の指示で主翼の上下面に何やらペイントがされ始めた。内側が青色、外側が黄色の二重丸のそれは、ウクライナ軍の国籍識別章ラウンデルだ。

 ——おいおい。

 色々とやっている事が出鱈目だが、それは何処まで許されているのか。正当な使用者ウクライナ軍の許可を得ているものと信じたいところだ。ついにはV字尾翼に国章の三叉戟さんさげきまで描いており、どうやら本気でウクライナ軍機になりすますらしい。元々何のペイントも施されていない極秘開発中の機体だけに、塗ったぐられるのは斬新さを覚えるものではあったが。

 作業の様子に納得した紗生子が休憩室に戻って来た。

トライデント三叉戟まで描いちゃって——」

 大丈夫なのか、と言いかけたところを

「ウクライナ語ではトルィーズブと言うそうだ」

 早速上から被せてくるなど、方々で色々無茶をして来たのだろう。

「然いですか」

「詳しくは言えんが出所は大丈夫だ」

 後で詳しく話すと言っていたのは何だったのだ。

「直に借り受けた物だからな」

「どうやって行ってらしたんで?」

「車だ」

 何と寝ずに走りっ放しだったらしい。

「本当はビチェンツァからも連絡を取りたくなかったんだが、幽霊船からするよりはマシだと思ってな」

 確かに米陸軍の基地から紗生子が頼みにするグリーンベレーと連絡を取る事に、表向きの不自然さはない。が、極秘作戦中の事でもあり必要最小限の通信に留め、とにかく足で稼いだ結果がこの状況なのだ、とか。

「リビウで接触して、私はそこで初めて知った」

「そんな所まで——」

 由緒正しきその古都は、これまでのブリーフィングで何度も耳にしたウクライナ西部の玄関口だ。が、空路でさえ片道一〇〇〇kmを超えるというのにそれを車の単独行とは。それはとにかく機密保持を優先したという事だ。如何にも人を顎で使い慣れた感のある紗生子だが、その行動力にはいつもながら驚かされる。

「分からない時は汗をかいて足で稼ぐ。これでもその謙虚さは忘れていないつもりだ。急いで正解だったろう?」

 ついでにお土産IFFを持って帰るところが流石だ。そもそもが恐らく、最初からそれ土産が目当てで突っ走ったのだろう。受け取る段取りがついたから飛び出した、というところか。何処で邪魔が入るか分からない、その不確定要素を出来る限り消したかった気持ちは分からないでもないが、

 ——それにしてもなぁ。

 出しなに一言ぐらい囁いてくれてもよかったろうに。

「少し休んだらどうですか?」

 紗生子は出て行った時と同じ格好だった。隠密行動には向かない見映えだが、その大功を前に小言が吐ける訳もなく。敵味方の思惑が複雑に入り乱れ、その際どい均衡の中で流石の行動力を見せつけてくれる紗生子に文句を言うような間抜けなど、この艦にはいない。

「そんなに柔じゃない。この後早速ブリーフィングもある」

「それにしても無茶しますね、毎度」

 いくら情報のやり取りに気を遣う必要があるとはいえ、その柔軟で瞬発力のある突飛な行動力に、周りは驚かされっ放しだ。

「こんなのは無茶に入らんぞ。そんな事は君も分かってるだろう?」

「まぁ俺はそうですが」

「それに可愛い部下の事だからな。むざむざ死地にやる訳にもいかん」

「お陰様でそうなる確率は確実に下がりましたよ」

「死なせはしないさ。君の身はこの私がわざわざ姉様から貰い受けた・・・・・んだからな」

 確か相談役は「預けている・・・・・だけだ」と言っていたような気がするのだが。紗生子の極端な利己主義ジャイアニズムは今に始まった事ではないが、物欲に対するそれをあからさまに示すのは珍しい。それ程、という事が、それこそわざわざいいたかったのだろう。

 ——どうせ。

 俺の何が気に入ったのか知らないが、いい中年をペット扱いしてお戯れになっておられるだけだ。が、悪い気はしないのが何処か後ろめたい。以前は嫌悪感の発生源にしか見えなかった魔女だが、それこそ状況のマジックだろう。久し振りにそれだけ死地に近いという事だ。それを思い出す過程で、男としてのつまらない矜持の中に素直な感情が芽吹いてしまう。紗生子など傍からみれば、その絶世独立と傍若無人が同居する質の悪い毒女だというのに。僅か一年もかからずそれに毒されてしまうとは。その入り乱れた感情が、俺に無言を貫かせる。

「——感嘆の一つもないのか?」

 何らかの反応を待ち受けていたらしい紗生子が、わざとらしくも嘆息して見せた。

「何と答えればいいのか分からないモンですから」

 事実だけに、その複雑な心境を見透かされたくないところだが。紗生子にかかれば刮目するまでもなく御見通し、といったところだろう。そう思うと身体の何処かがむず痒くなる。

「私の近侍きんじを許された唯一の男だというのに。普通小躍りするモンだがな?」

「こんな感じですか?」

 痒くなりついでのやけで、両手を組んで女子チックにはしゃいでみせると、紗生子が小さく噴き出した。

「いつそんな芸風を身につけたんだ?」

「学園で今時の若者に接していたからでしょうね」

「年寄り臭いな」

「そりゃあ生徒達の二倍は生きてますから」

「にしては箔がないよな」

「ナメられまくりですから」

「そんな調子だから貞操が狙われるんだ」

「そんなバカな」

「と思うところが迂闊なんだよ。普段着平時でも少しは気合を入れろと言っていただろう?」

「そんなモンですか?」

「そんなモンだ」

 今時の若い娘を子供扱いするな、などと軽妙な出任せのやり取りが、思いがけず郷愁を呼び覚ます。一旦そこで会話が途切れたところを見ると、紗生子にも思い当たる節があったようだ。

「——まぁとにかく、何食わぬ顔で帰らんとな。夫婦で仲良く出張だと校内で喚き散らされたら、また色々面倒だ」

「同じ出張先って事になってるんですか?」

「さぁな。ただ言える事は、アンも含めて殆ど三人同時に消えたんだ。そう思われても仕方ないだろうな」

「はあ」

 と、また思わず溜息が漏れると、また紗生子が小さく噴いた。

「君はホント、何処でも変わらんな」

 それはこっちの台詞だが、

「少し気合を入れた方がいいですかね?」

「いや、それが君の持ち味なんだろう」

 と言った紗生子が、軽く鼻で笑う。と、

「——そのまま何食わぬ顔で帰るだけだ」

 またそれを口にした。

「——はい」

 あえてそれを少し強調する紗生子の方も、流石に少しは死地を感じているのだろう。中々先が見えてこない状況下で、まるでそれだけが決まっているかのような。常に泰然としてブレる事がない紗生子の言う事を聞いていると、不思議とその未来が当たり前のように思えてくる。

「しかし君というヤツは、リップサービスの少しもないのか? 鈍いところまで普段通りだな全く」

「はあ?」

 反論しようとすると、

「——まぁいい。その相変わらずの代償は、別の事・・・でもらうとしよう」

 紗生子の方が勝手に畳んでしまった。

 ——何だそりゃ?

 特別軍事作戦という名のロシア軍による侵攻が始まったのは、その僅か数時間後。イタリア時間で二月二四日午前四時の事だった。

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