出張(前)【先生のアノニマ 2(上)〜10】

 俺には兄がいる。元々一人っ子であり、既に天涯孤独でもある俺にとってそれは所謂言葉の綾だ。

 人生とは本当に不思議なもので、年明け後の俺は、そんな兄がきっかけとなって思いもよらぬ潮流に飲み込まれて行くのだが、それは

「君を探している男がいるそうだ」

 と言う紗生子の一言で始まった。

 結果的に偽装夫婦・・・・水入らずの年末年始を過ごした格好となった俺達は、休暇明けで帰校するなり早速その事実を掴んだ顔馴染み・・・・達によって抗議恨み節の的にされた。それが念仏に聞こえ始めた頃に冬休みが終わると、当たり前の事だが授業の日々が再開。一人をこよなく愛する俺が、いい加減他人の存在の濃密さに辟易しているところへ冒頭の一言な訳で、

「はあ?」

 上司に対する返事としては不適切だと分かっていても、つい棘が混ざる。

「何だ? わざわざ米軍から取り次いでやってるってのに随分なヤツだな」

「すいません。正直人酔いしそうで——」

 久し振りに朝から晩までフル稼働の建前ALT業務で自分の主幹教諭付机に座る暇すらなく、ようやく帰って来たのだ。見た目の穏やかさ程人間が出来ていない俺ならば、

 そりゃちょっとぐらい——

 イライラする事もある。と、いうのは俺の甘さだという事も、自分自身よく理解しているつもりだが。やはり気が滅入る。

「またとない長期休暇をぐずぐずしていて逃したヤツの言いそうな事だな」

 短気な紗生子にしては何度となく休暇を後押ししてくれたそれは温情に他ならず、それを台無しにしたのは確かに俺だ。それは良い。済んだ事だ。逆に紗生子との休暇は楽しかったのだ。だからこそ、戻って来た日常にうんざりしているなどと、

 ——言えるか。

 口が裂けても。

「まぁそれはともかく——」

 そんな俺の心境を何処まで汲んだのか知らないが、構わず続ける紗生子が

不破具衛ふわともえという男らしいが」

 聞き慣れぬ名を口にした。

「存じませんが」

 僅かに首を傾げて答えた俺に

武智次郎たけちじろうとも言うそうだぞ?」

 と、紗生子が悪戯っぽく口角を上げて後出しだ。

「——知ってて言ってません?」

「珍しく機嫌が悪そうだからほぐしてやったんだよ。上司の配慮に感謝しろ」

 後者こそが俺の兄の名だった。得意気にほくそ笑む紗生子が、続け様にコンタクト内でその資料を共有展開し始める。

「本名不破具衛。日本国籍。三八歳、独身、身寄りなし——の元フランス外人部隊員か」

 在隊歴一〇年の前半は、山岳特殊部隊や最精鋭の落下傘特殊部隊などの特殊部隊員として活躍。後半は使い勝手の良さが買われて司令部付となり、隊内各部門の窮地を救うバックアップ切り札専門の特務要員に抜擢された、稀に見るハイレベルのレンジャーだ。その男から数年遅れで入隊した俺が、その輝かしい経歴に絡んだのは後半の三年で、

「バディだったそうだな」

「ええ」

 在隊時の偽名アノニマでは武智次郎と名乗っていたその日本人が操縦するヘリに、何の因果か同乗させられる事になってしまったのが全ての始まりで。

「滅茶苦茶な任務ばかりで今更ながらによく生き残ったモンだと」

「無茶無法の宿命はその頃からか?」

 その三年間で傭兵としての使われ癖・・・・がついた事を思うと、それは忌まわしい巡り合わせ以外の何物でもなかったのだ。が、

「余りにも無茶が過ぎるモンですからほっとけなくて——」

 背負う必要がない無茶まで他人に代わって背負い込むお人好し振りに呆れたものだったが、気がついたらいつも一緒の腐れ縁になっていた、というか。

「貧乏くじを引く癖は、その時・・・の使い勝手の良さに味を占めたフランス軍の賜物という訳か」

「その前例を作った人なんですよ【タク】さんは」

 良くも悪くも当時の在隊者で、そのコードネームを知らない者はいないだろう。

「ちょうど一六年前の今頃だったか?」

「何でも知ってますね、ホント」

 思わず噴いた俺の目の中では、共有資料がその功績のページで止まっていた。その最たるものに【大統領遭難事件の救助隊員】とある。

 当時の仏大統領が少し遅いクリスマス休暇を愛人と堪能するべく、厳冬期の今時分にヨーロッパアルプスの山荘へ出かけ、そのまま遭難してしまったという仏国現代史上指折りの醜聞にして国難は、一六年が経った今も尚、仏国内では事ある毎に話題になる事件の一つだ。救助を試みた当局者が二次遭難し死者が続出する状況下で、密かに決死隊員の一人に抜擢された【タク】さんが、ブリザードの中を一人、大統領を背負って下山したという英雄譚は、その男の在隊歴では前半のハイライトであり、俺が入隊する前の話。

「今何をしてるんですか? まさかCCにいるとか?」

「確かに、そう思われても良さそうな人材だなこれは」

「敵に回すと怖いですよ。こんな顔してますが」

 というその顔写真はいつのものか知らないが、俺の記憶と合致していた。見た目は大人しめで、自分で言うのも何だが俺に似た優面だ。

「そんなところまで君に似てるって事か。君の兄・・・は」

 紗生子の情報量の前には、相変わらず隠し事が通用しない。

「ただちょっと真面目過ぎるな、君と違って」

 と言いながらも紗生子によって資料のページをめくられると、次に出て来たのは日本の警察経歴だった。

「外人部隊を除隊する前に、それを加味した相談役・・・にスカウトされたようだ」

相談役理事長のお婆様って、当時は——」

 何処で何をしていたのか。その頃から学園の相談役で収まっているようなフィクサーではないだろう。

「ちょうど軍縮大使だった頃だから、ジュネーブだな」

「凄いんですねぇ——」

 というか、相談役も色々な事を考えて生きているというか、何処までその力が及んでいるのか。全くもって不気味な出没振りは、流石はCCの創設者といったところなのだろうが、そんな相談役に目をつけられる我が兄も兄だ。その柔な見た目の中に何かを見込まれた兄は、どうやら日本警察の特殊部隊の指導を依頼されたようだった。

「何せ訓練でもろくに実弾を撃たないような、世界的にも類を見ない上品な部隊だからな。日本語が使えるその道の凄腕にネジ締め・・・・を頼みたくなるのも分からんでもない」

「まぁそうですが——」

 軍人らしからぬ社会性の高さが際立っていた兄の事ならば、対話型で良い指導が出来そうにも思われたが、一方で被指導者の連中が、

 ——軍人上がりの言う事を聞くモンかねぇ。

 プライドばかり高くて大人しく指導を受けるとは思えない、という俺の予想は見事に的中。資料によると警察では完全に煙たがられ、外人部隊とは打って変わって業績も低迷。それどころか罰ばかりもらって昨春には辞職し、今は郷里の広島の山奥で隠棲しているとか何とか。

「やっぱり、ですか」

「ぬるま湯に浸かり切った連中がやりそうな事だ」

 精鋭と呼ばれる集団が必ずしも有能な者達で構成されている訳ではないという、これも皮肉の一端だろう。我が身可愛さで自分より優れた者を失脚させる例は、古今東西枚挙に暇がないものだ。

「で、今更君に会いたがる理由は?」

「ご存じなんでしょ?」

「さあ。私は詳しくは知らんが、私の愛車は【アルベール・フェレール】だからな」

「やっぱり知ってんじゃないですか。楽しんでません?」

「そう僻むな。私にとって情報収集は最早趣味みたいなモンだ。加えて相談役や理事長と知り合いだと、人脈は広がる一方だしな」

 あの車も貰ったんだよ、と只ならぬ事をさらっと漏らす紗生子だ。

「ええっ!? あの高級車を誰に!?」

「アル本人だ」

「アルって——?」

「あのスケベ親父は美人に目がないからな。世界中の美人のケツを追っかけては自慢の品を配りまくってるのさ」

 紗生子にかかればその御大尽の名も実に軽々しい。

「何処までいっても男なんて所詮はその程度のモンだろう」

 と得意気に笑うその愛車は、仏国が誇る世界的多国籍コングロマリットの巨人【フェレールグループ】のスーパーカーブランドの物である事は既に説明したが、そのブランドはその名を持つ現グループ会長が自ら立ち上げたレガシーの一つだ。

 一六年前は仏大統領でもあった、権財を極めたその御大尽を助けた我が兄は、不本意ながらも一躍時の人となった。特殊部隊員の身分はデリケートを期するとは各国共通の常識である事に加え、外人部隊には独自に偽名アノニマによって身分の保秘を徹底する掟があったというのに、だ。しかもそれがよりによって、惨事の元凶となった被災者にして軍の最高指揮官たる大統領本人の迂闊な口が原因とくれば、流石に業界人なら開いた口が塞がらず。加えて世界有数の財力を誇るその企業家が、興奮気味にメディアの前で助けてくれた兄に対して

「何でも一つ願いを叶える」

 と迂闊に迂闊を重ねたものだから、兄はその身の保秘どころか褒美を狙う不届き者に命すら狙われ兼ねない状況に陥った。身の危険を感じた兄は軍の深奥に身を隠し、入れ替わりで褒美狙いの【エセ武智】【ニセ次郎】が溢れる事態となった訳だ。

 で、事ある毎にそれに振り回される事になったフェレール家が、遅ればせながらも講じた策というのが、フェレール家と武智次郎の両者を良く知る【身元保証人】の設定だったのだが、

「まさか君が仲介人身元保証人だったとはな」

 俺は奇しくも外人部隊在隊時に、フェレール家の次期当主に内定している次男【ジロー・フェレール】と知り合う行幸に恵まれていた。

「軍に出向されてた時に知り合ったんですよ」

 元仏財務官僚のジローは仏陸軍に出向経験があり、その折に

「お守りをしたんだろう? 君が」

「そんな事まで知ってるんですか?」

「さっき本人ジローに電話して聞いた」

「はあ?」

 紗生子の人脈、恐るべしだ。

お守り癖・・・・も、その頃からあるようだな」

 と悪びれつつも

「後は君の証明が終わり次第、フェレールはいつでも君の兄に会うつもりらしいぞ」

 話の運びの早さは気の短さ故だが、分かりやすいのもその特徴の一つ。

「俺のやる事、ないじゃないですか」

 置き去り感もいつも通りだ。この様子なら俺が判断するまでもなく、紗生子とジローで判定出来るではないか。

「そんな事はないかも知れんぞ」

 一体この女は、何処まで何を知っているというのか。それにしても、

「今更フェレール家から褒美を貰うって、どういうつもりなんですかね?」

 そもそも何を貰うつもりなのか。

「さぁな」

「何か、掴んでません?」

「無欲恬淡なところまで君に似た兄上の、その動機は掴んでるんだがな。何を繰り出すつもりなのか——」

 そこの興味さ、と鼻で笑った紗生子に

「わざわざ米軍まで在籍照会して来るぐらいだから余程の事だぞ? 早く連絡をつけてやれ」

 と発破をかけられた。

「相変わらず展開が早くて落ち着かないんですが」

「この激動の時代に何をのんきな事を言ってるんだ? 君も少しは兄上の行動力を見習え」

 当事者は俺の筈なのだが、相変わらずの先取り紗生子にかかれば何が何だか。流石は魔女の本領、といったところだろう。何はともあれ俺はとりあえず、アンのお守りをしながら学校の先生の筈なのだが。

 

 で、一週間後の一月半ば過ぎ。

 兄はわざわざ広島の山奥から出張り、東京の学園にいる俺の所まで直接会いに来た。俺としては電話口で声を聞き、昔話をするだけで本人を間違える事はないからそれで判断してもよかったのだが、本人たっての希望だ。何でも警察につけ回されているらしく、物理的に盗聴されない環境で直接話したい、のだとか。

 ——って言ってもなぁ。

 この学園内こそ、ありとあらゆる手段を講じる事が可能だったりするのだが。もっともそれは警察の公安スパイ以上の極秘諜報機関の手管な訳で、当然話せる内容でもなく。少なくとも警察の手法が通用しない事は確かなのだから、密かにそんなところで大目に見てもらう事にする。それにしても、警察OBの兄が何故警察を敵に回しているのか。

 それにしても——

 それ以上に、周囲にちらつく顔馴染み・・・・が、

 ——ウザい。

 わざとらしくもやたら視界に入ってくる。

 今日は偶然にも高等部三年生の最終登校日だったのだが、正門前で記念撮影をしているその生徒達に紛れ込んだワラビーが

 ——何故急に金髪か!

 煩わしくも、その横で兄を迎え入れる俺をあからさまに覗き見てくれたり。その正門前で騒いでいる生徒達を、わざわざ紗生子が仰々しく蹴散らかしてくれたり。

 ——普段そんな事しねぇだろ。

 その行動に何か理由が付される事はなく、明らかに悪ふざけだ。

 校内本館前にあるグラウンド傍のベンチに案内した時も、校舎に目を移せば文芸部がある東校舎から堂々と双眼鏡を使っている忌々しい不審者が。佐藤先生だ。

 ——そんなんせんでもコンタクトの倍率上げりゃあ見えるだろうが!

 かと思えば、つかず離れずの微妙な距離感で落ち葉を掃いている

 ——さ、佐川先生まで?

 やはりこちらを見てはニヤついている。何がそんなに興味をそそられるのか知らないが、やり口が実に旧世代的で諜報部員にあるまじき幼稚さは、明らかに当事者の神経を逆撫でしているとしか思えない。

 そんな中、紗生子に指笛で呼ばれて主幹教諭室に戻ると

「差し支えない程度の事情を私がみんなに伝えていたからな」

「そういう事ですか」

「君の兄ってのが気になったんだろう」

「はあ」

 要するに知りたがりは、スパイの職業病という事のようだった。

「何の事情か知りませんが公安につけ回されてるようですから、ちょっとは気を遣ったげてくださいよ」

スペアナ・・・・を忍ばせてるようだしな」

 通信機器や放送機器などの電波調査に使われるスペクトラムアナライザは、盗聴盗撮機材の発する電波特定にも活躍する。それを気にするぐらいなのだから、本当につけ回されているのだろう。もっともCCの電装品は、それを簡単に特定して相手を丸裸にしておきながら相手には悟られないのだから、この校内でスペアナは全くの無意味だ。

「さっきから罪悪感が只ならないんですよ」

「まぁ種明かしは出来ないにしても、本人さんの懸念は払ってやってるんだ。折角の再会だし、コーヒーでも持ってってやれ」

 と持たされるのが、これまた曰くつきのそれな訳媚薬コーヒーで。

 ——何だかなぁ。

 善意以上に興味が先行しているように見えるのは、決して気のせいではないだろう。ではこの後、何が起こるというのか。当事者なのに置き去りにされるという、いつもの構図だ。

「指輪はどうした?」

「部外者に偽装夫婦を見せつけなくてもいいでしょ?」

 だから今は外している。

 ——目敏いな。

 そこは流石の紗生子だが、一々気にするところでもないと思うのだが。そもそもが今日の相手は男であって、しかも最早お互いに会う事もないだろうと連絡先すら交換していなかったような戦友だ。それが後から追っつけで身元保証人にされたからとて、突然何かが変わる訳でもなく。当時は無二の間柄だったとしても、今となってはすっかり埃を被った伝だったのだ。だからこそ兄は兄で、現役米軍人が日本の学校に出向している事を訝しんでいるようだが突っ込んだ事には触れてこない。お互いに口に出来ない秘密を抱える間柄になったという事

 ——だってのになぁ。

 結局兄は決定的な事を口にする事なく、俺と一緒に紗生子のコピルアック媚薬コーヒーを飲んで一息ついたかと思うと、早々に俺のお墨付き・・・・だけ取りつけて里へ帰って行った。

「何だったんでしょう?」

 そのまま主幹教諭室紗生子の根城に戻って報告する俺に、

「だから君のお墨付きを取りつけたかっただけだろう?」

 エグゼクティブチェアにどっかり座った相変わらずの威風堂々たるその部屋の主が、涼しげな目を細めて得意気に鼻で笑う。

「という事は、一人で背負い込む癖も変わってないという事さ」

 昔と変わっていなければ、欲に薄い兄の事だ。それが今更褒美を求めるなど、とにかく違和感覚えまくりのその一事に尽きる。

「相変わらず無茶が過ぎるようだが、分からんでもない。機会があれば手を貸してやらんとな」

「はあ?」

「中々の行動力だ。市井に埋もれさせておくのは惜しいな」

 あの紗生子が、二度も男を褒めるとは。これは事件だ。と勝手に驚いていると、

「片や君ときたら、人が善意で出してやったコーヒーをネタに何か言っていたような気がするのは私の気のせいか?」

「——あ」

 紗生子が男にコーヒーを出すなど槍が降るのではないか、と自分の口が動いていたような気が、脳裏の片隅に残っているような。旧友に会う事で、つい昔と錯覚して監視下・・・である事を失念していた俺は、今更それを思い出す体たらくだ。

「まぁ今回は君の兄に免じて大目に見てやろう」

 しばらくは様子見だな、と言うなり紗生子によって打ち切られたこの案件は、駆け足気味に過ぎ去っていく早春と共に、周囲の記憶からもあっさり消えてしまったのだったが。


 事態が目に見える形ではっきりと動き始めたのは、それから約一か月が過ぎた二月中旬だった。俺の中では平凡な日常を繰り返すうちに過ぎた事としてうっかり忘れそうになっていたのだが、その記憶を呼び戻してくれたのはやはり紗生子だ。

「戻りました」

「お、ちょうど良かった」

「はあ?」

 いつも通り、夕方までの授業をこなして主幹教諭付の席マイデスクに戻った俺に、

「動き出したぞ」

 と何故か嬉しそうな紗生子が、脈絡なく壁面モニターをつけた。何かの会見場のライブ映像のようで、ちょうどこれから始まるらしい。おびただしいフラッシュと共に始まったのは、

「企業の記者会見、ですか?」

「フェレールと高坂重工のな」

 一旦画角が引かれて記者会見場の壇上全体が見えてくると、合弁会社設立の発表会見旨の横幕が上についているのが見えた。何でも

「日仏の大企業が核融合エネルギーの研究開発と商業実用化をターゲットにタッグを組んだって事だ」

「はあ」

 次世代エネルギーの中核を担うその偉大さは分かるが、それが今の俺とどう関係するというのか。そもそもがそれは、ぶっちゃけ人工太陽を作るようなプロジェクトだ。何年かかるか分かったものではないその恩恵を、

「正直、リアリティーに欠けるような気がするんですが」

 現代を生きる者が享受出来る可能性は低い。

「結論を焦るな。プロジェクトの中身の話じゃない」

 言いながらも俺の言い分を予想していたらしい紗生子が、

「フェレールグループと高坂グループの創業宗家は、実は縁続きでな」

 また得意気に物語を紡ぎ始めた。

「そう、なんですか?」

「ここでも亡霊の如く、武家故実の三谷家が出てくるんだが——」

 何でも相談役の妹さんが、元仏大統領にして現フェレールグループ会長の妻なのだとか。

「マダムリエコが、ですか?」

 俺の認識ではその人は、フェレール家の次期当主ジロー・フェレールの実母でしかなかったのだったが。

「ああ」

 大の親日家として知れ渡るアルベール・フェレールは、日本語も自由自在に使い熟す事で有名だ。前妻と死別後間もなく外交使節団の一員として来日した際、日本側の通訳官だったリエコに一目惚れし、結局そのまま後妻として娶ったらしい。

「手が早いのは昔からだ。あの親父は」

「それはいいんですが——」

 相談役の妹さんというパターンは、クラーク家でも聞いたような気がするのは気のせいではない筈だ。

「没落寸前の三谷家を立て直した先代は、野心家だったという事だろうな」

 長女は日本の高坂、三女は仏のフェレール、五女は米のクラークへ嫁ぎ、しかも全員が当主夫人に収まったのは偶然ではないだろう。三家は三谷繋がりで縁戚な訳で、つまり

「日本の女フィクサー長女美也子がそれを牛耳ってたりするのさ」

 という構図らしい。

 ——で?

 だから何だと言うのか。

「縁続きなんだが、事業に関しては高坂側が頑なでな」

 日仏を代表するグループ同士、業務提携の一つもあって当然かと思いきや、今までまるで繋がりがなかったそうだ。

「大企業同士ってのは、結構ひっつきもっつきだと思ってましたが——」

「大グループ同士だからな。それが普通なんだが、相談役が嫌ってな」

「はあ?」

 外資に牛耳られる事を嫌がったのだとか。

「生粋の保守派だからな、あの女傑は」

 ならば、目の前の記者会見は何なのだ。

「じゃあ今回のこれは、相談役が折れたって事ですか?」

「それがそうじゃないらしくてな。表向きには激怒してるそうだが」

 それがそうだとして、やはり俺にはまるで関係が見えてこない、雲の上の話ではないか。

「高坂重工の社長は真純の伯父にして理事長の実父で——」

 いずれは高坂宗家を継ぐらしい。

「——が、これに横槍を入れようとする不届き者がいてな」

 そろそろ何かに気づいても良さそうなもんだぞ、とほくそ笑まれても分からないものは分からない。

「ボンクラ大臣だよ」

「またアイツですか?」

 そういえば、その息子の濡れ衣事件で、現外相が復縁云々の陰謀を巡らせていたような。

「例の復縁話の件ですか?」

「思い出したか。真純の母親と隆太の父親高千穂外相のそれだ」

「真純さんのお母上って事は——」

 記者会見場の高坂社長の妹という事で、

「高坂は代々男子相続を貫いてきてるからな」

 テレビに映っている社長が次の宗家当主であり、

「真純さんって確か次点候補でしたよね」

「冴えてきたじゃないか」

「じゃあ隆太の親父殿が、また真純さんのお母上と復縁する事で——」

 高坂宗家当主候補に割り込む余地が出来上がる。

「今度は養子に入るつもりだったそうだからな」

「——だった? ですか?」

 思わず「あの最低野郎が」と漏らしかけたギリギリのところで、その僅かなニュアンスを耳が捉え、口が踏み留まった。

「だから今二つの企業が記者会見をやってるのさ」

「はあ?」

 また、分からなくなった。

「高千穂は只で高坂の養子になろうとした訳じゃない」

「——あ」

 同僚の文教族議員の選挙区の企業利権を奪ってどうとかいう

「あの話が土産って事で?」

「日本の国産次世代戦闘機開発計画は知ってるか?」

「ええまあ、月並みには」

 所謂、第五世代戦闘機を日本が国産で作る計画だ。

「もう動き出してますよね?」

「高千穂はその開発主体を、今更高坂重工に変えようとしていたのさ」

「そんな事が——」

 口で言う程簡単に出来るのか。

「開発の遅れや業績不安をでっち上げれば訳ないさ。何せあれで元首相の御曹司だしな」

「——そうでした」

 それを奪う相手が、文教族議員の選挙区の企業だった訳だ。

「相談役にしてみれば悪くない話だったろうな。何せ戦前の高坂といえば軍需財閥だ。その技術力を再興させ、ひいては国防を充実させる事はあの人にとって悲願の一つだった筈だしな」

「それが——?」

「ダメになったのさ」

「何でです?」

「フェレールが高坂重工の株を買い漁って圧力をかけた。大人しく言う事を聞け、とまぁ事実上の脅迫だ」

「敵対的TOBってヤツですか?」

「そんな言葉が君から出てくるとはな」

 資本主義は資金力だ。持株の多少で発言力に明確な差が出る世界だ。今回のフェレールはその弱肉強食の例に違わず高坂の株を買い漁り、その支配権を奪おうとしたに過ぎない。

「でもそれって、フェレールに利益がある事ですか?」

「長期的に見れば、核融合ビジネスは無限の可能性を秘めているからな。成功すれば今の比にならん利益を手にするだろう。が、短期的にはどうかな」

 今回の話が拡大して両グループの繋がりが深くなるには少し時間がかかるだろうし、それが利益に繋がるには更に時を要するだろう。

「じゃあ、目先の利益獲得よりも先行投資を選んだと?」

「表向きにはそう見えるだろうな」

 と言うからには、

「——裏、があるんですか?」

「だからこんな話を君にしてるんだよ」

 と言う事らしい。

「真純の母親は、当然復縁なんかしたくなくてな」

「そりゃそうでしょうね」

 すけこましに二度も引っかかったとあっては、屈辱以外の何物でもないだろう。

「が、これが跳ねっ返り娘のくせに意外に母親に弱いというか、必要以上に恐れていてそれが言い出せない」

「何ですか? その外弁慶は?」

 何でもグループ会社の重役として勤めていたそうだが、昨年末にはそれを辞して復縁に備えて実家に戻っていたらしい。

「何か、よく聞くパターンで——」

 親が親なら娘も娘だ。そもそもが憲法で結婚の自由が認められて何年経っているというのか。

「——時代錯誤ってヤツですか」

「良家じゃ未だによくある話だ」

「私なんかが聞くとそれだけで虫酸が走りますが、相談役がそんな事を強制するとは思えないんですけど」

 確かに紗生子に似て強面だが、だからといって俺の記憶のその人は、話が噛み合わないような印象ではなかった筈だ。

「同感だな。まぁ我が子可愛さってヤツだろう。何せ真琴まことは劣等感の塊みたいな女だからな」

「真琴さん、と仰るので?」

「ああ、君の兄上の想い人さ」

「——はあっ!?」

 思いがけなくもいきなり壇上に引きずり出された。紗生子が明らかにこれを狙っていたのだろう事はすぐに理解出来たが、それでもやはり驚く外ない。

「いや、真琴の方が君の兄上に惚れたんだったかな?」

「この際どっちだって大して変わりませんよ!」

 何がどう巡れば、兄の名がここで出てくるというのか。

「まぁな。ただ君の兄が出てきたって事は?」

「フェレールの【ご褒美】を使ったって事ですか」

「よく分かったな」

「そりゃここまで聞けば分かりますよ」

「君の兄上がフェレールをけしかけて、高坂重工の株を買わせたのさ。真琴を自由にするなら悪いようにはしないという条件をつけさせてな」

 それはつまり、戦闘機と核融合を天秤にかけさせたという事だ。

「そのアイデア自体はそんなに突飛なモンじゃない。裏取引ってのは何処の世界でも例外なくある。注目すべきは、それを実行に移せる力だ」

 縁戚ながら資本関係の繋がりに迂遠な両家両グループは土壺にはまっていた。それをまさか名もなき兄が動かすとは。

「こういうのは只の観客に尽きるな。先の展開が待ち遠しい」

「当事者は色々大変でしょうね」

 それを思うと、流石に紗生子のようには楽しめない。人の良いあの兄が、また妙な物を背負わされて担ぎ出されたかのような構図が不憫でならないのだ。よりによってそれが雲上人の世界の事ならば、

「下手したら消され兼ねませんよ」

 法などあってないようなものだ。それこそ世人にはない絶大な力で何とでもなる。

「それはないな」

 それを紗生子があっさり覆した。

「相談役は裏では君の兄を買っている。そうはいっても可愛い娘の想い人なんだ。間違っても消されるなんて事はないさ。ただ既成事実をどう作っていくか、それが気になるがな」

「既成事実、ですか?」

「今の自由な世の事とはいえ、数百年の系譜を継ぐ高坂直系の娘を娶らせるんだ。ある程度は周囲に対する説得力がいるんだよ」

「何か、詳しいですね」

「まぁなぁ」

 そこは良家の方々とつき合いが長い分、事情にも通じているという事らしい。

「これで高坂とフェレールの繋がりは加速する一方だし、良い事だらけだ。この裏取引が公表出来れば君の兄上の立場も問答無用なんだがな」

「落ち着いたら、周囲にそれとなくその立役者って事で流せば良いのでは?」

「時が許せばな。そんな悠長な二人じゃないだろう?」

「また何か掴んでます?」

「そうじゃないが考えてみろ。突飛な行動力を持つ君の兄と、跳ねっ返り娘の話だぞ?」

 結構火急だと思うがなぁ、と先程来紗生子はニヤつきが収まらない。

「火急って、惚れた腫れたの——」

 と言ったところで何かに思い当たった。

「まさか腫れてる・・・・とか?」

 例えそうならば、一体何処で接点があったのか。まるで検討がつかない。

「去年の梅雨時に、君の兄が隠棲している広島の山小屋で出会ったそうだぞ」

 何でも真琴氏の車が大雨のぬかるみで動けなくなったところを、偶然通りがかった兄が助けて、以来交流が芽生えたらしい。

「何かベタ過ぎません? 作り話みたいな気もしますが、それにしても一々詳し過ぎやしませんか?」

「だから趣味だと言ったろう。それにこの手のロマンスはそそるだろうが。見聞きする分は減るモンじゃないし、やっぱりリアルはドラマよりワクワクするモンさ」

「そんなモンですか?」

「そんなモンだよ」

 そこは紗生子の意外な趣味だ。ドラマなどと、仕事柄の興味だけではなさそうなところが本当に甚だ意外というか。

「——あっ!?」

 そこでまた、重大な事に思い当たった。

タクさんが高坂家に入るって事ですか? まさかの後継者候補に?」

 が、

「それはないな。真琴は家を出たがっている」

 紗生子が見事に即断してくれた。

「そもそも君の兄も、そういう堅苦しいのは嫌がるだろうが」

「そりゃそうですが——」

 我が兄の事ながら、大変な女を捕まえたというか捕まったというか。

「何歳なんです? 真琴氏は?」

「四二だな。もっとも見た目だけならアラサーだ。年を取らん事で有名な女だからな」

「て事は、綺麗な方なんで?」

「愛車はアルベール・フェレールだ」

「贈られた口って事ですか」

「尻をロックオンされてな」

 まあ流石に身内・・に唾はつけんだろうが、と言う紗生子が

「見た目だけなら何となく私に似てきたな、そういえば」

 何の気なしにつけ加えてくれたが、もしそれが事実ならそれは途轍もない美人だ。よもや親族という事はないだろうが、浅からぬつき合いがあるという事なのだろう。

「憧憬や尊敬は模倣という訳ですか」

「そういう事になるかも知れんな。真琴のヤツは私によく懐いていた。だからアイツの婚難は少なからず私にも責任があるのさ」

「前にもそんな事を言われてましたね、そういえば」

「だから興味本位だけじゃない、と言い訳しておこうか」

「左様ですか」

 しかし四二歳の相手をまるで子供扱いする紗生子とは、相変わらずだが一体何歳なのか。少なくとも口振りはそれ以上だが、今日はそれを否定をする様子は見られない。その代わりに、

「あの格差カップルはどっちが惚れたんだろうな?」

 尚も続く記者会見映像を前に目を細める紗生子は、嬉しそうでいて心ここにあらずというか。

「——と言っても、むさいおっさんしか映ってませんけどね」

「人が気を良くしてるってのに、水を差すヤツだな」

「意外に乙女チックだからびっくりしてるんですよ」

「余計なお世話だ全く。私にそこまで言う男はいないモンだがな」

「お褒めの言葉と受け止めておきます」

 が、機嫌が悪くなるかと思いきや、意外にも声色にそれ程棘を感じない。

「アンの毒牙のせいだ」

「はあ?」

「あのメディア漬けの小娘のせいで、こっちまでそのあおりを食らったって事だ」

「警護対象を理解する事も、護衛の素養の一つですよ」

「けなしたり持ち上げたり、随分と上手くなったじゃないか」

「それも重ね重ね、お褒めの言葉と受け止めておきます」

 それを紗生子がほくそ笑みながらも鼻で笑った。かと思うと、細めたままの目が強くなる。

「毒牙は高坂の方が深刻だ」

「はあ?」

「高千穂のヤツが復縁話の勢いに乗じて、高坂グループ内を摘み始めていたからな」

「そう、だったんですか?」

「相談役はこの機会に創業宗家に仇なす派閥をあぶり出していたのさ。全ての真相は、あの人の掌の上にあったって事だ」

 だからこそ、紗生子のような怖い物知らずがなびいている訳だ。

 まぁ何れは——

 取って代わらんとする虎視眈々としたものなのだろうが、だとしても紗生子が取り繕う事自体が普通ではない。

「ただ、君の兄上の突飛さには一杯食わされたろうな」

「じゃあ高千穂はどう出ますかね?」

 少なくとも大人しく引き下がるたまではないが、

「敗者は消えゆくのみだな。調子に乗って高坂に手を出した時に、あのボンクラは終わっていたのさ」

 それはいつぞやの外相室でも匂わせていた紗生子だが、その頃どの程度の青写真が見えていたというのか。俺の知るところではないが、隆太の事件からの月日を思うと只際立つのはその権謀術数だ。

「警告してやったってのにな。いつまで経っても懲りないボンクラだ」

「悪さをする連中は知ったこっちゃないですが——」

 隆太のヤツが気になる。

「その辺は真純が上手くやるだろう。何にしてもまずは窮鼠に注意だ」

 高坂の人間の事なら私が心配するまでもないがな、と言う紗生子の読みは珍しくも、翌日早々ある一点においていきなり大外れの結果を伴い俺達の耳にもたらされる事になった。そしてそれは俺達に、観客である事を許さない引き鉄となる。


 翌朝、始業前。

 いつも通り主幹教諭室に出勤すると、その部屋の主は相変わらずまだいなかった。少し早めに出勤して拭き掃除とコーヒーの準備は、部下たる俺の日課だ。主はというと始業ギリギリに出勤して来るお決まりなのだが、目下下働き中にドアの電子錠の稼働音が聞こえたかと思うと、

「あれ? 早いですね」

 その俺の声に反応を示す事なく、入室して来た紗生子はいきなり機嫌が悪かった。大きな椅子に荒々しく座り、物も言わない。

 ——うわぁ。

 赴任以来ここまでひどい事はなく、稀に見るお怒り振りだ。が、顔を始め身体の節々が小刻みに震えているそれは、何とかそれを抑えようとしている事が窺える。理由が分からない俺はとりあえずコーヒーを淹れて、いつも通りそれを出すだけだ。すると、見た目の怒気に見合わないか細い・・・声が

「このコーヒーもしばらく飲めなくなるのか——」

 と言ったように聞こえた。

「——どう、されました?」

 恐る恐る、言葉を選びながら口を開くと、

「真純が拉致られた」

「は?」

 いきなり剥き身の刃物を突きつけられたような、そんな一言だった。

高千穂外相ボンクラの秘書がやけ・・を起こしたようだ」

「秘書、ですか?」

「高千穂の悪事を一手に引き受けていた汚れ役だ。トカゲの尻尾切りで首になった途端、まさに窮鼠が猫を噛んだ」

 詳しく聞きたいが、今にも感情が爆発しそうな腫れ物だ。

「俺に当たり散らすぐらいの猶予はあるんでしょう?」

 そういう機微に誤りがない事は、これまでの紗生子を見ていれば分かる。

「——そうだな。君はいつも平常心だからつい甘えた。すまん」

「それも褒め言葉と受け止めておきます」

「何番煎じだそれは?」

 と、鼻で小さく笑った紗生子が俺の淹れたコピルアック媚薬コーヒーを一口つけると、

「上手くなったモンだな」

「は?」

「コーヒーの淹れ方さ」

「折角の絶品ですから。それなりに気を遣ってるつもりではあります」

「何だその回りくどい言い方は?」

 僅かに顔を綻ばせつつも、いつも通り壁面モニターに資料を展開し始めた。俺も紗生子の扱い方が上手くなったものだ。

「真純が昨年一一月から司法修習中なのは知っての通りだが——」

 今時分は刑事裁判修習中だったらしい。と、表示された真純の時系列によると、異変の発生は先週末の夕方。突然本人から「急な出張が入った」旨で連絡があったのを最後に行方知らずになった、とある。

「理事長のご実家から通われてるんですか?」

「修習先は東京地元だからな」

「発覚の経緯は?」

「出張連絡から一週間音信不通らしくてな。流石に昨夕修習先に確認したら、忌引で休んでいる事になっていたらしい」

「一週間もほったらかしだったんですか?」

 高坂のような家で、そんな杜撰が有り得るのか。

「長い系譜の中で、こんな事件は吐いて捨てる程あった家柄故だ」

 一族の個々は、最低限自己保身の素養を備える事が義務づけられており、逆にそうでない者は

「自宅に軟禁されるからな」

 つまり外出出来るのだから不測に対する備えは出来て当然、という論法らしい。

「私が知る限り、日本で高坂宗家程保身に対する教育を徹底する家はない。今は特にあの相談役の目がまだ黒いからな」

 それ故今回の事件の衝撃と動揺は、高坂に激震をもたらした。何せ拉致された真純は昨年度の中学剣道日本一にして、既に司法修習中の異才だ。その文武を備えた家中切っての期待の若手が拉致られるなど、家の中枢に近い者程信じられないだろう。

 で、昨夕の段階で、まずは同居している婚約者の理事長が警察へ捜索願を出したそうだ。が、日付が今日に変わった

寅の初刻・・・・に犯人から身代金の要求があった」

丑の終午前三時とはまた——」

 時間はともかく、今時ストレートなやり口と言ってよいだろう。

「君はホント、妙な事を知ってるな」

 と、何かを試した風の紗生子が、また小さく笑って少し顔つきを緩めた。気を鎮めようとしているのだろう。紗生子と理事長の仲は、普段の様子とは裏腹にそれ程深いという事だ。

「捕まらないと高を括ってるのか、やけになってるのか。恐らく両方だろうな」

 連絡手段は、その親友の婚約者である真純自身の携帯電話だったらしい。声は本人ではなく、高坂宗家にもたらされたそのファーストコンタクトは、二四時間以内に一億米ドルを準備するよう要求しただけの実にシンプルなものだったとか。内容の破壊力は別として、電話はその一本のみという淡白さが際立っている状況らしく、

「一週間も拉致していて今頃というか——」

 どうも腑に落ちない。

「そこが味噌さ。何処にいると思う?」

「もう割れてるんですか?」

「太平洋のど真ん中さ」

「ええっ!?」

 何とハワイ行きのクルーズ船で、太平洋上を順調に東航しているらしかった。

「船籍は何処ですか?」

「そこをすぐに気にするところは流石の嗜みだな。中米だ」

「うわ、便宜置籍船ですか」

 船だけをとってみても状況は悪いというのに、

「今、どの辺なんです?」

 そこでようやくモニターに北太平洋の地図が出てきて、ハワイから少し離れた絶海の中をクローズアップする。

「ホノルルまで約一日ってところか」

「の、公海上ですか」

 手も足も出ないとはこの事といわんばかりだ。

 船名は【クイーンパシフィック】とある。その表示を紗生子がクリックすると、船籍データが開いた。二〇万トン超の大型客船は、一週間前に四〇〇〇人を超える日本人客と共に横浜港を出港。以後順調に太平洋を東航し、ホノルル港到着予定は日本時間翌午前三時となっている。が、

「アメリカ領海には近づかせないでしょう」

「君ならどうする?」

「CCの出番ですよ、これは」

「こういう時の判断は早いな。重ねて流石と言っておこう」

「安全保障に携わる者なら初歩的な嗜みですよ」

「まぁそうなんだが、日本でそれは極めて少数派だ。情けない事にな」

 紗生子が皮肉を滲ませ嘆息した。

 ハイジャック事件の折にも説明したが、飛行機や船舶にも国籍が存在する。航行中のそれらは国際法上、籍を置く国家の領土主権の効果が機内船内にも及ぶという通称【旗国主義】が採用されており、要するところ機内船内は籍を置く国家の法律が適用されるという事だ。よって中米に籍を置く船であれば、基本的に何処かに寄港するまでは籍を置く国置籍国の法律が適用され、日本の法律や権力は及ばない。よくいう【治外法権】というヤツだ。つまり日本警察には執行権がない。

「日本警察の見解は?」

「宗家に現地本部を構えているそうだが、騒がしいだけで役に立ってないようだ。相談役が呆れて閉口していた」

 正確には、手を出したくても出せないのだ。法的な障壁に加え、日本警察には物理的に数千km彼方の船に乗り込む術もないだろう。その二重苦を前に地団駄を踏んで、現地本部で騒ぎ立てるしかないという事だ。こういうケースは大抵の場合、

「手っ取り早い犯罪事実で国際手配するのが関の山でしょうね、警察は」

 国際刑事警察機構ICPO経由で指名手配した後は、その身柄のやり取りを国家間交渉にかける外に術がない。

「今のところその方向らしい」

「正攻法だと状況は悪化するだけですよ。相談役がそれを受け入れるとは思えませんが」

 何せ四〇〇〇人超の邦人の命を左右し兼ねないのだ。手が出せないからといって、放置が許される状況ではない。

「外務省に動きは?」

 出向経験がある紗生子なら、詳細な勝手が分かるだろう。が、

「積極的に動くと思うか?」

 やはり日和見らしい。

 便宜置籍船とは読んで字の如く、便宜的に本国以外の他国に船籍を置いている船を意味する。本国船籍にする事で守らなくてはならない小面倒な法規制や手続き、それにかかる費用の全てを、本国よりも緩い国家に籍を置く事で一切の手間を軽減するための、極端な言い方をすれば脱法行為だ。便宜置籍国のメリットは、多くの船に船籍を置いてもらう事で得られる手続き料、つまり金。船主のメリットは緩い規制。その利害一致の構図はとどのつまり金優先であり、有事が発生すれば途端に今回のような脆さを露呈する。

「船籍国の警察だか軍だか知りませんが、わざわざハワイ沖まで乗り込んで解決を試みるとは思えませんし——」

 数多ある便宜置籍船の中の一隻に手間をかけるような繊細な国家ではない。日本も無理。となると最後に残された沿岸国の米国は、任せれば容赦なさでは世界有数の組織を幾重にも張り巡らす精強国家だ。SWAT、FBI、沿岸警備隊、はたまた海軍。何れが出てきても乗客の大半が日本人の船にして犯人も日本人の事ならば、躊躇や配慮は無用だ。思う存分組織力を誇示してくれる事だろう。只それは、米国の手が届く所に船が近づいた場合の話。

「実際のところ、やはりアメリカは出て来ないのか?」

「只の身代金目的だけの事件なら、積極介入はしない筈です」

「根拠は?」

「アメリカは国連海洋法条約を批准していませんが、この条約の大部分は慣習国際法化されてますから事実上従わざるを得ません」

 同条約は、国際海洋法上最も普遍的・包括的な基本条約の位置づけである事から【海の憲法】とも称される。条約も慣習国際法も国際法の法の根源法源の一つだが、基本的に批准などの手続きを行った国だけに適用される条約と違い、慣習国際法は全ての国々に普遍的に適用される国際慣習であって、所謂世界に数多ある国家間同士で守られるべき原理原則だ。よってそれに基づいて成文化されているものを破る国とは、法の教化に伏さない野蛮国家という事になる。特に米国の立場で安直にそれを犯そうものなら、先進的な法治国家としての信用を損なうだけではなく、自由民主主義陣営の盟主としての名誉を地に落とす訳だ。よって、

「余程の状況がない限り、わざわざ進んでそのリスクを冒すとは——」

 思えない。

 それでも無茶をしようものなら国際的な根拠を上回る大義が相応に必要だが、

「クルーズ船は、それ程切迫した状況とは思えませんし——」

 昨夏の飛行中の旅客機のハイジャックと明らかに違うのは、切迫性の度合いだ。平たく言えば、船は普通に海に浮かんでいられるのであれば物理的に沈没しない。それでも国益を揺るがすと判断したならば躊躇しないのが米国だが、今回のクルーズ船の乗客は殆ど日本人な訳で、積極的に熱量をかける状況では全くない訳だ。だから船がテリトリーに入って来なければ、事件解決というよりは、

「最寄りの沿岸国として、まずは人道上の活動に重心を置くんじゃないかと」

 乗客の安全確保に動くだろう。

 つまり犯人の立場では、船をハワイに向かわせなければ、怖い米国を敵に回さずとも済む展開だ。そしてそれは当然、

「そうだろうな、やはり」

 紗生子の頭にもあったようだ。そもそもが俺に思いつく見解を、紗生子が思いつかない訳がない。

「敵ながら上手い事考えたモンかと」

 今は真純だけの被害だろうが、何れ船毎乗っ取るだろう。

「一応外務大臣の秘書を務めた男が主犯だからな」

 と、続いてそのデータが別窓で開示された。四〇もつれの絵に描いたような豺狼さいろうだ。加えて半グレの男が二人。犯人グループは何とたったの三人だった。

「大胆ですね。仲間が船内に潜伏してるのかも知れませんが」

「経済最優先の日本企業らしい悪癖だな」

「船主は日本の会社なんですか?」

 更に別窓が展開すると、出て来たのは高坂グループの中米現地法人のデータではないか。

「何とまあ——」

「開いた口が塞がらんだろう?」

 典型的な保守思想の創業宗家が、見事なまでにそのグループ会社に足元を掬われた格好のそれは、灯台下暗しの典型をこうも見事に見せつけてくれる。

「金勘定ばかりに精を出したツケだ」

 それが犯罪に結びつく事の想像が出来る会社ならば、このような船を世に提供する事はないだろうし、その手の事に鼻が利く者ならば間違っても乗船しないだろう。

「高坂の船とは思えないんですが」

「船内カジノが売りの船だからな」

 カジノが違法の日本船籍では当然それは出来ない訳で、

「そこしか見てなかった、と?」

魔の螺旋デビルスパイラルというヤツだ」

 と紗生子が小さくも容赦なく吐き捨てた。紗生子でなくとも激しく同意だ。

「どう出ると思う?」

「犯人がですか?」

 これ程の大型船を三人で占拠するとは思えないが、国外逃亡も兼ねてのクルージングなのだろうから

「アメリカ領海に入る前にシージャックして、邪魔な乗客は救命ボートで下船させるんじゃないですか?」

「その後は?」

「何処かのタイミングで船は捨てるでしょう。長距離ヘリですかね」

 船での接岸は、そこで膠着状態を招く可能性が強い。そうなると船の大きさに目が行き届きにくい犯人達には不利と考えるべきだろう。

「オスプレイは?」

「犯人にとってはリスキーかと」

 その航続距離はヘリの三倍はあり、確かに魅力的だ。が、操縦士は軍人に限られる。どさくさ紛れで制圧される可能性を嫌がるだろう。

「とにかく、遠くに逃げられれば逃げられる分だけ手間がかかります」

 だからこそ犯人達もハワイの手前まで、そのギリギリまで、船の中で潜伏していたのだ。

「——同感だな」

 と、一度嘆息した紗生子が

「ではやはり——」

 肯定しつつも俺に先を促した。

「ハワイ沖にいる今が、最初で最後のチャンスです」

 日本の手が及ばない今、犯人が怖いのは米国の組織力だけだ。ハワイからはさっさと逃げたい、その一念の筈だ。そこを逃してどうするのか。

「船籍国のやる気のなさは明白です。何処の誰でもいいから、さっさと乗り込んで捕まえてしまえば、後は緊急避難的にアメリカに引き渡すだけの話ですよ。船内の誰かが取り押さえてくれれば一番手っ取り早いんですが」

「カジノに魅入られて乗り込んだギャンブラー共にまともな事が出来るとは思えんな」

 それならやはり、超法規的な活動でとにかく取り押さえるに限る。経済大国と超大国を前に、船籍国の存在感は皆無に近い。見た目は世界的なリゾート地を多く抱える観光国家として名を馳せる中米の船籍国は、少し冷静な目で見れば頻繁に権利争いが勃発し、政権維持すら儘ならない国だ。例え政権が立っても脆弱で、反政府ゲリラを追い払う事に手一杯で内政もクソもない。そもそもそこに興味を示すような土壌がないのだ。最早何かを期待するべきではない。そんな国家に船籍を置く方も置く方で、フェアトレード的観点からするとコンプライアンスの低さを裏づけるようなものだが、今はそれを非難している状況でないならば、とにかく目先の解決策だ。よって船籍国がダメなのなら、さっさと犯人を捕まえて米国の出番だ。米国に引き渡してしまえば、日米両国は【犯罪人引渡し条約】を結んでいる。

「で、アメリカから身柄を引き渡してもらえれば、警察も最低限の仕事はしたモンかと」

 各方面の視点で見ても、一番効率良くダメージも少ないのが今だ。

「そうだな。では具体的にどうやって乗り込む?」

「夜間降下です」

「夜陰に乗じた輸送機からの空挺降下か」

「はい。CCなら、それぐらい出来るエージェントもいるでしょう?」

 多ければ良いというものではない。一個分隊レベルの少数精鋭で十分だろう。相手は素人に毛が生えた程度の連中だ。油断ではないが、プロと素人の差は何処の世界もそれ程のものなのだ。

「CCのエージェントを使う事以外は、相談役も似たような事を言っている。いつもここぞの時には目を覚ますな君は」

「え?」

 何だそれは。まるで何かを試されていたかのようではないか。

「試したんじゃない」

 それを相変わらずの察しの良さで紗生子が否定する。

「あの相談役でも慎重になっているという事だ。何せいずれ高坂を継ぐ男のための作戦だからな」

 それで秘密裏に紗生子が、相談役から作戦立案を持ちかけられていたらしかった。

「相談役としては、今回の落ち度の責任をとって、この件は高坂の手管で片づけるつもりなんだ」

「責任、ですか?」

「ああ」

 高千穂の暗躍を放置し、グループ内が蝕まれた落ち度。便宜置籍船のクルーズ船を放置していた落ち度。高坂家中から拉致の被害者を出した落ち度。三国を巻き込む難局の素地を作ってしまったそれら諸々の責任をとって、

「表舞台から身を引くつもりらしい。フィクサーだから引退も何もないんだが、何せこれまでは公然の黒幕のような存在だったからな」

 表向きには事態収集後、現グループ会長が退任する方向なのだとか。

「会長さんって——」

「相談役の旦那さんだ」

 その旦那さんを介して、事実上グループを切り盛りしていたのが相談役という事のようだった。

「だから相談役が責任をとる、と?」

「そうだ」

 その前の殿しんがり戦の初戦が、今回の事態の収拾らしい。

「でも高坂の手管って——」

「我らもその一つさ」

「げ」

 そうだ。俺達は学園職員を兼務している。という事は、

「——俺、の出番ですか? また?」

「輸送機どころかラプターF-22から水平バンジーの経験があるしな」

 だが今回は俺の出番ではなく、

「今の君の兄上にそれが出来るか?」

 それを相談役が俺に尋ねている、のだとか。

「——あ、既成事実作り、ですか?」

「そういう事だな」

 確かに、警察が手出し出来ない事件を解決すれば、高坂家中で兄の株は上がるだろう。

「大丈夫じゃないですかね。軍を退いて一〇年は経ってますが、戦闘機からの水平バンジーはともかく空挺降下なら」

 何人を相手にするのか知らないが

「素人レベルなら一〇人や二〇人は瞬殺しますよ。あの優男は顔の割に凶悪ですから」

 逆にフォーメーションを気にする必要がない分、単独潜入の方がやりやすい筈だ。

「そこも兄弟そっくりという訳か。味方なら何とも頼もしい限りだな」

 軍で切り札として活躍した所以がそこにある。

「でも今広島にいる筈ですから。仕事もしてるでしょうし。何してるのか知りませんが」

「社会福祉法人の施設で宿直員をしてるそうだ」

「宿直? ですか?」

 すぐにイメージが湧かないが、泊まり込む仕事という事か。

「夜の施設の留守番らしい」

 と、兄の現況までがデータで展開されると、職務内容は戸締まり、火の始末、電話番、ごみ収集、簡単な清掃等々。

「何だこりゃあ——」

 異業種を蔑むつもりはないが、兄の年齢と能力でやるような仕事ではない事は明らかだ。

「何だってこんな事を——」

 やっているのか。

「多分、息抜きなんだろう」

「一休み、ですか?」

「ああ。それなりに指揮を預かる身としては、手元に置いておきたいと思う人材だが」

 そうやって手駒にされ続けて少し疲れた、という事か。それは痛い程分かる。

「世の中不思議なモンだな」

「え?」

「ポストと人材のマッチングの難しささ」

 まさに兄は、その例の一つだろう。

「そういう意味では、君はマッチしてる側の人間だろう」

「褒められたモンじゃありませんが」

 時として血に塗れ、どんな理由であれ人を殺す事すらある仕事だ。俺にとってそれが誉れであった事は、一瞬たりともない。

「局地戦レベルなら途轍もない切れ者と同レベルの筋読みが出来る男が、肉弾戦ともなると私と同レベルの豪腕なんだ。そりゃあ手元に置いておきたいさ」

「糊や鋏ですよ」

 と言っていたのは紗生子の方だ。

「只の糊や鋏じゃ私の揚げ足は取れないさ。それに私は、人も物を良いもの選んで使っているつもりだぞ」

「はあ」

 いつも散々毒を吐いているくせに。ここぞでそんな本音のようなものを覗かせるのは、

 ——罪だよなぁ。

 つい内心で、恨み節が募る。

「君の意見は相談役に伝えておく。私の同意も含めてな」

 異変があれば随時伝える、とつけ加えた紗生子は、

「とりあえず原隊復帰してくれ」

 我らはそうは言ってもアンのお守りだ、と壁面モニターを切ると、追い出すかのように俺の建前ALT業務を促した。


 動きがあったのは同日昼下がり。授業が一コマ空いたため主幹教諭室に戻ると

「お帰り」

 と平生通りの様子の部屋の主に返事をしようとしたその矢先、俺のスマートフォンに電話がかかってきた。

「どうした?」

「電話がかかってきて——誰でしょうね?」

 普段から電話などかかってこない俺にとって、着信は不吉の前兆でしかないのだが、

「げっ!?」

 コンタクトに表示されている番号を見ると、また先頭に【+】がついている。今回は始めから英語で応対すると、やはり今一つ話しが噛み合わなかった。理解出来た事といえば、

「いつ戻って来るのか。準備は出来てるぞ」

 という、如何にも大雑把そうな男の溌剌とした一方的な声に、電話向こうからがなりたてられるだけがなりたてられた挙句、最後も一方的に切られた、という事だ。

「何だ?」

「いやそれが、多分横田からだと思うんですが——」

 昨夏のハイジャックの時よりは猶予があるようだが、どうやらやはり出動要請らしい。

「——そうか」

 とは言うものの、紗生子はそれ以上言及しない。ここしばらく、というか、いつ頃からか。普段は俺のレベルに合わせて噛み砕いた言葉で自信に満ちた覇気ある声を発する女傑が、何処か心ここにあらずで憂いているというか。その違和感が今この瞬間も、俺の何処かで揺蕩い不安をあおる。

「何か、ご存じですか?」

 真純の拉致事件絡みなのか、それとも別件か。俺にはそれすら分からない。普段は辛うじて紗生子の指揮下という事で落ち着いているが、そもそもの指揮系統は滅茶苦茶なのだ。いざ国家絡みの有事が発生したならばどうすれば良いのか。日米で妙なポストを兼務している俺だが、こういう時の決定権の所在は何処にあるのか。学園職員まで兼ねる俺には、自分自身の身分が未だに謎だ。米軍人だけに最後の最後は米国本国の命に従えば良いのは分かるが、その本国といえば普段は完全放置のくせに突然連絡をしてきては意味の分からない事を捲し立てるばかり。こんなザマでは何れ何処かしこに不審は募り、心は離れる一方だろう。が、深々と椅子にかけた紗生子は目を合わそうともしない。

「ふ——」

 と声にならない小さな吐息を漏らしたかと思うと、

「ちっ」

 と小さく舌打ちしたその紅唇の持ち主が、気だるそうに身体を起こした。紗生子にも電話がかかってきたらしい。応答する素振りを見せたかと思うと、壁面モニターにいきなり相談役の顔がデカデカと現れる。

「うわ」

 途端に口を歪める紗生子の様子から、回線を一方的にこじ開けられたようだ。電話向こうのその顔つきが険しいのは事件のせいなのだろうが、どうやら

 それだけじゃあ——

 なさそうな感じが見てとれる。

『何をぐずぐずしているのですシーマ少佐!?』

「え?」

 紗生子にかけた筈の電話だろうに、開口一番で怒られたのは何故か俺だった。

『横田から連絡があった筈です。早く動きなさい!』

「——と、おっしゃいましても」

 何が何だか。さっぱりだ。それを察したらしい相談役が、

『どういうつもり? 紗生子さん?』

 今度は紗生子を責める。

「はぁ——」

 が、紗生子はやはり目を合わさず。大きく嘆息したかと思うとそのまま部屋から出て行ってしまった。

『こら! 待ちなさい紗生子!』

 ——あらまぁ。

 いつもなら盛大に当たり散らしながら出て行くものだが、その例外らしい。まるで一人で在室しているかの如く他人に取り合わず、だ。

『——仕方ありません。少佐、時間がありませんからよく聞きなさい』

「はあ」

 相談役の説明によると、やはり真純の件だ。我が兄による単独潜入作戦を決行する事にしたらしい。使用する輸送機は横田の米軍機を用いるが、何と高坂家のポケットマネーでそれを押さえたとか何とか。その輸送機にバックアップ要員として

『あなたも乗り込みなさい』

 との命だった。つまりは兄がしくじった時の助っ人であり、もし俺が動く事態に発展した場合、作戦難易度は格段に跳ね上がる。

『あなたが助太刀する事態にはならないと思いますが、だからといって備えを怠る訳にはいきません。心しておきなさい』

 その程度の作戦は嫌という程こなしてきた身だ。別にそれはよいのだが、

「クラークさんの護衛は宜しいので?」

 直属の上司紗生子の裁決が必要だろう。が、

『アンの護衛は当面他の者で回します。裁決は私で問題ありません。あなたの身は私がアメリカ側から借り受けているのですから』

 思わぬところでその事実を突きつけられた。

「そう、だったんですか?」

 しかもそのどさくさで

 ——当面?

 と言ったような。

『普段は紗生子さんに委任しているに過ぎません』

 初めて聞いた。俄かに驚く俺だが、相談役は構わず

『あなたの今回の出張はハワイでは終わりません。先があります』

 と、当面の意味をつけ加えてくれた。

「それは今の身分のまま、という事ですか?」

『ハワイから先は、米空軍の身分での任務となるでしょう』

 今の兼務辞令は一旦解除される、という事らしい。

 ——これか。

 紗生子が都度妙な事を呟いていた、その答えだろう。いつから掴んでいたのか知らないが、相変わらずの情報量にして千里眼だ。どういう訳かそれを憂いていたようだが、結果を変えなかったという事は、紗生子も少なからずそれを受け入れていたのだろう。

 まぁどっちみち——

 俺はいつも通り、

「分かりました。準備して横田へ向かいます」

 命に従うだけだ。俺はそうやって転々と生きてきた。という事は、この妙な兼務ももう終わりだ。出たが最後。俺の人生は殆ど一期一会だった。そうやって際どい綱を渡ってきたのだ。今回は明らかに変わった色の綱だったが、それだけの事だ。

『詳細は流石に口にする事は出来ません。申し訳ありませんが』

「大丈夫です。慣れてますから」

 もう、こんな事も何度目か。いつもそうだ。情報が漏れる事を恐れた上層部から、任務の詳細は土壇場で明かされる。情報が漏れるのは、決まってその情報にいち早く触れる上層部が原因だというのに、だ。その諦念を察したらしい相談役が、

『高坂は今回の作戦協力者を決して忘れません。しかもあなたは学園のためにも尽くしてくれた方です。その御恩には必ず報います』

 中々のリップサービスをしてくれる。それもいつもの事だ。何処でもそう言われるのだ。

『更に言えば、今の御身の身分はそれだけでアメリカに対する日本の債権となるのです。あなたが母国に良い感情を持っていない事は存じていますが、日本国民を代表して、恥を承知で重ね重ね、あなたにしか出来ない使命にここは殉じていただきたいのです』

 随分と大袈裟な事を言ってくれる。が、そう思った瞬間に、この女傑はきっと、そうした覚悟を持って生きてきただろう事を思い出した。

『悪いようにはしませんから、信念を強くもって必ず帰って来なさい。生きていれば辛い事ばかりですが、たまには良い事があるものです。——シマ・・少佐』

 と言うからには、今回も際どい綱なのだろう。どうせもう会う事もないだろうから、

「私のような者の事をよくご存じですね」

 と聞いてみた。先程相談役がさり気なく口にした名前の音は、俺の本姓だ。すると、小さく鼻で笑った相談役が、

『日本名の漢字を知っている程度ですよ、シマ・レイさん?』

 と微笑んだ。

 ——うわ。

 分かっていた事とはいえ、面と向かって宣告されると流石に緊張するものだ。参った。まるで筒抜けらしい。

『もっともそれを知る者は私以外では紗生子だけです。あなたは何かと際どい身の上ですから、無闇やたらに漏らす事はしませんよ』

 その他の周囲が知る程度は高が知れている、とか。情報保秘の秘訣は、差し支えない範囲で漏らす事なのだと得意気だ。

 それにしては——

 元仏外人部隊員だとか、元台湾人だとか、撃墜王だとか、

 ——ひどい漏れっ振りなんだが。

 これで保秘が保たれているとは俄かに信じ難い。

『あなたにはこの先もしばらくの間、私の手元で働いてもらいます。日本のために』

「風の噂ではご勇退されると聞きましたが?」

『それは表向きです』

 これからが本当の黒幕ですことよ、と嘯いた相談役は、

『分かったら準備なさい。そして必ず帰って来る事』

 と柔らかく笑んで、俺を急かした。

「——あ、今日授業がもう一コマ残ってるんですが」

『それは紗生子に采配させます』

 校長兼任の理事長は、事件対応で高坂宗家に詰めていて不在。教頭はいていないようなもの。事実上現状の学園は、主幹教諭真耶紗生子の独壇場だ。

「分かりました」

 これまでも思い通り、自由自在の高飛車女だったのだ。俺の一人や二人いなくても、上手くやり繰りする事だろう。とは言え、やはり直属の上司に確認だ。相談役の電話が切れると、入れ替わりで紗生子へ

"出張を命ぜられました"

 とメッセージを送ってみた。すると、

『聞いていた』

 と、素気ない返事が耳に届く。

「相談役の言われた事は主幹も認識されている事ですか?」

『ああ間違いない。最終決定権者は相談役だ。何せフィクサーだからな。口止めされていた』

 とあっさり認めるその声が、

『今までおかしな身分で気味が悪かっただろう? すまなかったな」

 それこそ気味が悪い程素直に謝った。こう言われしまっては、

「いえ、それ程でも」

 と答える外ない。らしくない、と続けたかったが、

『作戦の詳細は追って伝える。早々に横田へ向かえ』

 先に被せられた。どうやらそう猶予もないらしい。が、

を落とさないといけないと思うんですが?」

 それを忘れる訳にはいかなかった。恐らくエージェントとして復帰する事はないのだ。それなら七つ道具は置いていくべきだろう。が、

『そのままで大丈夫だ』

 紗生子の答えは明快だった。

『君は帰って来るんだ。そのままでいい』

 それに指サックガジェットキーとスマートフォンは、遠隔操作でプログラムが抹消可能なのだとか。コンタクトやイヤホンに至っては普段から使い捨てだ。表向きには問題なさそうに見える。

「しかし、プログラムは抹消出来ても後で技術解析が可能でしょうし——」

 いくら国を跨ぐ兼務辞令だとしても、国家の機密まで持ち出してよい筈がない。それこそまさにスパイだ。それは俺の何かに反する。

『だから問題ないと言ってるだろ! 君は帰って来るんだ!』

「しかし——」

『くどいぞ!』

 文字通り、話にならなかった。

『——ここ何か月かで君の為人は見てきたつもりだ。私の目に狂いがなければ問題ない。それにホノルルまでの作戦はCCのOSスマートフォンを使ってやり取りするんだ。回収出来ん』

 中々帰って来られない時は好きにしろそんなモン、と突き放したかと思うと、

『私に泥を塗れるモンならな』

 最後はやはりそこに至る。

『手向けに一曲弾いてやる。時間がないからさっさとリクエストしろ』

「何処にいるんです?」

 繋がっているのは耳だけだが、何故か一人で勝手に荒れているようだ。

 ——何処で拗ねているのやら。

 脳裏に浮かんだその言葉に、はっとした。

 ——拗ねて、いるのか?

 俺の事で。でも、それももう終わりだ。

「じゃあ【ひま○り】の【愛○テーマ】を」

『——どう言うつもりだ?』

「曲調の切なさが好きなんですよ」

 先の大戦によって引き裂かれたイタリア人夫婦の行く末を悲哀たっぷりに描いたその作品は、本の少し今の俺達に似ているような気がしないでもない。

『弾けるか! そんなモン!』

 敏感に反応した紗生子も、それを察したようだった。という事は、俺達も少しは夫婦らしかったという事なのだろう。

「気に入ってるのは曲調だけで、内容は反面教師のつもりなんですが」

 何せ旦那は出征先のソ連で死にかけて記憶喪失になり、助けられた女性とそのまま結婚する。

『どうだかな!』

「何をそんなに怒ってるんです?」

『怒ってない!』

 と言う割には、荒々しくも吐き捨ててくれる。それに慣れた俺にとって、その分かりやすさは嫌ではない。

「じゃあ合わせて、指輪も持って行きます」

 と言うと、

『そう言って帰って来なかったら、私は君の行方を捜しに行かされる訳か。知らないうちに随分と偉くなったモンだな君も』

 ピアノ指慣らしが聞こえ始めた。

「重婚する趣味はありません。そういうところは自分で言うのも何ですが、律儀なつもりです」

『当然だ。そこら辺のぐずで能無しの女共と一緒にされてたまるか。逃亡はまかりならん。素直に帰って来い。命令だ』

「はい」

『分かったらさっさと行け』

 分かったが、希望と現実が合致すればの話だ。それが分からない紗生子ではない。そんな儘ならなさが、切ないリクエストの旋律の中に乱暴さを伴った弾奏となって耳の奥に聞こえ始めた。それをあおるような奥行きを感じる音響は、どうやら講堂のものだ。そこなら行事がない限り、周りを気にする事なく弾ける。

 ——拗ねて何やってんだか。

 準備と言っても、舎監室の所持品をズダ袋に詰めるだけだ。その所持品も衣類ばかりで他は何もない。つまりそのまま死んでも、ほぼ何も残らない。手間のかかる物は極力この世に残さない。骨を拾ってくれる人間がいないからだ。そうやって俺は生きてきた。ものの数分で準備は終わる。

「では、行って参ります」

 と言っても紗生子は答えず、ピアノを弾いていた。

「あ、俺、今日授業がもう一コマあるんですが——」

 と言ってみても、やはり返事はない。

「食事も切らないと——」

 主幹教諭室の事務机の整理も、同僚に対する挨拶も、生徒達にも。何もかも投げっ放しだが、これもいつも通りだ。結局は、出張だの一時的だのと言われて出たはいいが、ほぼ例外なく元の所には戻らない。全ていつも通りなのなら、後は指輪を送り返せばよいだけだ。偽装夫婦なのだから、法的に何らかの手続きが必要な訳でもない。

 紗生子は最後まで何も言わず、延々と俺のリクエスト曲を弾き続けていた。事ここに至っては、一々俺の口から何かを聞いたところで腹が立つばかり、という事なのだろう。

 ——いつも通りだ。

 今回も、いつの間にか消え失せた泡沫の如く、静かに出て行こう。そもそもが表舞台では満足に存在すら認めてもらえない、正規兵の身代わりの生贄傭兵だ。改まっても様にならない。俺の替えなど掃いて捨てる程いるのだ。何処にでもある石ころが口を開くなど。それは普通、踏まれて蹴られて、後は精々投げられるのが落ちというものだろう。

 それにしても——

 愛○テーマなどと。俺も焼きが回ったものだ。自分でリクエストしておいて何だが、嘘から出た実の如き夫婦の悲哀を存分に描いた映画をこれ見よがしに飾ったその曲が、名手の紗生子によって弾かれるのだ。耳から脳を経由して身体中に響く過程で、それが激しく暴れ回っては動悸を誘う。実際に徐々に激しさを増しているその弾奏が、

 ——切ないなぁ。

 当てつけのように耳を突いた。

 音楽とは、その字面程生易しくない音の芸術だ。そしてその力は必ずしも、良いベクトルとは限らない。正気も狂気も秘めるそれは、人の精神に呼応して毒にも薬にもなり得る。リクエストの曲名だけで開口一番拒否した紗生子と、実際に聴いてそれをようやく痛感する俺。それは紛れもなく、多才な将器と凡庸な一傭兵の差だ。音楽一つとっても、それを思い知らされる皮肉。そもそもが始めからチグハグな上下関係で、何の悪戯か夫婦になってしまったおかしな間柄だったのだ。その引導を密かにリクエスト曲に含めて渡すつもりが、見事に突き返されたような。

 が、それも、学園前で捕まえた流しのタクシーの中で突然途絶えた。端末間スマートフォン同士の無線通話モードだったため、電波が届かなくなったのだろう。

 何とも——

 終わりを迎える時とは、得てして唐突で呆気ないものだ。電話に切り替えればよいだけの話だが、それでは切りがないし、最後は鍵盤を殴りつけるような激しさだったのだ。無線モードが不通になったところで勘弁してもらおう。

 ——耳がいてぇ。

 文字通りのその弾奏は、その後も延々と俺の脳内に残った。まさに紗生子の呪いだ。


 結局、その後紗生子はいつまで経っても連絡を寄越さなかった。その代わりといっては余りにお粗末だが、作戦詳細は横田で俺が乗り込む輸送機グローブマスターⅢのパイロットから、ブリーフィングもクソもない準備の慌ただしさの中で口伝えに聞いた。といっても降下ポイントの確認ぐらいで、後は相談役から聞いた通りだ。あくまでも突入者は兄なのだから、俺は装備品を整えるなどバックアップに気を配ればよい。実戦は久し振りだろうが、チンピラ紛いを相手にしくじる兄ではないだろう。これだけの任務なら

 ——気楽なんだがなぁ。

 夕暮れ時にはその兄が、民間のヘリコプターでハンガー傍まで乗りつけて来た。詳細はよく分からないが、何と広島から大慌てで色々乗り継いでやって来たらしい。隠棲している民間人の身分でまさか突入要員にされるとは、まさに青天の霹靂だろう。重ね重ねその人の良さが気の毒でならない。

 いくら既成事実作りってもなぁ——

 しくじる事はないだろうが、世の中に絶対はないのだ。本当に高坂も、良くも悪くも思い切った事をする。

 そんな兄と一緒に降りて来たつき添いの女性は、その高坂家が遣わした作戦のサポート要員だ。俺は初見だったが、すぐに真純の実母真琴氏だと分かった。言われてみれば真純の面影も確かにあるが、それ以上に驚く程紗生子に似ているのだ。

 何だってこれまた——

 やはり思わず目が釘づけになる程の絶美だが、紗生子オリジナルより真面目で神経質に見える。注目すべきは紗生子同様に、日本人離れした美しい赤髪だ。これで御年四二とは俄かに信じ難い若々しさだが、それ以上に素朴な草食系男子たる兄とその美女が連れ添っている事のギャップが凄まじい。兄は確かに見てくれは悪くはないが、真琴氏と比べると圧倒的に地味で華がないのだ。

 つまりは——

 そっくりそのまま俺と紗生子にも言える事であり、

 ——これ程とは。

 そのチグハグ振りを思わぬ所で突きつけられては、今更ながらに慄く俺だったりした。

 そんな雑念に囚われている俺の目の前に迫った兄が、

「学校はどったの!?」

 などと正当に驚くが、何にせよ真純の窮地が継続中の事ならば、ぐだぐだ言っている場合ではない。真琴氏共々とりあえず機内の貨物室に連れ込むと、俺は操縦室に移って機長にさっさと離陸してもらった。

 今回の俺はあくまでも兄のバックアップ要員であり、操縦に気を遣う必要もなければ所謂完全なフリーエージェントだ。だから離陸後早々に、装備品や土壇場の飲まず食わずを予想して買っておいたハンバーガーセットを二人に渡した後は操縦室に籠った。正確には、余りにも仲睦まじそうな貨物室に近づけなかったのだ。未だにつけているCCのイヤホンで盗聴するまでもなく、

 ——アツアツじゃねぇか。

 初見では神経質に見えた真琴氏が、兄に絆されて見る見るうちに、遠目から見ても分かる程に丸く落ち着いていく様子は只々驚くばかりだ。

 マジでこれは——

 作戦の中身自体は、兄にかかれば訳はないのだ。となれば、確かにこれは紗生子ではないが真純の事が気になる一方で、他方気になるのは兄と真琴氏の恋路という事になってくる。

 ——年貢の納め時だぞこりゃあ。

 そんな事をやっていると、真琴氏が泣き疲れて寝た間隙を縫った兄が生真面目にも、

「犯人制圧の際の根拠法を調べておきたいんだけど」

 などと言ってきたので、こっそり貸与品のスマートフォンで調べてやった。

 本来ならば、個人用の通信機器を軍用機に持ち込んだ上にそれを使うなどNGにも程があるが、飛んでいるのは日本・ハワイ航路上の事でもあり、事実上殆ど米インド太平洋軍の制空権内だ。油断は禁物だが、仮装敵を気にする必要もないだろう。実際に女の方の乗客・・・・・・は、何処の回線だか知らないが先程まで持参したタブレット端末を突いていたというのに、機長にそれを気にする素振りはまるでなく。建前こそ軍務の体裁だが、実際のところは高坂のチャーター機・・・・・・・・・という事で大目に見ているようだ。もっともデータの中身は軍に筒抜けだろうが。

 一方で俺が持つCCのスマートフォンも、搭乗以来電波強度が衰える事はなかった。西側諸国が共用する軍の専用回線軍用データリンクか、CC独自の衛星回線でも使っているのだろう。何れにしてもやはり内容は軍に筒抜けと考えるべきであれば、CCのホストには繋がずリクエストを調べてやったのだが、兄の生真面目さはそれで収まらない。

 その根拠とやらを元に沿岸警備隊やFBIとの連絡をせがまれると、結局軍用回線を使わされる羽目になってしまった。何処へ行っても借りて来た猫の身分の俺としては余り面倒な事はしたくなかったが、そうした事も含めてバックアップ要員とするならば、軽い頭の一つや二つ拘りなく下げるとしたものだ。それに今は、戦闘地域にいる訳でもなければ犯人がそれを覗き見聞きする事もまず有り得ない訳で、ここに至りそれで憂いを取り除けるのであれば、やれる事はやっておくべきだろう。

 チャンネルを繋いでやると、民間人の兄が米国当局者を相手取って法解釈や擬律判断の確認をやっているという滑稽振りだった。本来それをするべき法治国家の公僕は他国船籍を理由に手も足も出せず、加えてその突入スキルすらなければ何処で何をやって騒いでいるものか。その誇り高き本職から追い出された元特殊部隊員の普通ではない民間人が、只の一人で現場を取り仕切ろうとする今の状況が皮肉と言わずして何なのか。その日本代表の周到振りと繊細さは、少なからず似たような思いをしてきている俺の胸の内に爽快感と安心感をもたらしたものだった。

 かと思うと段取りが整った後は、うたた寝している真琴氏を傍で抱えつつ、持参した本を読むという余裕振り。その姿に

 ——ああやって、よく読んでたなぁ。

 兄が本の虫であった事を思い出した。これまた紗生子ではないが、

 確かに生真面目なんだが——

 それだけではない兄の度胸が、そのシルエットに滲み出る。俺が言うのも何だが、見た目の頼りなさを覆す意外な程の有能振りこそが兄の本領なのだ。

 ——相変わらずやるじゃねぇか。

 未だに兄と認める所以を再認識させられた後は、本当に何もやる事がなかった。

「アンタも相当変わってると思っていたが、あの民間人・・・・・はその上をいくな」

あれ・・を在野に放置する日本が変わってるんですよ」

「ちげぇねぇや」

 嵐の渦中において機長と悪態を吐きながら、俺の出張は静々と過ぎていく。


 数時間後。

 日付が変わった東京時間午前一時前は、米国ホノルル冬時間では前日午前六時前。予定通りの航路を順調に東進し、日付変更線を東側へ越えてまた前の日に戻らされた俺達の輸送機グローブマスターⅢは、常夏の島といえども北半球の冬季である例に違わず、それなりに遅い日の出前の闇に包まれたハワイ近海でクルーズ船を捉えた。既に準備万端の兄に降下ポイント到着を伝えると、夜間降下など一昔振りの筈なのに躊躇なく単身でその闇へ飛び出したその変人・・は、難なくクルーズ船に潜入。予想通りシージャックを宣言した犯人の要求に従い、米国領海から約三〇海里離れた公海上で停船中の大型船内において、どんな手管を使ったのか知らないがあっという間にあっさりと犯人グループを制圧した上真純も助けてしまうと、輸送機がハワイに着く前に無線を飛ばし始めた。

「早いな」

「ですね」

 何かにつけてしばらく振りの筈なのに、何とかしてしまうところがこれまた兄らしい。

「ホントに変わってる・・・・・な、この民間人は」

「でしょう?」

 兄の練度とは、それなりに歴戦を経ているだろう機長も思わず呆れるレベルという事だが、これも予想通りだ。

 終わってしまえば想定外だったのは、兎にも角にも作戦外の人間模様だけだった。要するに真琴氏の見た目もそうだし、兄との熱愛振りも見ているこっちが恥ずかしくなる程の茹で上がり具合で、真純には悪いが終始その事に頭が囚われてしまっていた俺だ。

 それもこれも——

 全ては、作戦前に植えつけられた紗生子の先入観が原因なのだったが。ともかく二人は完全に世界を作ってしまっており、最早相談役フィクサーなど眼中にない惚気振りを見せつけられただけだ。真純の救出作戦など、重ね重ね真純には悪いが、殆どそのおまけのようなものだったのだ。

 結局、事件は目論見通り、兄の活躍により最短最善の形で解決した。そこから先は今度こそ国家の出番だ。民間人・・・が犯人を捕まえてくれたのだから、後はそれを引き継いだ国やその当局者達が、法だか慣習だかを上手くこじつけて丸く収めていけばよい。関係した三国は、法の壁と条件の悪さを言い訳に決断出来ず、担うべき責任を民間人に丸投げしたのだ。その後始末ぐらい満足に出来なくてどうするか。何処の国であれ国民あっての国家だというのに、その民を放置した国の姿勢が露見したならば、民は許さないだろうし恨みもするだろう。

 何であれ、そんな国家の体裁も高坂の無茶も際立った今回の事件の解決経緯は、到底口外出来るものではないのだ。という事は、表向きには乗船客・・・による現行犯人逮捕という事で、後は粛々と処理されていく事だろう。

 結局といえば、紗生子からはまるで連絡がなく、ついに放置されっ放しだった。どういう気紛れか。気分を損ねた、という事なのだろう。あくまでも軍務ではなく高坂のエージェントとして搭乗したため、軍には内緒で一応CC謹製の耳目・・をつけっ放しにしていたというのに。何とも詮無い事だ。そもそも俺に七つ道具を持たせたままにしたのは紗生子の方ではないか。軍機の中には当然機密もあれば、バレれば怒られるだけでは済まなかったのだ。そのリスクを俺に、無駄に負わせた紗生子の意図は何だったのか。それこそ紗生子の方は、CCの秘匿回線を使ってこっそり覗き見聞きしていたのかも知れないが。

 何にしても——

 何をそんなに腹を立てる必要があるのか知らないが、一言足りないのだ。かといってその勢いで御下知があったならば、短気な紗生子の事。それはとにかく辛辣で容赦ないだろうが、それでもやっはり、

 何か——

 物足りないものは物足りない。俺も随分と魔女に毒された、という事のようだ。

 そんな事をもやもやと考えていると、輸送機は着陸していた。ハワイ・ヒッカム空軍基地だ。そこで俺の一つ目の出張・・・・・・は終わる手筈だったが、紗生子に似た女が貨物室に一人残されて縮こまっている。その姿が一瞬本人と被り、胸が高鳴った後俄かに熱を帯び始めた。

 ——クソォ。

 オリジナルもこれぐらい可愛げがあれば、少しは日頃の溜飲も下がるのだが。しかしこれでは、真琴氏を基地の正門で放り投げるのも何だか気が引ける。加えて紗生子のせいでロマンスに囚われていた俺は、基地で車と運転手を借りると、サービスで真琴氏を現地捜査本部が置かれているホノルル警察署まで送ってやる事にした。基地は真珠湾南東部となるホノルル市内西部にあり、市街地にある警察署までは車で二〇分もあれば着く距離感だ。が、その車中が

 ——重い。

 紗生子を堅物化させたような真琴氏もまた大物感が半端なく、先入観のせいで今度はあの相談役と雰囲気が被って見える。こんな調子でそれとなく兄との

 馴れ初めなんか——

 聞ける訳もなく。それに真純を助け終わったばかりで、やはりそれは不躾だろう。そのやましさが隣に座る女の迫力を誇張するのか、紗生子と違って長い髪の分だけ何かに取り憑かれているような、結界のようなものが只ならない。まあそれはこれから兄が上手く祓っていくのだろうが、それにしてもいつになく他人の事が気になるのは、明らかに出張前に紗生子が見せた意外なロマンス趣味のせいだ。となると、そんな紗生子から薫陶のようなものを受け継いだ事がその結界からも窺える真琴氏もまた、実はこれで少女漫画のような乙女趣味があったりするものなのか。

 ——いやいやいや。

 とてもそんな戯れに興ずるようには見えず、そんな野暮な想像も全ては紗生子のせいだ。

 結局、二〇分そこそこの道中で交わした言葉といえば、好天を喜ぶ当たり障りのない月並みな内容でしかなかった。とはいえ、日の出直前の太陽がダイヤモンドヘッドの向こう側から照りつけ始めているその神々しさは、北半球の厳冬期である事を忘れさせるハワイならではの景色だ。そんな朝日を眺めていると、不意に誰かの顔が浮かんで

「役得だな」

 と居丈高な声が聞こえたような。思えばその魔女は、見た目を覆すお戯れ振りで、事ある毎に俺を戸惑わせてくれたものだったが。

 ——またか。

 気がつくと、いつも淡々として不機嫌そうな傲慢女が、不意に見せる微笑を思い浮かべる俺がいる。ここ数か月は、まさにそんな役得が隣にあったのだ。そう思うと少し寂しい、のか。

 ——少しだ少し。

 当初は何と混沌とした女だと思っていたというのに。それを役得などと。慣れというのは恐ろしいものだ。

 そんな事を今度は悶々と考えていると、署に着いた。早くも正面玄関前にはメディアが集まっている。それを避けて、借り物の若い兵運転手に裏へ回らせて降車し署内へ入ると、中も雑然とした騒々しさだった。

 ——うわ。

 何だってこんなに賑やかにする必要があるのか。事件が現場だけで動いていないのは、米国でも同じらしい。その無駄に右往左往する人の波の中で、適当に捕まえた制服に捜査本部へ案内させると、その入口でちょうど中から出て来た捜査員らしき人間にすかさず真琴氏を押しつけた。

 背広を着込んだスマートな中年の男は年齢的には俺と似たり寄ったりだろうが、彫りが深く渋味が違う。FBIの担当者らしきその男が、やはり・・・一瞬怪訝な顔をした。ガキくさいアジア系のもやし・・・が何を、と言わんばかりだったが、俺が被るギャリソンキャップの階級章に気づいたようだ。開きかけていた口が丁寧な返事をして、早速真琴氏を別室に案内しようとするので、

 分かっちゃいるんだろうが——

 一応念押しで、被害者の実母の心労と軍機での強行軍で殆ど休めていない事を伝えると、追い縋って来る真琴氏には、兄に貸した装備品の返却だけを依頼してさっさと署を後にした。警視庁の捜査員も別便の民間機で来ると聞いていた事だし、長居は無用だ。鉢合わせでもしてFBIの担当者のような反応を再現されても煩わしいだけで、得るものは何もない。米国人にしろ日本人にしろ、アジア系の米軍人などどう見ても外様だ。

 その後の捜査で、犯人は本当にたったの三人であり、ボンクラ大臣高千穂外相の悪事を全て被らされた元秘書の逆上的犯行だった、とは風の噂で聞いた話だ。一億米ドルもの身代金は、中米の世界的麻薬王の下に逃れるための身元保証金だったとか何とか。一方で高坂グループは早々に落ち度を認め、グループ会長の指揮で迅速な社内調査と粛清を展開。それが奏功して高坂を責める声は小さく、捜査が進むにつれ際立ったのは、現役の日本外相の身から出た錆の大きさだけだった。

 世間のゴシップを賑わせたその事件の何処かの一幕の裏側で、後に兄と真琴氏が無事婚約したとは合わせて耳に届いた話だ。俺と似たり寄ったりで波乱含みの生き様だった兄の事ならば、それこそ映画【ひま〇り】のような擦れ違いに陥る可能性も十分にあった筈だが、そうならなかったのはひとえに兄の甲斐性だろう。それにしてもこんなシビアな立回りなど久し振りに違いなかったというのに、随分と淡々と結果を出してくれたものだ。本人はその気がなくても例え隠棲しようとしても、世間が放っておかない人間の典型。良くも悪くもこれもまた、兄の甲斐性という事だったのだろう。


 借り物の車でヒッカムに戻ると、いきなり太平洋空軍司令部に呼び出された。

 ——来たなぁ。

 何処ぞでもあったこの展開は、直近では去年の梅雨時に横田で経験済みだ。俺の異動は大抵、急な呼び出しか応援で出かけた時のどさくさで下される事が多い。

 ——ていうか。

 日本的な満期や定期の人事異動というものに全く無縁の俺だ。気がついたら変わっているといういつものパターンは、大抵突然その流れに乗る事がルーティン化している。因みに今回の太平洋空軍は横田に拠点を置く第五空軍の直上部隊であり、その組織的規模の観点だけでいえば、ここで受ける新たな任務は横田での命を上回ってくる、という事になるのだが。

 ——今度は何を言われんのかぁ?

 まさか学校の先生という事は二度とあるまい。出張前にも相談役が、俺の現況が米国に対する日本側の債権になるとか、俺にしか出来ない使命に殉じろ云々と言っていた事もある。

 となると——

 深く考えるまでもなく色濃くなるのは、本業傭兵の線だ。などと思案しながらも例によって下士官に案内される中、

 ——報告入れとくか。

 CCから借りているスマートフォンを手にする。

「ちょっとだけ電話させて」

 と下士官を止めて、出張前にかかってきた相談役の電話へかけ直すと

『ご苦労様でした、少佐。不出来な娘を現地本部まで送ってくれた事も、重ねて礼を言います』

 いきなりその声に先手を打たれた。東京時間では夜中だというのに流石の反応だ。当然寝ずに作戦の推移を確かめていたのだろう。それは成功に終わったとはいえ、高坂としても当然それで終わりではない。事件の事といい高千穂の毒抜きといい、高坂は色々と後始末が待ったなしだ。とはいえ今は夜中な訳で、流石に一息つきたいところだろう。

「東京時間では夜中なのを承知で、最後に挨拶をと思いまして——」

 で、手短に一言述べてさっさと切ろうとしたが、

『ここからは本当に時間がありませんから手短に』

 と、逆にその凛々しい声に制された。

『以後あなたは、アイリス米国副大統領の指揮下に入る事になります。しっかり励みなさい』

「分かりました」

 とはいうものの、ここまで大仰なのは久し振りだ。

『それからくれぐれも言っておきますが、最後ではありません。無事に帰って来てを安心させるのも、の立派な務めですよ』

 その言葉尻が緊張感の中にも何処か柔らかい。

「その妻から、ついに連絡がなかったんですが」

『輸送機の乗員に伝えた、と言っていましたよ?』

「そうだったんですか?」

 機長から聞いたあれがそうだったとすれば、随分と疎漏な伝達だ。どうやらやはり、何かに拗ねていたらしい。

『——仕方ない奥方ですね、あの子も。とはいえ、もうその携帯CCのOSは、この電話の後でプログラムを抹消しますから使えません』

「え? そうなんですか?」

『ここから先は武門の習い。流石に諜報用品はそのままにしておけません。気が向いたら手紙でも書いておあげなさい。ご武運を祈っていますよ』

 と言われたところで、いきなり電話が切れた。慌てて画面を見ると勝手に電源が落ちている。本当に遠隔操作で抹消したらしい。

 ——あらら。

 まさにスパイ映画のようだ。そう考えると、爆発消滅しなかった分だけまだましとしたものなのだろう。それにしても、時間がないとか手紙を書けとか。今一つ言われた事がチグハグだ。この分だと相談役は、相当な角度で俺の身に起こる事を知っている。知る者は言わず。この世界では鉄則の一つだ。

 ——仕方ねぇか。

 CC装備品を返送する暇があるようならその時にでも、気が向けば一筆したためる事にしよう。などと思案していると、案内役の下士官が顔を顰めてイラついている。

「あ、ゴメンゴメン。先を急ごうか」

 引き続き案内を促すと、間もなく立派な部屋に連れ込まれた。

 ヒッカム空軍基地は正確には、パールハーバー海軍基地と統合されており、今ではパールハーバー・ヒッカム統合基地という。とはいえ引き続き海軍側は太平洋艦隊、空軍側は太平洋空軍がそれぞれ司令官を頂きに据えてそれぞれで拠点化しているのだから、

 どうやら——

 というか間違いなく、この立派な部屋は空軍側の司令官室だろう。正面の机の向こう側で付属の椅子に掛けているのは、会った事があるようなないような、立派な恰幅の堂々たる司令官だ。紛う事なきエリート街道を突き進んできた自信の現れ、

 ——とでもいうのかな。

 悪気はないのだろうが、恐らくは無慈悲な命令で部下に犠牲を強いてきたのだろう事を思うと、この男もまた国家の光と闇の一つの形だろう。その男がまた、一つの無慈悲な命を俺に下そうとしている。が、男が発した言葉は意外にもたったの二言。月並みな労いと、後事は隣の女の指示を受けろ、とだけだった。で、その隣を見ると、言われた女が御大尽机プレジデントデスクの傍にある応接ソファーから立ち上がる。

「——あ」

「覚えておいでのご様子で光栄です。シーマ少佐。いえ、もうイース少佐ですね」

 スッキリとしたビジネススーツがよく似合う、一八〇を超える白人のブロンド美人は、昨年末の突如の来校時の一見だけで言葉すら交わしていない。が、今でも記憶に新しい副大統領補佐官アイリスの懐刀、クレア・ミユキだ。

「普段着もいいですが、やはり繋ぎ飛行服が板についてらっしゃいますね」

 と世間話をしかけたのも束の間、

「折角ですが、また普段着に着替えていただけますか? 五分以内に」

 早速一つ目の指示をされた。矢庭に隣室を促され、足を踏み入れるとちょっとした会議室のような部屋の片隅に、見慣れた俺のズダ袋が置かれている。

 ——って、またかよ!

 いよいよ、また例の展開だ。

 指定された時間の半分もかけず着替えを済ませると、そのまま慌ただしく外へ連れ出され、軍の車で隣の民間エリアへ連行された。空軍基地の隣にはダニエル・K・イノウエ(旧ホノルル)国際空港があり、滑走路は軍民共用だ。そのチェックインカウンター前まで連行されると、クレアからチケットを二枚と手帳のような物を手渡された。チケットの一つは午前八時発、サンフランシスコ行きの国内線ドメスティック。もう一つはサンフランシスコ発

「フィウミチーノ行き、ですか」

 そこはローマ郊外にあるイタリアとバチカンの玄関口だ。最後に残った手帳はすぐにパスポートだと分かったが、中身を見てみるとまともなのは顔写真だけで、他の内容は大出鱈目の外交旅券だった。

 ——なるほど。

 こうやって元副大統領アンのお父君と、その御付きクレアの旦那とマイクもやって来た訳だ。紗生子も苦虫を潰していたその手口を実感していると、更に追加でクレアがスマートフォンを差し出してきた。よく見ると通話中だ。

「急かすようで申し訳ございませんが、余り時間がありませんので手短に願います」

 半信半疑でそれを受け取り、耳に当てて話しかけると

『慌ただしくて済まない、少佐。アイリスだ』

 名乗られなくともそれと分かる凛々しい声の主が、いきなり謝った。

『今言える事だけを手短に伝える。フィウミチーノからはイタリア大使館の駐在武官が案内してくれる。パスポートはその武官に返してくれ。その先で彼女・・が待っている。以上だ。本当に呆れる程の情報で済まない』

「——分かってます」

『無理して理解を示すな。私の言っている事はどう考えても普通じゃない。それでも私は、我々は、自分の信ずる道のために行動を起こさなくてはならないんだ』

「大丈夫です。理解しています」

 似たような御高説は腐る程聞いてきた。何を今更だ。

『必ず帰って来てくれ。紗生子がうるさいからな』

 そこだけがこれまでとは明らかに違っていて、思わず失笑しそうになったところで、

「申し訳ありません。時間です、少佐」

 再度クレアから急かされた。腕時計を見ると、出発時刻まで一〇分を切っている。

「ご多忙の中、わざわざお電話ありがとうございました。続きはまた帰国後にでも」

『ああ、必ずだ』

 その強い声と共に、電話向こうから切られた。本当に忙しいのだろう。何処で何をしているのか知る由もないが、あの雲上人副大統領がわざわざ俺などに電話をしてくる事で、以後の任務の重さを思い知らされる。その重さが瞬間的に手渡されたスマートフォンに乗り移ったかのようで、落とす前にさっさとクレアに戻すと、

「ご武運を。帰国後の事をお忘れなく」

 と言ったその人の涼やかな目口が、ほんの少し明るくなった。

 ——やれやれ。

 今の俺にとって、紗生子以外で彼女などと。思い当たるのは一人しかいない。


 翌日、イタリア冬時間午後一時過ぎ。

 フィウミチーノ国際空港からは言われた通り、大使館の車に連れ込まれるといきなり何処へともなく連行され始めた。

 まぁここまでくりゃあ——

 目的地は何となく察しがつく。

 車内後席の右側に太々しく座っている俺の横の男は、海軍の制服を然も誇らしげに着込んでおり、その袖には金線の刺繍が仰々しくも四本。大佐だ。

 ——それにしてもなぁ。

 ホノルルから民間機を経由した理由は一つ。極秘任務だからこそだ。だからこそ俺も普段着に着替えさせられたというのに、最後の最後で頭のてっぺんから爪先まで軍人のような

 おっさんに連れられたんじゃあ——

 まるで意味がないではないか。まあこうやって、微妙な雰囲気で連行されるのもいつもの事だ。当然、車中でも会話は全くなく。そんな重苦しさのまま南東へ約二時間。おやつ時にやって来たのはガエータという海沿いの街だった。

 人口二万そこそこのその小都市には、地中海と東大西洋の警備を管轄しながらも、NATO北大西洋条約機構部隊の任務も兼ねる米海軍第六艦隊の母港がある。だからこそ、俺の横に座る男の顔が利く、という訳だ。外交の何処かを担っている筈の駐在武官らしい紳士とはお世辞にもいい難い、その尊大な顔のお陰様で車に乗ったまま門を潜ると、埠頭までやって来たところで

「ここでいいだろう」

 ようやく御大尽が言葉らしい言葉を吐き、それに合わせて車が止まった。

「俺を足代わりに使った以上はしっかり直せ。今後もこれが通ると思うなよ。ここまでくれば後は歩いて行けるだろう?」

 一言出ると鬱憤晴らしなのだろう。ご丁寧にも

「いつまで乗っている。降りろ」

 とつけ加えられ、鼻で吐き捨てられるとそのまま車外へ追い出された。

「ありが——」

「帰りは自分で帰れよ」

 ドアを閉め際に一応礼の一つも吐くつもりが、そんな暇すら与えられず。運転手と側乗者もここぞとばかりにほくそ笑みつつ、その主を乗せた車が何事もなかったかのように立ち去って行った。

 ——相変わらずのクソったれ共だな。

 初対面だったというのに毎度の事ながら嫌われたものだ。アジア系に対する差別なのか、貧相に見える男に対する蔑視なのか、役柄故の尊大さなのか。恐らく全部なのだろう。こちとら正規兵花形俳優が出来ないスタントをやらされている身だというのに。噂が噂を呼び、それに尾ひれはひれがついて人格すら否定されては蔑まされているというのに。どいつもコイツも全くもっていい気なものだ。

 そんな俺の目の端に、

 ——やっぱりまたあれかぁ。

 その元凶の一つが映っていた。

 数ある埠頭の端の端に、まるで身を隠すようにひっそりと佇むスタンスこそ窺えるが、その外見は明らかに浮いている。ゴツゴツと先の鋭利な艦船が居並ぶ中で一隻だけ。長方形の箱の中央に錐台すいだいの箱を乗せたような、無愛想が過ぎて最早滑稽なその船体は、まるで毛色が違う異物でしかない。端から端まで約二〇〇m弱というその巨体は、何かの冗談にも思える造りで目立っているのだが、これがレーダー上では小船程度にしか見えないという外見にそぐわぬハイテクステルス艦だというから恐ろしいというか、本当に冗談がキツいというか、

 ——眠いというか。

 横田からの終着が、まただまし船・・・・とは。俺の異動に出戻りはない、と言ったが、何事にも例外はあるものだ。

 それは一九七〇年に史上最年少で海軍作戦部長海軍省トップの軍人に就任したエルモ・ズムウォルト提督の功績を称え、その名をつけられたズムウォルト級ミサイル駆逐艦だった。そのハイテク艦は建造計画では三〇隻を超える予定だったが、開発費の高騰が問題視され最終的にその異形を成したのは僅かに三隻。その員数外・・・の一隻が数百m先にひっそりと停泊している。

 歩いて近づくうちに船体番号艦番が見えてきた。アラビア数字で一〇〇〇とあるそれは、紛れもなくクラスリーダー艦の同級一番艦ズムウォルトと錯覚しがちだが、実はそうではない。更に近づくと、錐台の中腹部分に艦内唯一の窓の列が見えてきたが、そこにある戦闘指揮所CICの位置がよく見ると一番艦より少し高いのは、外見的に明確に一番艦とは異なる特徴の一つだ。他にも、船首側甲板と船尾側格納庫の天井高が同じレベルだったりと。まさかその船尾甲板に最新式の電磁カタパルトが備えつけられており、船首甲板下に戦闘機ファイター用格納庫があろうとは、普通の軍人なら想像もつかない事だろう。

 艦名となった故人は海軍作戦部長時代、ベトナム戦争を指揮した。その折彼は嵩む戦費を打開すべく、費用対効果重視のローコンセプト艦【制海艦SCS構想】を打ち立てる。老朽化した大型空母を補完する、小型で使い勝手の良い軽空母の量産化を進めようとした訳だ。が、結果的にそれは、大型原子力艦や超大型空母スーパーキャリアを唱導する派閥に敗れた事で計画倒れとなったのだが、それから遅れる事半世紀。それを実現したのが当の本人の名を冠した等級クラスの、俺の眼前に迫る艦とは、何という偶然というか作為を感じるというか。

 ハイコストのハイテク艦という観点こそその構想から外れるが、マルチミッション対応の戦闘艦を軽空母を兼ねる駆逐艦に改修したのは、何が起ころうとも単艦での対応を義務づけられた故だ。最新鋭のステルス艦に見合う極秘任務遂行故だ。それが結果的にズムウォルト提督の掲げた制海艦としての性格を有するに至ったのは、ある意味必然だったのかも知れない。

 ——帰って来てしまったなぁ。

 ズムウォルト級クラスリーダーの一番艦に可能な限り似せて造られた眼前の極秘艦・・・は、表向きには一番艦同様にズムウォルトの艦名を名乗っているが、正式にはその実態は名無しnamelessのクローン艦であり、艦番も付与されていない文字通りの幽霊船だ。が、その幽霊が彼女・・と呼ばれる所以はコールサインにある。

 存在自体が常に何らかの作戦を帯び、プロジェクトをも兼ねているこの艦が、名無しで幽霊呼ばわりされるのは納得がいかない、などと誰が言い出したものか。ズムウォルト提督といえば、偶然にも世界的な人形劇の主役と同じファーストネームの持ち主だ。そこからその主役が劇中で飼育している金魚の名を、誰かが冗談半分で勝手に名無しの俗称代わりとして使い始めた事がきっかけで、今ではすっかりそれが定着。その金魚の名前が艦名代わりにして、プロジェクトのコードネームまでも兼ねるようになってしまった。正確な俗称は【金魚のDorothytheロシーGoldfish】なのだそうだが、何にしても金魚にしては

 ——愛想がねぇよなぁ。

 金のかかった魚という意味合いではこれ程マッチしたネーミングもないが、見映えとしての外観は何とも殺風景で、物好きを別にして観賞に堪えない澄まし顔だ。もっともステルス艦なのだから目立ってはいけないのだが。この【ドロシー】こそが、ここ数年は俺の

 ——彼女というか、母ちゃんというか。

 だったりした。とはいえ、可愛らしいのは名前だけだ。

 駆逐艦として単艦で戦闘空間支配を実現し得る能力に加えて、軽空母を兼ね備えるマルチミッション艦。その軽空母の部分にこそ極秘扱いの真髄があったりするこの一見スマートな船が、まさか極秘開発中の強烈な実験機を搭載していようとは、

 ——誰が思いつくモンかね。

 そしてそれに俺が、専属パイロットとして携わっているなどと。ここまで連れて来てくれた、先程までの重苦しい車旅を共にしたあのクソ偉そうな駐在武官お偉いさんでさえ、その秘密は知らされていないのだ。別れ際のぞんざいな口振りからして、何らかのシステムエラーの修繕で大至急本国から呼びつけられたメーカー担当者程度の予備知識を植えつけられていたのだろう。まあそれもよくある事だ。

 そう思うと——

 紗生子の周辺は、何と熟れていた事だろう。つい比べてしまうと、それを思い出す。きっとこれまでの傭兵人生で最も俺らしくない仕事であり、濃密な女の匂いに塗れて目が眩んでいただけなのだろうが。思えば昨日はまだ、東京の外れにある学園で小面倒臭い生徒や教職員に囲まれて、曲がりなりにも先生などと呼ばれてはALTをやっていたのだ。その変わり身の早さもまた、

 ——いつも通りだなぁ。

 気がつくと、何もかもが、いつの間にか、だ。そんな調子でぼんやり歩いていると、急に母艦が目の前にある訳で。要するに俺が、

 ——ぼさっとしてるからか。

 鼻先に迫ったその異様を見上げると、つい溜息が漏れた。

 中途半端な学園モノの話はここまでだ。ここからはまたシビアな本業傭兵の話。明日をも知れぬ命だ。

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