第7話

 龍雅という男は。神城龍雅という男は、虐められっ子である。


 齢十七歳。県内でも随一のマンモス校に通うごく普通の青年である。帰宅部である彼の身体能力は平凡で、特筆するところは無い。勉強はそこそこ出来る方ではあるが、千人を超える生徒数を誇る学校の中では大して目立ってはいない。性格は穏やかで優しく、人と関わることをなるべく避けて生活している。


 静かで平凡な暮らしを……。そう願って止まない龍雅であったが、高校生になりその願いは儚く散ることとなった。


「よぉ、龍雅~、ちょっと待てよ」


「……あ、道満君……」


 時刻は午後四時半。多くの生徒が教室を飛び出し、意気揚々と部室に走る生徒。街へ遊びに行く生徒。中には、校内にあるカフェブースで気の置けない友人と談笑する生徒も見られる。


 中にはそそくさと帰路に着く者もおり、龍雅もその中の一人だったのだが……。


 平和な暮らしを踏み躙る、邪悪の権化が舌なめずりしながら教室の出入り口で待ち構えていた。


 あからさま人工的に染め上げ得られた金色の下品なショートウルフヘア。目は細く、瞳は濁った赤色。噂では、誰もが知るルーストの国風遥を真似てカラーコンタクトを入れているとこの事だが、彼女の他を寄せ付けない高貴な輝きには遠く及ばない。


 身長は龍雅よりも顔一つ分程高く、筋肉質と言うわけではないが高校生にしては巨躯である。出入り口の上枠を掴む大きな手の甲には、レムリア形の魔神石が妖しく輝いていた。


「ナニさっさと帰ろうとしてんだよ~。そんなに俺と会うのが嫌だった?」


「そ、そういうわけじゃ……」


 俯きがちに目を逸らし、尻すぼみに声が小さくなる龍雅を見て口角を吊り上げる龍雅。背後では数人の取り巻きが待機している。


「折角俺が特待クラスから出向いてやってんのに、その態度はないんじゃね?」


「……ご、ごめん……」


「ま、良いや。今日さ、俺達、A棟の花壇の草むしり当番なんだけどさ、俺達早くカラオケ行きたいから、代わりにやっといてくんね?」


 これは決してお願いではない。命令なのだ。拒否権は無いと言わんばかりに声の凄みが増す。


 この学校は生徒の人数が多い分、必然的に敷地も広く校舎も多い。中でもA棟は勉学、スポーツの面で優秀な成績を持つ生徒や裕福な家庭に産まれた生徒が集うクラスで構成されており、敷地の占有率も群を抜いて高い。


 無論、花壇もそれなりの広さを誇り、一人で草むしりしようものなら一時間どころでは終わらない。実にふざけた提案だ。考慮にも値しない。


 が、しかし。反する勇気は彼に無かった。


「分かった……。やっておくよ」


「マジか!サンキュー!じゃ、よろしくな!」


 言質を取ったことを確認するや否や、仲間と共に立ち去る栄二。


「……はぁ」


 重く、静かな溜息を漏らす龍雅に助け舟を出す生徒は居ない。


 スマホを取り出し、帰りが遅くなる旨を親にメールで伝えると、下唇を噛みながら、龍雅はA棟に繋がる長い廊下を進むのであった。



 ――――――――――



「よっこいょ……」


 毟った雑草や拾ったゴミで詰まった四十リットルのゴミ袋を抱え、ゴミ捨て場へと向かう龍雅。


 夕焼けもその身を隠し、穏やかな闇が空を覆い始める時分。花壇の草むしりが漸く終わりを迎えた。日頃から手入れが行き届いていないのか思った以上に花壇は荒れており、随分と手間取ってしまった。


「ふぅ……」


 汗まみれの額を、汗まみれの腕で拭う。


 掃除用具の片付けを済ませた頃にはもう他の部活も終わっており、教室の電気も殆ど消えていた。自販機で清涼飲料水を買い、枯れた喉に一気に流し込む。あっという間に空になった容器をゴミ箱に捨てると、龍雅は遠く離れた正門へと向かった。


「……?」


 ふと、嫌に目立つ女性が目に入った。


 二分程かけてようやく辿り着いた校門。その隅にあるレンガ調の柱に、夕闇に溶け込む黒髪と、黒タイツに包まれた張りのある太腿が特徴的な女生徒が毛先を指先で弄びながら背を預けていた。


 龍雅に気付いたのか、指を止め、柱から背を離すと。地面に置いておいた鞄を肩に掛けた。


 見ていると吸い込まれそうになる蠱惑的なアメジストの瞳が龍雅の光の薄れた瞳と交錯する。


「……」


 一瞬、立ち止まる龍雅であったがすぐに校門を通過し、右へ曲がる。挨拶も、言葉も交わすことなく。それに示し合わせたかのように女性とも龍雅と同じ道程を進み始めた。三歩半程離れた距離を保ちながら。


「……ねぇ、龍雅」


 しばらく歩いた先。学校が見えなくなったところで漸く、二人の間に言葉が産まれた。優しく、問い掛けるような声色。しかし、お互いの脚は止まらず。


「龍雅。聞いているの?」


 聞こえていない筈はない。凛とした芯のある彼女の声に加え、人通りの少ない歩行者専用道路。聞こえていない筈はない。


 しかし、頑なに返事をしようとしない。


「龍雅。待って」


 痺れを切らした女生徒が龍雅の前に回り込む。これには龍雅も足を止めざるを得なかった。


「……何?」


「何?じゃないわよ。返事しなさいよ」


 眉を顰め、苛立ちを露わにする女生徒。顔を背け、尚も拒絶の意志を見せる龍雅。


「だ、ダメだよ。明音ちゃんが僕なんかと会話してたら……」


「そう言うと思って、人気のない所で話掛けたのよ。大体、私達が会話しているところが人に見られたからどうなるって言うの?龍雅と私とじゃ、不釣り合い過ぎて変な勘違いなんて起きやしないわよ」


「……うん、まぁ、そうなんだけど……」


 それでも。と言いながらしきりに辺りを気にする男子生徒を前に、明音と呼ばれる女生徒は眉間を強張らせた。


 この道行く誰しもが振り向いてしまうような美少女。名を暁明音(あかつきあかね)という。龍雅とは幼稚園からの幼馴染だ。


 彼女はA棟のクラスに在籍する生徒である。学業の成績は校内で五本の指に入る程の秀才。身体能力も非常に高く、多くの部活動に助っ人として参加しては全国大会まで導いている。中でも柔術、空手といった対人戦闘能力は飛びぬけて優れており、屈強な成人男性ですら彼女の前では赤子同然。その実力はルーストにも認められ、高校卒業後はルーストの管轄にある大学に入学し、将来は幹部候補としての地位が期待されている。


 そして、この絵画の世界から抜け出してきたような美貌。


 大した取り得も無く、虐められっ子としての日々を送る龍雅とは彼女の言う通りまるでつり合わない。


「止めてよ、もう。情けないわね」


「ご、ごめん」


 そうは言われても龍雅は周囲への警戒を怠るわけにはいかない。自分のような人間と明音が会話しているところなど誰かに見られたら、悪い噂が立ち自分に対する虐めが更に助長されるだけでなく大事な幼馴染の評価まで下がってしまいかねない。それだけは何としても避けたかった。


「でも、どうしたの?急に……」 


 目が合った。彼女の瞳には、憤りと懇願が色濃く姿を現していた。


「龍雅、あなた、いつまであんな生活を続けるつもり?」


 声は穏やかだが、表情は硬い。


「毎日毎日、虐められて、笑い者にされて。あなた、悔しくないの?」


「……別に。明音ちゃんには関係ないよ」


 小さい声ではあるものの、突き放すように放った言葉は一言一句幼馴染の耳に届いていた。このやり取りは決して初めてではない。初めてではないが、やはり、いい気はしない。


「ねぇ、龍雅。私、あなたが虐められているところ、もう見たくないの。見てられないのよ」


「……そんなの……」

 

 どうしようもないよ。その言葉は悲痛な彼女の願いを前にして出すことは出来なかった。代わりに、乾いた苦笑が漏れる。


「もし龍雅が良ければ、私からあの男に言って......」


「それはダメだよ。それだけは、絶対にしないで。僕は大丈夫だから」

 

 疲労困憊の表情の中無理して作った笑顔はとても痛々しいものであった。そんな龍雅の想いを目の当たりにし、明音は俯き、呟く。


「そう。そうよね。アナタは、そういう人」


「ごめん……」


「こちらこそ、無理に会話させてごめんなさい。それじゃ」


 明音は背を向け、早足で歩き出した。途中、振り返りこそはしなかったものの一度だけ立ち止まり、微かに顔を横に向けた。黒髪が風に靡き、寂しげに揺れる。

 

 龍雅はその近そうで遠い後姿が見えなくなるまで、彼女を見送った。


 ――――――――――


「ただいま」


 母校より歩いて三十分。閑静な住宅街の一角にある二階建ての家。


 玄関の鍵を開け、脱いだ靴を丁寧に脇に避ける龍雅。駐車場に車が無かったので両親が帰宅していないことは分かっていた。

 

 真っ先に風呂場に向かい汗まみれの服を洗濯機に放り込み、風呂掃除を兼ねてシャワーを浴びる。寝間着に着替え、冷蔵庫から紙パックの牛乳を一つ取り出すと、足早に階段を駆け上がり、廊下の突き当りにある自分の部屋へと飛び込んだ。


 カバンを勉強机に放り投げ、部屋の三分の一を占領しているベッドに背を預ける。


「はぁ~……」

 

 一日の疲れが身体を伝う。大きな息を吐くとしばらく天井を眺めていた。


 ようやく、ようやく龍雅が心を休めることが出来た瞬間である。もぞもぞとベッドから立ち上がると天井まであと僅かな高さの本棚の前に立ち、綺麗に整頓された本に指を這わせていく。部屋の中には巨大な本棚が三つもあり、その中には漫画、ライトノベルといった若者向けの書物で溢れていた。

 

 見れば、彼の部屋には書物だけでなくDVD、BDやゲーム機。更にはアニメのポスターやフィギュアまで揃っている。


 龍雅は既に数冊の漫画を取り出し、牛乳を啜りながら穏やかな表情で頁を捲っていた。


 いつの日からか、龍雅は現実の厳しさから逃れるかのように二次元の世界にどっぷりとハマっていた。一日たりとて漫画やアニメを見ない日は無い。

 

 全ての本に透明なブックカバーを装着し、フィギュアとポスターは毎日埃を叩き、深夜アニメは必ずリアルタイムで見るという徹底振り。この自分の時間の中では、彼は誰よりも幸せな気持ちで居られるのだ。

 

 空想の世界の中で巨悪と戦う勇敢な主人公。どんな困難立ち向かう不屈の精神とそれに見合う高い身体能力。誰しもが一度は通る空想世界の住人への憧れを、彼は誰よりも感じていた。


 しかし現実は非情である。彼は高潔な精神も、鋼の肉体も、聡明な頭脳も持ち合わせていない。あるのは漫画やアニメの知識と大仰な名前ぐらいだ。


「……」

 

 少しでも、ほんの少しでも憧れを抱いてしまえば凄まじい劣等感が龍雅の胸中を覆う。

 

 ふと思い出す、明音の言葉。

 

 このままで良いわけがない。龍雅とてこの現状を打破したいと明音以上に強く思っているのだ。しかし、だからといってどうすれば良いのか、彼は答えを出せずにいた。

 

 相手が強大過ぎる故か、そもそも彼が人との争い事が嫌いな質だからか。何にせよ、『こうなって欲しい』と結果ばかりを求め、『どうすれば良いか』という過程と方法を考えることを半ば放棄してしまっている。

 

 焦燥感。絶望感。不安感。


 それを少しでも紛らわすため、龍雅は更に深く、空想の世界に更に潜ってゆく……。

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