【短編】ショートショート集
りぶ
口内炎
歯を磨いていたら、鋭い痛みと鉄っぽい味を感じた。右頬に口内炎がある。おそらく昨晩、夕食の時に一緒に頬肉も齧りとったのだろう。地味に痛いこいつも少しの辛抱で引っ込む、と気に留めず、コートを羽織って職場へと向かった。
勤務中、そのできものを無意識に舌で撫でていた。取れるとでも思っているのだろうか、そう思いつつも舌の動きは止まらない。しかし、しばらくして、その動きもぴたりと止まった。あまりにも夢中にやっていた挙句、怪訝な顔でこちらを見る向かいの女性社員と目があった。何事もなかったかのように舌を引っ込めた。同時にできものがこそばゆく感じた。
昼食は、気をつけて慎重に食べた。噛んでしまってまた傷つくと、治るのに一週間はかかってしまう。
夜はバーで飲むことが近頃多くなってきている。連日行くのは気が引けるのだが、今日は仕事もひと段落ついたからご褒美にいつもの店に寄った。その店は静かでひとりの時間を過ごせるため、こうやって疲れたときはよくおとずれる。一杯を勿体ぶってちびちび飲み、うつらうつらしながら自宅へ帰るのだ。
いつもなら帰る時間だったが、ある一つのものに釘付けになっていた。同じくカウンター席に座っていた男性が置いていったアタッシュケース。酒が回っているせいか分からないが、大金が入っていると思い、急にそれが欲しくなった。
仕事では営業で頭を下げて、戻ってからもスクリーンと睨めっこして書類作成。ミスも少なく我ながら忠実な社員だと思っているのだが、一向に出世できず、給料も上がらない。何が悪いのか、不満と焦燥感がだんだん膨らんでいった。
そんな悩みもあのカバンの中身で解決できる、そう思うと、もう盗らずにはいられなかった。ここは静かなバー。人気店でもないので人気が少なかった。残りを飲み切って、なるべく音を立てぬよう注意深くカバンに向かって歩く。横目で誰も見ていないことを確認しつつ、静かに持ち上げ、その先の出口から急ぎ足で逃げた。
あとは自宅まで走りに走った。途中で転んでしまったとき、口内炎がものすごく痛んだ。カバンの持ち主の最後の抵抗に思えた。
予想通り、カバンの中身は現金だった。俺からしたら十分な額。初め見た時は高揚感より罪悪感が勝っていて過去の自分を消し飛ばしたくなった。冷静に考えて人気の少ない場所で盗んだら、犯人が絞られてしまうだけだろう。だが使ってしまえばもう後戻りできない、勝手に正当化して夢の紙切れを自由に使った。
いい酒を飲んだ。ブランド物の腕時計も初めて買ってみた。大人の店でピンクの夜を過ごした。初めは紙幣を見るたびに、警察に追い詰められる自分の姿を想像して震えた。歯を食いしばった。口内炎を噛み潰した。もうここまで来てしまったのだ。
とうとうその金を使い果たした頃、ろくに出勤もしていないことに今更気づいた。しかし焦りなんてものはもうなかった。口内炎もことも忘れていた。痛くない、痛くない、大丈夫、痛くない。大きく膨れ上がったできものを知らず知らずのうちに歯臼ですり潰しながら。
カバンの持ち主は、大金を失くしたことに気づかないほどの阿呆ではない。しかも反抗現場を、達成感で煌めく瞳で見ていた。
この世は繋がっている
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